『精紳医学と俳句』

http://www.ucatv.ne.jp/~hotoku/bunnoshin/yorozu_jyobun1.htm 【第一版序文

平畑富次郎という巨人】より

平畑静塔が俳人であったばかりでなく、また精神科医でもあったということは、静塔のそばにいて40年ちかくの日々を過ごした私にとっては、一つの驚異であった。「そんなこと、医者を生業とした俳人がいてもおかしくは無かろう」と考える向きがあるやも知れぬが、それならば、静塔が俳句の世界においてまさに静塔であると同時に、精神科の世界でも平畑富次郎といえば、一つの巨人であったことを医学の道での弟子であった私は述べておかねばなるまい。カール・ヤスパースは「精神医学は窮極の難問題をも取り扱うものである。一つの学問は完全に理解されるのでなければ、即ち中心的問題において理解されるのでなければ、全く分からぬ…」と述べている。恐らくこの言葉は、俳句の世界について言っても正しいことであろう。すると、いかにして静塔が同時に富次郎として二つのこの難しい世界を「完全に理解」したかが、大いなる疑問として立ち顕われる。私の考えるところ、これには平畑の天才を支えた気質の働きが大いにある。少年時代には餓鬼大将だったというのは、あるいは京大事件にまで繋がる一つの気質的表現形だったのかもしれない。しかし、他方、山口誓子は「相見ざること久しかった君は、沈鬱の人として私の前に現れた」と書いている。その後静塔が、突然精神科教授の職をなげうって宇都宮へ来、この地で病院長として難題に対処したことなどを勘案すると、私は、静塔が本来の躁的気質を意志の力で押さえ込みつつ、時にそれを開放して生きてきた様に思えてならないのである。その押さえ込みは静塔に、鬱的な気分への理解を自由にさせたものと思われ、例えば次の句

足袋の底記憶の嶽を踏むごとし

しかし、精神科の常識としてそのような気分のコントロールが可能かと言うと、それは普通はないことであるが、静塔の昔話を聞く限りにおいては京大事件で獄中にあったとき、また戦中戦後の死と直面していたとき、静塔が寧ろ淡々とし、あるいは飄々としていたようであることを知れば、静塔に有ってはそのようなことが割合に簡単であったとしか考えられないのである。言いかえれば、常人に難しい、このような自分の気質に隷属するのではなく、己の性格とも自由に付き合えることこそ、病跡学で言うところの「天才」というものなのである。且つ又、静塔が極めた二つの道が、俳句と精神医学であったということも、静塔の才能には幸いしたのではなかろうか。精神医学は、理論を持って患者を診るに加えて、人間洞察の直観を、ある種隠し味の如く足さねばならぬ。静塔の俳句は直感的洞察力に加えて、やはり理論と言わねばならぬようなものが一味足されていた様に、実作のもととなったさまざまな体験を共にした私は思うのである。もしそうであったなら、静塔にとって精神医学と俳句は写真の陽画と陰画の関係にあったということになろう。

黒染めを脱ぐべき上り鮭となる

この鮭とは平畑静塔その人であったようにも、私には思えるのである。


http://www.arsvi.com/b2000/0811ib.htm 【『精紳医学と俳句』】より

石川 文之進 20081115 幻冬舎ルネッサンス,584p.

■石川 文之進 20081115 『精紳医学と俳句』,幻冬舎ルネッサンス,584p. ISBN-10: 4779003709 ISBN-13: 978-4779003707 \1890 [amazon]/[kinokuniya] ※ m

■内容

 報徳会宇都宮病院の精神科医療の変遷を通じて、病院の創設期に迎えた初代病院長平畑富次郎(静塔)と石川文之進の40年間に渡る交誼が、およそ350句の静塔俳句の世界を縁として描かれている。静塔を師と仰ぎ父と慕った石川文之進が解明していく平畑静塔の実像は、科学者として文学者として多種多用な人間味がにじみ出て、静塔実存俳句の真髄が読み取れる。

(「BOOK」データベースより)

昭和の大俳人平畑静塔の実像と後姿。「静塔の医道と俳句は写真の陽画と陰画の関係にあった」40年間静塔に師事した著者が畏敬を持って静塔を語り明かす。

■目次

I 鳥銜へ去りぬ(思い出の名句)

II 山高の案山子(苦悩)

III 黙し征く(戦争・戦後)

IV 天辺に紅葉(故郷)

V 平畑靜塔と斎藤茂吉

VI まだ他国者(下野・関東)

VII 八朔や(奥州・漁歌)

VIII 夜はしらたま

IX 壺国

■言及

◆立岩 真也 2011/05/01 「社会派の行き先・7――連載 66」,『現代思想』39-7(2011-5):8-20 資料

◆宇都宮病院事件・廣瀬裁判資料集編集委員会 編 20081031 『都宮病院事件・廣瀬裁判資料集』,発行:宇都宮病院事件・廣瀬裁判資料集編集委員会,197p. 1000 連絡先:東京都東久留米市東本町14-7 滝ビル1F グッドライフ気付 荻久保 ※ m.

 「まず石川文之進という人(一九二五~)――著書に『アルコール症――病院精神医学の40年』(石川[2003])と―『精紳医学と俳句』(石川[2008])がある――および東京大学の関係死者たちはこの報告書では次のように記される。

 「石川文之進は内科医から精神科医に「転身」していく際に、東京大学精神医学教室の秋元波留夫教授(当時)に近づき、同教室の武中信義医師から精神科医としての指導を受けた。宇都宮病院と東大との関係はこのときに始まる。

 宇都宮病院と東大との関係はキブ・アンド・テイクと言える。宇都宮病院側からすると、東大の医師の名を借りることによって病院の権威付けをすることができる。東大の医師の側からすると、短期間のディスカッション(通常の病院では複数の医師らが患者の診断や治療について一定の方針を出すもの。宇都宮病院ではこれと異なり、ビールを飲みながら不真面目に患者さんの人格への誹謗を繰り返すだけのもの)に関わるだけで多額の謝礼を受け取れる。入院患者を「研究材料」として提供されたり、宇都宮病院を実験の場として事実上の人体実験を行った者もあった。宇都宮病院では無届けの解剖が多数行われており、それによって得られた脳を送られていた者もいる。

 宇都宮病院に関係した東大の医師は多数にのほるが、反省の弁を述べている者はごくわずかである。その中には大学の教授になっている者も多い。今なお宇都宮病院と共同で研究している人もいる。上記の武村は事件発覚時は東大脳研究所の助教授であったが、東大の中で追及の声があがったため、宇都宮病院に逃げ込み、長く常勤医として宇都宮病院に勤めた。」(編集委員会編[2008:7])」


http://www.arsvi.com/1900/840920utsh.htm 【「7.29集会抗議要求の回答」

医療法人報徳会宇都宮病院長 平畑 富次郎 19840920】より

7.29集会抗議要求の回答

 去る7月29日の貴会の集会抗議と要求について回答します。

 現在、新院長平畑以下新体制のもと、一億専心、患者の人権擁護と早期治療退院を最優先に、併せて医療体制のもと、一億専心、患者の人権擁護と早期治療退院を最優先に、併せて医療体制の■進的整備確立のため日夜努力を重ねているところでありますが、以下宇都宮病院の改善目標と現況、域は向後の見通しについて挙げます。

1.患者の人権擁護

 患者の人権を尊重・擁護することは言を俟たないところでありますが、改善点挙げれば、

(1).入院決定については、その要否の判断は慎重に、同意者が親権者以外の場合は必ず裁判所の選任を受けております。

(2).日常の面会については、

ア.開放病棟では、面会場所の指定もなく自由

イ.閉鎖病棟では、設定された面会所ではありますが、病棟側からの立会もなく個人の自由と秘密等は護られています。

ウ.通信の自由も、手紙の検閲、制限もなく電話も自由です。閉鎖病棟については、赤電話等の設置は諸般の制約で困難ではありますが患者側よりの申出により病院電話機からではありますが自由に外部との通話もできております。

エ.入院中の患者審査についても、精神衛生法37条に基き全員の実地審査が着々と進捗しております。

2.医療態勢の確立

ア.医師及び看護婦(士)については来年三月には現准看護学校二年生の資格取得により二十一名の補充となり、看護体制は略概成いたします。

イ.検査部門は万全であり、治療指針の決定に資されております。

ウ.管理部門は上水道、下水道の管理をはじめ、ボイラー、クリーニング諮外部委託業者に選任した部門も多くなり快適な療養体制が確立されました。

以上簡単ながら機会の要求について回答いたしました。

昭和五十九年九月二十日

医療法人報徳会宇都宮病院長 平畑富次郎 印

部落解放同盟栃木県連合会殿

*作成:桐原 尚之


https://www.weblio.jp/wkpja/content/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E7%97%85%E9%99%A2%E4%BA%8B%E4%BB%B6_%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E7%97%85%E9%99%A2%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81 【宇都宮病院事件】より

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/14 04:45 UTC 版)

宇都宮病院事件

殺人・暴行事件の舞台となった報徳会宇都宮病院

場所 日本・栃木県宇都宮市陽南四丁目6番34号、報徳会宇都宮病院

標的 入院患者

日付 1983年(昭和58年) (日本標準時)

概要 看護職員らの暴行によって、入院患者2名が死亡した事件。

原因 閉鎖病棟故の無監査  攻撃側人数 不明  武器 鉄パイプ  死亡者 2人 負傷者 不明

被害者 入院患者 損害 死亡  犯人 宇都宮病院の看護職員  容疑 傷害致死罪ほか

関与者 石川文之進 謝罪 なし 賠償 なし

宇都宮病院は、他の精神科病院で対応に苦慮する処遇困難な患者を受け入れてきた病院であった[1]が、事件以前から私刑として「看護師に診療を違法に行わせる」「患者の虐待」「作業療法と称して石川院長一族の企業で違法に働かせる」「病院裏の畑で農作業に従事させ違法に収穫物を職員に転売する」「ベッド数を上回る患者を違法に入院させる」「死亡した患者を違法に解剖する」などの違法行為が行われていた。

1983年4月、食事の内容に不満を漏らした入院患者が看護職員に金属パイプで約20分にわたって乱打され、約4時間後に死亡した。また同年12月にも、見舞いに来た知人に病院の現状を訴えた別の患者が、職員らに殴られ翌日に急死した[2]。

精神科病院ゆえの閉鎖病棟や閉鎖性により、上記の実態や患者死亡事件は公にならなかったが、事件の翌年1984年3月14日に、朝日新聞朝刊によって報道され、日本の世論の大きな注目を集め、国会でも精神障害者の人権保障の面から、日本国政府の対応が糾された[3]。

この事件をきっかけに、国連人権委員会などの国際機関でも、日本の精神保健や精神医療現場における人権蹂躙が取り上げられ、世界中から日本国政府に非難が集中した結果、1987年には、精神衛生法の改正法である「精神保健法(現 精神保健及び精神障害者福祉に関する法律)」が成立し、精神障害者本人の意思に基づく任意入院制度や開放病棟を創設するなど、患者の処遇改善が図られた。

経緯

私立精神科病院の乱立

高度経済成長期には、精神科病床は1年間に1万床ずつ増加し続け、1950年(昭和25年)の1万8千床が1955年(昭和30年)には4万床、1965年(昭和40年)には17万床、そして1969年(昭和44年)には約25万床となった。この時期に開院した精神科病院は私立病院である。

1958年(昭和33年)10月2日には厚生省事務次官通知により、精神科の人員は一般診療科に対して、医師数は約3分の1、看護師数は約3分の2を基準とする特例基準が認められ、更に同年10月6日の医務局長通知で、事情によっては『その特例基準の人員数を満たさなくともよい』ことになったために、一般診療科の病院よりも人件費を抑えることができ、そして、措置入院の国庫負担も5割から8割に引き上げられたことで、一般診療科と比較して精神科病院の経営が容易となった。また、病院建設費用にも便宜が図られ、特殊法人医療金融公庫から長期低利融資を受けることができるようになり、病院建設自体も容易になった[4]。

精神科病院入院を中心とする精神医療は、当時の精神障害者に対する偏見や差別に基づく日本の社会的背景や世論、日本のハンセン病問題と同じく、日本国政府や厚生省の患者隔離収容政策によるもので、それゆえ、精神科病院の医療従事者数が、特例として一般診療科病院よりも少ない人員でも認可されていた[5]。

精神科医の人数は病床の増加に見合ったものではなく、実際のところ増加した精神科病院に勤務する医師の殆どは、内科医や産婦人科医からの転進であった。精神科病院は、内科や産婦人科よりも利益率のよい事業のため、医師たちは診療科を精神科に変更したのである。宇都宮病院もこの時期(1961年)に、内科から精神科へ事業を変更している[6]。

精神科病院の人員が、一般診療科病院よりも少ない人員でその運営が成り立つ要因として、1950年に、もともとは抗ヒスタミン薬として開発されたクロルプロマジンの存在が大きい。1952年にクロルプロマジンがドーパミンを遮断する効果があることが発見された。これを機に、向精神薬や抗不安薬の開発が活発となり、薬物療法により統合失調症の治療が可能となった[7]。

クロルプロマジンによる薬物療法が行われる以前は、興奮する患者に対処するためには、拘束衣や拘束具を使用した物理的な身体拘束や、看護師や看護助手による対応によって対処する以外に方法がなく、病院の設備や職員に対して経費がかかり、病院経営上の大きな負担となっていた。

だが、クロルプロマジンなどの処方箋医薬品で、患者の興奮状態を抑制することができる様になると、少ない病院職員で多数の患者の管理が可能となり、病院の運営経費が少なくて済むとともに、病床数が多い(患者の処遇が、ベッドも無く『うなぎの寝床』になる状態)ほど、利益を上げられる構造になったのである[8]。

当時の日本の精神科病院の状況を、日本医師会の武見太郎会長は以下のように述べている。

精神医療は牧畜業だ

— 武見太郎、『爆弾精神科医』(p.143)

当時の日本の精神科医療は、この程度の低レベル医療であり、精神科医としての実力が伴わない医師でも、精神科病院を経営することが可能な状況だったのである[5]。

無論、こうした現状への批判や警告が皆無と言うわけではなかった。1968年(昭和43年)にはWHOが、日本の精神医療に対して「過剰収容による利益追求が大きな人権蹂躙につながる恐れがある」(WHOクラーク勧告[9])という勧告を、日本国政府に対して出しているし[10]、翌1969年(昭和44年)にも 日本精神神経学会理事会は「精神病院に多発する不祥事件に関連し全学会員に訴える」という声明を発表している[11]。

日本精神神経学会は、1975年(昭和50年)にも精神外科を否定する決議、および、入院患者の通信・面会の自由に関する決議を行っている[12]。だが、こうした批判とは裏腹に、精神医療の現場の劣悪さは、遅々として改善が進まなかった。

宇都宮病院の開院

事件の舞台となった報徳会宇都宮病院(以下「宇都宮病院」と略す)は、1961年(昭和36年)、石川文之進(いしかわ ぶんのしん)[13]が開院した[14][15]。

石川は、1952年(昭和27年)に、石川医院を開院し[14]、1955年(昭和30年)には、医院を発展的に医療法人大恵会石川病院として改組。院長に就任し、1958年(昭和33年)には、分院まで開設した[14]。

石川自身は内科医で、精神科医の経験は無かったものの、東大医学部精神科の研究生となり、当時、東大医学部脳研究施設神経生物部門に所属していた武村信義に指導を担当して貰った。武村は臨床医ではなかったものの、この指導を通じて、石川さらには宇都宮病院との関係ができ、石川にとっては、東大医学部との人脈作りの窓口となった。また、石川は分院との人脈作りも行う[16]。宇都宮病院開院の翌年には、石川は理事長に就任し[14]、1965年(昭和40年)には、精神衛生鑑定医の資格を得た。この年、宇都宮病院に解剖室が新設され、病床数を300床に増床する[17]。

1967年(昭和42年)には、病床数は375床にまで増加するものの、この際、宇都宮病院の精神病患者の獲得方法が問題となり、栃木県精神病院協会幹部が、栃木県に対して宇都宮病院を告発するものの、有耶無耶に終わっている。この頃から、宇都宮病院では、看護長やケースワーカーによる無資格死体解剖が、日常的に行われていた[17]。

病床数の拡大

1970年代になると宇都宮病院は作業療法という名目で入院患者に労働をさせ、患者の処遇の悪化に拍車がかかる[12]。

石川文之進は、1971年(昭和46年)に宇都宮病院院長に就任し名実ともに病院のトップの座に就いた[14]。また、文之進の弟で宇都宮病院事務長だった石川裕朗が宇都宮市議会議員に当選し、その後任の事務長を宇都宮南警察署から招聘した。1975年(昭和50年)には病床数を722床まで拡大、裕朗も栃木県議会議員となる[17]。翌1976年(昭和51年)にも更に病床数を拡大し、病床数が852床にまでなる[12]。

東大医学部との癒着

この頃から、宇都宮病院は様々な業種に進出して多角経営を行い、宇都宮市では報徳グループとして大きな存在となっていく[12]。また、この時期は東大の医師たちは、宇都宮病院と共同研究をしており、宇都宮病院の入院患者を研究対象として、数多くの論文が発表された。症例検討会を録音したカセットテープには、宇都宮病院内で行われている入院患者に対する虐待行為が話題になっていることが記録されており、東大の医師たちが、宇都宮病院の内情を知っていたことが明らかになっている[18][19]。

しかし、東大の医師たちはそのような状態を黙認し、宇都宮病院から謝礼や研究費を受け取っていた。東大の医師たちが研究目的として宇都宮病院を利用したように、宇都宮病院も東大の医師たちを利用した。宇都宮病院の目的は東大の医師たちの名義を借りた常勤医および非常勤医人数の水増しであり、そして、東大というブランドを利用した病院の見かけ上の格上げである[19]。

1981年(昭和56年)、宇都宮病院の人事制度が大幅に変更。45歳で昇給を停止し、55歳で定年退職となった。この人事制度変革は、人件費の圧縮はもとより、職員に自己都合退職させることを意図している。そして、それによって生じた欠員の補充は、賃金の安い若年労働者を雇用することで補おうとする方策である。本事件が明るみに出た1984年の人件費率は26%で、一般的な私立精神科病院の半分であった[12]。

同年、宇都宮病院の母体である医療法人報徳会は、東京都文京区本郷に、報徳会本郷神経クリニックを開院する。このクリニックには、名目上の所長はいるのだが、実質的に所長としての役割を果したのは、斎藤陽一(東大病院外来医長)であった。斎藤は、東京大学の研究費で購入したコンピュータを同クリニックに設置し、患者の検査結果をデータベース化していた[20]。宇都宮病院では、同年から3年余りの間に、220人の入院患者が死亡している[21]。

事件発覚

1983年(昭和58年)、宇都宮病院に不法収容されていたA氏が、東京大学医学部附属病院精神科病棟を訪れ、宇都宮病院の内情を暴露し、告発する意志があることを伝えると、東大病院精神病棟内に「宇都宮病院問題担当班」を設置し、弁護士や日本社会党と協力し、朝日新聞社宇都宮支部とも情報交換を行う[22]。A氏の証言がきっかけとなり、入院患者2人について、殺人事件が立証されることになる[23]。

東京大学精神科医師連合(精医連)は[24]、宇都宮病院の問題を究明するための調査チームを結成し、ついに、1984年(昭和59年)3月14日に、朝日新聞によって宇都宮病院事件が明るみに出る[25]。

事件発覚時の常勤医は、石川院長ほか2名の合計3名のみで、脆弱な医療体制にもかかわらず、精神科入院患者の3割は、アルコール依存症や薬物依存症で、これは精神科入院医療の常識を超えたものであった。このような精神医療環境の中で、入院患者に対する身体的・経済的虐待が行われていた[20]。

東大医学部の対応

5月13日、東京大学医学部は、宇都宮病院に関係した6人の医師に対して、厳重注意と注意の処分を行った。処分理由は「患者が置かれた治療状況に無関心であった不見識」と「東京大学の教官であることを利用された責任を全う出来なかった」である[26]。

7月23日には「東大宇都宮病院問題を考える討論集会」が開かれる[27]。10月15日には、石川や宇都宮病院と最も繋がりの深かった武村信義が、東京大学医学部脳研究施設を辞任し、宇都宮病院へ移る[28]。

当時の脳研所長および教授達は、宇都宮病院に人権問題があることを事件報道以前から知っていた。武村が教授になれなかった理由は、宇都宮病院との繋がりが深かったためといわれている[29]。1984年、石川は宇都宮病院理事長と院長を辞任する[14]。

無資格診療

1961年に57床から出発した同院は増改築を繰り返し、事件発覚時には920床(在院者944人)を有する、北関東最大の精神科病院となっていた。入院患者を定員超過まで詰め込む一方、有資格の職員は精神科医3名、看護師6名、准看護師61名とごく少数。そこで一部の入院患者を「配膳」と称し使役し、看護師らは主に彼らを活用し、暴力による恐怖支配を徹底していたとされる。実権を持つのは石川文之進院長ただ1人であり、その指示により無資格者や入院患者がほかの患者の注射や検査等を行っていた。報道後、捜査を開始していた栃木県警は無資格診療指示の疑いで同氏を逮捕。その後起訴され、懲役8カ月の実刑判決が確定した。厚生労働省の医道審議会は同氏に対し医業停止2年の処分を決定した。[30]

裁判

刑事訴訟において、暴行を行った看護職員らのほか院長も起訴され、宇都宮地方裁判所において全員が懲役8ヶ月〜4年の実刑判決を受けた。また、民事訴訟では「入院治療の必要がないのに監禁された」として元入院患者が院長らを相手取って損害賠償を求め提訴し、請求が認められている[31]。

また本事件によって、日本の人権軽視の実状が世界中に知れ渡ることになり、国際的な問題となった。当時は、ソビエト社会主義共和国連邦と南アフリカ共和国が、反政府的な市民を抑圧する道具として、精神医学を悪用しており、そのことが人権蹂躙と重なっていた時期である。このような国際的な状況下で、本事件が発覚した[32]。このため、政府も動き出し、1987年(昭和62年)に、国会で精神保健法が成立し、任意入院が制度化された[33]。

また本事件は、一般の人々からも大きな関心を持たれた。それは、虐待によって患者が死亡するという大事件を起こした、報徳会宇都宮病院と東大医学部の関係の根深さが、次々と明らかになったからである[18]。


https://sectpoclit.com/haimakura-59/ 【【第59回】宇都宮と平畑静塔】より

広渡敬雄(「沖」「塔の会」)

栃木市巴波川(うずまがわ)

宇都宮市は、関東平野の中北部に位置し、東京より北に約百キロの栃木県の県庁所在地。古代は下野国、奥州街道の宿場町で、江戸時代には、徳川家康を祀る日光東照宮も近く、譜代大名が知行した。夏は雷が多く(雷都)、冬は「男体颪し」で寒さが厳しい。市内は二荒山神社、宇都宮城址を中心に広がり、内陸型近代工業の街で、「餃子」も名高い。西方の大谷は大谷石、南方の旧石橋町は乾瓢で知られ、県名にもなった観光地栃木市は、南西方の商都であった。

大谷観音

徐々に徐々に月下の俘虜として進む 平畑静塔

古庭に鶯啼きぬ日もすがら     与謝蕪村

万緑の中さやさやと楓あり(多気不動) 山口青邨

男体山どかつと据ゑて稲穂波    星野乃梨子

干瓢乾し村に白雲殖やすごとし   大串 章

石切の奈落百丈春寒し       今井つる女

罌粟の昼切り出す石のどれも青し  加倉井秋を

栃木かな春の焚火を七つ見て    西村麒麟

〈俘虜〉の句は、「現代俳句」昭和二十二年五月号掲載後、第一句集『月下の俘虜』の「上海集中営」(十八句)連作に収録の句集名となった代表句。「無用の徒は、静かに己れの国に帰るべしが、この句の底に残っている」と自註にある。 

他に〈武器を地に累かさね木犀かぐはしき〉〈俘虜貨車の日覆はためき疾走す〉もあり、下野市の霊苑に句碑がある。

平畑静塔句碑(写真提供:星野乃梨子氏)

「俘虜の集団は、月光に照らされ浮び上がる黒い塊として描かれ、その根底には諦念にも似た絶望がある」(田中亜美)、「歩む姿が悲愴であると同時にある種の美しさを湛えており、皆受難者のように見える」(兼城雄)の鑑賞がある。

大谷石採掘跡

平畑静塔は、明治三十八(一九〇五)年、和歌山県海草郡和歌浦町生れ、本名富次郎。旧制和歌山中学より三高を経て大正十五(一九二六)年京都帝国大学医学部に入学後「京大三高俳句会」に入り、「京鹿子」「破魔弓」「ホトトギス」に投句。昭和八(一九三三)年藤後左右らと「京大俳句」を創刊し、山口誓子らを顧問に迎え、西東三鬼らの登場で「新興俳句」の一大拠点となった。が、同十五年の所謂「京大事件」で静塔も治安維持法違反で検挙され執行猶予となり、俳句から離れる(「京大俳句」廃刊)。精神病医として病院勤務後応召され、南京陸軍病院に勤務中に終戦を迎え俘虜となったが、同二十一(一九四六)年帰還し、大阪女子医専教授に就任。三鬼の熱心な復帰勧誘で、誓子を掲げ「天狼」編集長として創刊に関わった。旅館日吉館での誓子、三鬼、橋本多佳子、右城暮石等の伝説の「奈良句会」が知られる。同二十六年にカトリックの洗礼を受け、「俳人格」説(馬酔木四月号)で「俳句性の確立には俳人自身の俳句的な人格の発展と完成が必要」と説いた。

同三十年、誓子の序文の第一句集『月下の俘虜』を刊行した。四十九歳と遅い出発だったが、「飯田蛇笏氏は四十八歳だったと述べ、後年の「大器晩成」ぶりの片鱗をみせる」(川村杳平)。同三十七年、宇都宮に移住し、「宇都宮病院」の顧問となり、俳句観も作品も在来のやや知性中心の面が次第に野趣を帯びて来たと後日述懐する。宇都宮に来てより、同四十六(一九七一)年、句集『栃木集』他にて第5回蛇笏賞、同六十一年には、『矢素』にて第一回詩歌文学館賞、平成七(一九九五)年には、現代俳句大賞を受賞した。

「宇都宮病院事件(不祥事)」で、再度院長に復帰後、同九(一九九七)年逝去し、葬儀は無宗教形式。享年九十二歳。句集は他に『旅鶴』『壺国』『漁歌』、『平畑静塔全句集』、評論、『俳人格 俳句への軌跡』『平畑静塔評論集』がある。

平畑静塔墓所(写真提供:星野乃梨子氏)

「俳句の汎神論的世界観と一神教のキリスト精神は相容れず、その最高の課題であるべき「カトリック的人格」の完成と静塔の言う俳人格とは矛盾しているのではないか」(山本健吉)、「静塔俳句の中に、キリスト教的な要素を過大視するのは禁物である」(四ッ谷龍)、「戦地にも携えたドイツの哲学者ヤスパースの概念・「限界状況」(人間が避け得ない根源的な状況=死や苦悩、二律背反等)を見つめ、寄り添いつつ生きた静塔の人と言葉の軌跡を学ぶべきである」(田中亜美)、「俳人であり、キリスト教徒であることに加え、科学者であり、院長であるという分裂も抱えていたが、〈一縷にて天上の凧とどまれり〉の様に自分を保つしなやかな強さを持っていた」(兼城雄)、「生まれ育ち、学び、俳句界や医学界でも地盤とした関西から夫人と共に宇都宮に移住したのは、それまで蓄えた文化、自ら磨き上げた句の世界を捨てることだった」(石川文之進)等の評がある。

  滝近く郵便局のありにけり 「ホトトギス」

  海苔舟をつなげる松や玉津島 (静塔の原風景)

  終電車手に青栗の君を帰し 「京大俳句」

  帰還兵語るしづかな眼を畏れる 

  葡萄垂れさがる如くに教へたし 『月下の俘虜』

  我を遂に癩の踊の輪に投ず (長島愛生園)

  藁塚に一つの強き棒挿さる (静塔の根源俳句)

  懺悔せず修道院の樹をつかむ 

  蛍火となり鉄門を洩れ出でし

  狂ひても母乳は白し蜂光る

  足袋の底記憶の獄を踏むごとし

  雪片と耶蘇名ルカとを身に着けし

大谷石教会

  初蝶の喜色たらたら精神科 『旅鶴』

  紅葉せり何もなき地の一樹にて

  なき母の声あかぎれの割目から

  稲を刈る夜はしらたまの女体にて『栃木集』

  もう何もするなと死出の薔薇持たす(三鬼の死)

  下り簗青竹の青流れ去る

  鳥銜へ去りぬ花野のわが言葉

  青胡桃みちのくは樹でつながるよ

  壺の国信濃を霧のあふれ出づ 『壺国』

  座る余地まだ涅槃図の中にあり『漁歌』

  箱根改め雪女脱ぐものを脱ぐ

  焚火の輪一人抜けしをつながざる 『矢素』

  身半分かまくらに入れ今晩は (横手にて)

  陶枕やのこる命の夢まくら 『竹柏』

  花見する歩みゆくほど遠くなる

「京大事件」の挫折や三鬼との出会いと死別があったからこそ、その後の深みと屈折と栃木の地の野趣ある作品が生まれたと言えよう。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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