https://sapporo-woodies.org/column/sanchu/vol5.html 【5 山林は駆込寺!】より
戦国時代、「山林に走入る」とは、駈込寺に逃げ込むことを意味した。この場合、「山林」は寺院を指すのだが、中世前期には山林がアジールであった。アジールとは、「外敵の攻撃から免れうる不可侵性を帯びた特定の地域・人・場所」をさし、特に場所については「避難所」「平和領域」と訳される。そこで、領主の無謀な振舞や課税から逃れて敢行する「逃散」で村ぐるみこもったのが山林であり、主人の支配を逃れるために下人・所従が立てこもる場所として選ばれたのが山林であった。無論、「駆落ち」にも使用された。山林に入ることでそれまでの主従関係、親族関係等々のしがらみ、世俗の縁と断絶することができた。無論それは、別なあるいはより強大な権威者の力に寄り添うものではあったが、当座の責め苦からは逃れることができたのである。森鴎外の小説「山椒大夫」の中で、安寿が逗子王を山林の寺へと誘っているのは、その一例である。もし、国木田独歩がこの時代に生存していたら、やはり同じ感慨を詠ったことだろう。「嗚呼 山林に自由存す」
一方、山から山へと行き来をする人々も、諸国往来自由のフリーパスを公認されており、勧進上人・修験者・山伏等に加えて、連歌師・茶人、鋳物師・魚売人等の芸能民や商工民もその仲間であった。
文政11年9月8日、鈴木牧之は平家の落人村という言い伝えのある秘境秋山郷を訪れ、「秋山記行」を著した。牧之は越後魚沼郡塩沢村の縮商人で、雪国の風俗について述べた「北越雪譜」で有名である。越後から国境を過ぎて信濃に抜け、湯本(切明温泉)で、牧之は秋田藩領から稼ぎに来ている猟(漁)師に出会う。彼らは背に熊の皮、前に熊の皮で作った胴乱を下げ、鉄張の大煙管で煙を吹き出す偉丈夫。米と塩のみで深山幽谷を栖となし、猪・熊・鹿を獲り、岩魚を漁して食すると共に上州草津に卸す。山の幸を糧に商いをして諸国を渡り歩くという。秋山郷の生活も浮世離れをしているのに加えて、この秋田の猟師の暮らしに驚かされる。 封建社会の完成と言われる江戸時代、国内の往来は制限され、特に「入鉄砲に出女」は関所で厳禁であったし、「お伊勢参り」が唯一旅行の口実であった。それなのに遠く秋田から長野まで出稼ぎに来て、群馬・長野・越後を縦横に行き来する猟師、これこそアジールの系譜をひく民の生き様であったろうと思う。
中世から江戸においても、山林は半ば自由の地、駈込寺であった。ひるがえって、現代はどうか? 限られた山菜の集中採取、入林税に環境税、乱伐と放置の果ての荒廃…。
はたして、ゴーギャンではなくとも「われら何処より来たり、何処にあり、何処に行くや?」
https://blog.goo.ne.jp/bessyamigo/e/d477a5b0ebdbdd426dce35dca88a03e4 【怪道vol.118 2008年五島の旅~Epi:4】より
本日は皆さんお待ちかねの(?)平家落人伝説編です。
近世を通じて五島藩主であった宇久氏(五島氏)は鎌倉時代にさかのぼる一族で、五島列島の最北にある宇久島(現・佐世保市)を最初の拠点としました。その宇久氏が自らの祖と系図に示すのが、平家盛。壇ノ浦で敗れた彼が宇久まで逃れて後に宇久次郎家盛を名乗ったと言う・・・辺りですでにまァちょっとそこへ座れと言いたくなりますネ。平家盛といったらご存じの通り清盛の弟で、源平合戦とかいうはるか以前にすでに亡霊になってらっしゃる方なワケ(池禅尼が頼朝の助命をする時に、死んだあのコに面影が似ているワと言った当の「あのコ」が家盛サン)。百歩譲って壇ノ浦云々を聞かなかったことにしても、鳥羽法皇と連れだっての熊野行で迷子にでもなって五島まで行ったとかいうワケ、ナニその良牙なみの方向オンチっぷりw。
ちなみに宇久氏にはもういっちょ、源氏系の末裔を名乗る系図もあったりするそうなんですネ。ぐーぐるのお世話になったところによりますと、その場合は清和源氏武田氏流らしいですが、家盛の子という扇、福江島に勢力をのばした八代・覚(14世紀後半)、現・福江を拠点とした覚の子・勝、応仁の頃に朝鮮半島と交易したという儀、など中世の宇久氏はずっと一字名な辺りを見ると、明らかに松浦党(綱にはじまる摂津渡辺党の支流といいますね)と関係が深いような気がするんですけどw
さてさて家盛さんが佐世保の宇久島に流れついて宇久氏の祖となったとするならば、福江島にはそれにも劣らぬ平家のVIPがいらっしゃってます。その名は平教経。悲壮感漂うあの頃の平家の中で一人血の気の多いというかなんというかで壇ノ浦では知盛さんにオマエ無駄に殺しスギ、ゆうて怒られてた人ですナ。義経に八艘飛びで逃げられたヒト、のほうがわかりやすいでしょか。海御前はこのヒトのヨメ(もしくはオカン)、てのはどう?
壇ノ浦で二人の男を道連れにザンブと飛び込んだのち、泳ぎに泳いで(イヤ普通に船だろうけどw)福江までたどりついた教経さんが上陸したとされる所は、福江から2kmほど北にいった、六方(ムカタ)と呼ばれる集落とされております。後世、平家崎とも呼ばれることになる入江にたどりついたのは、教経サン以下7名の落人。六方の地名は、この地に六軒の家しかないことに由来すると言います。なぜに六軒かと言うと、とある文献によればかつてこの六方に身を隠すようにたどりついた7人の落人が、我らがここに来たこと他言無用と固く口止めした、すると村人の一人が入江に入った船を源氏の追手と戯れに欺いた。最期を悟った7人は平家崎にて自刃、しかしそのタタリによって6軒以上の人が住むことのない集落となってしまったというもの。うーむ、教経ならヤリソウ、と思ってしまうのはワタシだけではないでしょう。
一面に葦の生えた湿原を横に見つつ、細い道をトコトコいった先でここがそうなのかしらと途方に暮れていると、白い軽バンとワンコを連れたご夫婦が現れ、ここに平家の落人伝説があると聞いたのですがとつかまえましたところ、ちょっと待ってな、と裏の畑から老夫婦二人を呼んできて下さいました。その老夫婦は、六方の六軒の家の方だったんですよ超ラッキー。オバァチャンがおっしゃるお話は文献で仕入れた話とは少々違っておりまして、彼ら落人たちに6軒以上の家を増やせばムラを滅ぼすと脅されたため、それを守って6軒以上増やさずにいたのだといいます。そんなムラも現在は多くの家が移住してしまい、いまや2軒しか残っておりません。
この六方には七人の落人を祀る塚があるというわけで、連れて行ってもらいました、オジィチャンと草刈り鎌を手にしたその息子サンに。これがまたすごいとこにすごい状態であったトですョ。それが以下です。ジャンジャジャーン↓↓↓。
つ、つぶれてるしw
小高い丘というか「崎」という感じの頂上あたり。・・・せっかくなんだから連れて行ってあげたらというおばぁちゃんの逡巡するような言葉はウソではなかった。ヤァもう道なんてありゃしませんw 藪をかき分けたどり着いたところでこの有様w なんでもオジィチャンのオジさんの代まではまだ祭を守っていたけれど、祀り手が少なくなってからはすっかり手が入れられなくなったらしい。祭日は毎月17日だったそうで、オジィチャンいわく多分この7人が死んだ日とのこと。祭が近づくと祈祷師がやってきて、何日かこの堂にこもっていたそうです。くずれた屋根の下敷きになって一体何基の祠があるのか判別しかねましたけども、見える部分のそれには明治や大正の年号が刻まれておりました。
集落の別の場所には7人が水を飲んだという水呑み場もあるんだそうで、行きたい気持ちはヤマヤマだったんですけどもこれ以上ツレであるうちのじぃちゃんを車で待たせておくのも忍びないw、という状況により今回はあきらめました。が、昭和の頃、カツオ漁のために四国辺りから来た漁師がその水を飲んでコレラに罹って亡くなったために、ホウソウ塚に祀ってあるんだとか、この山には誰のもんかわからん塚がようけあってだとか、実に楽しい話をたくさん聞かせていただいたのでした。
つぶれた堂の下敷きになっていた祠の一つで、「平家崎大神」とある(別の祠には「平家崎神社六人〔木+家〕」)。福江で見かけた祠の多くはこのような家形で中に供え物を置く、という形。
六方のある伝説では教経さん一行は平家崎で自刃したことになっておりますが、死に場所とされているのがもう一ヶ所あります。それが島の中部西寄りにそびえる七ツ岳で、麓には七嶽神社と呼ばれる彼ら七人を祭った神社があるのです・・・が、実はこの神社も、北周りに島を巡っていた日の最後に見学を予定していたために時間切れで行けなかった所(涙)。七ツ岳とは、七つの頂をもつという非常に特徴的な形をした山らしく、島で2番目に高い(432m)のだそうです。信仰の対象となりうるものですし、七人の落人伝説は言うまでもなくこの山の形と無関係ではないでしょう。
六方で上陸し、七ツ岳で自刃。五海をわたって四神に護られ三途の川を引き返したとかいう話はなさそうです。それはさておき、伝説上とはいえ、落ち伸びてきた教経一行は航路をとらず、内陸部を行ったでしょう。壇ノ浦から福江島にたどり着いた時点でヤレヤレとならないんですね。東の入江にたどりついた落人一行は西側まで移動している、つまり島の内でさらに「落ち」ていく状況が演出されている辺りが、実にオモシロイなぁと思いまス。
彼ら七人の菩提を弔ったという宇久氏の姫の伝説が、島の内陸部には残っておりました。八代・覚が島の北部は岐(鬼)宿より福江に勢力を拡大し、その子九代・勝の時、現在の福江島の中心である福江に拠点を移します。その際に、西の守りとして二本楠の郷に残されたのが、勝の姫・茶々子であったと言われております。彼女が治めていた二本楠は、上の地図の黄色い道路がちょうど十字に交差する、見るからに内陸交通の要衝。彼女はここで七人の落人を弔う碑をたて、その傍らに草庵をむすんで冥福を祈ったとのこと。その茶々子の命日が奇しくも二月の十七日。十七日と言えば、六方の平家塚の祭礼と同じ日ですネ(関係あるかどうかはワカリマセンが)。
島の地図を眺めてみると、福江・富江(東・東南部)と二本楠・岐宿・荒川(西・西北部)の間にはどうも水系の断絶があり、島の東⇔西の内陸移動は、意外に困難だったのかもしれません。六方から七ツ岳へと人眼を忍んで「落ち」ていった平家の落人の伝説は、何らかの形でそれを伝えるものなのかもしれず、またそうすると勝に命じられて二本楠を守った茶々子は、想像以上に勝の厚い信頼とそれに応えるほどのすぐれた統治者だったのかもしれないと、フと思いめぐらせてみたのでした。
二本楠に残る茶々子の墓。この茅葺屋根は年交替で前と後、片方ずつ葺きかえるというしきたりが今も続いているのだそうです。
茶々子の墓のすぐ前にあった、七人の落人を供養する地蔵。なんぼ数えても六体しかないんだけどw
https://www3.nhk.or.jp/lnews/nagasaki/20240110/5030019834.html 【五島 新春の伝統行事「お守りさん」で無病息災願う】より
平家の落人が持ってきたとされるお経の本を頭にかざしてもらい、ことし1年の無病息災を願う「お守りさん」と呼ばれる新春の伝統行事が五島市で行われました。
五島市崎山地区にある大通寺では、平家の落人が持ってきたとされるお経の本が、地区を守る「お守りさん」として大切に保管されています。
この本は、頭にかざしてもらうと御利益があると伝えられていて、新春にはこの本を持って家々を回る習わしが地区に残っています。
10日朝は、羽織やはかまを着た崎山地区の役員たちがお寺で祈とうを済ませたあと、お経の本の上に梅の小枝を乗せた木箱を持って、「お守りさん」が来たことを告げながら家々を訪ねました。
出迎えた人たちはお経の本を頭にかざしてもらうと、ことし1年の無病息災を願いました。
「お守りさん」を出迎えた70代の男性は、「元日から災害があったので、ことしは災害のない平和な年になってほしい」と話していました。
「お守りさん」は11日まで行われ、崎山地区のおよそ500世帯で行われるということです。
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