Facebook新田 修功さん投稿記事 生命が「在る」ということ…⁉️
「存在と時間」という著書で有名なドイツの偉大なる哲学者ハイデガーが、存在するとはどういう事かについて深く考察しています。
ハイデガーはチャップリン、ウィトゲンシュタイン、ヒットラーと同年代の人です。
彼は、存在とは宇宙の根源であり、すべてのものの故郷だと言います。
万年筆は字を書くという働きがあり、コップには水やその他の飲み物を入れるという働きがあります。すなわち、すべてのものは働きとしての生命を持っているのです。
山や岩、石にも「在る」という生命があります。要するにすべてのものは、生きているという事です。この「存在生命」が直感として理解出来ると、波動が精妙になっていきます。
そして、遊びの世界に入って行く事が出来るのです。
軽やかに、涼やかに、すべてのものとつながってる自分を感じるようになります。
「存在するすべてのものに生命がある」
身近なものと、触れ合い、語り合い、愛してあげましょう。
花でも、パソコンでも、スマホでも、ノートでも、何でもかまいません。
最初は、その気になって物と話してみるところからスタートします。
少しずつ、感覚がつかめてきて波動が細かくなっていくと、体感する事が出来るようになります。だまされたと思って、やってみて下さい。
心に優しい風が吹いてきます😊✨🌈今日も読んでくれてありがとう🙏😊💕
https://www.toibito.com/toibito/articles/%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%A8%E7%84%A1%E3%81%A8%E5%A0%B4%E6%89%80%E3%81%A8 【10. 存在と無と場所と】より
完全な<それ>
われわれは、なぜか、かならず偏ったあり方をしている、と言いました。性別も、前後も、上下も、何もかも、二項対立の一方だけに、私たちは存在しているのです。男性で、前を向いて、直立している私というわけです。両性具有で、全方向を向いて、上下のない私ではないのです。どこからどう見ても、完全ではありせん。不完全で欠如した偏りは、ほんの少しも見いだせないというあり方では、まったくないのです。そんな完全なあり方とは、もっとも遠いのが、われわれだと言えるでしょう。この世界の存在は、どうしても、片面だけの偏った存在なのです。
この「偏り」と関係あるのかどうかわかりませんが、トマス・ネーゲルが『どこでもないところからの眺め』などで問題にしている「偏り」(と言えるかどうか難しいですが)もあるかもしれません。つまり、私たちは、主観と客観という二つのあり方に分裂しているということです。
私は、一生いつでもワンルームマンション(<私>=主観的自己)だけにいつづけています。とても偏った<ここ>にいることしかできません。<ここ>から脱けだすのは、原理的に不可能です。それなのに、不思議なことに、ワンルームマンション以外の世界も俯瞰することができる(客観的自己)というわけです。この二つのあり方(それぞれの「偏り」)をどう調停するか、というのが大きな問題だと、ネーゲルは言うのです。われわれは、「どこでもない(「ワンルームマンション」でも「ワンルームマンション以外」でもない)ところからの眺め」を手にすることができるのだろうか、という問題です。これもまた、次元の異なるふたつの「自己」という「偏り」をどう調整するのか、ということになると思うのですが、でも、これは違う問題かもしれません。
閑話休題。このような「偏り」は、「存在そのもの」についても同じことが言えるでしょう。こういうことです。私たちは、誰でも「存在」しています。だからこそ、あれこれと意思の疎通ができますし、机やパソコンや万年筆が目の前にあることを認識したり、他人の身体を見て自分自身の身体の動きをたしかめることもできます。本を読めば、宇宙の歴史をたしかめることができるし、地球上のさまざまな国には、多くの人たちが生活していることも事実として知ることができます。つまり、何から何まで、この世界では、<存在している>というわけです。
繰りかえしになりますが、「存在」という概念と対立する「無」は、この世界にはありません。存在が満ちみちている世界です。ということは、この世界は、存在に偏ったところということになるでしょう。「存在だけの世界」だからです。もし、この世界が、完全で偏りのない世界なのであれば、「存在」と「無」が同時に融合しているのでなければなりません。でも、それでは、もはや「存在」という言葉は使えなくなるでしょう。「存在」と「無」という二項対立が、対立のまま完全に調和しているのでなければならないからです。「存在」でも「無」でもない完全な<それ>が、その世界だということになるでしょう。この完全な<それ>を、頭の片隅において、今回のお話をしていきたいと思います。
無の否定
ベルクソンは、『創造的進化』のなかで、「無」という概念を徹底して批判します。この世界に、絶対的な無などは登場しないというのです。この批判は、今までの話から、容易にでてくると思います。つまり、私たちが、「無」を考えるとき、かならず「存在」を否定しているからです。この世界には、存在しかないのですから、その存在(存在者・物)を否定することによってしか「無」は登場しないはずです。これは、もう何度も確認したので、おわかりだと思いますが、この世界で「無」という概念を登場させるためには、「存在」というボールを、遠くへ飛ばして消滅させなければならないのです。
ということはつまり、「存在」というボールをどこかへ飛ばした瞬間だけ(インパクトの瞬間だけ)、「無」が現れるというわけです。ボールが飛んでいってしまうと、そのあとには、ボールが置いてあった場所が「存在」してしまうからです。ボールもどこか中空を飛んでいて、消えたわけではありません。ようするに「存在」そのものが消えたわけではないのです。だから、「ボールが存在し、かつ同時に飛ぶ」という「矛盾」(インパクトの瞬間)だけが、ごく瞬間的に「ボールが消える」(無)という事態を現出させるのです(うまい説明にはなっていませんが、何となく感じはつかめると思います)。
でも、もちろん、これは錯覚なので(矛盾が、この世界に登場することはありませんから)、ベルクソンは、絶対に「無」などというものは、この世界には存在しないというのです。「無」というものがあるとしても、それは存在をそのつど否定しているだけである。つまりは、インパクトの瞬間だけの錯覚というわけです。したがってベルクソンによれば、「絶対無」(絶対に無だけの状態)などというものは、言葉だけのもの(具体的にはありえないもの)だということになります。それはそうでしょう。さすがベルクソン。とても説得力があります。
「場所」
突然ですが、それでは、西田幾多郎の「絶対無」という概念は、どうなるのでしょう。西田哲学の<肝>といってもいい概念です(これから、おいおい説明します)。これもまた、ベルクソンの言うように、ただの言葉であり、しかも無意味な言葉なのでしょうか。いやいや困りました。西田哲学という大伽藍が、ガラガラと崩れ去っていく音が、聞こえるかのようです。ハイデガーという伽藍の崩壊を目指して話をしているつもりが(嘘)、西田を瓦解させるとは!変な迷路に迷い込んでしまいました。まあ、もう少し続けてみましょう。
西田幾多郎という人は面白い人で、「どんなものでも存在しているということは、場所に存在しているのだ」という素朴な前提から、全宇宙を説明しようとしました。たしかに、何でも場所にありますよね。私も、自分ちにいますし、皆さんだって、どこか場所にいると思います。場所にいない存在(者・物)は、それこそ存在しないでしょう。鉛筆も、プールも、地球も、雑誌も、太平洋も、M78星雲も、ぜんぶ「どこか」(場所)にあります。ここから、西田は、話を始めます。
まずは、いろいろなものが存在しているこの世界があります。われわれも存在している<この場所>です。これを西田は、「物理的世界」といいます。そしてその世界が存在するのが「物理的場所」だということになるでしょう。「なんでもかんでも場所に存在している」と言うとき、いちばん例としてわかりやすい場所だということになるでしょう。
さらに西田は、その物理的世界を見ている自分自身を「場所」と考えます。「意識」という「場所」です。この段階の「場所」を説明するためには、カントの認識論的転回や、フッサールの「世界地平」といった概念を経由しなければならないのでしょうが、それはまたそのうちに、ということで、話を進めたいと思います。
ようするに、われわれが世界を見る(認識する・意識する)ときに、その背景になっている場所があるというわけです。不思議なことに私たちは、いつも私自身から出発して、世界に対峙しています。さっきのネーゲルの話のときの「ワンルームマンション」に閉じ込められているというわけです。でも、この「ワンルームマンション」は、変な「場所」で、間取りはとても狭いのですが、世界全体をそのなかに包み込むことができます。私という「場所」は、ビッグバン以来の宇宙史、世界の生物多様性、地球の大陸や大洋、全人類などをすべて「意識」できるからです。この「場所」が、「物理的な場所」を包摂していると西田は言うのです。
そして、さらにその外側に「絶対無の場所」が「存在」(?)しているのです。やっと「絶対無」にたどり着きました。ホッとしてます。ただ、ハイデガーの話なのに、なかなか迷路から脱けだせないので、今回は、このくらいにして、次回こそ、西田の「絶対無の場所」を経由して、ハイデガーの「無」へたどり着き、ハイデッゲル先生と正面から対峙したいと思います(あくまでも、予定です)。
でも、その前に西田の「場所」とマルクス・ガブリエルの「世界」とを比較したいとも思っているので、どうなるかわかりません。すみません!
https://www.toibito.com/toibito/articles/%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%A8%E3%81%93%E3%81%A8 【11. 「もの」と「こと」】より
存在論的差異
何回か前に、将棋の話をしたのは、ハイデガーのいう「存在論的差異」の説明をしようとしたからでした。「存在」(Sein)と「存在者(物)」(Seiendes)との違いです。そこから、「存在」や「無」についてお話しようと思っていたら、例によって迷路に入りこんだというわけです。今回は、その話に一度戻って、そこから再び「存在」や「無」について考えてみたいと思います。
「存在論的差異」については、ハイデガーみたいに、もったいぶってあれこれ言わずに、ひじょうにわかりやすく説明してくれる人がいます。木村敏さんです。『時間と自己』のなかで、「こと」と「もの」という概念をつかって実に見事に説明しています。木村先生の説明を借りて、「存在論的差異」について、もろもろ探っていきましょう。
木村さんは、芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」という俳句を例にだします。この句は、まさに「こと」(「存在」の次元)を表現しているというわけです。
日本人ならばだれひとりとして、この俳句をものの世界の単なる報告文として読む人はいないだろう。ここには一つのことが隠されている。このことは、蛙の飛びこんだ古い池の水の音のあたりで生じていることかもしれないし、芭蕉の心の中で生じていることなのかもしれない。あるいは、音と芭蕉とのあいだに生じていることだというのが一番正しいかもしれない。(『時間と自己』中公新書、23頁)
われわれ日本人が使う「こと」という語は、とても不思議な単語です。この語が意味する事態は、どこにも具体的な姿を現すことはありません。われわれが確認できるのは、「もの」だけなのです。古い池の水、飛び込む蛙、水の音などの眼で見て手で触って耳で聞くことのできる「もの」たちです。ところが、それらの「もの」によって、そして、その「もの」たちが関係することによって、手で触ることも眼で見ることもできない「こと」(古池や蛙飛び込む水の音)が、たしかに「現れている」というのです。
この「こと」と同じあり方をしているのが、ハイデガーのいう「存在」ということになるでしょう。「あり方」などというおかしな言葉を使いましたが、ちょっと言葉にするのは難しいですね。それは、「存在」と「こと」とが、同じだということを表す言葉(言葉は、ものですね)がないからだと思います。言葉にはできない領域に、「こと」と「存在」は「ある」とでもいうほかありません。
木村さんは、「もの」と「こと」との関係を、最後につぎのように見事に表現します。
ことはものに現れ、ものはことを表し、ものからことが読みとれる。(同書、24頁)
「こと」が成立しているということは、だれにでも理解できる。しかし、「こと」そのものは、そのものとして表現したり、知覚したりできるものではない。表現したり知覚できるものは、すべて「もの」にすぎない。しかし、「こと」がないかぎり、「もの」も意味をもたないし、「もの」がないかぎり、「こと」はみずからを示すことができない。こういう関係だと思います。
これは、そのままハイデガーのいう「存在」と「存在者(物)」との関係にも当てはまるように思います。「存在」という次元と「存在者(物)」という具体的なものとは、明らかにちがう。同じ地平で比べることはできない隔絶したちがいです。ところが、「存在者(物)」を見て触って聞くことで、「存在」というあり方を、私たちは知ることができるし、それら「存在者(物)」とかかわることで、「存在」という概念にたどり着き、「存在とは何か」という問を、われわれは発してしまう、というわけです。
木村先生の言い方を借りれば、「存在は存在者に現れ、存在者は存在を表し、存在者から存在が読みとれる」と言えるでしょう。これはまた、われわれは、「存在者」から出発し、「存在」の次元に気づくということ、そして、「存在者」が存在できるのは、「存在」の次元があるからだとも言いかえることができる事態だと思います。難しいいい方をすれば、「認識根拠」(「存在者」)と存在根拠(「存在」)ということになるでしょう。
ハイデガー自身も、最初は、「存在論的差異」という概念で、「存在者」と「存在」の「差異」を強調していたのですが、だんだんと「存在者」と「存在」との表裏一体性とでも言えるような事態に着目していったということです。ひじょうにすぐれたハイデガー研究者である平田裕之さんは、「存在論的差異」を説明するところで、つぎのように書いています。
一九四〇年代前半からは、存在と存在者とが単に分裂し対立しているかのような印象を与えかねない「区別」や「差異」という言い方が避けられるようになり、両者の統一性を強調するために、「二重襞(Zwiefalt)」―すなわち存在と存在者との折り重なり―という言い方が好んで用いられるようになる。(『ハイデガーの知88』木田元編、新書館、131頁)
「存在」と「存在者」が、折り重なり、二重の襞をなしているというわけです。「こと」と「もの」が、おたがいをどうしても必要とするように、「存在」と「存在者」は、密接不可分の関係なのです。こう考えると、「存在論的差異」という概念も、かなり当りまえの事態を正確に指摘しているのだということがわかります。
存在は無である
さて、予告を遂行するためには、「無」にそろそろ向かわなければなりません。それでは、つぎの俳句(?)を紹介しましょう。同じく松尾芭蕉です。
閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声
ここに登場している「存在者(物)」は、蝉、岩、蝉の声でしょう。そして「存在」という「こと」は、「閑さ」ということになります。でも、何度読んでもいい句ですね。さすがです。俳人としては、与謝蕪村が一番好きなのですが、芭蕉の句は、いつ読んでも超絶技巧だなぁ、と思います。知らんがな、という感じでしょうか。
さて、まず「閑さ」が、「蝉の声」によって立ち現われるというのが、すごいですね。無音(静寂)が、有音(蝉の声)によって現れる。まさに「こと」(存在)が、「もの」(存在者)によって示唆される、しかもまったく逆の「存在者」(「もの」)によって。それでは、最初に、この蝉の声を消してみましょう。完全な無音を現出させたいと思います。「無」に近づくために、まず「無音」を手がかりにします。
しかし、まだまだ「無」にはたどり着きません。「岩」も「蝉」も存在しているからです。「存在者」がいるかぎり、「存在」がその裏面にあります。そして、それは、まさに「無音そのもの」という事態(「こと」)です。この「無音そのもの」という事態を逆側から強調するために、芭蕉は、蝉を鳴かせたのですから。
それではさらに、この視覚による風景(「岩」と「蝉」)も消してみましょう。「もの」つまり「存在者」をすべて撤去してしまうのです。すると、どうなるでしょう。「もの」(存在者)を失った「こと」(存在)だけが残るのでしょうか。もし、「こと」(存在)だけが、「もの」(存在者)がなくなっても残るのであれば、たしかに「無」という「こと」がそこには現われるでしょう。
つまり、「存在」と「無」がおなじものになるのです。「もの」(存在者)は、ほんの少しもそこにはないのですから、「こと」だけが全く内容を欠いて(空っぽの箱のように)現出するのです。この事態を、ヘーゲルは、こういいました。
純粋存在と純粋無は同じものである。(中略)だがまた、真理は、それらが区別されていないということではなく、それらは同じものではなく、それらはまったく区別されているが、だがまた分離されておらず分離できもせず、各々が直ちに各々の反対のうちに消滅するということである。(『論理の学Ⅰ 存在論』山口祐弘訳、作品社、2012年、69頁)
いま私たちは、「存在者」のいない<存在そのもの>(「純粋存在」)が、実は、<無>(「純粋無」)であるという地点まで来ました。でも、「もの」(存在者)と「こと」(存在)とは、不可分だったのではないでしょうか。さっき、私もそう書いていました。じゃあ、不可分なのであれば、「存在者」がなくなれば、「存在」も跡形もなく無くなるはずではないでしょうか。
この矛盾は、次回考えます。
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存在と無の表裏一体
前回の最後のヘーゲルの『論理の学』(『大論理学』と言われているものです)の引用について考えてみましょう。「純粋存在」と「純粋無」は同じなのだ、とヘーゲルは言います。これは、どういう意味でしょうか。
「もの」(存在するもの)によって「こと」(存在)が現れる。つまり具体的に存在するもの(机、鉛筆、人間、犬など)がなければ、「存在そのもの」は確認できないということでした。当たり前ですよね。「存在」という事態は、「存在者(物)」が満ちみちているということなんですから。「もの」が無ければ「こと」(存在そのもの)にたどり着く手がかりは全くありません。
「閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声」という何とも筆舌に尽くしがたい事態(「こと」)をわれわれが認識できるのは、岩や蝉や蝉の声を見たり聞いたりすることによってなのです。「もの」と「こと」は、決して分けることができないということになります。ハイデガーが「二重襞」といったのは、こうしたことでした。
そう考えると、ヘーゲルの言う「純粋存在」というのは、「存在」のためには、どうしても必要な「存在者」をなくして、存在そのものを純化するということになるのではないでしょうか。理想気体をつくるみたいに、不純物をなくしてしまうのです。そうしてできあがったのが、「存在そのもの」(純粋な存在)ということになります。ようするに、「純粋」なのですから「存在」だけということになります。存在者(物)のない存在、「もの」のない「こと」そのものということになるでしょう。
これは、前回おこなった思考実験の最後の段階、つまり「空っぽの箱」(しかし、「箱」も「もの」なので、こういう言い方は、本当はいけないのですが)のような状態ということになります。こうしてできあがった理想的な「純粋存在」が、実は「純粋無」だと、ヘーゲルは言うのです。これは、どういうことなのでしょうか。
「存在者(物)」のいない「存在そのもの」の透明な領域は、たしかに何だかよくわからない場所です。だって、「存在」とは言いながら、「存在しているもの」が、一つもないのですから。「存在者」のいない「存在」という場なのですから、よく理解できないのは、しょうがありません。
こういう不思議な場所ですから、たしかにこの領域を「無」と言ってもいいかもしれません。「存在しているもの」は、どこにもないのですから。ただ、「存在者」がその場所に現れる可能性はあります。何と言っても、あくまでもその場所は、「存在そのもの」(純粋存在)なのですから、いわば、存在側に偏倚している(?)のです。何かが存在する準備はできているのです。存在する可能性は、<ある>と言っていいでしょう。
物理学的にいえば、電荷をおびた物質はまだ存在していないが、空っぽな「場」として、いつでも「電場」になる用意はできているということでしょう。だからヘーゲルは、すぐに純粋存在と純粋無は、「同じものではなく、まったく区別されている」とも言うのです。純粋存在と純粋無は、「同じだけれども、同じではない」と言うのです。
まあ、言ってみれば、見た目は同じだが(まったく空虚で透明な場所)、一方は、存在者が生じる余地があるのに対して、他方は、その余地は全く無いというわけでしょう。それが「分離されておらず分離できもしない」(見た目は同じだ)けれども、「各々が直ちに各々の反対のうちに消滅する」(純粋無に偏ると完全な無になり、存在者が登場すると存在の領野が開ける)ということだと思います。
ヘーゲルは、この存在と無とのぎりぎりの境界面(あるいは接触面)を、こういう言い方で表現したのだと思います。「純粋存在」と「純粋無」は、いわば表裏一体であり、決して分離はできないけれども、しかし、表面から裏面へ、裏面から表面へと移ることはできない、つまり、表裏反対の面という、次元を異とする隔絶したあり方をしているとでも言えるでしょう。
純粋存在の方は、存在者(物)が登場すれば、それを対象化し、存在について具体的に語ることができる。しかし、裏面の純粋無は、絶対に金輪際、存在者は現れない。したがって、最初から最後まで認識も対象化も絶対にできない。ただ、われわれには、言語という面妖な道具があるので、対象化も認識もできないものなのに、言語化はできる。つまり、「純粋無」や「絶対無」と言うことはできるというわけです。つまり、ベルクソンが言ったように、「絶対無」は、言葉にすぎないのです。言葉だけの「もの」なのです。
イリヤ
この「絶対無」について話す前に、その裏面である「純粋存在」について、もう少し考えてみたいと思います。まさにこの「純粋存在」をテーマにした哲学者であるレヴィナスに触れてみたいと思います。レヴィナスは、存在者をすべてなくした「存在」の領域を、「純粋無」とは考えませんでした。
「純粋存在」は、「純粋無」ではなく、存在というあり方で<ある>(フランス語でil y a=イリヤ)というのです。この「イリヤ」は、「純粋無」の裏面というのではなく、「存在」の一番基底に<ある>のです(このフランス語の「il y a」というのは、英語でいえば「there is~,there are~」というのと同じです。「~がある」という意味です)。
レヴィナスの言い方を借りれば、光(存在者)がすべて消えてしまった闇こそが、「イリヤ」なのです。この「闇」(イリヤ)は、通常は「無」といわれるものですが、レヴィナスは、そこに「存在そのもの」(純粋存在)が残っている、つまり「存在そのもの」が<ある>と考えたのです。言いかえれば、レヴィナスの「イリヤ」は、「~がある」の「~が」がすべて消滅してしまった後に残る「ある」ということになるでしょう。再び物理学の用語を使えば、電荷をおびたものは何もないが、「場」(field)だけが<ある>ということになります。「存在者(物)」なき「存在」というわけです。
ベルクソンの『創造的進化』における無の批判に触れながら、レヴィナスは、つぎのように言います。ちょっと長いのですが、面白いところなので引用してみましょう。
ベルクソンによると、否定は、ある存在を除去することで別の存在を思考する精神の運動として積極的な意味をもっている。しかし否定は存在の全体に適用されると、もはや意味をもたないことになる。存在の全体を否定するとは、意識がある種の暗闇に沈むことだが、そこでも意識は、少なくともこの闇の作用として、この闇の意識として残存している。したがって全面的否定はありえない。無を思考することは錯覚なのだ。しかしながらベルクソンの無の批判がめざしているのは、存在者の必然性、つまり実存する「何か」の必然性の証明である。(中略)「何か」が残存しているのではなく、現前の気配があるのだ。それはもちろん事後的には一つの内容と見えるかもしれないが、もともとは非人称的で非実体的な、夜とそして<ある>の出来事なのだ。それは空虚の密度のようなもの、沈黙のつぶやきのようなものである。何もない、けれど何がしかの存在が力の場のようにしてある。闇は、たとえ何もないとしても作用するだろう実存の働きそのものなのだ。私たちが<ある>という用語を導入したのは、まさしくこの逆説的な状況を表現するためである。(E・レヴィナス『実存から実存者へ』西谷修訳、講談社学術文庫、1996年、124~125頁)
いかがでしょう。最初レヴィナスを読んだときには、この<ある>(イリヤ)がよく分からなかったのですが、ようするに、「存在者(物)」をすべて消し去った後の「存在そのもの」だと考えればいいのだと気づくと、なるほどと思いました。それがわかると、「空虚の密度」「沈黙のつぶやき」のようなものというレヴィナスの言い方も何となく腑におちます。
ハイデガーの「存在論的差異」によって析出された「存在」という概念を、もっとわれわれに身近で、われわれの基底にべたっと貼りついている<ある>という事態だと、レヴィナスは考えた(無理やり変更した?)ということでしょうか。どんなに具体的な「存在者(物)」がいなくなっても、「薄く粘っこく闇そのもののようにこの世界に貼りついているもの」が、<ある>といったイメージでしょうか。
ちょっとイメージに走りすぎですかね。次回は、西田幾多郎、そして、再びハイデガーに戻りたいと思っています。
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