https://sengoku-his.com/37 【【家紋】勇猛果敢で知られる「鬼島津」!その紋はキリシタンと間違えられる?】より
戦国武将は命をかけた戦いが日常であったため、いずれの家中も武と勇を誉れとしたことが知られています。そんな武人の群れにあって、なお畏敬の念をもって語られる一族があります。
その名は薩摩の「島津氏」。薩摩は明治維新を成し遂げた雄藩の筆頭格として、大きく歴史を動かした人材を多く輩出した地でもあり、そんな「薩摩隼人」たちを束ねてきたのが島津氏です。島津氏歴代の武人のうち、ことに戦国期を生きた「義弘」「豊久」の両名はまさしく「猛将」というべき苛烈な生き様で、同時代の武将たちにも深い感銘を与えたとされています。
今回はそんな、島津氏の家紋についてのお話です。
「島津氏」とは
まずは島津氏の歴史を概観してみましょう。島津氏は鎌倉幕府御家人であった「島津忠久」を初代とし、忠久は源頼朝より薩摩・大隅・日向といった南九州の三か国、さらに越前を加えた計四か国の守護に任じられるという異例の待遇を受けた人物でした。
中世を通じて力を蓄え続けた島津氏はやがて戦国大名へと成長、九州全土にその勢力を広げるようになります。しかし豊臣秀吉による九州攻めでは大兵力での侵攻を前に総力戦を回避、降伏して本来の拠点である薩摩・大隅・日向三か国の所領を安堵されます。
その後、豊臣政権下での軍功を高く評価され加増。豊臣家有数の大大名となっていきます。島津の名を不動にしたのは、関ケ原合戦での壮絶な撤退戦によるものと考える人は多いようです。
島津氏の系図
世にいう「島津の退き口」で、敵に囲まれた中あえてその正面を突破し、捨て身の小隊が断続的に追っ手を足止めしつつ本隊を脱出させるという苛烈な戦法を指しています。これにより、多くの犠牲を払いながらも第17代島津家当主ともされる「島津義弘」は薩摩に生還し、長きにわたる島津の命脈を保ったのは周知のとおりです。
家紋は「丸に十字」、この意味は?
島津氏の家紋といえば、十字を丸で囲った特徴的な図柄を思い浮かべる人は多いのではないでしょうか。
戦国史や幕末史を扱った映画やドラマなどのメディア作品においても、島津氏は比較的露出の多い家中のひとつともいえるため、幔幕や装備品などに記された丸に十字の家紋を目にする機会があります。
島津氏の家紋「丸に轡十字」
家紋「丸に轡十字」
一般に「丸に轡(くつわ)十字」と呼ばれており、馬の手綱を口に噛ませるための「轡」という馬具の金具に由来するという説があります。しかし、これはどちらかというと後付けの説明であると考えられています。というのも、島津氏本来の家紋は毛筆で漢字の「十」を書き出した「筆書きの十文字」だったからです。
これは島津家始祖である「島津忠久」の時代から使われてきた歴史ある紋で、先述した島津義弘もこの家紋を用いていました。ただし、関ケ原撤退戦で討ち死にした「島津豊久(義弘の甥)」は丸に轡十字の紋を使用しており、この時代に「十文字」から「丸に十文字」の紋へと移行していったものと考えられています。
一説には、十の字を丸で囲うようになったのはキリスト教禁教令の発布と関連があるものといわれています。
島津氏の家紋「筆文字の十」
家紋「筆文字の十」
本来の筆書き十文字は下部の縦線を長く引き、一見するとまるで「十字架」のような印象を受けます。
もちろん紋ができた当時の人たちが意図的にクルスに仮託したとは考えにくいですが、少なくとも戦国期に薩摩の十字紋を目にした外国人宣教師たちは十字架との酷似に驚いたようです。
豊臣政権下の禁教令には大きく第一次と第二次の二段階がありますが、比較的ゆるやかな統制であった一回目に比べ、二回目の施策は教徒らの処刑を伴ったものとして知られています。
これは宣教師たちの活動が、日本の植民地化を企図するものという疑いのもとに推し進められたもので、島津氏はこれらの禁教令を背景に、従来の十字紋を「十字架」と区別するために丸囲みの紋とし、武家らしい馬具に由来する「丸に轡十字」という意味付けをしたのではと考える研究者もいます。
島津氏はこれ以外に「牡丹」の紋、また秀吉より使用を許可された「桐」の紋なども用いています。
おわりに:命をつなぐ、「家」の存続
最後に、「丸に轡十字」の紋を用いた有名な島津氏の武人、「島津豊久」について触れたいと思います。
関ケ原において、伯父である義弘を無事落ちのびさせた豊久はその撤退戦で討ち死にしたことは先に触れましたが、それは「捨て奸(すてがまり)」という戦法によるものだったことは有名です。
関ヶ原合戦での島津豊久奮戦の地(烏頭坂)の碑
関ヶ原合戦での島津豊久奮戦の地(烏頭坂)の碑(岐阜県大垣市上石津町。出所:wikipedia)
撤退における最後尾の部隊は「殿(しんがり)」と呼ばれ、敵を足止めしつつ本隊を逃がす必要があるため、リスクが高く非常に難しい任務とされています。
島津の捨て奸とはこの殿を小隊に分け、全員が討ち死にするまでその場に留まり、そしてまた決死小隊を繰り出すという方法です。手練れの鉄砲隊があぐらを組んで追撃隊の指揮官を狙撃し、その後白兵突撃で玉砕するという苛烈極まる戦術でした。
豊久は島津宗家にきわめて近い血筋でありながら、自らも死兵の一人として戦いました。「個」を捨てる代わりに「集」としての一族を生かすという、島津将兵たちの断固とした生きざまに、「丸に十字」の紋は鮮烈な記憶となって刻み込まれたのでしょう。
【参考文献】
『見聞諸家紋』 室町時代(新日本古典籍データベースより)
「島津氏の十字紋」『尾花集』 加藤雄吉 1917
「日本の家紋」『家政研究 15』 奥平志づ江 1983 文教大学女子短期大学部家政科
「「見聞諸家紋」群の系譜」『弘前大学國史研究 99』 秋田四郎 1995 弘前大学國史研究会
『日本史諸家系図人名辞典』 監修:小和田哲男 2003 講談社
『戦国武将100家紋・旗・馬印FILE』 大野信長 2009 学研
『歴史人 別冊 完全保存版 戦国武将の家紋の真実』 2014 KKベストセラーズ
https://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sanpo/jintyoukan.htm 【神長官と守矢家の家紋「丸に左十文字」】 より
神長官邸鬼板 神長官守矢史料館を訪れた方なら、旧神長官邸の母屋の鬼板が「丸に十字(丸に左十文字)」の家紋であることに気がついたでしょう。その守矢家の家紋が(今では例えが古くなってしまいましたが)なぜ“篤姫の御守りに代表される”島津家の家紋にそっくりなのか不思議です。
高部歴史編纂委員会『高部の文化財』に、〔守矢家の丸に十字の家紋〕があります。
勅使門の棟と勅使の間がある二階建ての屋根棟には、九州島津公と同じ丸の中に右から逆に書いた十字の紋が打ち出されている。守矢家の紋が諏訪大社社紋の梶の葉ならわかるが、この紋のいわれはどうした訳かと不思議に思う。聞くところによれば、島津公が関東管領の時、守矢の先代に功績があり、それで家紋を貰ったと言う。平忠度の子重実の使用した陣幕にあった紋という説もある。高遠の内藤家の紋も守矢家と同じものとのことで、何かその辺からも調べてみたい。
(以降は『続・高部の文化財』) 平家が滅びた時、平忠度の子が、薩摩から逃れて神長の養子に入り、その時ついてきた立石隼人平忠康が高部に居つき、高部の立石の祖になったという記録が守矢文書にある。
島津家の家紋
島津家の家紋については、当初は十で、江戸時代に◯で囲んで家紋にしたという変遷があります。江戸時代では両家に縁故があったとは思えませんから、島津家に家紋の家紋を求めるのは無理があります。
内藤家の家紋
高遠藩は高島(諏訪)藩の隣で、上社の御柱祭には騎馬行列を奉納するなど諏訪神社との結びつきは大きかったといいます。また、高遠(伊那市高頭町)から杖突峠を下れば神長官邸の直近を通りますから、祭礼を通して頻繁に交流があったのは間違いありません。
内藤氏の紋
内藤家(本家)の家紋は「下がり藤」が定紋で、その他「丸に一」があったが、重頼のとき「丸十」に改めた。そのいわれは将軍綱吉が幼少のころ重頼に丸一を丸十に改める指示をしたという。また一説には内藤の「内」は、(後略)
高遠町誌編纂委員会『高遠町誌 上巻歴史一』
ただし、内藤氏が高遠藩を治めたのは元禄以降なので、守矢家との結びつきは時代的には新しいと言えます。
神長官邸 改めて、神長官邸の写真を左に載せました。冒頭の「赤い家紋」はこの母屋の鬼板ですが、一階の勅使専用の玄関屋根にも同じ紋があります。
玄関前の一画に、鬼瓦がまとめて置かれています。瓦屋根の時代ではどうだったのかと確認すると、その部分には何かを剥がした跡があるだけでした。
それにしても、「守矢」だから「丸に違い矢」などの、矢をモチーフにした家紋を採用したほうが自然と思われますが…。
『神長守矢氏系譜』にみる「丸に十文字」
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』に、『神長守矢氏系譜』が収録してあります。ここでは書物解題が重要なので、プロローグとしてそれを併記してみました。
本書は洩矢の神を曩祖(のうそ)とし、爾来明治初年に至る守矢實久までを叙列した系譜で、同家伝来の古文書を引例し、歴代神長職としての大祝職位授興に関する史実を列記してある。但(ただ)引證(いんしょう)の大部は守矢實久の筆に成ると云う。
本題として、〔頼實(頼実)〕と〔重實(重実)〕の系譜から関係する部分を転載しました。因みに、前出〔守矢家の丸に十字の家紋〕に出る「説・守矢文書」がこれに当たります。
頼實
(前略) 源頼朝伐平族之時薩摩守忠度季子匿于信濃洲羽蕨萱止云所爾結草庵居迎取養以爲子女以女故十文字下爾庵乎畫支爲幕之紋、(中略)
・古記云守屋山蕨萱と云處に七年草庵を結び隱住、建久二年迎取為子、
以爲子女以女が難解(読)ですが、ここまで来れば“略”でごまかすことはできません。
神長系譜 「1192年、源頼朝平家を討つ、この時、薩摩守忠度(ただのり)の季子(きし※末子)信濃諏訪に隠れ蕨萱(わらびがや)という所に草庵を結(むすび)居、迎え取り養い、女を以て子女を為す、故に十文字の下に庵を画き幕の紋と為す」と、(何か意味不明になりましたが)私なりに読んでみました。
しかし、「平忠度の子を引き取って養育し、妻合(めあ)わせて子をなした」はそのままとしても、「十文字」が平家と結びつきません。平家の紋は「蝶」だからです。さらに、「薩摩守」はあくまで官位であって、平忠度が九州に赴任した史実はありません。
そのことから、『系譜』の編者守矢実久が、「薩摩守」に「島津家の紋」を短絡させてしまったのがこの記述ということになります。
次は、頼実の後を継いだ重実です。
重實 假名 神平 後改政實 兼白川祝
任信濃守重實無子使(※依?)頼實弟襲其職
・平氏畧系(畧)
神長系譜 前出の「平氏の血を入れた」ことを前提にすると、次の「平氏畧系」が俄然生きてきます。ところが、「畧(略)」なので、「平忠度の子-孫-重実」の関係が確認できません。
ここで、意味が通らなかった「重實無子故頼實弟襲」の「重實」が「頼実」の誤字(誤植)であることに気が付きました。つまり「頼実に男子がいないので、弟の重実が継いだ」となり、頼実の目論み「平氏の血を入れる」ことが成功しなかったことがわかります。その結果、「系図は必要ない」として「略」にしたのでしょう。
また、頼実の(衍字(えんじ※重複文字)の可能性が高い)「以爲子女以女」ですが、子が女だったので神長職を継げなかったとすれば、「頼実-重実」の系譜がうまく繋がります。
守矢實久が明治に編纂した系譜とあってそのまま読むしかありませんが、「守矢家の家紋が、なぜ◯に逆(左)十字なのか」の一つの話として紹介してみました。
神宮寺区の家紋調査
本宮南参道「若宮社」上の「守矢さん」が、神長官家との関係は不明ですが同じ家紋でした。ここは諏訪市中洲神宮寺になりますが、神長官家がある高部の隣です。中洲公民館編『中洲村史』に「神宮寺区に分布する家紋調査」があったのを思い出したので、その足で図書館へ向かいました。
調査の趣旨や考察がありますが、調査時期・範囲・回答数を「昭和63年・区内5町内(長沢・南町・仲町・宮ノ脇・今橋)・申告361/383軒」とだけ記します。神宮寺区は上社本宮の周辺にある町です。
長沢町(5戸) 島津・守矢(4戸)
南町(2戸) 守矢・守屋
仲町(1戸) 守矢
結果は、家紋が8戸でした。「神宮寺には島津さんがいた!!」は別にして、いずれも守矢と守屋さんでした。本家筋のみが「守矢」を名乗ったと言いますが、明治からはそれが崩れたそうですから参考程度としてください。いずれにしても、「守矢」と、それをルーツとする守屋・守谷さんは、他県では圧倒的に少ないのは間違いありません。
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