https://r25.jp/book/jibun-no-naka-ni-doku-wo-mote 【自分の中に毒を持て】
「うまくやろう」なんて卑しい根性。血のふき出る身体をひきずって行くのが人生の極意だ
世の中に流通しているビジネス本は数知れず。
日々たくさんの本を読んでなんとなく学びになっている気もするけど、せっかくだから確実に僕らの資産になる「珠玉の1冊」が知りたい。
そこで新R25では、ビジネスの最前線で活躍する先輩たちに「20代がいいキャリアを積むために読むべき本」をピックアップしてもらいました。
それがこの連載「20代の課題図書」。
第4回の推薦者は、日本最大級のプログラミングスクール「TECH::EXPERT」「TECH::CAMP」を運営する株式会社divの代表・真子就有さん。
選んだのは、真子さんの人生を変えたという、岡本太郎さんの『自分の中に毒を持て』です。
大阪万博の「太陽の塔」などの作品や「芸術は爆発だ」という名言で知られる芸術家・岡本太郎さん。
戦後間もないころ、「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる」という宣言し、批判をもろともせずに自身の芸術を突き詰めたその姿勢に、多くの方が影響を受けました。
真子さんのYouTubeチャンネル「マコなり社長」でも紹介された同書より、「人生」「対人関係」「成功」についての3記事を抜粋してお届けします。
俗に“失敗は成功のもと”という。
そんな功利的な計算ではなく、イバラの道に傷つくことが、また生きるよろこびなのだ。通俗的な成功にいい気になってはならない。むしろ“成功は失敗のもと”と逆に言いたい。その方が、この人生の面白さを正確に言いあてている。
たんたんとした道をすべって行くむなしさに流されてしまわないで、傷つき、血のふき出る身体をひきずって行く。言いようのない重たさを、ともども経験し、噛みしめることだ。それが人生の極意なのである。
たとえば、ぼくは思うんだが、総理大臣になった人の顔を見てごらん。むしろ気の毒のような顔をしている。総理大臣なんかにならなかったほうがよかったんじゃないかとよく思う。
人間としてひらいてこない。議会で答弁するときだってそうだ。そのときの顔つき、答弁の仕方、あれはほんとうの自分をいかしてない表情であり、しゃべり方だ。ぼくはそういう光景を見るたびに、気の毒だなと思う。かわいそうなヤツだと思う。
それと同じように、会社の社長にしたって、偉くなるにつれて顔がショボくれている人がよくいる。
それよりも、たとえ貧しくても、社会的に評価されなくても、無条件に生きている人のほうが素晴らしい。
貧しいということは、苦しいかもしれないが、逆にその苦しいことが素晴らしい。だから一般には苦しい生き方をしていると、自分をみじめに思ってしまうが、これは大きな間違いだ。
成功しようとするから、逆にうまくいかない
よく、あなたは才能があるから、岡本太郎だからやれるので、凡人にはむずかしいという人がいる。そんなことはウソだ。
やろうとしないから、やれないんだ。それだけのことだ。
もう一つ、うまくやろう、成功しようとするから、逆にうまくいかない。
人生うまくやろうなんて、利口ぶった考えは、誰でも考えることで、それは大変卑しい根性だと思う。繰り返して言う。世の中うまくやろうとすると、結局、人の思惑に従い、社会のベルトコンベアーの上に乗せられてしまう。
一応世間体もよく、うまくはいくかもしれないが、ほんとうに生きているのではない。流されたままで生きているにすぎない。
そして非常に悪いことは、自分はほんとうに純粋にこういうことをしたいと思っているが、それを世の中は許してくれない、しかも、自分はさまざまな悪条件の中にあるので、もし違ったところで生活していれば、できるかもしれないが、今の状況では、というようにやたらに障害の項目を並べたてることだ。
それは、弁解のために、自分に言って聞かせ、他人に納得させるために盛んに障害を言いたてているにすぎない。
ぼくの考え方はこの逆だ。ぼくはこういう制約の多いところでこそ自分のしたいことをするのがほんとうの行動になると思う。むしろ社会や周囲の全部が否定的であればあるほど行動を起こす。
ただし、言っておくが、それが中途半端だといけない。中途半端だと不明朗になる。
そういうケースはずいぶん多くある。止むに止まれずやったことが、途中で半分腰が砕けると、相手に対しても何か変なことになるし、自分のポジションも奇妙なことになって、“やらなきゃよかった”という悔いばかりが残ることになる。
それをとことんまで明朗に、自分をごまかさずにやれば、案外通るものなのだ。そしてそれが嫌味ではなくて魅力になって、みんなにプラスになるから、“ああ、やってよかった”と思えるようになるのだ。
自分の正しいと思ったことを、平気で明朗に表す。そうすれば、どんなに制約のあるところでも、みんなが明朗になって、やる気になって楽しく生きがいのある生活に巻き込まれていくだろう。
孤立してもいいと腹を決めて自分を貫いていけば、みんなによろこばれる人間になれる
自分は内向的な性格で、うまく話もできないし、友人もできないと悩んでいる人が多い。
だが、内向的であることは決して悪いことではない。そう思い込んでこだわっているから暗くなり、余計、内向的にしているんじゃないだろうか。内向的ということをマイナスと考えたり、恥じちゃいけない。
生きるということを真剣に考えれば、人間は内向的にならざるを得ないのだ。
また逆に、自分が内向的なために、かえって外に突き出してくる人もいる。だから内向的であると同時に外向的であるわけだ。これがほんとうに人間的な人間なのだ。
歴史的に見て、英雄とかおおきな仕事をした人は、みんな内向性と外向性を強烈に活かしている。
たとえば、もって生まれた性格は、たとえ不便でも、かけがえのないその人のアイデンティティなんだから、内向性なら自分は内向性なんだと、平気でいればいい。内向性の性格は悪いことだと思っているから、ますます内向的になってしまう。
動物を見てもわかるだろう、動物に内向性の動物はいない。
人間だから、誰でもが内向性を持っているんだ。いくら派手に見える人間だって内向性を持っている。内向性で結構だと思えば、逆に内向性がひらいていく。
内気な人の表現力が、派手にチャカチャカふるまう人より強い印象を与えることもある。
口べタの説得力ってものもある。平気でやれば、逆にひろがる精神状況が生まれてくる。
自分は消極的で気が弱い、何とか強くなりたいと思う人は、今さら性格を変えようなんて変な努力をしてもむずかしい。
強い性格の人間になりたかったら、自分がおとなしいということを気にしないことーーそれが結果的には強くなる道につながる。
強くなろうと思えば思うほど余計、コンプレックスを持つだろう。
また、もともとおとなしい性格なのだから、急に強くなるわけもないし、強くなろうと力めば、わざとらしいふるまいになって、かえって周囲の失笑をかうことになる。
だからそんなことをやったら逆効果になってしまう。
それよりも、自分は気が弱い、怒れない人間だと、むしろ腹を決めてしまうほうが、ゆったりして、人からその存在が逆に重く見えてくるかもしれない。
もっと極端なことを言えば、強くならなくていいんだと思って、ありのままの姿勢を貫いていけば、それが強さになると思う。
静かな人間でそのまま押し通すことが、逆に認められるし、信用されるということは十分あり得る。
サービス精神が旺盛で、ついまわりの期待するようにふるまってしまったり、チャラチャラと軽口を連発し、そのくせ軽薄だと思われてやしないかと内心絶望している人がいる。
近頃はテレビの番組でもふざけたり、笑わせたり、ガチャガチヤやるバラエティが大はやりだ。
その影響か、一般の人でもお笑いタレントみたいなしゃべり方をする人が結構多い。
それはサービス精神かもしれないが、つまりはみんなに悪く思われたくない、自分がかわいい一念なのだ。
とかく、みんな自分を大事にしすぎる。自他に甘えているんだ。ほんとうに自分の在り方を、外につき出していない。だから、裏目が出てきてしまう。
自分でもそれを感じるだろうし、相手も裏目を感じて、深くつきあおうという気にならない。
なぜ、友達に愉快なヤツだと思われる必要があるんだろう。こういうタチの人は自動的にみんなに気をつかって、サービスしてしまうんだろうけれど。それは他人のためというより、つまりは自分の立場をよくしたい、自分を楽なポジションに置いておきたいからだということをもっとつきつめて考えてみた方がいい。
もっと厳しく自分をつき放してみたらどうだろう。
友達に好かれようなどと思わず、友達から孤立してもいいと腹をきめて、自分を貫いていけば、ほんとうの意味でみんなによろこばれる人間になれる。
自分で自分の在り方がわかってやることなら、もう乗りこえているはずだ。自分自身にとっていちばん障害であり敵なのは、自分自身なんだ。その敵であり、障害の自分をよく見つめ、つかんだら、それと闘わなければいけない。戦闘開始だ。
つまり、自分を大事にしすぎているから、いろいろと思い悩む。そんなに大事にしないで、よしそれなら今度から、好かれなくていいと決心して、自分を投げ出してしまうのだ。
駄目になって結構だと思ってやればいい。最悪の敵は自分自身なんだから。自分をぶっ壊してやるというつもりで。そのくらいの激しさで挑まなければ、今までの自分を破壊して、新しい自分になることはできない。
友達の間で軽薄な人間だと見られている。一種のヒョーキン者で通っている。そういう習慣とか役割というものは、なかなか変えようとしても、すぐに変えられるものではないだろう。
たとえ、変えられなくても、今日からの自分は今までの自分とは違うんだと意識のなかで覚悟を決めてしまうのだ。そして、たとえ今まで通りの行動をしても、そうすればもう軽薄に見られることはないはずだ。
矛盾は結構だ。
矛盾を、むしろ面白いと考え、そのズレを平気でつき出せばいいのだ。そうすれば、今までのオッチョコチョイとは違ってくる。
今度はみんながホントウによろこぶ不思議な魅力を持った人間になる。
徹底的に貫く
自分をごまかせない人は当然悩む。とりわけピリピリとそれを意識して、辛い。
だが、実は誰でも感じていることじゃないか。
あなたは言葉のもどかしさを感じたことがあるだろうか。とかく、どんなことを言っても、それが自分のほんとうに感じているナマナマしいものとズレているように感じる。たとえ人の前でなく、ひとりごとを言ったとしても、何か作りごとのような気がしてしまう。
これは敏感な人間なら当然感じることだ。
言葉はすべて自分以前にすでに作られたものだし、純粋で、ほんとうの感情はなかなかそれにぴったりあうはずはない。
何を言っても、なんかほんとうの自分じゃないという気がする。自分は創造していない、ほんとうではない、絶えずそういう意識がある。自己嫌悪をおこす。
そんなとき自己嫌悪をのり越えて、自分を救う方法が2つあると思う。
まったく自分を無の存在と考えるか、あるいは徹底的にそんな自分自身を対決の相手として、猛烈に闘ってやろうと決めるか、どっちかだ。
どっちでもいい。ただ中途半端は駄目だ。
途中でちょっと自分を大事にしてみたり、甘えたりしたら、ぶちこわし。もとの木阿弥だ。
徹底的に貫く。そうするとスッと嫌悪感が抜けてしまう。
人は自分を客観視しているように思っていても、実は誰でも自分が好きで、大事にしすぎているのだ。そういう自分をもう一度外から眺めるようにしてみよう。
“なんだ、お前は。この世の中でマメツブほどのチッポケな存在だ。それがウヌボレたり、また自分を見くだして、いやになったりしている。バカなことだ”と突っぱなして、いまの状態をアリアリと見るんだ。
それで投げてしまうんじゃない。自分がマメツブならそれでいい。小さな存在こそ世界をおおうのだ。
ぼくは昔、“一匹の蟻”という文章を書いたことがあるが、自分はほんとうにチッポケな、非力な、どうにもならない存在だ。でもこの小さな一匹の蟻が胸から血を流して倒れるとき、自分と一緒に世界が滅び去る…ぼくはそう実感する。いや、決意するといったほうがいい。
自己嫌悪なんて、いい加減のところで自分を甘やかしていないで、もっと徹底的に自分と闘ってみよう。すると、もりもりっとファイトがおこってきて、己自身をのり越えてしまうし、自己嫌悪なんかふっとんでしまう。
危険だと思う道は、自分の行きたい道なのだ。「ダメになってやろう」と決意して、とことん闘え
青春に年齢は関係ない
夢を見ることは青春の特権だ。
これは何も暦の上の年齢とは関係ない。十代でも、どうしようもない年寄りもいるし、七十、八十になってもハツラツとして夢を見つづけている若者もいる。
だから年齢の問題ではないが、青年の心には夢が燃えている。だが、そういった夢を抑圧し閉ざしてしまう社会の壁がこの現代という時代にはあまりにも多すぎる。
ぼくは口が裂けてもアキラメロなどとは言わない。
それどころか、青年は己の夢にすべてのエネルギーを賭けるべきなのだ。勇気を持って飛び込んだらいい。
仮に親の顔色をうかがって就職し、安定を選ぶとしようか。が、それが青年自身の人生なんだろうか。“俺は生きた!”と言える人生になるだろうか。
そうじゃないだろう。親の人生をなぞるだけになってしまう。そんな人生に責任を持てるだろうか。若者自身のほんとうの生きた人生には決してならない。
自分自身の生きるスジは誰にも渡してはならないんだ。この気持ちを貫くべきだと思う。
どこにも属していないで、自由に自分の道を選択できる若者だからこそ決意すべきなんだ。新しく出発するチャンスなのだから。
夢に賭けても成功しないかもしれない。そして、そのとき、ああ、あのとき両親の言うことを聞いておけばよかったと悔やむこともあるかもしれない。
でも、失敗したっていいじゃないか。不成功を恐れてはいけない。人間の大部分の人々が成功しないのがふつうなんだ。パーセンテージの問題でいえば、その99%以上が成功していないだろう。
しかし、挑戦した上での不成功者と、挑戦を避けたままの不成功者とではまったく天地のへだたりがある。
挑戦した不成功者には、再挑戦者としての新しい輝きが約束されるだろうが、挑戦を避けたままでオリてしまったやつには新しい人生などはない。
ただただ成り行きにまかせてむなしい生涯を送るにちがいないだろう。
それに、人間にとって成功とはいったい何だろう。結局のところ、自分の夢に向かって自分がどれだけ挑んだか、努力したかどうか、ではないだろうか。
夢がたとえ成就しなかったとしても、精いっぱい挑戦した、それで爽やかだ。
戦後、ぼくが猛烈に闘いはじめた頃、親しい友人や、好意的なジャーナリストは真剣に忠告してくれた。
「あなたのようなことを言ったりやったりしたら、この社会から消されてしまいますよ。西洋なら別だが、日本では通らない」
随分何度もそう言っていさめられた。ぼくは答えた。
「消されるなら、それで結構。とことんまで闘うよ」
ぼくはあの若い日の決意を絶対に押し通すのだ。とことんまで危険な道を選び、死に直面して生きるーー確かにぼくは異端者扱いされ、村八分を食った。
しかし、それは逆に生き甲斐だ。その悲劇に血を流しながら、にっこりと笑って筋を貫いた。
だから外から見れば、あいつはいい気なやつだと思われたりする。だが見えない裏での絶望的な闘いはきびしい。言いようがない。しかし貫くのだ。
もちろん怖い。だが、そのときに決意するのだ。よし、駄目になってやろう。そうすると、もりもりっと力がわいてくる。
食えなけりゃ食えなくても、と覚悟すればいいんだ。それが第一歩だ。その方が面白い。
いい方を選ぼうとしたら、安全な方に行ってしまう
みんな、やってみもしないで、最初から引っ込んでしまう。
それでいてオレは食うためにこんなことをしているが、ほんとうはもっと別の生き方があったはずだ、と悔いている。いつまでもそういう迷いを心の底に圧し殺してる人がほとんどだ。
たとえ食えなくても、ほんとうの生き方の方向に進みたい、そう決意したいという情熱が自分をつき動かしてくる。
確かに危険を感じる。そっちへ行ったら破滅だぞ、やめろ、と一生懸命、自分の情熱に自分で歯止めをかけてしまう。
しかし、よく考えてみてほしい。あれかこれかという場合に、なぜ迷うのか。
こうやったら食えないかもしれない、もう一方の道は誰でもが選ぶ、ちゃんと食えることが保証された安全な道だ。それなら迷うことはないはずだ。もし食うことだけを考えるなら。
そうじゃないから迷うんだ。危険だ、という道は必ず、自分の行きたい道なのだ。ほんとうはそっちに進みたいんだ。
だから、そっちに進むべきだ。ぼくはいつでも、あれかこれかという場合、これは自分にとってマイナスだな、危険だなと思う方を選ぶことにしている。
誰だって人間は弱いし、自分が大事だから、逃げたがる。頭で考えて、いい方を選ぼうなんて思ってたら、何とかかんとか理屈をつけて安全な方に行ってしまうものなのだ。
かまわないから、こっちに行ったら駄目だ、と思う方に賭ける。
たとえば、いま勤めている会社をやめたい、何か他にやることがあるんじゃないか、と考えている人は実に多い。だがそれは未知の道に踏み込むことだし、危険だ、と躊躇して迷いながら日を過ごしている。
現在のサラリーマンのほとんどはそういう悩みを、多かれ少なかれ持っていると思う。
内心では、もっと別な会社や、別な道に進みたい希望を持っているんだが、踏みきれない。身の安全、将来を考えて仕方なく現在の状況に順応している人が驚くほど多いのだ。
いつも言っていることだが、ただ、自分で悩んでいたって駄目だ。くよくよしたってそれはすこしも発展しない悩みで、いつも堂々めぐりに終わってしまう。だから決断を下すんだ。
会社をやめて別のことをしたいのなら、あとはどうなるか、なんてことを考えないで、とにかく、会社をやめるという自分の意志を貫くことだ。
結果がまずくいこうがいくまいがかまわない。むしろ、まずくいった方が面白いんだと考えて、自分の運命を賭けていけば、いのちがパッとひらくじゃないか。
何かを貫こうとしたら、体当たりする気持ちで、ぶつからなければ駄目だ。
体当たりする前から、きっとうまくいかないんじゃないかなんて、自分で決めて諦めてしまう。愚かなことだ。
ほんとうに生きるということは、自分で自分を崖から突き落とし、自分自身と闘って、運命をきりひらいていくことなんだ。
それなのに、ぶつかる前から決めこんでしまうのは、もうその段階で、自分の存在を失っている証拠じゃないか。
人生を真に貫こうとすれば、必ず、条件に挑まなければならない。いのちを賭けて運命と対決するのだ。
そのとき、切実にぶつかるのは己自身だ。己が最大の味方であり、また敵なのである。
今日の社会では、進歩だとか福祉だとかいって、誰もがその状況に甘えてしまっている。システムの中で安全に生活することばかり考え、危険に体当たりして生きがいを貫こうとすることは稀である。自分を大事にしようとするから、逆に生きがいを失ってしまうのだ。
己を殺す決意と情熱を持って危険に対面し、生き抜かなければならない。今日の、すべてが虚無化したこの時点でこそ、かつての時代よりも一段と強烈に挑むべきだ。
https://www.taromuseum.jp/event/%E3%80%8C%E5%87%B1%E6%97%8B%EF%BC%81%E5%B2%A1%E6%9C%AC%E5%A4%AA%E9%83%8E%E3%80%8D 【「凱旋!岡本太郎」】より
《森の掟》1950年
「凱旋! 岡本太郎」展を開催いたします。
2022年から23年にかけて全国3都市、大阪・東京・愛知で行われた大規模巡回展から帰ってきた当館の岡本太郎コレクション。
展覧会にあわせた関連番組も話題となり、あらためて、子どもから大人まで幅広い世代から関心を集めるなかで、ご当地川崎への「凱旋」展覧会となります。
岡本太郎は、漫画家・岡本一平と小説家・岡本かの子を両親に生まれ、絵を志したパリ留学で、現地の抽象芸術グループで前衛芸術家や思想家と交流を深めます。美術のみならず、パリ大学で哲学や民族学を学んだこともその後の岡本の思想の軸を形づくるものでした。意に反した戦争への従軍を経て、敗戦後の日本で制作活動を再開しますが、画家としての枠をはるかに超えて、壁画やモニュメントの制作をはじめ、さまざまな芸術運動への参加、デザインや建築への関わり、日本各地への取材と撮影、多くの著作とメディア出演といった八面六臂の活動で、ひろく多面的な足跡を残しました。中でも岡本太郎の代名詞というべき「太陽の塔」は、1970年の大阪万博のテーマ館という役割に留まらず、日本の高度成長期の時代の象徴であると同時に、今なお時を越えて親しまれるアイコンでもあります。
本展ではあらためて岡本太郎の魅力を、常設と企画の両方の展示スペースをもちいて、全館でたっぷりお披露目いたします。人気の代表作はもちろんのこと、家具やグッズ等のインダストリアルデザイン、制作過程を裏打ちするドローイング、岡本の民族学的視点が際立つ写真など、これまで未公開だった資料も含めて展示いたします。また夏休みにあわせて、子ども向けワークシートの配布や展示室でのスケッチも楽しんでいただけます。
ぜひ岡本太郎の面白さと奥深さをご体感ください。
みどころ
●人気の代表作《森の掟》や《重工業》をはじめ、絵画、彫刻、インダストリアルデザイン、ドローイングや写真まで、当館の岡本太郎コレクションを常設・企画の両展示室を使って幅広くご紹介します。
●これまで未公開だった岡本太郎の写真関係資料から、撮影当時に制作された紙焼き(ヴィンテージプリント)を初公開します。1950年代に岡本が数多く撮影取材した日本の庭園に関する資料の一部を、初めてお披露目いたします。
●夏休みにあわせて、子ども向けのワークシート「ミることは創ること」を配布します。また展示室内でもスケッチができるコーナーを設け、鑑賞するだけでなく描くことで岡本太郎を体感する展示となります。
●夏休み期間の8月31日まで、美術館1階無料スペースにて、展示イベント「超凱旋!タローマン」(主催:NHK横浜放送局、川崎市)が併催されます。TAROMANに登場する当館の作品はすべて展示予定ですので、展覧会とあわせてお楽しみください。当館ガイダンスホールにて関連上映も予定しています。
展示構成
1.パリ時代
2.戦後の前衛として
3.画壇のアヴァンギャルド
4.日本再発見──伝統と創造
5.今日の芸術──建築・デザインとの協同
6.明日の神話と太陽の塔
7.眼の宇宙
8.見ることから描くことへ
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