西の果ての島

https://nagasaki-bunkanet.jp/institution/%E7%8F%8A%E7%91%9A%E8%B3%87%E6%96%99%E9%A4%A8/ 【珊瑚資料館】より

五島における珊瑚細工の歴史は、1886年(明治19)男女群島沖で発見されたことに始まります。サンゴは深海に生え、最低でも500年から600年もの長い年月をかけて育ったものでなければ宝石としては使えない貴重なものです。現在も五島黒瀬沖や東シナ海女島海域にてサンゴ船で採取し、加工される珊瑚細工は五島が誇る伝統工芸となっています。特に、富江は、明治以来の珊瑚加工の名産地として知られています。1953年創業の出口珊瑚の2階に設けられた資料館では、サンゴ漁や世界のサンゴについての紹介がなされているほか、サンゴの原木や繊細かつ深い彫りが施される「五島彫り」による美しい珊瑚細工の名品の数々が展示されています。また工房見学のほかペンダントなどをつくる加工体験も出来ます(予約制)


http://g.kyoto-art.ac.jp/reports/1063/ 【竹山道雄の紀行文『西の果ての島』の地域的芸術活動の観点からの評価報告】より

橋井 杏

1. はじめに

児童文学『ビルマの竪琴』の著者・竹山道雄(1903-1984)が長崎県五島列島の最西端にある「嵯峨ノ島(さがのしま)」を訪れたのは1960年(昭和35年)5月16日のことである。その旅の体験は同年『西の果ての島』と題され発表された。字数にして約六千字,短い文章のなかで嵯峨ノ島の風土を鮮やかに描きだした美しい紀行文である。限られた滞在時間のほとんどを歩き通し得た島特有の自然風景,風習,歴史の見聞を流麗な文調で綴っている。本稿では嵯峨ノ島という場所をもとに生み出された紀行文学『西の果ての島』を一つの地域性のある文化資産として評価することを試みる。

2.

基本データ

2-1.所在地 長崎県五島市三井楽町嵯峨ノ島

長崎県五島列島の福江島北西約4キロの東シナ海に位置する。

2-2 規模

面積3.18㎢,南北3.3km,東西約1.3km,周囲9.5km。北の男岳と南の女岳の二つの火山が裾野でつながったひょうたん型の形状をもつ。島の東部には「千畳敷」とよばれる火山噴出物が幾層にも重なり東シナ海へと連なる景観が広がる。

2-3 人口構成

嵯峨ノ島はカトリック教会,神社,仏教寺院の墓地が同居する宗教構成となっている。隠れキリシタンの風習を守る住民は昭和後期まで存在し、『西の果ての島』が書かれた昭和35年当時にはおよそ500人の人口を有していた。[註1]高度成長期からしだいに人口流出が始まり,現在は過疎化,少子高齢化問題が顕著となっている。2010年国勢調査時点で島の人口は161人まで減少した。[註2]

3 紀行文『西の果ての島』誕生の経緯

五島市の五島青年会議所が文芸春秋の文化講演会を招喚したことにより昭和35年5月15日に竹山道雄,今東光,有馬頼義ら三名の文士が五島列島を訪れた。なお一行を嵯峨ノ島まで案内したのは五島青年会議所に所属していた歴史学者の的野圭志氏である。[註3]

4 文学的側面からの評価

まず事例の評価の一段階目としてブリタニカ国際大百科事典の[紀行文学]欄を参照し,とくに以下の二点をもとに『西の果ての島』の独自性を検証する。[註4]

(1)嵯峨ノ島という未知の土地の「記録」と「歴史的価値」の重要性

(2)旅の見聞に託して作者自身の感慨や内面を描いた「文学的価値」

また5章では比較対象として同年代におなじ著者によって書かれた読売文学賞受賞作の海外紀行文『ヨーロッパの旅』(1957年)および『続・ヨーロッパの旅』(1959年)を事例に,地域性という観点から改めて『西の果ての島』の姿を縁取ることを試みる。

4-1 「記録」と「歴史的価値」からの評価

古今東西を通じて広く行われてきた紀行文学は,あらゆる目的における事実の「記録」という側面をもち,時代とともに消失した過去の史実を解き明かすことを可能にする。その点から『西の果ての島』冒頭部より以下の文章を引用する。

「人気のない森の中の小さな麦畑では、道がないから、熟れて仆れた穂の上をふんで歩いた。すこし高いところに上がるとつねに海が見えた。樹間に海が隠見するあたりで、むこうから一人の女があるいてきた。(中略)私はちょっと失望した。そんな期待をするのはばかげた空想だが、もしこの子を背負った女が我々を見て来た道を元にひきかえせば、それは隠れキリシタンでもあろうからである。(p240)」

1960年五島列島にはカトリック教徒が24,130人いたことが明らかとなっている。またキリスト教禁教時代から「はなれ」と呼ばれる隠れキリシタンが約一万人存在し数世紀に渡って代々信仰を守り続けていた。そのことに興味を抱いた竹山道雄は隠れキリシタンの儀式について考察し,嵯峨ノ島を訪れた際に信徒との出会いを期待していったのであった。2017年に実際に現地を訪れた際,耕作放棄地のひろがる古い集落に麦の畑や幼子を背負って歩く女性といった当時の様子を見受けることはなかった。庶民の生活や風習に目を向けたこの描写は当時の記録として特に貴重な部分である。

4-2『西の果ての島』の文学的価値の評価

「海岸から森に入ると露にしたたる若葉がはてしなくむらがっていた。光と匂いにむせかえるようだった。ことに楠の木の芽はまるで炎が燃えているようでそれがゆれる暈につつまれている。どこにも自然の精気がほとばしりあふれている。エメラルド色の洪水にひたっているようで,森の中は空気まで染まってその中で小鳥が啼いて,あちらこちらに谺している。すべての色彩が光をふくんで映りあい,豪華でやさしく,ボナールの色調さながらだった。(p240)」

初夏の嵯峨ノ島を言いあらわして,これ以上のものはあるまいと思われる[註5],と前述の的野圭志氏が記しているように,ゆったりとした語り口でつづられるその描写は的確で抒情性に満ちている。島の自然の風景をピエール・ボナール(1867−1947)の色彩やスイスの象徴主義の画家アルノルト・ベックリン(1827−1901)の作風に重ね合わせ、言葉を介して読み手にまだ見ぬ未知の島の情景や過去の感慨を再体験させる点を評価したい。

5.事例の比較 同作家による紀行文からの考察

つづいて本章では他の事例との比較を通じ『西の果ての島』の地域性についての評価を試みたい。竹山道雄は同時期に『続・ヨーロッパの旅』(1959年)を執筆し,その二年前に出版された『ヨーロッパの旅』(1957年)と合わせて第13回読売文学賞の評論・文学賞を受賞している。二作品は西洋諸国,東欧,ソ連圏への見聞を通じて特に戦後の思想の潮流に鋭い考察をあたえ普遍的な人間性や世界の現象を描き出している。一方『西の果ての島』は偶然に訪れることになった日本のとある島での一日を通じて得た見聞を記録として残したにすぎない。しかし言い換えるならば、ドイツ文学から日本の戦後思想潮流に到るまであらゆる分野に精通した気鋭の知識人が、この島にたどりついたとき、自然の光と大気に身をゆだねて人間の苦悩や運命というものからつかのま解放された安堵感のようなものが、このテクスト全体に息づいているとも捉えられるのではないだろうか。『西の果ての島』がはじめて紹介されたのは戦後に著者自らが主宰した雑誌「自由」においてであった。「自由」は特に戦後日本の啓蒙主義・教条主義に対する批判を目指した雑誌であり,こうしたことからも著者がさまざま宗教の入り混ざった最西端の国境の島になにかしらの共感を持って訪れていたことは確かであろう。名もしれない小さな孤島を静かに観察し,そのありのままの美しさをくみ取ろうとする姿勢が貫かれており,イメージ豊かな語彙や表現によって緻密に描かれる『西の果ての島』の作品世界はその独自性と地域性においても評価すべきであると考える。

6 今後の展望

おりしも2017年4月1日には「国境離島新法」が制定され,嵯峨ノ島も国境離島に認定された。[註6]この法律が制定された背景には,日本各地に点在する離島で人口減少や過疎化の問題が深刻化し,国の補助がなくては人々の生活維持すら困難な現状がある。嵯峨ノ島もそうした社会問題の縮図の一例であり,その姿は今後も変わっていくであろう。本稿の結論として,将来この文学作品がかつてその島に人々の暮らしが確かに存在したことを語り,やがては無人になり忘れ去られるかもしれえぬ歴史ある美しい島に確かな普遍的価値を与えつづけるものとして位置付けたい。

7 おわりに

『西の果ての島』は京都造形大学の図書館に所蔵されている『竹山道雄著作集2 スペインの贋金』のなかにも収録されており全文を読むことができる。当初卒業研究に取り組むにあたって事例の選択として文学作品を選ぶことには過去の評価報告書や課題の趣旨にそえない不安があったが,一冊の本との偶然な出会いを通じ実際に著者の歩いた道を辿った記録を、四年間の学習の最後でどうにか形にしたいと思った。卒業研究をきっかけにこれだけ多くの出会い、発見を得られたことは非常に貴重な体験となった。本稿をきっかけに著書を手にとられる方,また嵯峨ノ島を訪れたいと思われる方がおられれば何よりである。

1 福江島の港から見た嵯峨ノ島遠景

「現在の市街も,いたるところの地方都市のようにやはり東京の場末風景だった。(中略)特にエキゾチックな気配はなかった。常に暴風が吹いていて,死に絶えたような荒磯に流人や倭寇のあとがあって,沖には鯨が潮をふいていて,漁夫はそれに組みついて,鯨の鼻を曲がった刀で削りおとす・・・そういうことはなかった。ただ嵯峨ノ島がはなはだ異色があって,旅の情緒を満喫させてくれた。絶壁の下に溶岩が流れたところに,上陸した。」

(『西の果ての島』p237)(2017年11月 筆者撮影)

2 嵯峨ノ島中央部から北の男岳を眺める。(2017年11月 筆者撮影)

3 島の西側は侵食された特徴的な絶壁が広がる。竹山道雄はこの岩の入り組んだ眺めを見て、アンデルセンの『即興詩人』で描かれるイタリアのカプリ島の青の洞窟の世界を連想した。(2017年11月 筆者撮影)

4 嵯峨ノ島には小野神社とカトリック系の嵯峨ノ島教会が存在する。(2017年11月 筆者撮影)

5 嵯峨ノ島の西側にたつと目をさえぎるもののない海原がひろがる。(2017年11月 筆者撮影)

6 「まるで空中に浮いているようだった。低いところで岩に浪がうちかえしている。

 どこかで雲雀がしきりに啼いて、それが日光と共に降ってくる。うす青いエーテルがゆらゆらと揺れている」(『西の果ての島』p244)


https://www.butuzou-world.com/column/miyazawa/20210216-2/ 【東へ西へ、人気仏像の真相? 薬師&阿弥陀】より

”興福寺が隆盛した奈良時代は、「阿弥陀=西」というイメージは無かったんでしょうか?……”

神仏研究家・音楽家の宮澤やすみが、仏像とその周辺をブツブツ語る連載エッセイ。

こんにちは。地震+低気圧+花粉症でどよーんとなっている宮澤やすみです。本番前なのにこれじゃいかん。さて、前回は南と北の方位に関するお話でした。

せっかくなので、今回は東と西もおさらいしておきましょう。

仏像ファンならもうよくご存じ、薬師如来と阿弥陀如来がその代表選手、でしょうか。

奈良の国宝仏をモデルにした、イスム薬師如来

薬師如来は、薬師瑠璃光浄土というところにいるとされ、その場所は我々の世界から東の果てにあるといいます。

なんといっても、病平癒のご利益が一番知られますが、衣食のご利益もあって、現世利益の「くらしのパートナー」であります。

阿弥陀如来は、極楽浄土にいるとされ、その場所は西方とされます。

阿弥陀さんは来世への希望をつなぐ仏さま。末法の世に住む我々も救ってくれて(その間に善行を積むとか積まなくていいとかなんかいろいろ解釈ある)、明るい未来を約束する仏ともいえるでしょう(この「未来」というワードがあとで効いてきます)。

薬師さんと阿弥陀さんを置くお寺で有名なところというと、浄瑠璃寺がまず浮かびます。

浄瑠璃寺阿弥陀堂。九体阿弥陀の画像は無断掲載は気が引けるので、検索してください

池を中心に、西側には有名な「九体阿弥陀」がずらりと並び、池を挟んで反対側の塔(つまり東側)には薬師如来がいます。

こんなふうに池の西側に阿弥陀堂を置くスタイルは、平等院にも見られ、平安時代中期ぐらいから流行したそうです。

極楽浄土をイメージした「浄土式庭園」といいますけど、なぜこういうのが流行したのか、その時代背景は、拙著『仏像に光と闇』に書いてあります。

つぎは奈良へ行きましょう。時間も、先ほどの阿弥陀ワールドから3~400年くらいさかのぼります。

薬師さんは古くから東の代表格とされ、奈良・興福寺の東金堂には薬師如来が祀られています。

興福寺東金堂は薬師如来を祀る。では西金堂は?

じゃあ、興福寺の西金堂は、西だから阿弥陀如来?

いえ、釈迦如来なんですよね。

もしかして、興福寺が隆盛した奈良時代は、「阿弥陀=西」というイメージは無かったんでしょうか?

そもそも、薬師が東だとか阿弥陀が西だとかいう話は、お経がその根拠になっています。

薬師如来は『薬師経』、阿弥陀如来は『無量寿経』に、それぞれ東方とか西方とか書かれています。

ただし、『無量寿経』のほうは「初期」と「後期」があったり、訳本がいくつもあったり、まあいろいろな種類があるとのこと。

日本の浄土宗系では「後期」を根本としていて、そこに西方と書いてあるものの、それが日本に浸透したのがいつなのかはっきりわかりません。お経の変化と浄土教(阿弥陀信仰)の流行によって、阿弥陀=西方のイメージが浸透するまで時間を要したのかもしれませんね。

そんな阿弥陀の浄土信仰が流行したのが、ちょうど平等院や浄瑠璃寺の伽藍が形成された平安時代です。

それまで人気が高かった、東の代表・薬師如来から、西の代表・阿弥陀如来に人気がバトンタッチした時代といえるでしょう。

こうして薬師、阿弥陀の東西スターの布陣が固まり、「東は薬師、西は阿弥陀」が仏像ファンの常識みたいになっていくわけですが、これより以前の奈良時代だって、東西の方位軸で神仏の信仰があったはずです。

また、奈良を代表する古寺・法隆寺の金堂には「西の間」にちゃんと阿弥陀如来がいます。平等院よりはるかに古いお寺なのに、これはどういうことなんでしょうか?


https://shinrankai.jp/article/1352 【阿弥陀如来とは 【浄土真宗の教え】阿弥陀如来の本願を知れば 仏教が分かる(3)十八番(おはこ)の由来(動画つき)】より

浄土真宗の教えシリーズ

阿弥陀如来と阿弥陀如来の本願

阿弥陀如来の本願についてお話ししてきました。今回は、その3回目です。

まだ1回目、2回目の内容をお読みでない方は、こちらを先にお読みください。

阿弥陀如来とは

【保存版】阿弥陀如来の本願を知れば 仏教が分かる(1)

阿弥陀如来とは

【保存版】阿弥陀如来の本願を知れば 仏教が分かる(2)

動画を視聴したい方は、以下をごらんください。

●浄土真宗の要・阿弥陀如来の本願について3分で分かる動画

十八番(おはこ)は、「阿弥陀如来の本願」が由来

本願とは、お約束、という意味です。

あらゆる仏様は本願を建てておられます。しかし、阿弥陀如来の本願は、他の仏様とは比較にならない、ずば抜けたお約束ですので、普通、「本願」といえば、「阿弥陀如来の本願」を言われます。

親鸞聖人や蓮如上人の書かれたものに「願」とあれば、「阿弥陀如来の本願」のことです。京都に本願寺という寺がありますが、阿弥陀如来の本願を説く寺、という意味です。

一口に「阿弥陀如来の本願」といいましても48あり、これを阿弥陀如来の48願、と言われます。その48のお約束の中で、阿弥陀如来が本心を誓われているのは18番目の本願なので、第18願のことを「王本願」とか「選択(せんじゃく)本願」と言われます。

その人の最も得意とすることを「十八番(おはこ)」といったり、プロ野球のエースナンバーが「18」であるのも、ここに由来しているとも言われます。

ですから、「阿弥陀如来の本願」といえば、通常は18願のことをいいます。

では、阿弥陀如来は本心を誓われた18願に、どのような約束をされているのでしょうか。

漢字36文字で誓われていますが、今日の言葉では、「すべての人を、必ず助ける、絶対の幸福に」となります。

阿弥陀如来の本願・お約束の相手は?

一人で相撲はとれないように、一人で約束はできません。約束には必ず相手があります。

アメリカの大統領は、アメリカ国民と約束し、日本の首相は日本国民と約束をします。

私たちが約束するときも、「このメンバー全員と約束するよ」とか「あなたにだけ約束します」と言います。

では、阿弥陀如来は一体、誰と約束をされているのでしょう。

それは「十方衆生(じっぽうしゅじょう)」です。

十方とは、大宇宙のこと。

衆生とは、生きとし生けるものすべてをいいます。

私たちは人間ですから、十方衆生とは、すべての人のことです。

この人だけは約束の対象に入らないということはありません。

老少・善悪、賢愚・美醜・男女を問わず、すべての人を救いの対象とされています。

つまり、今、この文章を読んでおられるあなたも、阿弥陀仏のお約束の相手なのです。

こんな広い相手と約束をされている仏は、大宇宙広しといえども、「阿弥陀如来」以外には、ありませんから、親鸞聖人は、『正信偈(しょうしんげ)』に、大変弘い誓い「大弘誓(だいぐぜい)」といわれています。

ここだけみても、「阿弥陀如来」が、大宇宙最高の仏様であることがわかるでしょう。

阿弥陀如来の本願・お約束の内容は?

約束で大事なのは内容です。

金銭の貸借ならば、額に当たります。

1000円貸すと約束するのか、100万円か、1億円なのか。

阿弥陀如来の約束の内容は「絶対の幸福にしてみせる」という誓いです。

絶対の幸福とは、絶対に崩れない変わらない幸福、今死んでいかねばならないとなっても変わらない大安心、大満足の幸せをいいます。

私たちは皆、幸せを求めて生きています。

それも、今日あって明日失うはかない幸せではなく、続く幸せを求めているでしょう。

そんな崩れない変わらない幸せ、絶対の幸福にしてみせると誓われたのが阿弥陀如来の本願なのです。

絶対の幸せ者になったとき、「人間に生まれてよかった!」と心の底からの喜びがあふれかえります。


コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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