Facebook能村 聡さん投稿記事
どっちが正しいか勝敗を競う討論(論破)でではなく相互尊重して聴き合うことを前提にした「対話」こそが、社会をよくするのに今必要。対話を通じて相互変容(統合)が起きる。これは妥協や取引ではない。対話を成立させるのは、あれかこれかの主張の前によき「問い」です
Faceboojk向後 善之さん投稿記事
「正しさとは何か」 髙橋明典 著 夏目書房新社
最近、「不適切にもほどがある」というテレビドラマが話題になっています。1980年代の熱血教師が2024年の現在にタイムスリップする話で、楽しんで観ています。この教師の言動は、現在の基準に照らし合わせると、パワハラ、セクハラになってしまい、まさに不適切です。1980年代は、それを「正しい」とは言わないまでも、「まあ、よくあることだし、いいんじゃない?」というノリでしたが、今はポリコレをきちんと守ることが正しいようです。
「正しさ」は、変化するのです。最近1920年代のオシャレな服を着た若い女性の写真と、戦時中の贅沢は敵だの時代のやはり若い女性の写真を見ました。あまりの違いに驚きます。1920年代には、若い人たちの間ではオシャレをすることが正しかったのではないかと想像します。今見てもかっこいいな、素敵だなと思うファッションです。でも、それからたった20年しか経っていないのに、モンペ姿が正しくなるわけです。
振り返ってみると、正しさの基準は流動的です。1980年代のサラリーマンにとっては、出過ぎずに協調することが最も正しかったわけですが、今は個人個人が成果を出す、自分の部署が他の部署より成果を出すことが最も正しいわけです。
正しさは、人によっても異なります。例えば、ネトウヨさんにはネトウヨさんの、ネトリベさんにはネトリベさんの正しさが、それぞれに存在します。
「「正しさ」とは、常に「誰かにとっての正しさ」でしかない(p.11)」のです。
そして、「誰かにとっての正しさ」は、完全に独立したものではありません。「場の力」にも影響されます。
「場の力」は個人の言動によって発生するものですが、いったんそれが発生すると、今度は逆にそこにいる個人がその「場の力」に支配されてしまったりすることがあります(p.133)。
場の力は、空気と言ってもいいでしょう。そして、日本人は、空気に影響されやすいのかもしれません。尊王攘夷が文明開花に、鬼畜米英が対米追従に、あっという間に変わってしまいましたから。
正しさが変化するものなら、変化に合わせていけばいいじゃんと考える人もいます。彼らは、「時代が変わったのだから仕方がない」「状況が変わったのだから仕方がない」と言うかもしれませんが、いやいや、それではまずいのではないか?と思います。
なぜそれが正しいのか、しっかりと考える必要があると思います。
「正しさ」とは何かと考え始めると、かなり難しい概念だということがわかります。この本はまさに、このことについて哲学的に考察しているわけで、ハーバマスとかデリダとかベイトソンとかウィトゲンシュタインとかポパーとか・・・偉人たちが正しさと奮闘してきた軌跡を示してくれています。理解するのに(理解したつもりになるのに)かなり頭をひねりました。
正しさの基準は、「時代が変わったから」「状況が変わったから」という理由でコロコロ変えるべきものではないと思います。
「正義と正しさは異なる概念(p.9)」ですし、完全な信念体系など存在しません(p.197)。
正しさは、万能な判断基準ではありません。そして、いたるところに、異なる正しさが同時に存在しているのです。
完全な正しさは存在しないのですから、僕らにできることは、「正しくあろうと努力し続けること(p.197)」だけです。
そのためには、自分と異なる正しさを持つ人たちと、対話と合意を繰り返す必要があるのでしょう。
著者は、「正しさという道具は、戦うための道具でも、勝つための道具でもなく、私たちを幸福に導くための道具(p.197)」と言います。とても大事な考え方だと思いました。
正しさが戦うための道具になると、世界は歪んでいくのでしょう。そして、その先にある最悪の事態が、例えば戦争なのでしょう。
聖書に「園の中央にある善悪を知る木から取って食べてはならない。食べると死ぬから」と書いてあります。取って食べたアダムとイブは 神を失い、楽園を追放されます。
この神話は「善悪の区分をすることは自己を神化することであり、絶対的な善悪は 存在しない」ということを語っているのではないでしょうか。
「ハートビーイング」というライフスキルプログラムがあります。その中で人に言われて 嬉しかった言葉を書き出す作業をします。
いつもと言って良いほど トップになる言葉があります。それは「ありがとう」です。
感謝の言葉が 人を癒し 愛の循環を生む力を持つことが良く分ります。
若い頃の和多志はモラリストが嫌いでした。偽善者のように思えたからです。しかし偽とは人(の)為と書くのも面白い。道徳律を押しつけられるのも嫌でした。
ひところ不登校が話題になりました。「よい子で頑張ること」が 不適応を生む大きな 要因と言われました。善い子とは 周りの大人にとって都合のよい子の呼称です。
善い子は自分の意思より 周囲の期待や価値観に応えることを優先します。
成長する中でいつの間にか自分を失っていくのです。
保育士の研修を担当していますが その方々の大多数が 善い人でなければならないという誤った信じ込みを持っています。
研修内容の一つに「~さん あなたはかけがえのない大事な方ですよ。ありのままでいいですよ。よく頑張ってきましたね」と伝えるプログラムを入れています。皆 大感激を受けます。
しかし「善い人であれ」を自分に課して 生きていくと周りからの評価を得 人生を勝ち取る大きな力になってきました。
このような 自分を縛りながら 一見人生を勝ち取ってきたかに見える厄介な信じ込み(一般的にドラィバーと呼ばれる)は氣づいても手放す(自由になる)のが困難です。
プロフィールで思春期の自分のささやかなレジスタンスぶりを紹介しました。
この頃の自分はむしろ偽悪者を目指していたのかもしれません。
虚無に目覚めた中学時代のある日から 毎日やり続けていた氣象観測もぴたりと止め、レギオン遍歴をはじめました。
授業は興味が持てないとボイコットに徹するのですが(教科担任に帰れと言われ 帰ると次回からは教室に入れないと宣告されました。クラス担任が平謝りに謝って 事なきを得たこともありました。)
試験をボイコットした時も クラス担任が自宅まで 車で迎えに来てくれました。
教科書持ち込みでいいから 追試を受けるよう言われましたが、授業が進めば そこまでの教科書は破り捨てていましたので 持ち込み用の教科書もありません。
その後はどうなったか記憶にないのですが退学届まで提出し、突き返された高校を 無事卒業してしまいました。
休み時間は職員室に入り浸りの 不思議な少女でした。教師たちには主に「生きる意味」を尋ね続けるのです。
ある理科の教師が 「命とはリトマス反応のようなものだよ」とそっけなく言い切りました。(今はわかる氣がします)
教師たちもニヒリストが多く逆に「死ぬ自由があるものとないものとどちらが幸せだと思うか?」「浦島太郎はなぜ老人になったと思うか?」などチンケナ質問をされてしまいました。
授業中はチョークを投げつける教師が自宅にまで招待してくれました。理科室、図書室はフリーパス。図書室は高校生になってからもフリーパスでした。
こんな和多志は真面目か不真面目か決められますか?
意味を問う落とし穴は 無知の底なし沼、レギオンの墓場となりました。善悪を区別してすっきりしようとする独善からようやく解放され続けています。
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