https://note.com/hiroo117/n/n633518f91a5d 【野垂れ死に】より
今日のおすすめの一冊は、帯津良一氏の「いつでも死ねる」(幻冬舎)です。その中から「凛として年を重ねる」というブログを書きました。
本書の中に『「野垂れ死に」のすすめ』というとても刺激的な一文がありました。
《理想を持って、死ぬまで進み続けて、志半ばで倒れるのが、かっこいい。》
私が「野垂れ死にがいいよ」と言うと、大抵の方は「えっ」とびっくりした顔をします。野垂れ死にだけはしたくないという人が多いようです。 ブッダも野垂れ死にだったそうです。ですから、そんなに野垂れ死にを毛嫌いしなくてもいいのではないでしょうか。ブッダにあやかって野垂れ死にをしたいという人がいてもいいと思います。
野垂れ死にというのは、今はそう簡単にはできません。体調が悪くなれば病院へ入れられますし、高齢になれば施設で過ごす人も多くなっています。私の病院では延命措置はしませんが、大抵は、機械につながれたり、からだのあちこちに管を通されて、動けなくなった中で、旅立っていくことになります。
そう考えると、野垂れ死にというのは、けっこうぜいたくな死に方といえるかも しれません。野垂れ死にするには、病院や施設に入っていてはダメだし、家でのんびりと過ごしている人にも無理です。何か志をもって、病を押してでも懸命に動いている人が、志半ばで倒れてしまうというイメージが私にはあります。
野垂れ死には、決してみっともないものではなく、逆に、かっこいい死に方だと、私は思います 野垂れ死にの覚悟をすればもっと生き方が自由になれます。いざというときのためにお金を残しておこうと考えなくてもいいし、遺書だとかエンディングノートを書いておく必要もありません。仕事に追われることもなく、一日一日を大切に生きていけるのではないでしょうか。
野垂れ死にを怖がらず、死ぬまで動き回りましょう。人間、何歳になっても、いくらでも可能性があります。 やりたいことがあれば、年齢に関係なく行動すればいいのです。理想を追って、倒れるまで進み続ける。そんな中で、やっと自分がこの世に生を享(う)けた意味がわかってくるのです。
若いうちはなかなかわからなかった人生の深い部分が、最後の瞬間に近づくにつれて、じわーっと明確になってきます。 「年だから」などと言って、楽隠居を決め込んでしまっていては、そんなエキサイティングな瞬間を手にすることはできないのです。
抜群の教養を持ち、才気煥発でありながら、絶世の美女と言われた小野小町の強烈な歌があります。「我死なば、焼くな埋むな、野にさらせ、痩せたる犬の腹肥やせ」。もし自分が死んでも、焼いたり、埋めたりしないで欲しい。野に放り出して、腹を空かせている痩せた犬にでも食わせてやってくれればよい。
「野垂れ死に」や「野にさらす」覚悟を決めるとは、感性で生きることを選択することです。頭で考えず、感情が揺さぶられるままに行動することです。現代人は、とかく頭で考えすぎです。「こんなことをしたらカッコ悪い」「まわりにどう見られるかわからないからやらない」。
きれいごとすぎると、偽善が始まります。突き抜けた時、初めて迷いを振り切ることができるのです。
今日のブログはこちらから☞人の心に灯をともす
https://www.asahi.com/articles/ASQ1R73NMQ1PONFB00M.html 【「伊賀の人・松尾芭蕉」出版 作家の北村純一氏 三重】より
日本ペンクラブ会員で作家の北村純一さん(73)=三重県名張市=が新書「伊賀の人・松尾芭蕉」(文芸春秋)を刊行した。2020年3月まで朝日新聞伊賀版に連載寄稿したエッセー「芭蕉の横顔」と続編計60編を再編集し、加筆。ふるさと・伊賀によりどころを求めた「俳聖」「芭蕉さん」の人物像を探究した。
北村さんは旧上野市(現伊賀市)生まれ。著書に「侏儒(しゅじゅ)の俳句―芥川龍之介に捧げる箴言(しんげん)集」(朝日新聞出版)、「芭蕉と其角(きかく)―四人の革命児たち」(風媒社)などがある。
新書(222ページ。税別850円)は序章「俳諧師『芭蕉』誕生前夜」など全7章構成。芭蕉は、仕えた藤堂藩重臣の嗣子が早世後、初句集「貝おほひ」をまとめ、江戸へ。武士の品格を忘れず、俳諧を探究。隠棲(いんせい)を経て、「野ざらし紀行」「奥の細道」などの旅路を歩んだ。北村さんはエピソード、心理や作風の考察を交え、こうした軌跡をたどり、芭蕉が詠んだ約80句を効果的に引用した。
第2章「野垂れ死に覚悟の旅」で、旅を愛した芭蕉の動機について、一所に住みつく執着を持たない自由で広い心を抱いたことなどを指摘。「野ざらしを心に風のしむ身かな」との決意がうかがえる句も紹介した。第3章「神様か、大山師か」は芭蕉=忍者説、女性観、グルメに言及する一方、「挫折の都度、様々な支援を得て再起し、また自分の心に忠実に、気ままな一生だった」と評した。芥川龍之介が詐欺師を意味する「大山師」と評したことについては、スケールが大きく精力的な芭蕉へのほめ言葉だったと解いた。
北村さんは「俳聖として尊敬されるまで、研鑽(けんさん)、精進した。努力の人です」とたたえる。芭蕉の顕彰に務める伊賀市の岡本栄市長は「肩ひじはらず、説諭的でなく、人間・芭蕉を描いてくれた」と歓迎している。(藤井匠)
https://books.bunshun.jp/articles/-/6890 【“忍者の里”から江戸へ、そして「奥の細道」の旅へ。俳聖「芭蕉」誕生の秘密】より
北村 純一『伊賀の人・松尾芭蕉』(北村 純一)出典 : #文春新書
松尾芭蕉は江戸深川に「芭蕉庵」と名付けた住まいを、富裕な杉山杉風をはじめとする門人や知人たちの援助により構えていました。そして、次の句を残しています。
秋十(と)せ却(かえっ)て江戸を指(さす)古郷 芭蕉
(江戸の暮らしも十年が過ぎたこの秋、郷里の伊賀へ旅立つのだが、この江戸がかえって故郷に思われることだ)
このように、第二のふるさとと詠むまでに江戸に慣れ親しんでいました。しかし、そこに定住しようとしても何か心が騒ぐ自分の性があったようです。
住(すみ)つかぬ旅のこゝろや置火燵(おきごたつ) 芭蕉
(一所に定住する気持ちが薄く、いつも旅に出たい気のはやる自分は、まるでこの置炬燵のように落ち着かないことだ)
こう詠んだ芭蕉は、生涯の大半を旅に費やしたのでした。また、その旅の多くを亡き父母の主たる年忌に合わせるなど、まるで江戸という出稼ぎ地から戻るように、故郷の伊賀に頻繁に帰っていました。さらに、江戸へ出る前に伊賀で仕えていた主家の藤堂家とは、江戸藩邸に門人の藩士がいたこともあり、交誼が絶えることがなかったのです。そして、旅の軌跡を追えば、俳諧活動の中心だった中京・関西圏にあって、伊賀が地理的にその中心に位置するだけではなく、心の本拠、拠り所であったことがわかります。
芭蕉は江戸ではなく伊賀の人として俳諧人生を全うした、と表現するのが正確だと思われます。本書のタイトルを「伊賀の人・松尾芭蕉」とした所以です。
さて、本論に入る前に、俳諧が生まれるまでの歴史をざっと振り返ってみます。
俳諧は、身分を問わず老若男女が参加できたため、江戸時代に最も親しまれた文芸でした。しかし、あくまで第二級の「俗」の文芸としてです。現在でこそ俳句や短歌、詩に文学としてのランク付けはありませんが、当時は誰もが、俳諧を和歌の下位にみて疑わなかったのです。
対等であるべきと考え精進していたのは、蕉門など少数でした。この差別意識の起因はどこにあるのでしょうか。
和歌は「勅撰和歌集」を頂点とする朝廷と貴族の「雅」の文芸で、滑稽味のある和歌は「誹(俳)諧歌」と呼ばれ『古今和歌集』に載っています。
「和歌の子」「俳諧の母」とされ、俳諧へ橋渡しをしたのが「連歌」です。しかし、平安から鎌倉時代は和歌の余興に過ぎず、南北朝から室町時代にかけて最盛期を迎えます。公卿の二条良基がルールブックとして「応安式目」を制定したことで文芸的地位が高まり、『新撰菟玖波集』で有名な飯尾宗祇が純正連歌の正風を完成させるにいたって、「雅」の地位を確立します。ただし、優美な「有心連歌」が正統とされ、滑稽な「無心連歌」(俳諧体)は異端視されました。
その「連歌」も式目の束縛を受けて衰退し、代わって登場したのが、「無心連歌」の系統を引く「俳諧連歌(俳諧)」です。室町後期の山崎宗鑑、荒木田守武という先駆者により礎が築かれ、江戸時代になって松永貞徳の貞門、西山宗因の談林へと展開します。その後、悪ふざけの談林が、言語遊戯にとどまる貞門を圧倒したものの、宗因の連歌への逆行や井原西鶴の浮世草子への転向により、拡散・衰微していきました。
そこへ登場したのが芭蕉です。格調高い貞門派の北村季吟のもと、上級武士の傍らで出発した芭蕉は、やがて談林へと傾倒していきます。しかし、その悲願は、談林派のような町人の旦那衆の遊び芸を担う俳諧師にとどまることなく、彼らとは一線を画し、「俗」の文芸だった俳諧を和歌の地位まで高めることでした。「雅」と「俗」の対立から歩を進め、両者の総合に努めたのです。
日本の文芸は二つの心情の系譜を持ちます。悲惨な人生を嘆き悲しむ和歌の主軸「あはれ」と、笑いで悲惨な人生に対峙する俳諧の主軸「をかし」です。悪ふざけではない本来の知的な機知や諧謔の笑いは決して卑下されるものではありません。したがって、本来俳諧と和歌は兄弟と言ってよいはずですが、俳諧は和歌と対等なものとしては認知されませんでした。何故か。母体の連歌が和歌の余興から出発したことや、初期の俳諧が幼稚な滑稽詩だったこと、さらに貞門・談林俳諧が和歌など古典のもじりに終始する低級な言語遊戯だったこと、そして点取俳諧という堕落、連句が一座の遊びの文芸として過小評価されたことなど、様々な理由があります。
連句からその発句が独立し、正岡子規の命名で俳句と呼ばれる時代になって評価は高まったものの、戦後は「第二芸術」として痛烈に批判されました。それでも不思議なことに、俳句は文芸の一ジャンルとして決して揺るぎません。なぜでしょうか。俳句には、その高い詩精神への畏敬がやまない芭蕉のDNAが今も脈々と流れていることを、誰もが感じ取るからだと思われます。芭蕉なくば、俳句は今も和歌の庶子的な屈辱に甘んじているかもしれません。
俳諧にはこのような時代背景があります。それではこれから「俳聖」と称えられる芭蕉の真の素顔と旅の足跡を見ていきましょう。
https://enokidoblog.net/talk/2022/08/58128 【松尾芭蕉を、より深く理解するための一冊・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2670)】】より
閑話休題、『伊賀の人・松尾芭蕉』(北村純一著、文春新書)は、松尾芭蕉を、より深く理解するための一冊です。
●芭蕉と木曽義仲
「<義仲の寝覚の山か月かなし>(義仲が真夜中に目を覚まし月を眺めた山かと思うと、月が何と物悲しく見えることよ)。芭蕉の出自である松尾家は、織田信長の伊賀攻めで殲滅された伊賀の地侍だった。当時は土豪懐柔策で無足人と言われる郷士だったが、いわば敗残者の一族である。源氏の敗残者たるこの義仲や義経に共感を抱いても不思議はない。芭蕉は義仲のお墓の隣に自分を埋葬するよう遺言した」。
「<むざんやな甲の下のきりぎりす>。この句は、『奥の細道』の旅で芭蕉が多太神社を訪れたときに詠まれた。句の背景には、斎藤別当実盛と義仲との戦がある」。
●芭蕉と明智光秀
「『奥の細道』の旅を終えた芭蕉が、伊勢の遷宮参詣の折、門人・島崎又玄宅に止宿した。・・・(又玄は)御師同業者間の競争に敗れて、困窮していた。それでも又玄の妻は精いっぱいもてなしたという。感激した芭蕉は、この夫婦を励まそうと次の句を贈った、<月さびよ明智が妻の咄しせん>(月よ、もっとさびれた味わいで照らしておくれ。健気な明智の妻の話をしようではないか)。その話とは、明智光秀が出世する前の伝説のことを指す。光秀には出世の手段でもある連歌会を催すお金がなくて、客人に膳の用意もままならない。健気な妻・熙子は、自分の黒髪を売ってその料とした。光秀は妻への報恩を心に決め、出世の後も終生妻へのいたわりを欠かなかったという」。
「芭蕉は、非業の死を遂げた木曽義仲や源義経などの判官びいきであったし、詩歌を愛した光秀だからその思い入れもなおさらだ。芭蕉が人々に愛される理由の一つが、秀吉ではなく光秀を詠んだ、この敗者への暖かい眼差しにある」。
●芭蕉と正岡子規、芥川龍之介
「(芭蕉を神と崇める人々がいる一方で)それは虚像であると異を唱える猛者たちが現れる。相手は俳聖・神様だが、勇気をもってけなした。まず正岡子規がその一人だ。芭蕉の句の過半を『悪句駄句』と論じた。芥川龍之介も『続芭蕉雑記』に『禅坊主は度たび褒める代りに貶す言葉を使うものである。・・・彼は実に日本の生んだ三百年前の大山師だった』と記す。たが、二人とも芭蕉を尊敬するファンだった。愛情の裏返しだ。事実、子規は芭蕉が他の追随を許さないのは雄渾豪壮さだと讃えてもいる」。
●芭蕉と虚構
「俳諧というのは『上手に迂詐(うそ)をつく事なり』。蕉門の論客・支考が書き留めた芭蕉の言葉だ。創作に必須の虚構を、あえて『うそ』と言って意表を突いた。そもそも創作とは独創的に表現することで、事実の羅列ではなく、虚実のないまぜによって、事実を超える高い芸術性を得ることをいう。芭蕉も事実を言葉に変える、単なる写生の徒ではない。恣意は嫌ったが、作意そのものは重んじた。より高い詩性を求め美しいうそをついたのだ」。
「作り事と解るような虚構ではない。事実を超えて、事実よりも生き生きとした感動を読み手に約束する、『詩的真実』がある。高い芸術性を求めて、推敲を重ねた芭蕉のたゆまざる精神力の賜といえる。芭蕉の力量は。この推敲に耐えられる精神力の強さの謂いなのだ。『奥の細道』にも好例がある。『奥の細道』は単なる旅日記ではない。フィクションやデフォルメにより、優れた芸術作品になっている」。
0コメント