魂祭(たままつり)

https://kigosai.sub.jp/001/archives/10039 【魂祭(たままつり) 初秋】より

【子季語】

霊祭/玉祭/聖霊祭/聖霊盆棚/盆棚/魂棚/聖霊棚/棚経 棚経僧/掛素麺/苧殻の箸/瓜の馬/茄子の牛/手向け/水向

【解説】 

七月十二日の草市で買いととのえた品で精霊棚をつくり、祖先の霊を招く。棚を略して仏壇の前に供物をする所もある。みそ萩、枝 豆、瓜茄子等を供え、門火を焚く。僧は各檀家を廻り棚経をあげる。掛素麺は供物のひとつ。瓜茄子の馬は聖霊の乗物。

【例句】

まざまざといますがごとしたままつり  季吟「師走の月夜」

棚経や遍照が讃し杖さゝげ  言水「富士石」

数ならぬ身とな思ひそ魂祭  芭蕉「有磯海」

玉棚の奥なつかしや親の顔   去来「韻塞」

遺言の酒そなへけり魂まつり   太祇「太祇句選」

魂棚をほどけばもとの座敷かな   蕪村「蕪村句集」

なき父の膝もとうれし魂祭  樗良「まだら雁」

さし汐や茄子の馬の流れよる   一茶「享和句帳」


Facebook清水 友邦さん投稿記事「魂の復活 鎮魂祭」

毎年、宮中では11月23日新嘗祭(にいなめさい)前日の11月22日(旧暦11月の2度目の寅の日)に鎮魂祭が行われています。

新天皇は一度だけ大嘗祭(だいじょうさい・おほにへまつり)を行ないます。

天皇は神の依代となって先祖からの言霊を授かる鎮魂祭と大嘗祭という儀礼で霊統を受けついできました。

大嘗祭の霊力は1年ごとに衰えるので毎年、新嘗祭を執り行うことで霊力を復活させていました。

7世紀頃までは大嘗祭と新嘗祭の区別がありませんでした。その起源は神武天皇の時代まで遡ります。

古代の人々は、身体から魂が遊離することが死だと考えていました。

命を復活させるのは魂を呼び戻すことなので、太陽の光が一番弱くなる冬至に太陽の復活と豊作を祈って魂の再生の儀式をおこなっていたのです。

生命力が弱くなる冬至に、天皇の蘇生を祈る祭儀が宮中の鎮魂祭なのです。

鎮魂法は古代の冬至祭と関係していることがわかります。

宮中における鎮魂祭と同様の祭儀が奈良県石上神宮(いそのかみじんぐう)で物部の鎮魂法として11月22日におこなわれています。

物部氏の総氏神・石上神宮(いそのかみじんぐう)に伝わる鎮魂法は、「布留部(ふるべ)の神業」と呼ばれています。

「十種神宝祓詞」と「ひふみの祓詞」を奏上して、「ふるべゆらゆらとふるべ」と奉唱します。

そして祓詞といっしょに十種神宝( とくさのかんだから)を振り動かせば、死人さえ蘇るとされています。

『先代旧事本紀』によると、ニギハヤヒは十種の神宝を携えて天磐船に乗り、河内国河上哮峯(いかるがのみね)に天降り、さらに大和の鳥見(登美)の白庭山に遷ったとされています。

ニギハヤヒを祖する物部氏は十種神宝( とくさのかんだから)を奉献して、神武天皇即位の祭儀を執り行ったとあるところから物部氏の儀式が現在の天皇家の儀式の元となったと見られています。

物部の十種神宝は鏡が二種、剣が一種、玉が四種、ひれが三種から成りました。

『先代旧事本紀』では八握剣(やつかのつるぎ)ですが。『物部文書』では、この剣は「八握剣」ではなく「十握剣」になっています。

スサノオは十握剣でヤマタノオロチを退治しますが、オロチの尾の中にあった草薙剣に当たって刃が欠けました。

この草薙剣が天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)で三種の神器として熱田神宮の御神体となっています。十握剣は、藤原氏の氏神である鹿島神宮の神宝として、国宝に指定されています。

弥生になると出雲でも朝鮮半島から伝わった銅鐸と剣が作られるようになりました。3世紀になるとその銅鐸や銅矛が一斉に破棄されています。

かわりに甕棺(かめかん)・石棺・木棺など埋葬用の棺に入れられて葬られた墳丘墓(ふんきゅうぼ)が形成されました。

北九州では紀元前3~2世紀ごろから墳丘墓(ふんきゅうぼ)に鉄刀や鉄剣が収められるようになったのです。銅鐸が破棄された頃に権力構造が変わったのでしょう。

カタナは人を攻撃するものですが、モロ刃のツルギは戦う意思のないことを表明するもので、和睦の使者はツルギを前に立てて進むのが古い習慣でした。ツルムは和合の意味になっています。

古代出雲から出土した青銅器の銅剣・銅矛は研磨もされておらず武器ではなく祭器でした。

十種の神宝には、寿命を延ばす霊力がある生玉(いくたま)、

打出の小槌のように欲しいものを授けてくれる足玉(たるたま)、

死んだ人を蘇らせる死返玉(まかるかへしのたま)、

旅に出た人が無事に帰れるようにしてくれる道返玉(みちかえしのたま)の四種の玉があります。

そのほかに、災いを払い魔除けの力があるヒレ(比禮)が三種あります。

女性がヒレ(比禮)を振ると霊力が発揮されました。スセリ姫は古事記でヒレ(比禮)を振ってオオナムチを助けています。

三種の神器は皇位継承の証しでしたが、本来はシャーマニズムと関係して十種あったのです。

物部氏は古代から呪術の祭儀を継承する家系でした。

はるか太古の昔はほぼ全員が神々と霊的交流をしていました。

霊的存在と交流する人々を「シャーマン」と呼んでいます。

縄文人は、神話的思考をしていました。そして母系の部族社会を築いていました。

女性は別な魂を呼び寄せて体内に宿すことができたので、生命を生み出す力がある女性が巫女となって神の代理人となっていました。

沖縄の久高島で12年に一度おこなわれていた神事イザイホーでは30歳を超えたすべての既婚女性は先祖の霊と交信する神女となっていました。

左脳優位になると自己の本質である「直霊(なおひ)」が自我意識に覆われるようになり、神の声は聞こえなくなりました。

鎮魂とは人間が生きながらにして神となることを意味しています。

禍罪(まがつみ)が直霊(なおひ)を覆っていたので鎮魂の儀式をして禊祓いをしなければ神に帰ることができなくなくなりました。

『古事記』に、仲哀天皇が琴を弾き、武内宿禰が審神者(さにわ)になって神功皇后が帰神を行ったという記述が出てきます。

古代は巫女が神を降ろす役割をし、男性の審神者(さにわ)が巫女に降りている神が本物かどうか確かめる役割をしていました。

父権社会になると男性がスメラミコト(天皇)となって祭儀だけでなくや政治も兼ねるようになり大王として軍事の指導者にもなっていったのです。

古代は女性が祭祀権を持っていました。

古墳時代頃までは男性と女性が入れかわり祭祀権をもち、室町時代に祭祀権は女性から男性に変わってしまい現在まで続いています。

これから女性性が表に出てくることで傾いた女性性と男性性のバランスが取れるでしょう。

大地のエネルギーが螺旋状に上昇する聖地でリラックスして、あるがままに身をまかせていると魂振りが起きて、思考が静かになる鎮魂に入ります。

古代の人々はそうして自我を超えて永遠の神の世界に入ったのです。

鎮魂祭の本来の目的はカミを呼び戻すこと、それは直霊(なおひ)になること、つまり本当の自分に帰ることでした。

https://ameblo.jp/tomatottochan/entry-12739848545.html 【一霊四魂、直霊(なおひ)、曲霊(まがひ)】より

一つ前の記事呪いか愛かで、「犬夜叉」の漫画について書いていますが、

その世界観の根底にあるのが、一霊四魂(Wikipedia)。

一霊四魂というのは、多くの人が聞いたことがあると思います。

「荒魂(あらみたま)」「和魂(にぎみたま)」「幸魂(さきみたま)」「奇魂(くしみたま)」です。

「犬夜叉奥儀皆伝」にある(昔からそういうのまで買ってはいたようで家にあったw)「一霊四魂論」よりそのまま転載。

上のWikipediaの内容とほとんど変わらないけれど、漫画だし分かりやすく話してくれています。

遠い昔、偉い神様が、自分の霊を地上のすべてのものにわけ与え、心を創った。

この、心の素になったのが一霊である。一霊は四つの魂によってできている。

四つの魂とは、荒魂、和魂、奇魂、幸魂のことである。

これらが正しく働いた一霊を直霊(なおひ)といい、自然の理に一致する。

邪悪に汚れたものを曲霊(まがつひ)といい、自然の理に反する。

荒魂は勇気、向上、前向きを司り、曲霊に転じれば、蛮勇、争い好きになる。

和魂は親愛、優しさ、思いやりを司り、曲霊に転じれば、悪意になる。

奇魂は智慧、巧みさ、察しのよさを司り、曲霊に転じれば、邪な謀(はかりごと)を巡らす力になる。幸魂は愛を司り、曲霊に転じれば、執着、妄執になる。

それぞれの魂の量は持ち主の行いによって、増減する。

「一霊四魂論」より

「犬夜叉」という話は、「四魂の玉」というのが出てきて、これが世にバラバラに飛び散ってしまい、そのカケラが邪な心を持つものの手に渡ると危険であるため(このカケラはそれを手にしたものの力を増大させるから)、犬夜叉とそのヒロインのかごめ、そして思いを共にする仲間たちが一緒にカケラを集めて旅をする話です。その旅路で色んなものに出会い、戦いがあり、物語が展開していきます。

古神道では、荒御魂(あらみたま)、和御魂(にぎみたま)と伝えられていて、その和御魂が奇魂(くしみたま)と幸魂(さきみたま)にわけられるというような発想のようです。(Wikipediaより)

直霊(なおひ)は自然の理に一致していて、曲霊(まがひ・まがつひ)は自然の理に反している。

それは、私も大切にしているモノゴトの観方です。

ある程度普通に生きていたら、誰も邪悪になろうとはあまり思わないと思いますが、自然の理に反しているのが曲霊ならば、そんな分かりやすい善悪の話ではないのかもしれないということです。

私が分かりやすいなと思っている観方として、次のようにとらえています。

善悪というのは外側の出来事やモノゴトにあるのではなく、「力の使い方」のことであり、「変化させる力」「変化を起こす力」をどのように使うのかということによる。

利己的な理由で使う場合それは、悪になり、全体の調和とともにある場合、ぞれは善となる。

善悪は外側の事象にはない。善悪はいつも個々人の力の使い方にある。

こう観た時に、見えなかったものが見えてくるし、どうあるべきか、何をすべきかが観えてくる。

このように観ると、自然の理に反するのか一致するのかというものの観方と矛盾が生じません。

変化の力を利己的な理由で使うことは曲霊であり、自然の理に反する。

変化の力を全体の調和とともに使うことは直霊であり、自然の理に一致している。

さて、一つ前の記事で言及していた殺生丸ですが、殺生丸は荒魂だけが突出していました。

その理由は、偉大な大妖怪の血族の純血で生まれながらにして、めちゃくちゃ強かったので、常に余裕があり、執着するものがないためです。大妖怪の一族の誇りが荒魂だけ突出させていたということです(公式より)。純血大妖怪だからこそ情を持ち合わせなかったという感じです。

そのため殺生丸は、四魂の玉やそのカケラには興味がなく(そんなものがなくても強いから)、「犬夜叉」というのは、四魂の玉を集める冒険の旅の話だけども、殺生丸には別のテーマがあり、「犬夜叉」という話は、犬夜叉一行の四魂の玉の旅の話と、殺生丸の刀を巡っての成長物語の二つが同時進行しています。(犬夜叉との因縁と最強妖怪だからこそ、殺生丸も途中から四魂の玉の因縁に巻き込まれていきます。)

殺生丸と犬夜叉の偉大な亡き父が息子たちに形見として与えた刀がとても意義深く、この父は右に出るものがいないくらいの偉大な大妖怪なので、力を最も誇りとしている殺生丸は父を尊敬しているからこそ、この父に対してのみ葛藤している姿を見せています。

父は殺生丸に、この世のものは斬れない刀「天生牙(てんせいが)」という妖刀を形見に残しました。「癒しの刀」という異名を持ち、慈悲の心が発動しないと使えないという刀でした。

これを殺生丸の方に渡していたのが意義深く、殺生丸だからこそ父は渡していたのでした。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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