https://news.yahoo.co.jp/articles/21ac4aa0c3502f0408ce4cbc0ac9f18a7e27e84b 【なぜ、天皇の祖先は「まつろわぬ民」の居住地だった南九州に上陸したのか?【古代史ミステリー】】より
鹿児島県曽於(そお)市大隅町にそびえたつ、約15mの巨人像は、九州南部に伝わる巨人伝説の主人公・弥五郎どんの姿を現したものだといわれている。8世紀の時代に、彼の地に居住していたと伝えられる隼人(はやと)の長として、強大なヤマト王権を相手に一戦を交えたのではないかと推察されるのだ。
■身の丈15mもの巨人が出現
「おおすみ弥五郎伝説の里」というユニークな名前の道の駅がある。所在地は、宮崎県との県境に近い、鹿児島県曽於(そお)市大隅町。20ヘクタールもの広大な敷地を誇る、大隅町屈指の観光スポットでもある。その一角に、高さ15mもの巨人像がそびえている。長い鉾を握り、腰に太刀と小刀を挿して鬼のような形相で真正面を睨みつけるという、迫力満点の人物像である。それが、九州南部に伝わる巨人伝説の主人公・弥五郎どん(大人弥五郎)だ。
その険しい顔立ちからして相当な武人かとも思えるが、実のところ、何者なのか諸説あって定かでない。景行(けいこう)天皇から仁徳天皇まで6代の天皇に仕えたという武内宿禰(たけのうちのすくね)説や日本武尊(やまとたけるのみこと)に征服された熊襲梟帥(くまそのたける)説などがまことしやかに語られることもあるが、さもありなんと頷きたくなるのが、ヤマト王権によって制圧された隼人の首領説である。ただしこれを語るには、時代を8世紀まで遡らなくてはならない。
■寡兵ながらも奮戦した隼人の象徴?
時は元正天皇の御世、養老4(720)年のことである。大隅国の国司・陽侯史麻呂(やこのまろ)が、何者かに殺害されるという事件が起きた。この数年来、南九州でくすぶり続けてきたヤマト王権に対する反感が爆発したものであった。律令制の根幹となる班田収授法、それを、いまだ完全に服属したわけでもない南九州の地に無理やり適応させ、強引に税の徴収を開始しようとしたからなのかもしれない。6年前の和銅7(714)年には豊前に居住していた民(秦一族か)5千人を大隅国に移住させて同化政策を進めるなど、まつろわぬ民に対する有形無形の締め付けが厳しくなってきたことが下地になったとみられる。
事件からわずか数日後の3月4日には、早くも大伴旅人(おおとものたびと)が征隼人特節大将軍に任じられ、1万人以上もの大軍を率いて征伐が開始された。このことからみても、王権側も相当重大な局面であると認識していたのだろう。対して、隼人側の兵力は数千人。この圧倒的に不利な条件をものともせず、曽於乃石城(そおのいわき)や比売之城(ひめのき)など7つの城に立て籠もって持久戦を展開。攻略に1年半近く要すという熱戦が繰り広げられたのである。隼人の戦闘能力の高さが推察できそうだ。
それでも、養老5(721)年7月7日、結局は隼人側が、戦死者、捕虜合わせて1400人という甚大な被害を被って敗退。ここで紹介する弥五郎どんとは、つまる所、この隼人軍を率いた首領あるいはその象徴だったのではないかと考えられているのだ。無理やり支配下に置かれようとした民の心情を鑑みれば、その代表者の表情が険しかったのも当然というべきか。さらに、巨人として思い描かれたのも、中央政権に対する怒りの大きさを物語っているように思えてくる。
■なぜ天孫降臨の地が隼人の居住地だったのか?
ところで、隼人の居住地であった南九州といえば、『記紀』の記述によれば、王権の祖・天孫族が降臨したとみなされるところ(諸説あり)のはず。天孫・瓊瓊杵尊が降臨したとされる高千穂峰をはじめ、その陵墓・可愛山陵(えのみささぎ)、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)の陵墓・高屋山上陵(たかやのやまのえのみささぎ)、神武天皇の父の陵墓・吾平山上陵(あいらさんりょう)、神武天皇の生誕地とされる皇子原(おうじばる)神社等々、枚挙にいとまがないほど伝承地が存在する。
同時に、同地域は王権に「まつろわぬ」とみなされた熊襲(隼人との関係は諸説あって複雑)の居住地でもあった。ということは、王権にとって、そこは決して安住できるところではなかったはず。それなのになぜ、その不穏な地を王権の原郷だったとみなしたのか? これこそ、古代史最大級の謎の一つである。
その謎解明に大きな役割を果たすと考えられるのが、この隼人の存在なのである。隼人とは、ズバリ、中国江南あるいはそれ以南から、直接黒潮に流されてやってきた人々だったのではないか? 東部の大隅隼人が江南以南から縄文時代に渡来してきた狩猟民族で、西部の阿多(田)隼人が弥生早期に江南から渡来してきた海人族(海幸彦との関連が気になる)だったのではないかと、筆者は密かに推察している。
これに対して王権の祖とされる人々は、縄文末期に中国江南地方から稲を携え、朝鮮半島を経由して、北九州ばかりか南九州へも渡来してきた人々だった考えられる(野間半島の宮ノ山遺跡のように、朝鮮半島でよく見られる積石塚や支石墓などがその痕跡か)。このうち南九州へ上陸した人々(瓊瓊杵尊に象徴される人々か)が、先住の大隅隼人と一時期は共存。協調関係を保っていたと考えたい。
その表われが、瓊瓊杵尊と山神の娘・木花開耶姫との婚姻である。もう一方の阿多隼人との関係が、瓊瓊杵尊の子・彦火火出見尊(海幸彦)が海神の娘・豊玉姫との婚姻譚に言い表されているのかもしれない。しかし、豊玉姫との婚姻関係が破綻したことでもわかるように、両勢力は結局、対立。そこから脱出した人々が、安住の地を求めて大和へ東征あるいは東遷したのではないか? その記憶が、神武天皇の東征物語に反映されているという気がしてならないのだ。
加えて、この隼人の居住地に打ち立てられたのが狗奴国(くぬのくに)だった可能性もある。そこから脱出した人たちが、甘木から宇佐へ拠点を移していた邪馬台国(澤田洋太郎氏説を踏襲)の残存勢力(邪馬台国は、狗奴国との戦いに破れたか、卑弥呼の死によって妥結が図られたとも考えられる)を伴って、大和へと向かったのではないか? 諸説を踏まえて考察し直してみれば、こんな推察ができるのではないかと、思えてくるのである。
https://www.rekishijin.com/29645 【謎に満ちた古代日本の王権争奪戦を考察! 古代日本列島各地の王の序列とは?】より
縄文人が穏やかに暮らしていた日本列島に弥生人がやってきた。そして各地に小王国を築いて、それらが大王(だいおう/おおきみ)に統合されて古墳時代の国家が造られていく。しかし、大王権を握ったのは日本列島で成り上がっただけの王家だったのだろうか?
■王を頂点とする組織が渡来してきたのではないか
本格的な稲作とともに弥生文化を携えた渡来人(とらいじん)が日本列島にやって来たと考えられています。もちろんそれは一度にやってきたわけではありません。何百年もの間に少しずつ海を渡ってきたのでしょう。
異説はありますが、通説では中国南部に始まった稲作文化が朝鮮半島に伝わり、そして九州に渡来した人々が日本列島に広がって弥生時代が始まったとされています。
日本列島周辺の地図の角度を変えたもの。こうしてみると、日本列島と朝鮮半島、そして大陸との距離感がよくわかる。
ところで、神話に登場する神々の仕事を大雑把に参考にすると、国つ神(くにつかみ)が日本列島に国を創り、そこに天つ神(あまつかみ/天孫族)の使者が何度もやって来てついに武力を誇示して国を譲らせます。多少の抵抗はあったものの、天つ神が日本列島の支配権を獲得するというストーリーです。ただ、国つ神も天つ神と祖は同族であるようにも記されていますし、交流もあったと読み取れます。
そして神武東征(じんむとうせい)の時に、神武一族も饒速日(にぎはやひ)一族も同じ天つ神の子孫だということが判明します。その時の証言に「天つ神には子が非常に多く一族も多いのである」とあります。
『古事記』と『日本書紀』の神話部分を読んだ方はお分かりだと思いますが、国つ神と天つ神は同根であるとしか思えません。神話を人間界の記憶だったと仮定して置き換えると、早い時代に渡来して日本列島に住み着いた人たちがいて、その後、最新の武器や文化を持った新な渡来人が支配者に納まったというストーリーに見えてきます。
さらに想像を膨らませると、人間集団が個々に渡来して集落を営んで、よーいドンで大王権を取り合った、もしくは競争して勝ち残った一族が大王となったのだろうかという疑問が私にはわき上がります。
渡来する前の故地(こち)での位付け(くらいづけ)が最初からあったのではないかと思えてきます。
「倭国大乱(わこくたいらん)」と聞くと、対等の集団が大いに争ったと思えますが、各地から渡来してきた開拓集団の中には、故地ですでに大きな力と秩序を持っていた集団があったのではなかったでしょうか? すでに確立していた王族と臣従する集団が組織的に渡来してきた、つまり圧倒的な組織力をもったグループもいくつかあったのではなかったでしょうか?
吉野ヶ里遺跡にて復元されている主祭殿の2階。政治の場として、王やリーダーたち、さらに周辺のムラの長が集まっている様子がわかる。
(撮影:柏木宏之)
大和王権が各地を取り込む時に「言向和平(ことむけやわ)」することを第一の手段としていたという記述があります。もちろん武力を背景にしていますし、武力を以て制圧する話もありますが、各地に前方後円墳という特異な墳墓を同盟の証として造営させ、銅鏡を下賜(かし)して地方王に支配権を保証するという次の古墳時代の価値観は、大和の大王に故地とつながる大きな権威と卓越した技術力があったとしか考えられません。そしてそれは、渡来以前の故地で確立されている権威ではなかったかと思うのです。このように、根拠は薄くとも豊かな妄想で楽しむのも、実に安上がりな歴史遊びの魅力だと思いますよ!
https://tecnopla1011.blog.jp/archives/76685059.html 【言向和平=ことむけやはす】より
爾天皇、亦頻詔倭建命「言向和平東方十二道之荒夫琉神・及摩都樓波奴人等。」而、副吉備臣等之祖・名御鉏友耳建日子而遣之時、給比比羅木之八尋矛。比比羅三字以音。故受命罷行之時、參入伊勢大御神宮、拜神朝廷、卽白其姨倭比賣命者「天皇既所以思吾死乎、何擊遣西方之惡人等而返參上來之間、未經幾時、不賜軍衆、今更平遣東方十二道之惡人等。因此思惟、猶所思看吾既死焉。」患泣罷時、倭比賣命賜草那藝劒那藝二字以音、亦賜御囊而詔「若有急事、解茲囊口。」
故、到尾張國、入坐尾張國造之祖・美夜受比賣之家。乃雖思將婚、亦思還上之時將婚、期定而幸于東國、悉言向和平山河荒神及不伏人等。
ここに出典せる「悉言向和平山河荒神及不伏人等」が【言向和平(ことむけやわす)】古事記 中-4 景行天皇
「悉言向和平山河荒神及不伏人等」訓読すると
「やまかはの あらぶるかみ および まつろはぬ ひとらを ことごとく ことむけやはす。」言霊和平とも書くようです。
意味としては、「ことごとく山河の荒ぶる神、及び伏さない人たちを和平の言葉を向ける。」
敵も武力でなく“言葉で悪をも抱き参らせる。”=愛で全てを包み込むことで、調和を図ることです。
景行天皇はその皇子「日本武尊」で有名です。私も愛知県や三重県までその「日本武尊」の痕跡を辿って参拝や資料などを調べました。
また、景行天皇に関しては何度も御陵参拝を実施させていただきました。勿論、陪冢についても何度か行っていますので、その陵墓の形式は頭に叩き込まれています。
さて上記のなかで下記の文章は日本武尊と倭比賣命との文章が印象的です。
亦頻詔倭建命「言向和平東方十二道之荒夫琉神・及摩都樓波奴人等。」而、副吉備臣等之祖・名御鉏友耳建日子而遣之時、給比比羅木之八尋矛。(比比羅三字以音)。故受命罷行之時、參入伊勢大御神宮、拜神朝廷、卽白其姨倭比賣命者「天皇既所以思吾死乎、何擊遣西方之惡人等而返參上來之間、未經幾時、不賜軍衆、今更平遣東方十二道之惡人等。因此思惟、猶所思看吾既死焉。」患泣罷時、倭比賣命賜草那藝劒(那藝二字以音)、亦賜御囊而詔「若有急事、解茲囊口。」
「ヤマトタケル」が西の国を平定するといった 「景行天皇」の命令を果たし都に帰ると
「景行天皇」は「ヤマトタケル」に次の命令を言い渡しました。
景行天皇「よくぞ西の国を平定してくれた。」今度は東の国だ。東の国にも荒々しい神々が多くこれらを平定してきてくれ」そう言うと吉備の民の祖先であります「ミスキトモ(御鉏友耳建日子…みすきともみみたけひこ)」をお供に付け東の国へ派遣しました。
その時に「比比羅木之八尋矛(ひいらぎのやひろぼこ)」という矛をお授けになりました。
「景行天皇」の命令を受け「ヤマトタケル」は早速東国へと出掛けることになりましたが
まずは伊勢神宮へお参りに行きおばで伊勢の大神様にお仕えしている「ヤマトヒメ」を訪ね
次のように言いました。ヤマトタケル「『景行天皇』父上は、私が早く死ねばいい…とでも思っているのでしょうか?
西へ遣わせ荒々しく強く悪い神々を退治させたかと思いきや帰ってきてまだ間もないのに
今度は東の国の悪者たちを退治してこい!と兵隊もほとんどくださらずに東の国にも沢山居る荒ぶる神々を退治してこいなんて考えれば考えるほどに父上は私が死ねばいいと思っているとしか思えません」「ヤマトタケル」は泣きながらそう訴えると「ヤマトヒメ」は「ヤマトタケル」に「草薙(くさなぎ)剣」と小袋を授けて言いました。
ヤマトヒメ「もし危険な目に遭いどうにもならないときがあったならこの袋の口をほどきなさい」「ヤマトタケル」は伊勢の地より東の国へと出発しました。
ここからはいよいよ「青垣山」の話となるわけです。
さて、上記の平定というコトバで訳されているのですが、それが「言向和平」なんです。それは何をもって「平定」とするかというと「言向」なのです。武力とかではなく、あくまで「調和」をもって事を為す。その言葉には古事記上の巻にある下記の言葉である。
かれ 建御雷の神返りまゐ上りて、葦原の中つ國を言向(ことむ)け平(やは)しし状をまをしき。
古事記の全体を通じて「言向」というコトバが見出されます。
https://ameblo.jp/nobu630/entry-12849794405.html 【言向和平とは…】より
名古屋ことば磨き塾。きょうも3人初参加。いつも「第1回」な感じ。毎回、「新しい」塾な感じ。「曖昧にする」という考え方について、言葉を交わし合った。
ドイツの価値観、古事記の価値観を塾生から教わり、佳き学びとなった。
●曖昧なことは自分に合わない。迷わないで即断タイプ。考えすぎが面倒になる。
●ああ言えばこう言う姑と53年付き合った。極意は曖昧。
●ドイツに8年いた。ドイツ人は白黒ハッキリしている。政治家も公園の老夫婦も権利を主張する。日本の「和をもって貴しとなす」もステキ。
●ドイツに5年いた。ジャッジメントをくだす国。いるものといらないものの峻別もクリア。
●部下に答えを選ばせる経営者ステキ。
●この世に、答えはない。あるといえばある。ないといえばない。しめ縄の由来である七五三(しめ)…いずれも割り切れない数字。
●昔から「わからない」という癖があった。考えて考えた末に、わからなくてもいいのかな。
●自分は決めないと行動出来ないタイプだが、人には曖昧を許している。
●人に合わせてしまう自分が好きでなかったが、グレーゾーンもあっていいと思えてからは楽になれた。
●アナウンサー的発言として言い切らない。「あります」ではなく「あると思います」みたいなファジーな発言。
●塾生の一人から、「言向和平」(ことむけやわす)古事記にある言葉を教わった。
「悉言向和平山河荒神及不伏人等」訓読すると「やまかはの あらぶるかみ および まつろはぬ ひとらを ことごとく ことむけやはす。」意味としては、「ことごとく山河の荒ぶる神、及び伏さない人たちを和平の言葉を向ける。」
敵も武力でなく ”言葉で悪をも抱き参らせる=愛で全てを包み込むことで、調和を図る”。
言葉は現実を変える。未来を創る。
嬉しいことばが争いを鎮め、平和を導くという信念は、古事記の時代からあったということだ。曖昧も悪くない。
●もう一つ「稽古照今」(けいこしょうこん)という言葉。
古(いにしえ)を稽(かんが)え、今に照らす。これも古事記に見える言葉。昔のことをよく学び、現在に活かす。
“稽古”の文字の「稽」には「神を迎えて神意を量る(はかる)」の意味がある。稽古というのは「古(いにしえ)に稽(かんがえる)」で、元来は「昔のことを考え調べる」という意味。
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