「脱皮」あるいは「羽化」の人生ステージ

Facebook岡部明美さん投稿記事 「脱皮」あるいは「羽化」の人生ステージ

人には、それぞれ人生で何回か、「脱皮」あるいは「羽化」の季節があり、それが病気や、人間関係の確執、不慮の事故、倒産、リストラ、失業、失恋、離婚、愛するものとの別離の悲しみといった、様々な試練による苦しみとして表れるのだろう。

現象はそれぞれ違っても、その季節の訪れは、一様に、耐えがたい程の痛み苦しみを伴うという点では同じだ。

試練という形でやってくる脱皮の季節のメッセ-ジは、一人ひとり違うはずだから、その苦しみを自分の成長の課題として引受け、心の深いところから聞こえてくる声に耳を澄ますことが、その季節を乗り越えていく力になるのだと思う。

自分の心の最も深いところから聴こえてくる声は、実は、あの遥かなる空から聴こえてくる声と同じ声だった。

「脱皮」あるいは「羽化」の季節というのは、生きてくる中で知らずに身につけてしまった「社会的な仮面」や「鎧」を脱ぎ捨て、本来の、素のままの「自分に帰る旅」

あるいは、自分の中から新しい自分が生まれる「再誕生の季節」。でも、この再誕生には、のたうちまわるような痛みが伴う。底知れない孤独感や、自分が消滅するかもしれないという恐怖と絶望。自分の居場所がなくなってしまった淋しさ。今までの自分の在り方、生き方が否定されたような悲しみや罪悪感。大切にしてきたものがこわれていく恐怖。

自分が誰なのかが突然わからなくなってしまったような混乱。

自分の前から、歩いて行くはずだった道が忽然と消えてしまったような心細さ、不安・・・。

今まで自分を守ってくれた鎧や殻(古い自我)今までの慣れ親しんできた自分の生き方が、

どうも自分が求めていた「幸福な人生」からどんどん遠ざかっていることにある日気づいてしまう時がある。

気づいた時には、すでに人生の川の流れは変わっているのに、未知のものはこわいから無意識に抵抗して流れに抗おうとする。変わろうとする自分と、変わりたくないと抵抗する自分。

でも抵抗すればするほど、どんどん苦しみが増えていることは、自分が一番わかっている。

でも、どうしていいかわからないのだ。過去にお手本がないから。

何があるか、何が起こるかわからない新しい道に一歩踏み出すよりも、どんなに苦しくても、過去の慣れ親しんできた自分、よく知っている道を歩き続けている方がずっと楽だから。

そのくらい手放すこと、捨てること、新しい一歩を踏み出すことには苦しみが伴う。

でも、人生の新しい扉は、“自動ドア”ではなく、自分の手でしか開かない“手動ドア”だから、

一度両手につかんでいるものを手放さないと、新しい扉は開かないのだ。

続きはブログで

この人生もうしんどい

「変わろうとする自分」と「変わりたくない」と抵抗する自分の狭間で

https://okabeakemi.com/blog/?p=2772

自分は何を手放さなければならないのか、何を受け入れたらいいのか。

それがわからずに右往左往し、気づいても今度は手放すことがものすごく困難だった。

今までの自分、今までの自分のやり方、生き方、そういった過去への執着というのは、なんとすごい力なのだと思った。

振り返れば私はいつも、新しい問題に対して古いやり方で乗り越えようとしてきた。

一度それで成功すると毎回同じやり方で乗り切ろうとしてしまうのだ。

過去のやり方は、もううまく作動しないのだということにとことん気づくまで、天は私に次々に苦しみを与えてきた。

古い自分が死ななければ、新しい自分は生まれないのだということがわかるまで、私はどれだけ抵抗してきただろう。

魂のお産婆さん

今にして思えば、悪夢としか思えなかった私の病気は、実は、私の人生の大きな変容の季節だったのだ。それは、魂の目覚めの季節と言ってもいいかもしれない。

あの病気はまさに、「手放せ」「生き直せ」「本当の自分を生きなさい」というメッセージだったのだ。人は人生で何度か、自分の中から新しい自分が生まれるという自己変容「再誕生」の季節を迎える。

このプロセスはたいていの場合苦しみに満ちたひとりぼっちの孤独な心の作業だ。

でもある時、私はこんなふうに考えた。

自分がこの世に誕生した時は、その痛み、苦しみは、全部私の母が引き受けてくれたけれど、

新たな自分の誕生は自分が引き受けていくしかない痛みなのだと。

不安や恐怖や痛みの伴わない誕生はありえないのだから。

この一人ひとりの再誕生の季節は、どんなに苦しくても自分が超えていくしかないけれど、

そんな時に、“魂のお産婆さん”のような人がそばにいてくれたら、どんなに救われるだろう。

その人が自力で生まれようとしている時にやさしく見守ってくれたり、力強く励ましてくれたり、心の痛みや苦しみにそっと寄り添ってくれたり、抱きしめてくれたり、「大丈夫だよ!」と背中をポンと押してくれたり。振り返れば、私はそういう人達に出会いどれだけ助けてもらっただろう。

心惹かれるのは、目に見えない世界普通、人は、その人生において、徹底的に敗北を喫するか、死の恐怖に直面するか、失意にまみれるような極度に苦い体験をするか、深い喪失の痛み、悲しみ、底冷えのするような孤独の体験などを契機にして、魂の世界、神・仏の世界、いわゆる目に見えない世界に意識が向かいだすものだ。

人を愛さなかったら、愛を失う悲しみもない 生まれなかったら 死ぬこともない

出逢わなかったら 別れることはない 挑戦しなければ 失敗することもない

人と親密にならなければ 傷つけあうこともない 信じなければ 裏切られることもない

表現しなければ 批判されることもない 人を愛さなかったら 愛することの切なさも

愛を失うことの悲しみも味わうことはない 人生には、何一つ無駄な体験なんてないのだとわかっても、それでもやはり、自分が最も望んでいるものの裏には、自分が最も体験したくない“リスク”が背中合わせに存在している、という冷厳な事実はあまりにも厳しいし、人生は過酷だと思う。

生きていくことは、ただそれだけでものすごく大変なことじゃないか。人は生きているだけでみんなすごいじゃないって思える。子どもの頃から感じていたこの世の諸行無常 子供の頃から、私の心の深いところにあった、どうしようもない淋しさや虚しさや悲しみというのは、

「生者必滅(生まれたものは必ず死ぬ)」「会者定離(出会ったものはいつか必ず別れの時が来る)」というこの世の諸行無常を、こんな仏教の言葉も知らない幼い頃から私は感じていたのだと思う。

「氷ついてしまった感情」が溶けて流れていく先は

それでも大人になった私が今思うのは、喜びを感じるためには、悲しみも感じるという対価がいるということ。

喜びの大きさは、悲しみや苦しみの大きさに比例するということだ。

憎しみという感情さえ愛がなければ生まれないのだ。「憎しみは、凍りついた愛の感情」だと考えれば、醜い感情だなんて忌み嫌うこともないのかもしれない。

凍りついたものが溶けて流れていく先はやはり愛なのだから。

冬の凍えるような寒さの中でつらいことだけれど、人間に、人生に深さを与えるもの、人を成長させるものは、自分が絶対に経験したくないと思っていた後者の方の体験なのだ。

失敗や挫折、喪失や終焉、傷や痛み、病気や障害、崩壊や離別、敗北や絶望・・・。

文字通り、人間の最も深い苦悩「魂の闇夜」を歩くような体験の中で、人は鍛えられ、育てられていくのだ。

冬の凍えるような寒さの土中で、春や夏に咲く花の種が育っているように。

秋の紅葉さえ、冬の厳しい寒さを経なかったら、あの美しい紅葉はないのだという。真の豊かさや美しさや実りは、寒さや厳しさの中で育つものなのだという自然の法則。

存在の力、世界の姿後者の体験を避けて通ろうとすることもある程度はできるだろう。

でも、失敗したくない、いやな思いを味わいたくない、裏切られたくない、失いたくない、恥をかきたくない、笑われたくない、批判されたくない、もう傷つくのはいやと、何も挑戦せず、何も行動せず、何も表現せず、誰も愛さない人生なんて、なんの意味があるだろう。

何のために生まれたのだろうと思う。この世界は二極の世界で、すべて相反する働きと性質をもつものが、実は“ひとつ”になっているという事実。

ふたつの相反する働きをするものが、一生懸命バランスをとりながら生きようとする姿が、生命の相補性であり存在の力であり、世界の姿であること。

こういった真実を改めて自分の人生に置き換えてみると身がひきしまる思いがする。

そして、好き・嫌い、愛・憎、快・不快といった二極の感情や感覚を超えて、深い海の底のような静寂や安らぎや豊かさや歓びが、己の奥底にあることに、ただただ驚く。

生きて在ることーこの存在の神秘に心がふるえる。

死と再生の物語

2月10日に清水友邦さんとのコラボトークで質問された、「魂の暗夜」って何ですか?

という質問に清水友邦さんと私がお答えしたことを前回と今回のブログに書きました。

考えてみれば、死に直面せざるを得ない病気は、否応なく「生の本質」に向き合わざるを得なかったわけで、アイデンティティの崩壊は、まさに「死と再生の物語」でした。

「私に帰る旅」は、心の最も深いところ、つまり、私の魂の願いを聴く探求の始まりでした。

その旅路で私は同じように、「これまでの自分」「これまでの人生」が一旦破綻してしまい、

人生の迷子になってしまった人とたくさん出会いました。

本当のいのちの輝き

しかし、それぞれの人の「私に帰る旅」という探求のプロセスは、「約束された道」という人生の目的、魂の目的を知る旅への誘いであったことに皆気づいていくのです。

暗く長いトンネルを抜け出た人たちの″いのちの輝き″ほど眩しく美しいものはありません。

再生と復活への道は険しいけれど、いのちの痛みを経験した人は、生まれ変わって、本当のいのちの輝きを手に入れるのだと思います。向上心を原動力にがんばる「足し算型の成長」

私の感覚では、「自己成長」は、できること、やれること、わかることが増えていくこと、

自信がついていくこと、視野が広がること、責任を持つた生き方ができるようになること、

向上心を原動力にがんばれる足し算型の成長が自立のステージだ。

自立のステージは、一見、向上心や自己成長欲求を原動力に生きているように思えるが、

実は心の95%を占める無意識領域にアクセスしていくと、その奥には、欠落感、欠乏感、無力感、無価値観、罪悪感、分離感があることがわかる。

それを感じたくないがゆえに人は、Doingーやる・する・できる自分 Havingー知ってる、持ってる、こんだけある自分という自己価値をアイデンティティの拠り所にして登り続ける人生をやり続けるのだ。

もちろんこれは人の自然な成長のプロセスだが、ここで終わらず、気がつくといつのまにか断崖絶壁に立たされる人たちもいる。

デッドゾーンは自分一人の力では越えられないことが多いので、感性のアンテナを立てて自分に合う人のサポートを受けることも一考だ。

以前の人生がもう「前世」のような感覚

自己探求のプロセスで私は、自己成長と自己変容の違いを実感レベルで理解した。

一言で言うと、自己変容を経験した人の多くが呟く「もう以前の人生が前世のような感覚なの」と言う、まさにその感覚なのだ。

もう二度とあの頃の自分には戻れないし、戻ろうとも思わない。もうあの人生は終わったのだという感覚がはっきりある。それはそうだ。一旦破綻してしまったのだから。壊れてしまったのだから、自分の心も体も人生も、持っていたものも、キャリアもこれが自分と思っていた自己イメージも。この時期が、「魂の暗夜」であり、心理学では「デッドゾーン」と言われる人生の危機、スピリチュアル・エマージェンシーだ。

これは「過去・現在・未来」と時間は一直線に進むと思い込んでいた、旧人生システムからのジャンプなのだ。

だから生きている間に「魂の暗夜」を経験した人は、確かに苦しいけれど、実は「恩寵」なのだと私は思う。

自己変容と言っても性格や行動パターンが全く別人のようになるわけではない。欠点一つない完全無欠な人間になるわけでも、聖人君子になるわけでもない。本人自身が、自分や相手のこと、人間や人生に起こることや、この世界についての感じ方、受け止め方、見え方がもう全く変わってしまうのだ。視点、視野、視座が根本的に変わる。

生きることの「歓びの質」が決定的に変わるのだ。自立期の後のデッドゾーンの次のステージは「互恵・互敬社会」を生きる成熟した自己が、魂の目的を生きる時期だ。

真実の愛と志を生きる時期と言ってもいいかもしれない。

そして、真実のパートナーシップを生きるための関係性の成熟に向かう時期でもある。

実は、地球は今このステージにいるのだ。

個と全体は切り離されてはいない。この地球は、本当は、「相互依存ーインターディペンデント」で成り立っている世界だ。

西欧文明(日本人もマインドは西欧化している)の過去の価値観、やり方、システムでは、

もはや人類の未来はないという崖っぷちに立たされているのだから。

それについては、2月10日のコラボトークで清水友邦さんがお話しされたことを前回のブログに書いたのでお読みになっていない方はご覧ください。


コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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