芭蕉の技法

芭蕉の技法

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芭蕉の技法「しずかさ」 芭蕉の句は名句ばかりである。その中で特に名句と私が考える句は次の三句である。その三句にはそれほど目立たないが共通の技法が隠されている。


https://haiku-textbook.com/shizukasaya/ 【【閑さや岩にしみ入る蝉の声】俳句の季語や意味・表現技法・作者など徹底解説!!】より

俳句は日本古来から伝わる、伝統的な表現方法の1つとして、現代になっても多くの人たちに親しまれています。

これまでに数多くの俳句が俳人により詠まれており、たくさんの作品があります。

その中でも「閑さや岩にしみ入る蝉の声」は、馴染み深く、一度は耳にしたことがあるでしょう。

作者はどのような背景で句を詠んだのか、またこの俳句を口ずさんだ時の心情はどのようなものだったのでしょうか?

今回は、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者について徹底解説していきますのでぜひ参考にしてみてください。

「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の季語や意味・詠まれた背景

閑さや 岩にしみ入る 蝉の声

(読み方:しずかさや いわにしみいる せみのこえ)

という俳句を、みなさんはご存知でしょうか?

こちらは、日本を代表する俳人「松尾芭蕉」が詠んだ俳句です。

それでは、早速こちらの俳句について詳しく解説していきます。

季語

こちらの俳句に含まれている季語は「蝉」で、夏の季語(夏を表現する言葉)です。

また、曾良の日記では芭蕉が旧暦の5月27日にこの句を詠んだことが記載されています。

参考までに、グレゴリオ暦(現在の暦)で見ると5月27日は7月13日に当たり、夏であることが分かります。

松尾芭蕉が詠んだセミには、「アブラゼミ(斎藤茂吉説)」「ニイニイゼミ(小宮豊隆説)」の2説があり、一時期セミの種類を巡って論争になりました。

結局は、実地調査によりニイニイゼミであることが分かっています。

意味

この俳句の意味は、以下の通りです。

「なんて静かなのだろう。石にしみ入るように蝉が鳴いている。」

蝉の鳴き声がうるさいのに、どうして芭蕉は「閑かさや」と感じたのかという部分が不思議です。

しかし、何度か口ずさんでみると、騒がしい蝉の声を忘れてしまうほどの閑かな山奥で詠まれていることを感じます。

さらに、芭蕉自身がこの世とは思えない、とても静寂な空間に引き込まれて行く様子が感じ取れます。

何も聞こえない無の世界、つまり芭蕉が己の心の中を見つめているのであろうとこの句から推察します。

それほどの無の境地の中で、芭蕉は何を考えていたのでしょう。

この句が詠まれた背景

芭蕉は1689年から門人の曽良と共に、江戸を出発し旅に出ます。

(芭蕉(左)と曾良(右) 出典:Wikipedia)

その旅は、150日間をかけて東北・北陸・関東地方を周遊するとても長いもの。芭蕉は旅の途中で見た情景や心情を数多くの俳句として残しています。

こちらの句も芭蕉が、山形県にある立正寺に立ち寄った時に詠んだものです。

この長い旅の間に詠んだ句を集めた作品が、有名な「奥の細道」です。

その中でも「閑さや岩にしみ入る蝉の声」は、非常に優れた作品として親しまれています。

「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の表現技法

この句で使われている表現技法は・・・

閑かさやの部分の初句切れ

岩にしみ入る蝉の声の部分の暗喩

蝉の声の部分の体言止め

の3つです。

閑かさやの部分の初句切れ

まず、閑かさやの部分にみられる初句切れ(切れ字)は、余韻を表現する技法です。

初句切れにすることで俳句に「余韻ができリズムが生まれます。

つまり「閑だなあ・・・・・・・」ということ。その後「岩にしみ入る蝉の声」と続き、余韻の中で味わう蝉の声をしっかり感じさせてくれます。

岩にしみ入る蝉の声の部分の暗喩

暗喩法とは「まるで〜のような」と比喩する文章表現方法です。

この技法を使うことにより、詠んでいる状況や気持ちをイメージしやすくなります。

蝉の声の部分の体言止め

下句に体言止めを入れることで、俳句のインパクトが強くなります。

「石にしみ入る」ほどの声で蝉が鳴いていると表現されているため、「閑さや」という部分に矛盾を感じます。

この部分が、この俳句を解読する際の重要ポイントです。

芭蕉は「暗喩」の技法を用いて、精神的な「閑さや」を表現しています。

芭蕉がこの句を詠んだ山形県立正寺は、森深い静かな場所にある寺院。蝉が鳴くと山に反響し、こだまとなって戻って来ます。

つまり、蝉の声がこだまとなり戻ってくるほどに、立正寺はとても閑かな場所にあるわけです。

そのような俗世の騒がしさから離れた、異次元の閑かな世界に心が吸い込まれて行く様子をこの句では表現しています。

作者「松尾芭蕉」の生涯を簡単に紹介!

(松尾芭蕉 出典:Wikipedia)

この句を書いたのは、有名な俳人である松尾芭蕉です。

松尾芭蕉は、1644年に三重県伊賀市(当時の伊賀国)で生まれました。本名は松尾宗房。松尾芭蕉という名は、俳号になります。

芭蕉の実家は、平氏の末流に当たる血筋でしたが、身分は農民に過ぎませんでした。13歳の時に父が亡くなり、兄が家督を相続。しかし、決して生活は楽ではなかったと言われています。

18歳の時に藤原良忠という人と主従関係を結び、小間使いとして働き始めます。この藤原良忠は俳句を詠むのがうまく、芭蕉が俳諧の世界に足を踏み入れるきっかけとなりました。

同じ年に主人藤原良忠と一緒に北村季吟の元に弟子入りをして、本格的に俳句の道を進んで行きます。しかし、24歳の時に藤原良忠が亡くなるという不遇の出来事が起こりました。これにより、芭蕉は俳人として一生を生きて行こうと決めたのです。

その後、京都ではちょっとした有名人となり、江戸に上京することを決意しました。ですが土地柄が変われば、芭蕉を知る人は全くいなく、いろいろと苦労をしたようです。

ようやく江戸で認知されるようになった頃に芭蕉は俗世に嫌気がさし、旅に出て俳句を詠むことを決意しました。これが、奥の細道の誕生となります。

松尾芭蕉は、このように俳句の世界で生き、食中毒または赤痢により50歳でこの世を去りました。

松尾芭蕉のそのほかの俳句

(「奥の細道」結びの地 出典:Wikipedia)

「古池や 蛙(かわず)飛び込む 水の音」

「夏草や 兵どもが 夢の跡」

「五月雨をあつめて早し最上川」

「荒海や 佐渡に横たふ 天の河」

「旅に病(やん)で 夢は枯野を かけ廻(めぐ)る」

「名月や 池をめぐりて 夜もすがら」

「秋深き 隣は何を する人ぞ」

「行く春や 鳥啼き魚の 目は涙」

「草臥れて 宿借るころや 藤の花」


https://note.com/wakajitsu/n/n72cb3637f005 【松尾芭蕉がヤベぇ】より

みんな、松尾芭蕉さんって知ってる?すっげえエモいリリックを書く偉人なんだけど、この人がとにかくヤバい。みんなたぶん、授業とかでなんとなく習ったことはあると思うんだけど、句を深く知れば知るほどヤベぇの。

松尾芭蕉の名トラックとして知られてるこの句  古池や 蛙飛び込む 水の音

これがマジヤベぇから、いまからそのヤバさについて説明するね。

古池や 蛙飛び込む 水の音

これだけで、読み手の心に情景を思い浮かばせるのがヤベぇ。

俳句って17文字しかないのよ。たった17文字なのに、池があって、そこに飛び込むカエルの音が周囲に響いてる景色が想像できるのよ。ヤベぇ。

蛙が飛び込む音が響くくらいだから、周りもすげえ静かなんだろうな。

なに、17文字で聴覚まで操んの?ヤバくねえ?

Twitter何文字か知ってる?140文字。140文字もかけるのに、全然思ってること伝わらないじゃない。

「それは意味を履き違えてるのでは?」みたいなクソリプがバンバン飛んでくるじゃない。履き違えてねえわ。

Twitterですら苦しいのに、それよりもはるかに少ない17文字で、風景をビシッと切り取ってる松尾芭蕉さんパネェ。

シンプルなのがヤベぇ

この句、パッと見でわかるとおり、めちゃくちゃシンプルなの。

普通こんな景色見たら「うわ、エッモ……」ってなるし、その気持ちを伝えたくなるじゃない?

『古池や 蛙飛び込み エモエモのエモ』みたいな。句に自分の思いを込めたくなるよね。

芭蕉さん、込めねえんだ。

ただ古池に蛙が飛び込んで、音がしましたよ。しか言ってねえの。すげえシンプル。

でも伝わるんだよ。エモさとか、どんな思いでその景色を見てるのかとか、しっかり伝わるのよ。

なんなら芭蕉さんは、少し暖かい春の陽の下で、古池のほとりにある岩に腰掛けて休憩しながらその蛙を見てるんだろうなあ……みたいな背景も浮かぶんだ。たった17文字で。

マジすげえよ。

蛙の使い方がヤベぇ

芭蕉さん、蛙の使い方がヤベぇの。

みんながもし蛙を使って俳句を作るとしたら、どんな風に書く?1回考えてみて。

鳴き声使うっしょ?

梅雨の中アマガエルがゲロゲロ鳴く姿とか、夜に人通りの無い道でウシガエルだけがブオーブオーと合唱してる姿とかを描くと思うんだ。蛙って、鳴き声の印象がすげえ強いんだよ。

ところがどっこい。芭蕉さん、蛙を池に飛び込ませるだけなの。鳴かせないんだ。

……マジすごくない?

この句で『蛙=鳴く』という表現の固定概念をぶっ壊したのよね。まさに俳句界のデストロイヤー。俳句レボリューション。

結論、俳句すげえ面白い

俺はいままでこの俳句、ぶっちゃけ何がいいのかわからなかったんだ。授業で習って、なんとなく知ってただけ。でも背景とか、句の作り方とかを知ると、めちゃくちゃ面白く感じたんよ。もっといろんな句を読んでみたいって思ったね。

……まあ、今回紹介した芭蕉さんの俳句のすごいところは、ぶっちゃけ俺が気づいたんじゃなくて、下の本に書いてあったんだ。

NHK俳句 作句力をアップ 名句徹底鑑賞ドリル

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この本すげえ面白いから、手にとって読んでみて。

じゃ、いまからおくの細道の聖地巡礼してくるわ。

バイビー


https://mag.nhk-book.co.jp/article/18790 【妖(あやかし)の季語をつかった俳句 —— 俳句と映像【NHK俳句】】より

 2022年度『NHK俳句』の講座「俳句と映像」で講師を務めるのは高柳克弘(たかやなぎ・かつひろ)さん※。番組では、動画をもとに、遠隔地の風景から俳句を作ってみるという、コロナ禍の時代に即した試みをします。12月号の兼題は「狸」。狸、狐、雪女など妖の季語をつかった句をご紹介。

 雪深い冬は、狩りの季節です。次のような句には、狩りの対象としての狸が詠まれています。  

鞠まりのごとく狸おちけり射とめたる  

原はら  石鼎せきてい

吊つるされて足を揃そろへし狸かな

清崎きよさき  敏郎としお

罠わなありと狸に読めぬ札吊れり

村上むらかみ  杏史きょうし 

 石鼎の句は、撃たれて地面に落ちたときの様子を、鞠に譬たとえています。わずかに弾んだのでしょう。無残な光景を、鞠が跳ねる華やかなさまに譬えたことに意表を突かれます。敏郎の句では、吊るされた狸がきれいに足を揃えているところが物悲しさを誘います。脚が短い狸の特徴も、よく押さえられていますね。杏史の句は、狸罠を詠んでいます。人間が間違って近づかないように札を掛けているのですが、当然、狸には読めません。当たり前のことを真面目に言っているところがユーモラスであり、人間に知恵ではかなわない獣の哀れも感じられます。

 

 狩りの対象になったあとには、毛皮をとられたり、汁にされたりします。

狸汁座中の一人ふと消えぬ

佐藤さとう 紅緑こうろく

 実際には、宴の輪の中から、誰かが中座したというだけなのでしょうが、まるで化かされた気持ちになります。「狸汁」であるからこそ、そんな幻想がふっと湧くのですね。

 

 「狸」という季語の特徴は、物語のキャラクターとしても愛されているという点です。人間を化かしたり、腹鼓を打ったりといった、現実離れした姿で物語に登場します。民話の「かちかち山」や「文福茶釜」、現代のアニメ映画「平成狸合戦ぽんぽこ」など、狸が活躍する物語は古今に数多あります。俳句の中でも、怪異として縦横に跋扈ばっこします。

稲刈りて地蔵に化ける狸かな

正岡まさおか  子規しき

 稲刈りのすんだ村にやってきた狸。地蔵に化けて、収穫を狙っているのかもしれません。童話の一場面のようです。

枯野原汽車に化けたる狸あり

夏目なつめ  漱石そうせき

 狸が汽車に化けるという、明治時代に生まれた偽汽車の説話を踏まえたものでしょう。漱石には『夢十夜』という、幻想性の強い小説がありますが、句作の上でもときに、こうした現実を離れた空想の世界に遊んでいます。

かりくらの月に腹うつ狸かな

飯田いいだ  蛇笏だこつ

 「かりくら」とは、狩り場のこと。人間は、狸を獲ってやろうと狙っているのですが、当の狸は、のんきに月見をして腹鼓を打っています。捕まえられるものなら捕まえてみろと、挑発しているようです。

 

 十七世紀半ば以降、博物学の発展によって、生物を物語としてではなく視覚で捉えるようになったと哲学者ミシェル・フーコーは言っていますが(『言葉と物』)、目には見えない仮想の世界も、俳句の中には豊かに温存されています。これらの愉快な化け狸の句は、そのことの証拠です。

 歳時記の中には、たとえば「狐火」(冬)といったような怪異の季語を見出すことが出来ます。

狐火や髑髏どくろに雨のたまる夜に

蕪村ぶそん

 野末で死んだ者の「髑髏」に、おりからの雨がひたひたと溜まっています。そのかたわらに、狐が吐くといわれる「狐火」がちらついています。雨の中に見えているというのですから、現実ではありえない灯火であり、なんともおどろおどろしい風景です。蕪村は怪異に関心が強く、妖怪の絵もたくさん残しています。

 

 蕪村の巧いところは、怪奇趣味の句においても、しっかり描写を忘れないことです。「髑髏に雨のたまる」は、野ざらしの髑髏の描写として、たいへん生々しいですね。怪異の句は、作り事だと読者に見抜かれないようにする必要があります。虚構であっても、いかにもありそうな、ひとつの映像として示すわけですね。もう一句、蕪村の「狐火」の作を紹介しましょう。

狐火の燃えつくばかり枯尾花 

蕪村

 枯れた芒に、狐火が燃え移りそうだというのです。「見てきたような噓」とはこのことでしょう。

 怪異の季語としては、「雪女」(冬)もあります。「雪女」は天文の季語なのですが、やはり字面から妖怪としての「雪女」が連想され、俳人の創作意欲をかきたててきました。

筓こうがいは白骨作り雪女

鈴木すずき  真砂女まさじょ

雪女見しより瘧おこりをさまらず

眞鍋まなべ  呉夫くれお(※)

 真砂女の句は、「筓」という装いに着目して、本当に雪女を見てきたかのようです。雪女は好きになった男を氷漬けにしてしまうという伝承もありますから、この「白骨」は、殺した男のものなのかもしれません。ぞっとしますね。その名も『雪女』というタイトルの句集も持つ作家の呉夫(※)は、「雪女」という季語に執着しました。「震」ではなく「瘧」であることがその恐ろしさを物語っています。

 

 近現代の俳句は「写生」を基調としますが、現実的な句ばかりでは痩せてします。今よりも人間が自然の驚異を生々しく感じていた時代の記憶が、季語には封じられています。それもまた、俳句の世界の奥行となっているのです。

 ※眞鍋呉夫さんの「呉」は、正しくは旧字体です。

選者の一句

子と待つや檻おりの狸の腹鼓

克弘

高柳克弘さん

選者

高柳克弘(たかやなぎ・かつひろ)

1980年、静岡県浜松市生まれ。藤田湘子(ふじた・しょうし)に師事。「鷹」編集長。句集に『未踏』『寒林』、著書に『NHK俳句 作句力をアップ 名句徹底鑑賞ドリル』『別冊NHK俳句 脳活!まいにち俳句パズル』シリーズなど多数。

※高柳さんの「高」の字は、正しくは「はしごだか」です。


https://mag.nhk-book.co.jp/tag/%e4%bf%b3%e5%8f%a5  【俳句】



コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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