https://www.todaishimbun.org/meicho_20210430/ 【【100行で名著】『南方熊楠と宮沢賢治 日本的スピリチュアリティの系譜』鎌田東二】より
100行で名著本
自然災害や疫病、価値観の転換といった変異にもまれる今、社会には不安と疲弊が広がっている。それはもちろん現代に限ったことではなく、例えば政治的な混乱や関東大震災などの大災害、伝統の崩壊などに揺らいだ明治・大正期の日本にもまた、現代と近似した閉塞感があっただろう。そうした時代に一般的な、自然のみならず人間社会をも包括する「エコロジー」や人々の精神に、ひたと向き合った2人の碩学(せきがく)にフォーカスを当てたのが本書だ。
自然科学、仏教、宇宙論、怪異。南方熊楠(1867〜1941)と宮沢賢治(1896 〜1933)は、それぞれ和歌山・熊野と岩手・花巻、西東の遠く離れた場所を拠点としながらも、接近した知識・経験体系を編んだ。「二人のM・K」という同一のイニシャルを冠する本書序章のタイトルを見ると、一層運命を感じずにはいられな い。本書はこの二大巨星の思想や人となりの共通点を探るべく、それぞれの著作やエピソードの間を行き来する形で展開していく。
彼らに共通する特徴は、野に出て自然を徹底的に観察し、東西の書物を読み、独自のエコロジカルな思想体系を構築した点にある。 変わり者とされていても決して浮世離れしていたわけではなく、真に実践的か否かはともかくとして、徹底して地に根差そうとしていた点も同様だ。人間中心主義を排して生きること。人間の生活を見つめ、それぞれ真言密教と法華経に依拠しながら、分子生物学的視点で社会の在り方や自然との関わり方を考えていった。
著者は、熊楠と賢治の2人が生きた時代からおよそ100年の時を経てようやく、われわれは少しずつ彼らの思想を理解できるようになってきたのではないか と語る。1910年、ハレー彗星(すいせい)の接近により終末的風説が跋扈(ばっこ)したことで、欧米では災禍を避けるための地下住居が盛んに掘られ、日本では岐阜県で自殺者も出たという。世界中が同じ不可視の恐怖におびえる現在と、どことなく通じるようにも見える。人間の力で は御し難い力、自然や社会の見えざる動力との関わり方を、巨大な視点から探っていくという「二人のM・K」的スピリチュアリティが、現代にも求められているのではないだろうか。
鎌田 東二(1951 〜)
京都大学名誉教授、上智大学特任教授。専門は宗教学。
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南方熊楠の全容を理解できる人は、ほとんどいなかったようです。
熊楠の興味は動物学、植物学の科学だけでなく宗教、哲学、社会制度、慣習、性風俗、心霊現象まであり、森羅万象を知り尽くそうというエネルギーに溢れていました。
そして熊楠は、サヴァン症候群のような驚異的な記憶力をもっていたので、あらゆることに異常に詳しかったのです。
熊楠は早朝から那智の大自然の中で植物採集をして、自分の研究を話す相手もいない毎日でした。
唯一、南方熊楠が心を開いて話せたのは、栂尾(とがのお)高山寺の住職をしていた(後の真言宗・高野山管長)土宜 法龍(とき ほうりゅう)でした。
ロンドン時代に二人は出会い、離れていましたが1903年7月~8月の間、密度の濃い書簡を交わしています。
熊楠は土宜 法龍(とき ほうりゅう)との書簡の中で宗教について論じ、仏教を高く評価しています。
仏教は釈迦が始めたのではなく、釈迦よりもずっと前からあったのであり「大日如来の法身(ほっしん)」が根元なので真言宗は仏教の一派ではなく、仏教が真言宗から生まれたのだと熊楠は語ります。
そして仏教を持ち上げる一方で「高僧を生き如来と持ち上げその風呂の垢水を一杯40銭で売ったり、はくをつけようとやくざ坊主を大枚はたいて海外に留学させたり、いまの坊主が卑猥なこと甚だしく、口とは裏腹に美女にうつつをぬかし、何かにつけて金品を要求したり、高利貸しまでおこなう。」と日本の仏教が堕落しきっていることを嘆いています。
大日如来(Mahāvairocana)は密教の最高位の仏で華厳経の毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ・Vairocana)と同一視されています。
大日如来は三つの性質を持っています。
除闇遍明( じょあん へんみょう) はあまねく宇宙を照らして闇を取り除き
能成衆務(のうじょうしゅむ)はあらゆる物事を生起させ、
光無生滅(こうむしょうめつ)は尽きることのない永遠の光です。
闇というのは光の不在のことで、仏教で煩悩に囚われていることを無明といっています。
煩悩を打ち消す光のことを智といってます。
般若心経の般若(プラジュニャー)智慧のことです。
あらゆる事象が泡のように、はかなく実体がないことを洞察する智慧(プラジュニャー)によって、すべての悩みや苦しみは解放されます。
光は全宇宙をあまねく照らしていますが、自我は常に思考という雲で光を覆っているので、大日如来の光に気がつかないのです。
思考は過去の経験から来ているので、今ここにいられません。
熊楠は大日如来に過去や未来はなく、空間もないと理解していました。
那智時代に、大自然の中で暮らしていた熊楠は、変性意識状態を経験していました。
「布団かぶりあるに目の前明るし、それにあるものを見るに見えず、また布団のシワ等の影もなし、明るきこと水銀の如し」南方熊楠
思考が静まって瞑想状態に入ると、臨死体験者が語るような光の体験をします。
それは尽きることのない永遠の光です。
「大日如来は天然に宇宙のみならず宇宙を包蔵してなんとも感ぜぬほどの大なるところに存するものなり」南方熊楠
大日如来は、アートマン=ブラフマンや道教の無や万物を創生する神と同じ働きをもっています。
釈迦も仏教も源流をたどれば大日如来から生じていると熊楠は語ります。
「これをいう言うもの、誰がいうたからそのものの功名というべきにあらず」熊楠
自分が打ち立てたと思っているどんな素晴らしい説も、大日如来の教えの一雫にすぎないのです。
あらゆる全ての現象は大日如来から生じているのです。
有名な南方曼荼羅の思想が生まれたのは、土宜 法龍(とき ほうりゅう)との書簡によってです。
もし、熊楠の書簡が破棄されていたなら南方曼荼羅は世に知られることはなかったでしょう。
真言密教では、究極の悟りを開くことを即身成仏(そくしんじょうぶつ)といっています。
空海はそれを「重重帝網なるを即身と名づく」といいました。
インドラの宮殿に幾重にも重なり合って張り巡らされた網には、無数の宝珠がつけられています。
その宝珠同士が互いに映し合って、際限がありません。それを観照している状態が、究極の悟りなのです。
曼荼羅は、あらゆるものすべてに仏性が含まれることの理解と体験を助けるために、象徴的に表現されました。
マンダラ(曼荼羅)のマンダは、サンスクリット語で「本質」「真実」の意味があり、ラは所有なので、曼荼羅は本質を得るという意味になります。
漢訳は、輪円具足(りんえんぐそく)と訳され「円」「全体」の意味もあります。
「道場」という悟りをうる場所の意味にもなっています。
熊楠は、いかに心と物がまじわって事が起きるのか真実を究めようとしました。
世間の科学者、哲学者のように、心と物をバラバラに見ていては、本質をつかむことはできません。
「さて物心事の上に理不思議がある。これはちょっと今はいわぬ方よろしかろうと思う。右述のごとく精神疲れおれば十分に言いあらわし得ぬゆえなり。これらの諸不思議は、不思議と称するものの、大いに大日如来の大不思議と異にして、法則だに立たんには、必ず人智にて知りうるものと思考す。」熊楠書簡
熊楠は、世界で起きている現象を、諸不思議といっています。
南方曼荼羅は、カテゴリーが異なる物不思議、心不思議、事不思議、理不思議どうしが、たがいにつながり、結びあって多元的な重層構造をなす大日如来の大不思議、という全体構造になっています。
粒子が生成消滅を繰り返し「非存在」と「存在」の間をゆらいでいる無の状態から、物質宇宙が誕生すると現代物理学が説明しているように、熊楠は大日如来の大不思議から「心」と「物」が同時に生まれてくると言っています。
熊楠が語る大日如来とは、人間の知性の産物の概念ではなく、「心」と「物」を生み出す力であり宇宙全体を内包して、さらにすべての不思議を超えた実在のことだと言っています。
物とは自然科学の対象となる物質世界のことで、心は人間の精神の作用です。
熊楠は、心と物が関係して交わるところに事が生じると言っています。
理不思議はそれらの不思議を超えたところの世界のことです。
諸不思議が一番多く交じわる点を、熊楠は萃点(すいてん)と言っています。
『(因果は断えず、大日は常住なり。心に受けたるの早晩より時を生ず。大日に取りては現在あるのみ。過去、未来一切なし。人間の見様と全く反す。空間また然り。)故に、今日の科学、因果が分かるが、縁が分からぬ。この縁を研究するがわれわれの任なり。しかして、縁は因果と因果の錯雑して生ずるものなれば、諸因果総体の一層上の因果を求むるがわれわれの任なり』熊楠書簡
熊楠によると、科学は因果をわかっているが、縁をわかっていないといいます。
時空を超えた現象は通常の科学では捉えられません。
全ての現象は、複雑に関連しあっているので、未知の存在は内在する「理不思議」の力によって、予測することができるのです。
大日如来の大不思議の説明は
インド哲学のアートマン=ブラフマン、
カバラのアイン・ソフ、
万物の根源である道教の無、
あらゆるものを生み出した神、
新プラトン主義の一者(the One)とよく似ています。
ロンドン時代に自然科学者の徒だった熊楠は、那智の大自然に入り物質世界を超えた体験をしています。
そのことを「事物心一切至極のところを見んには、その至極のところに直入するの外なし」と言っています。
熊野の森に住む無数の生き物の姿は、無数の大日如来の化身の如来が法を説いている姿でした。
南方曼荼羅は驚きと喜びに満ちていて、宗教と科学が一体となった世界でもあったのです。
全ての事象は、無関係に存在しているようにみえますが、目に見えないところでは、因果と縁により複雑に絡み合って、相互に繋がり結びついています。
この世にあるすべてのものは 何一つとして無意味なものはなく、それぞれが大切な存在として世界を構成しているのです。
南方熊楠は「世界に不要なものなし」といっています。
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