旅烏

https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/kokyo.htm 【旅烏古巣は梅になりにけり】より

(蕉翁全伝)

(たびがらす ふるすはうめに なりにけり)

 貞亨2年、43歳。画讃とする説有り。梅に烏の掛け軸でもあったか。

旅烏古巣は梅になりにけり

 『野ざらし紀行』の途次、「旅烏」の芭蕉は故郷伊賀上野で久々に心休まる正月を迎えた。その故郷の新春は梅の香の懐かしい匂いにつつまれている。


https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b07224/#:~:text=%E6%9D%BE%E5%B0%BE%E5%AE%B6%E3%81%AF%E3%80%8C%E7%84%A1%E8%B6%B3,%E3%81%B8%E5%A5%89%E5%85%AC%E3%81%AB%E4%B8%8A%E3%81%8C%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%82 【松尾芭蕉:風雅を求めて漂泊に生きた俳諧師】より

深沢 眞二 【Profile】

俳諧(はいかい)に高い詩性を付与した芭蕉。隠者の姿勢を貫き、各地を旅して多くの名句と紀行文を残した。彼の作品は、古典文学の傑作として日本のみならず世界各国で読み継がれている。能因や西行、宗祇の跡を追い、雪舟や利休の精神を継承した芭蕉の生涯を紹介する。

ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは仏籬(ぶつり)祖室の扉(とぼそ)に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労して、暫(しばら)く生涯のはかり事とさへなれば、終(つい)に無能無才にして此一筋につながる。

(ある時は武家に仕官することを願い、またある時は僧侶になろうともしたが、風や雲にも似た頼りない旅の日々にわが身を苦しめ、花や鳥の風情を味わうことに心をくだいて、やがてそれが生きる手段ともなったので、とうとう、世のために働くこともなく、俳諧というこの一筋にしばられて生きてきた)

これは、松尾芭蕉が47歳(以下、年齢は数え年)の時に書いた『幻住庵記(げんじゅうあんのき)』の一節で、自らの半生を振り返っての言葉である。要約するなら「結局、俳諧師として生きるほかはなかった」となろうか。

日本古来の和歌から派生した、複数作者が句を付けて進める文芸形式「連歌(れんが)」のうちで、滑稽な要素を詠み込む場合を「俳諧之連歌」、略して「俳諧」と言った。江戸時代前期には識字率が上がり、武士や町人の間で俳諧が流行した。

1644(寛永21)年、芭蕉は松尾家の次男として、現在の三重県伊賀市に生まれた。松尾家は「無足人(むそくにん)」階級、つまり無給だが士分に準ずる身分の家柄。しかし父はその資格を失って、伊賀上野城下に移り住んだ農民だった。芭蕉は幼名を金作、成長して宗房(むねふさ)を名乗った。10代の後半に伊賀上野城の城主・藤堂新七郎(とうどう・しんしちろう)家の台所方へ奉公に上がった。そこで若君・藤堂良忠の文芸趣味のお相手役に選ばれて宗房の名で発句(ほっく)を残したのが、俳諧作者としての経歴の出発点である。しかし俳号を「蝉吟(せんぎん)」と称した良忠は若くして亡くなり、29歳の芭蕉は江戸に移住した。

新興都市・江戸で頭角を現した俳諧師

芭蕉の青年時代には貞門(ていもん)という流派の俳諧が盛んだった。貞門は松永貞徳(京都在住の古典学者)を中心とし、和歌などの古典文学の発想を換骨奪胎(かんこつだったい)しながら、言葉遊びを主眼とする穏やかな作風の流派だった。だが、江戸に出た芭蕉を待っていたのは、西山宗因(にしやま・そういん、大坂在住の連歌師)を中心とする談林(だんりん)俳諧の流行だった。それは、『荘子』への共感を示し、謡曲のパロディーを多用し、連想語を操って空事(そらごと)を言い立て、さらには積極的に当世風俗を詠み込もうとする流儀の俳諧だった。

江戸に出た芭蕉は「桃青(とうせい)」を名乗り、上水道工事関係の事務などを勤めていたらしいが、35歳の時に職業的俳諧師として独立する。一種の人気商売で、日本橋に居を構えて句会を催し、顧客の作品を添削して句集を編むなどした。この時期に、宝井其角(たからい・きかく)・服部嵐雪(はっとり・らんせつ)・杉山杉風(すぎやま・さんぷう)といった、最期まで芭蕉を支え続けた弟子たちが入門している。

当時の芭蕉の一句を挙げよう。

実にや月 間口千金の 通り町 (『江戸通り町』所収)

(げにやつき まぐちせんきんの とおりちょう)

蘇軾(そしょく、中国・北宋の詩人)の詩「春夜」の一節「春宵一刻値千金、花に清香あり月に陰あり」を踏まえながら、「ほんにまあ、良い月だこと。間口あたり千金もする、この江戸日本橋の通り町で見る月は」と詠んでいる。「通り町」は日本橋を渡る目抜き通り。談林風の発句であり、新興都市・江戸への意気軒高な賛歌である。

旅する隠者が生んだ紀行文学の傑作

俳諧師としての名声を高めつつあった芭蕉だが、37歳の冬、隅田川東岸の深川村に突如隠居してしまう。移り住んだ庵の前に弟子が芭蕉の株を植えたので、その庵は「芭蕉庵」と呼ばれ、以後「芭蕉」の俳号も用いられるようになった。

当時は談林俳諧の流行も下火になり、俳諧文芸は混乱と変動の時期に入っていた。そうした中で、芭蕉は世間と距離を置く隠者の生活スタイルを貫くことで独自の俳諧を模索しようとした。この時期に仏頂(ぶっちょう)和尚から禅を学んでもいる。そして40代になると、盛んに旅に出て紀行文を著すようになった。紀行文と旅の履歴、芭蕉の年齢は以下の通り。

『野ざらし紀行』

1684(貞享元)年の秋から翌年の春にかけて、江戸から東海道を上って故郷の伊賀へ帰郷、さらに京・大津・尾張熱田などを巡った(41歳〜42歳)。

『鹿島詣(かしまもうで)』

1687(貞享4)年8月、月見を目的に、江戸と鹿島を往復した(44歳)。

『笈(おい)の小文』

1687(貞享4)年の冬から翌年初夏にかけて、伊賀へ帰郷してから、吉野の花(桜)を見るなど坪井杜国(つぼい・とこく)と共に近畿各地を巡った(44歳~45歳)。

『更科紀行』

1688(貞享5)年8月、越智越人(おち・えつじん)と共に名古屋をたち、信濃・更科の月を見て江戸に戻った(45歳)。

『おくのほそ道』

1689 (元禄2)年3月から9月にかけて、河西曽良(かさい・そら)と共に江戸から奥州・出羽・北陸道を巡って美濃の大垣に着いた(46歳)。 

芭蕉が晩年盛んに旅をした理由は、隠遁者の行脚(あんぎゃ)修行を目指したほかに、歌枕など古典文学上の名所・旧跡を実際に見たいという願望や、能因・西行・宗祇など先人たちの足跡を慕う心に求めることができよう。芭蕉流の俳諧を広げようとする意図もあったに違いない。

最初の紀行文『野ざらし紀行』の旅立ちに際して、芭蕉は次の発句を詠んでいる。

野ざらしを 心に風の しむ身哉

(のざらしを こころにかぜの しむみかな)

「野ざらし」とは白骨化した髑髏(どくろ)のこと。「死んで野ざらしとなることを思い描きながら旅に出ると、秋の風がひときわ身にしみる」。それでも旅することを止められないと言っている。いかんともしがたい漂泊への衝動が主題である。

最期まで西行を追慕

後に『おくのほそ道』に結実する奥州・出羽・北陸の旅を終えた後も、芭蕉は約2年間、近畿各地に滞在した。冒頭に示した『幻住庵記』はこの時期に書かれたものだ。その後江戸に戻って2年半ほど過ごしたが、1694(元禄7)年5月にまた伊賀へ帰郷。同年閏5月から7月にかけては京・大津を回り、9月には伊賀から奈良を経て大坂に向かい、大坂・御堂筋の「花屋」の貸座敷で病臥(びょうが)して、10月12日に51歳で亡くなった。死因は胃腸の病であったらしい。

芭蕉は生涯妻子を持たなかった。寿貞(じゅてい)という女性が芭蕉の愛人だったとの説もあるが、根拠に乏しい臆説である。最晩年の5年間、芭蕉の作風には、和歌や謡曲や漢詩文のみならず、禅や『荘子』などの思想にまでも理解を深めていた様子がうかがえる。そうした知見を背景に、物質的に満たされぬ清貧の状態をよしとする「侘(わ)び」、古びて枯れた情趣を尊ぶ「寂(さ)び」、古典世界の風雅な感覚を日常卑近のものごとの中に見いだす「かるみ」といった美的概念を標榜(ひょうぼう)して、門人たちを指導した。

複数作者が句を付けていく俳諧においては、連想語による「詞(ことば)付け」や、因果関係による「心付け」をなるべく退け、理屈ではなく雰囲気によって付ける「匂付け」の技法を開拓し、それを「かるみ」の境地において表現することを唱えた。芭蕉に始まる俳諧の流派を「蕉門」、その俳風を「蕉風」と言う。芭蕉の晩年には、向井去来(むかい・きょらい)・内藤丈草(ないとう・じょうそう)・森川許六(もりかわ・きょりく)・各務支考(かがみ・しこう)などが弟子となった。江戸時代中期以降、こうした蕉風は俳諧の主流となり、やがて芭蕉は俳聖として神格化されるに至った。

旅に病で 夢は枯野を かけ廻る(たびにやんで ゆめはかれのを かけまわる)

臨終間近の大坂の病床での発句。「かけ廻る」は「かけめぐる」と読まれることが多いが、当時の弟子らの記録を総合すると「かけまわる」の可能性が高い。この句は、西行の歌「津の国の難波(なにわ)の春は夢なれや芦(あし)の枯葉に風わたるなり」(『新古今和歌集』)を踏まえている。折しも季節は冬であり、大坂は「津の国の難波」の地なので、西行が詠んだ冬枯れの芦原の風景を自分も見たいと芭蕉は願っている。しかし病のためにそれは叶(かな)わず、夢魂だけが身体を脱け出して芦の枯野をかけまわるのである。芭蕉が死ぬまで西行の跡を追い続けたことを、象徴的に示す一句と言える。

深沢 眞二FUKASAWA Shinji経歴・執筆一覧を見る

日本古典文学研究者。連歌俳諧や芭蕉を主な研究対象としている。1960年、山梨県甲府市生まれ。京都大学大学院文学部博士課程単位取得退学。博士(文学)。元・和光大学表現学部教授。著書に『風雅と笑い 芭蕉叢考』(清文堂出版、2004年)、『旅する俳諧師 芭蕉叢考 二』(同、2015年)、『連句の教室 ことばを付けて遊ぶ』(平凡社、2013年)、『芭蕉のあそび』(岩波書店、2022年)など。深沢了子氏との共著に『芭蕉・蕪村 春夏秋冬を詠む 春夏編・秋冬編』(三弥井書店、2016年)、『宗因先生こんにちは:夫婦で「宗因千句」注釈(上)』(和泉書院、2019年)など。


https://ameblo.jp/seijihys/entry-12726660086.html 【「おくのほそ道」をいろいろ考える~芭蕉は武士か?農民か?】より

(三重県伊賀市 伊賀上野城)

旅がらす古巣はむめに成にけり  松尾芭蕉 (たびがらす ふるすはむめに なりにけり)

奥の細道講座では、芭蕉の出自を、農民階級の人と説明している。

ただ、普通の農民とは言っていない。「名字・帯刀」を許された農民(無足人)であり、江戸時代以前は伊賀の有力な「地侍」の家柄だった、と話す。

「無足人」については以前に書いた。

『松尾芭蕉のことを考える~無足人(むそくにん)とは何か?』

忘れずば佐夜の中山にて涼め   松尾芭蕉 (わすれずば さよのなかやまにて すずめ)

松尾家の身分は「無足人」(むそくにん)であった。無足人とは、帰農した国衆(くにしゅう)のことである。「国衆」とは「地侍」(じざむらい)のことだ。

伊賀では、越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄、関東の北条氏康などのような強大な「戦国大名」は生まれなかった。伊賀各地に小さな武家勢力が点在していたのである。

その小さな武家勢力が「国衆」であり、松尾芭蕉の家はその一族だった。

第二次天正伊賀の乱で、織田信長はほぼ「伊賀」を占領した。本能寺の変のあとは、豊臣秀吉の時代となり、伊賀には秀吉の命によって「筒井定次」が入国した。

筒井氏は奈良の仏教勢力を背景とした武家である。が、筒井氏は慶長13年(1608)に改易された。改易の理由は不明だが、有力な説は家臣の讒言によるものらしい。

筒井氏が伊賀を治めても、国衆や農民による一揆が絶えず、家臣が「妥協派」と「弾圧派」に分かれて対立した。

その内紛の実情やら、定次の悪行を、家臣が豊臣秀吉に讒言し、改易となったらしい。

そういう中で、弾圧には限界がある…、ということとなり、国衆を「無足人」として優遇した。無足人に俸禄(いわゆる給料)は出ないが、税が優遇され、公的任務が与えられ、苗字を名乗り、刀を差すことを許された。いわゆる「懐柔策」である。

ふだんは農民だが、有事の際は、戦にも参加する。国衆のプライドを尊重した策と言える。

同、慶長13年8月、筒井氏に代わって、「藤堂高虎」が伊賀に入国した。

その時、再度「無足人」の選定が行われた。農民の身分だった松尾家の芭蕉(当時は金作)が、藤堂家という大名家に仕えることが出来たのも、「無足人」という身分の家柄だったからだろう。国衆から牙を抜き、その名誉心をくすぐりながら、藩経済の負担を最小化しつつ兵力として有効活用しようという巧妙な制度でもあった。

(略)

農民と武士との間に位置付けて取り立て、藩への抵抗を弱め、藩境の防衛として軍役の一角を担わせた。と同時に農民支配の一端を担わせた。

―『天正伊賀の乱』和田裕弘・著―

こういうことは日本全国の大名の下で行われていた。

例えば、土佐の大名・山内家では、旧勢力であった長曾我部家の家臣団や地侍を「下士」(かし)として、武家の身分を認めた。

しかし、山内家の家臣は「上士」(じょうし)とし、れっきとした身分差を存在させた。

その「下士」から坂本龍馬や武市半平太などが出た。

江戸末期の資料「大和国高瀬道常年代記」によると、伊賀に「無足人」は約1500人いた、という。

関ヶ原の戦いののち、伊賀の国衆は、伊賀の地にとどまり無足人や農民になった者と、武士としての仕官を求めて他国へ散った者とに分かれた、という。松尾家は伊賀に残った一族である。掲句。「佐夜(さよ)の中山」は、静岡県にある東海道の難所であり名所。歌枕である。

古代では、箱根よりもむしろ小夜の中山こそが東国の入口であった。江戸を発ち、伊勢へと戻る「風瀑」(ふうばく)への餞別の一句。古くから歌の名所であり、西行も、年長けてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけり佐夜の中山と詠んだ「小夜の中山」を通った時に、そのことを思い出したなら、ここで一休みして、涼を入れ、一句お詠みなさい、という意味。


江戸時代になり、各国に、徳川幕府が任命した「大名」が移ってきた。大名はたくさんの家臣団を連れてきた。もともと地元にいた侍たちは大名にとって「用済み」の存在であり、農民に戻って、せっせと米を作って欲しかった。ただ、高圧的にやると、地侍の不満が募り「反乱」が起きた。反乱が多発すれば、徳川幕府から「治世能力不足」と判断され、お取り潰しにされることがあった。なので多くの大名が「懐柔策」を取った。

伊賀・伊勢を収めた藤堂藩も同様で、地侍たちを「別格農民」扱いとし、名字・帯刀を許可するなど、自尊心をくすぐりつつ懐柔した。松尾家はそういう家柄である。

なので「農民」とも言い切れないし、「武士」とも言い切れない。

「伊賀の人・松尾芭蕉」(著・北村純一)によると、芭蕉の父親は寺子屋を経営していたらしい。芭蕉の兄は長く浪人していたが、やがて藤堂藩の陪臣(家臣の家臣)の職を得た。

姉も久居藩(津藩の分藩)の武士に嫁いだ。なので「武士」と言えば「武士」だ。が、そうはっきりとは言い切れない。「無足人」が武士だとは言い切れないからだ。

芭蕉も伊賀の侍大将の跡取り息子に仕えた。

伊賀には、藤堂采女(伊賀城代)7000石、藤堂玄蕃5000石、藤堂新七郎5000石という三人の侍大将がいた。

NO2、3と言っていい新七郎家に仕えたのだからやはり武士と言っていいのだろうか。

まあただ、少なくとも芭蕉には「武士」の心があった。手紙にもたびたび「拙者」と書いている。芭蕉は武士 蕪村は町人 一茶は農民 と考えると、確かにそういう特色が、それぞれの俳句に出ている。

掲句。この句は故郷・伊賀上野の旧暦1月の作。「むめ」とは「梅」のこと。

「旅がらす」は自身の漂泊の身を例えたもの。旅がらすの自分がひさびさに故郷に戻ると、梅の盛りになっていたよ、というもの。


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