https://ameblo.jp/aromacandle777/entry-12456924353.html 【【備忘録】宮沢賢治と性欲】より
詩人、宮沢賢治について、みなどんな印象をお持ちだろうか?
有名な「雨ニモマケズ」の詩から、勤勉でまじめな農夫としての賢治や、童話「銀河鉄道の夜」の中に披歴された科学とファンタジーが融合した世界を描いた、博識で想像力豊かな詩人のイメージを想起される方が多いかと思う。
このような一般に流布された宮沢賢治像は間違いではない。
けれど、賢治の詩を読むと、こうしたある種、聖人君子のような賢治とは異なる意外な側面が見えてくる。
賢治は生涯、独身を貫き、女性と性的関係を結んだことがなかった。童貞であった。
これは、賢治が篤く法華経を信じる仏教徒であったことから説明できる。
仏教の戒律ではセックスを女犯として厳しく戒める。この戒を忠実に守ったというわけだ。
だが、賢治は本当に女性には興味がなく、こうした欲望をまったく催さなかったのか?
賢治の詩には、己の意識の底から湧き上がってくる性欲に対する不快感が伺える。
顕著なものが、有名な「春と修羅(しゅら)」だ。
全文を以下に掲げる。この詩の中で、賢治は自分を修羅と表現している。
修羅とは、阿修羅のことで、常に闘争をやめることのない存在だ。
仏教で修羅界は人間界の下に位置する。なぜ、賢治は自らを人間以下に貶めるのか。
唾 〔 つばき 〕 し はぎしりゆききする おれはひとりの修羅なのだ
これは賢治の冷静な自画像だ。常に苛立ち唾棄すべき嫌悪の情を抱いている。
この不快感は自分に対するものだ。
春は生きものたちの息吹に溢れ草花が芽吹き、やがて蕾から花をつける季節。
満開の菜の花畑のむせかえるような花の香りが鼻腔に差し込むと、蚕惑の感情に眩暈する。
草花が欲情しているように感じ、私も妙な気分になる。春は動物も植物も生殖の時期だ。
こうした観点で「春と修羅」の冒頭を読むと、何やら性的な隠喩を帯びてくる。
心象のはいいろはがねから あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の濕地 いちめんのいちめんの 諂曲 〔 てんごく 〕 模様
アケビの赤い蔓が天まで伸びて雲にからまるシーンはシュールだが、どこか官能的でもある。
藪や湿地は何やら女性器周辺を思わせる。
この情景は、リアルな写実というより「心象のはいいろはがねから」つまり、賢治の心象から現れ出た風景だという。こうしたありさまを「 諂曲 〔 てんごく 〕 模様」と表現している。
「諂曲 」とは仏教用語で五欲<注>にまみれた人間の様態をさす。
国語辞典などには、「媚びへつらうこと」と載せるが、むしろここは性欲などの五欲に惑わされている様子、とでもしたほうが真意に近いだろう。
すなわち自らの心のうちを、賢治は欲望の塊と言って一刀両断する。
春四月、光が燦々と降り注ぐなかを歩く賢治は歯ぎしりをして怒っている。
怒りを発露したことで、その感情に対してまた嘆いてもいる。(いかりのにがさまた青さ)
この怒りと苛立ちはすべて自身に向けられている。欲望を兆し、これを抑え留めることのできない自分に。
「春と修羅」全編を通しての美しい自然描写の半面、詩は愁いの暗いトーンで覆われている。
春というのは憂鬱な季節だが、賢治のこころを塞ぐ憂愁は、抑えようにも抑えられない性欲にあると言ったら、賢治ファンは怒りだすだろうか。
晩年、賢治はこの禁欲が自らの病気をもたらしたと告白している。そして実際、賢治は37歳の若さで急性肺炎によって病没する。賢治の文学は性欲との格闘で生まれ、ついには身を刷り減らし、いのち尽き果てた。
ことは何も性欲だけに限らない。
偉大な文学は、自己の欲望に流されず、この怪物と向かいあうことによって静かに結晶するものなのかもしれない。
<注>五欲とは、一般的には財欲・色欲・飲食欲・名誉欲・睡眠欲の五つの欲望をさす。ここでは、性欲などに代表される欲望と書いたが厳密に分析すると、以下のようになる。仏教の経典では、五欲とは、「色(しき)・声(しよう)・香・味・触(そく)の五境に対する愛」を表わす。五境とは、人間の五感に対応する。色―視覚、声―聴覚、香―嗅覚、味―味覚、触―触覚の関係だ。それぞれに執着が生ずることでこころの迷いが生まれ、これを煩悩と呼ぶ。「五境に対する愛」とは人間の認識作用である五感から派生する執着であり煩悩をさす。
色(しき)に対する執着とは見た物や人を欲しいと思う性欲や物欲。声(しよう)に対する執着とは、耳をくすぐる声や音を聞きたいという欲望。人から褒められたいという名誉欲もこれにあたる。ちなみに仏教では、元来、歌を歌ったり聞いたりすることを禁じる。これも声にかかわる音楽を煩悩とみなすからだ。香・味に対する執着は、飲食欲。触に対する執着も性欲や物欲につながる。
長々と書いたが、賢治の怒り苛立つ自己の欲望とは、単に性欲に限定されるものではない。
花々の彩り豊かで、鳥たちが謳歌する春の風景を愛でる気持ちが仏教では五欲の煩悩として禁じられている。
ここには自然を愛する詩人としての賢治と、ストイックな仏教徒としての賢治との間の両立できない二律背反の状況が生じている。
ここに苛立ちのおおもとがある。
「春と修羅」宮沢賢治
心象のはいいろはがねから あけびのつるはくもにからまり のばらのやぶや腐植の濕地
いちめんのいちめんの 諂曲 〔 てんごく 〕 模様
(正午の 管楽 〔 くわんがく 〕 よりもしげく琥珀のかけらがそそぐとき)
いかりのにがさまた青さ 四月の気層のひかりの底を 唾 〔 つばき 〕 し はぎしりゆききする おれはひとりの修羅なのだ (風景はなみだにゆすれ) 碎ける雲の 眼路 〔 めじ 〕 をかぎり れいらうの天の海には 聖玻璃 〔 せいはり 〕 の風が行き交ひ
ZYPRESSEN春のいちれつ くろぐろと 光素 〔 エーテル 〕 を吸ひ その暗い脚並からは
天山の雪の稜さへひかるのに (かげらふの波と白い偏光)
まことのことばはうしなはれ 雲はちぎれてそらをとぶ ああかがやきの四月の底を
はぎしり燃えてゆききする おれはひとりの修羅なのだ (玉髄の雲がながれてどこで啼くその春の鳥) 日輪青くかげろへば 修羅は樹林に交響し 陥りくらむ天の椀から 黒い木の群落が延び その枝はかなしくしげり すべて二重の風景を 喪神の森の梢から ひらめいてとびたつからす(気層いよいよすみわたりひのきもしんと天に立つころ) 草地の黄金をすぎてくるもの ことなくひとのかたちのもの けらをまとひおれを見るその農夫 ほんたうにおれが見えるのか まばゆい気圏の海のそこに(かなしみは青々ふかく) ZYPRESSENしづかにゆすれ 鳥はまた青ぞらを截る
(まことのことばはここになく修羅のなみだはつちにふる)
あたらしくそらに息つけば ほの白く肺はちぢまり(このからだそらのみぢんにちらばれ)
いてふのこずえまたひかり ZYPRESSENいよいよ黒く 雲の火ばなは降りそそぐ
https://kenji.hix05.com/kenji02.shura.html 【宮沢賢治と修羅の悩み:春と修羅】より
宮沢賢治の詩が新鮮で美しく感ぜられるのは、彼の詩には光が溢れ、清浄な青空の下にそよぐ風が感じられ、生き物が生きることの喜びを謳歌しているからだ。賢治の心象を透過して現れたそれらのスケッチは、春の息吹に満ち溢れている。賢治は春を歌う詩人であり、光を歌う詩人であり、風を歌う詩人なのだ。
そんな賢治が、自分を修羅として感じている。修羅はインドの仏教文化の中でアスラと呼ばれ、仏教の神と戦って地下世界へ追いやられた堕天使としてイメージされている。それは一方では、敗れたことに対する憤怒の化身であるが、同時に仏を守護する天使としての二重性を持たされている。
日本でも、興福寺の阿修羅像に象徴されるように、阿修羅はプラス・マイナスの二つの要素が交差する複雑な神としてイメージされる。
賢治がそんな修羅だと自分を意識するのは、どのような意味合いにおいてなのか。仏教の教えによれば、世界は六道界からなっている。修羅の世界は餓鬼や地獄よりは上であるが、天上界はもとより人間界よりも下に位置する。だから修羅であることは、まだ人間にもなりきれない未熟な存在なのだ。賢治が自分を修羅だと意識したのは、このような意味合いにおいてであろう。
賢治が捕らえていた修羅の姿とは、煩悩にさいなまれている姿である。怒り、憎しみ、嫉妬といった感情から脱しきることが出来ずに、つねに焦燥感に駆られている。賢治は自分の今の姿がそうだと感じているのである。
賢治の描く春の世界は、無垢で美しい世界だ。そこに自分が修羅として生きている。そんな自分の生き様をどうしたら超越できるのか。
自分の詩集を「春と修羅」と題したことの背後には、賢治のこのような問題意識があったのだろうと思われる。これを宗教的な立場からは、救いを求める魂の声、あるいは求道の書だとする見方もあろう。
宗教的な見方をとらずとも、賢治の詩が単に彼のいう心象のスケッチにはとどまらず、そのうちに救いを求める魂の叫びを含んでいることは、無視できない。
詩集全体と同じ名をつけられたこの詩は、上のような賢治の問題意識を凝縮したものだ。賢治は春の景色と苦行者としての修羅を対立させて描くことで、この世での自分の生き方を深く反省しているのだと、受け取れる。
心象のはひいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の湿地
いちめんのいちめんの諂曲(てんごく)模様
(正午の管楽(くわんがく)よりもしげく
琥珀のかけらがそそぐとき)
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾(つばき)し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
詩はまず賢治の心象の模様を描写することから始まる。灰色に曇ったその世界は、アケビのつるが延びて雲にからまり、のばらのやぶや腐植の湿地には一面諂曲の模様が描かれている。諂曲とはそしりやへつらいをさす言葉だが、ここでは修羅の世界をイメージしている。賢治は自分をこの世にあってかつ修羅の巷にいる不幸な住人だと意識しているわけである。
(風景はなみだにゆすれ)
砕ける雲の眼路(めぢ)をかぎり
れいろうの天の海には
聖玻璃(せいはり)の風が行き交ひ
ZYPRESSEN 春のいちれつ
くろぐろと光素(エーテル)を吸ひ
その暗い脚並からは
天山の雪の稜さへひかるのに
(かげろふの波と白い偏光)
まことのことばはうしなはれ
雲はちぎれてそらをとぶ
ああかがやきの四月の底を
はぎしり燃えてゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
際限なく広がる空には、聖玻璃の風が行き交い、糸杉が一列に並んで立つ、その足元の間からは天山の雪さえ光って見えるのに、自分にとってはまことの言葉は失われ、この春の輝く大地の上を、はぎしりしながら行き来する、なぜなら自分は修羅だからだ。
(玉髄の雲がながれて
どこで啼くその春の鳥)
日輪青くかげろへば
修羅は樹林に交響し
陥りくらむ天の椀から
黒い木の群落が延び
その枝はかなしくしげり
すべて二重の風景を
喪神の森の梢から
ひらめいてとびたつからす
(気層いよいよすみわたり
ひのきもしんと天に立つころ)
玉髄のような雲が流れ、そこから春の鳥(ひばりだろうか)の啼く声が聞こえてくる、修羅である自分はわずかに木々の音と交響するが、木の枝はかなしく茂るだけ、自分は春の気分と一体になれずにいる
草地の黄金をすぎてくるもの
ことなくひとのかたちのもの
けらをまとひおれを見るその農夫
ほんたうにおれが見えるのか
まばゆい気圏の海のそこに
(かなしみは青々ふかく)
ZYPRESSEN しづかにゆすれ
鳥はまた青ぞらを截る
(まことのことばはここになく
修羅のなみだはつちにふる)
そこへ「けら」をまとった男が近づいてくる、その男に果たして修羅である自分が見えるだろうか、
糸杉が静かにゆれ、鳥が青空を横切って飛ぶ、どうやらここには、人間として通じ合えるようなまことの言葉はないようだ、それを思って自分は涙を落とすのだ
あたらしくそらに息つけば
ほの白く肺はちぢまり
(このからだそらのみぢんにちらばれ)
いてふのこずゑまたひかり
ZYPRESSEN いよいよ黒く
雲の火ばなは降りそそぐ
春の冷たい空気を吸うと、自分の病んだ肺はきりりと引き締まる、このまま自分の体が微塵に散らばるがよい、散らばって万象の中に溶け込むのだ、
賢治は最後にこういって、修羅として煩悩に包まれた自分の体が、微塵に散らばることによって、万象と一体となり、そこから救いの可能性が現れてくるのを期待する。
ZYPRESSEN(糸杉)は天空を指すように一直線に伸びる木だ。宮沢賢治はこの木のイメージが好きだった。垂直に立っているところが、地上と天空とを媒介するようにも思えたからだ。それがいよいよ黒く見え、雲の火花が降り注ぐ、賢治はその火花で全身を焼かれ、燃える糸杉の炎とともに、上へ上へと上昇することを、願うのだ。
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