宮沢賢治と仏教

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「すべてのものに生命が宿る」という考え方をアニミズムといいます。縄文はこのアニミズム、精霊信仰をもっていました。貝塚は縄文人のゴミ捨て場と思われていました。

貝塚からは貝殻や獣や魚の骨などの食料のほか、破損した土器や石器、骨角器などの道具類などが大量に出土しています。縄文人はあらゆるものに霊が宿ると考えていました。

宇宙は円環になっていて、その輪の中で生死は循環しています。

モノノケとはモノとケが合体した言葉です。古代の人々はモノを単なる物質的存在ではなく、霊的な存在として捉えていました。

ケとキは異語同義語で、中国でキ(気)は潜象エネルギーを表しています。

人間も動物だけでなく道具も全て死ぬと霊となってあの世に帰って行きます。

そして魂を無事にあの世に送るために祈りの儀式をしました。そうして、再生してこの世に戻ってくるのです。貝塚はゴミ捨て場ではなく、埋葬する神聖な祈りの場だったのです。

昔の日本人は木の根元にお神酒を注いで山の神の許しを得てから、木を切っていました。

日本人の心には縄文の「すべてのものに生命が宿る」という考えが受け継がれていました。

仏教が入ってくると平安時代に人間や動物はだけでなく山や川や草や木も石も、すべて成仏できるという天台本覚思想が現れました。

仏教は日本に入ると縄文のアニミズムと同じ考え方になりました。

宮沢賢治の中では全ての生きとし生けるものに仏性がある仏典の言葉「悉有仏性(しつうぶっしょう)」と縄文のアニミズムが一つになっていました。

「どんなこどもでも、また、はたけではたらいてゐるひとでも、汽車の中で苹果(りんご)をたべてゐるひとでも、また歌ふ鳥や歌はない鳥、青や黒やのあらゆる魚、あらゆるけものも、あらゆる虫も、みんな、みんな、むかしからのおたがひのきやうだいなのだから」〔手紙 四〕

大正9年、賢治は国柱会の会員になり熱心に法華経の普及に努めました。

国柱会を興した田中智學が日本書紀の神武天皇から取り出した言葉に「八紘一宇(はっこういちう)」があります。

「一宇(いちう)」は「同じ一つの屋根」という意味で田中智學の「八紘一宇」は天皇も国民も法華一乗による世界の統一を意味していました。

それが二・二六事件の青年将校の決起文で「八紘一宇」が使われてから流行語になり、天皇を中心とするアジアの統治に使われた軍国主義の言葉ということで、戦後GHQによって八紘一宇の語の使用が禁止されしまった経過がありました。

満州事変に関わった関東軍参謀の石原莞爾は国柱会の熱心な信者でした。

国柱会=軍国主義に加担した右翼というイメージがあり、国柱会の熱心な信者となった賢治をどのように評価したらよいのか困惑する人もいると思います。

賢治が国粋主義者を尊敬していては困るわけです。

賢治と国柱会が関係ないことにしたいところですが、賢治は生涯に渡って会員でした。

賢治は父親に日蓮宗への改宗を迫り失敗、口では南無阿弥陀仏と唱えながら質屋と古着屋を続けて貧しい人から搾取する父親に反発して家出した時期に賢治は国柱会に入信しているので、大正9年の頃の賢治は相当な興奮状態にありました。

「今や日蓮聖人に従ひ奉る様に田中先生に絶対に服従致します。御命令さへあれば私はシベリアの凍原にも支那の内地にも参ります。乃至東京で国柱会館の下足番をも致します。それで一生をも終ります。」(保阪嘉内あて書簡)

「間違えた教えによる人はぐんぐん獣類にもなり魔の眷属にもなり地獄にも落ちます」(宮本友一あて書簡)

この辺りの賢治のマインドは折伏(しゃくぶく)を信仰の実践とする国柱会の影響を強く受けていました。

そして親友の保阪にも国柱会に熱心に何回も勧誘を迫りました。「早く形だけでも日蓮上人の門下になって、憐れな衆生を救おうではありませんか。そうしないと地獄の火に焼かれますよ」と書いていますから、保阪にとって迷惑な話だったと思います。

保阪は入信を断り二人の中はついに決裂しました。

親友に去られて相当なショックを賢治は受けたと思います。

そして、生活費を切り詰めた賢治の東京の生活はジャガイモと水だけという極端な粗食のため栄養失調による体調不良にも陥っていました。ついに熱を出して倒れてしまいました。

親友を失った欠落感、父親との葛藤、精神的にも経済的にも肉体的にも賢治は追い込まれていました。

青年賢治の自我は揺さぶられて崖っぷちに立っていました。

傷心して父親のいる花巻へ戻って教師になった賢治に最愛の妹トシを失う悲劇が訪れました。

賢治は魂の暗夜に入って嘆き悲しみました。

トシの他界(大正十一年十二月)は賢治の新たな扉を開かせて成長させたようです。

「巨きな人生劇場は時間の軸を移動して不滅の四次の芸術をなす」(農民芸術概論綱要)

リルケは失恋の痛手を詩に変えました。

賢治もまた悲しみ、苦しみを童話や詩に昇華しました。

大正十年から十二年にかけて賢治は爆発するように生涯の作品の6割をこの三年間で書いています。

無意識から湧き上がる衝動に気がついたのなら、他人に暴力的になったり自分を傷付けるのではなく歌や踊り、絵画や詩などの芸術を通して、否定的だったエネルギーを変容させて創造的に昇華することができます。

最悪と思える事態でも振り子の針が反対に振れると最良の効果をもたらします。

「かなしみはちからに、欲(ほ)りはいつくしみに、いかりは智慧にみちびかるべし」賢治(書簡165)

意識の座が次元上昇すると存在力が増すので微細なエネルギーを扱えるようになるのです。


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宮沢賢治の家は浄土真宗でしたが法華経に帰依するきっかけとなったのは18歳の時に父政次郎に贈られた島地大等による赤表紙の『漢和對照妙法蓮華經』でした。

父親との確執、家業を継ぐこと、体の病気、18歳の賢治は精神的に不安定になっていました。その時に島地大等の赤本法華経に出会ったのです。

仏教の言葉は苦しんでいた時の賢治の感性にぴったりだったのです。

宮沢賢治は赤い表紙の法華経の本を座右の書として深く読み込んでいました。

賢治はこの通称赤本を1000部刷って東北の山々に埋經するように父の政次郎に遺言しています。

浄土真宗の信者は罪深い自分の業を自覚して、苦しみを辛抱してこの世を生きていけば来世に救われて極楽往生できると考えていました。

賢治の父政次郎は二百年続いている真宗の敬虔な信者でした。賢治の父は自分のことを「妄念の結晶なる罪悪の凡夫」と表現しています。

賢治の家は古着屋と質屋をしていました。

賢治は家に質を入れに来る貧しい人々を見ては「かわいそうだ。世の中が不公平だ。父の家業が嫌だ。」とおいおい泣いたと言います。

貧しい人々から搾取している自分の罪悪を認めながら南無阿弥陀仏と唱えるだけで現世の悪に消極的な父親に賢治は反発していました。

法華経を説いた日蓮は来世志向の浄土宗派を厳しく批判しています。

法華経の序品に仏の額から光明が出て東方万八千の仏土を照らし出したと書いてあるように、あらゆるもの全てが仏の光明そのものでした。

生まれもしない、死にもしない、永遠に変わることのない仏の光の世界、賢治の言葉で言えばマコトの世界を常寂光土(じょうじゃっこうど)と言いました。

この世を常寂光土(じょうじゃっこうど)に導くことを日蓮は立正安国と言っています。

現世に消極的で死後に救済を求める来世志向の浄土真宗から強烈な現世志向の日蓮宗に賢治は宗旨替えをしました。

賢治の法華経への傾倒は敬虔な浄土真宗信徒の父親への反発もあったのでしょう。

阿弥陀の語源は「無限と無量の光」なので、今ここにある光明そのものを意味していました。

極楽浄土は死んだ後の遠い世界ではなく今ここのいきている娑婆世界に光明がありました。

日蓮宗も浄土宗も究極はどちらも光明に溶け込んでしまうのです。

マインドの眼を通して見ることをやめて、ハートで見るとこの世界は愛と光で満ちています。

賢治の作品は法華経の影響が強く反映されて誕生したと思われていますが、賢治はどうやら目に見えない世界を見ていたようでした。

「いかりは赤く見えます。あまり強いときはいかりの光が滋くなって却て水の様に感ぜられます。遂には真青に見えます」宮沢賢治 (1920年6~7月 保阪嘉内への書簡)

この賢治の「いかりは赤く見えます」はオーラ(微細身)と呼ばれる目に見えない身体のことです。

青はエーテル体の色でもあります。

インド哲学で身体を大きくグロスボディ(粗大な身体)・サトルボディ(微細な身体)・コーザルボディ(原因の身体)の三つに分類しています。

神智学ではそれを1フィジカル体肉体 2エーテル体(星気体)3アストラル体(感情体)4 メンタル体(精神体)5コーザル体(原因体)又はスピリッチュアル体(霊体)6コスモス体(宇宙体)7ニルヴァーナ体(涅槃体)の七つに分類しています。

肉体(ボディ)・精神(マインド)・魂(スピリット)と分けることもあります。

あらゆる精神的な道は人間の存在が物質的な次元を超えていることを示しています。

現代社会に生れた私たちの自我は近代合理主義に洗脳されてしまっています。

共同幻想の社会の中で真実の世界に気づくのは難しいようです。

頭の中に刷り込まれた世界が真実と思い込んでいる家族や職場の同僚がそれを補強するからです。

真実の世界と思っていたものは過去の記憶にしたがってマインドが作り上げた観念の集合体にすぎないのです。

「わがあたまときどきわれにきちがひのつめたき天を見することあり」(歌稿A134)

「そらに居て緑のほのほかなしむと地球の人のしるやしらずや」(歌稿B160)

賢治は肉体を離れた経験をしていたようです。

臨死体験者が語るように意識は時間と空間を超えています。

賢治は早池峰山の登山道で野宿した時に坊さんの幽霊を見ていました。

「早池峰山へ登った時でしたがねぇ、あすこの麓に大きな大理石がごろごろ転がっているところがありましてねぇ。その谷間は一寸した平地になっているのですがそこの近所に眠ってしまったんですよ。お月さまもあって静でよい晩でしたね、うつらうつらしていましたらねぇ、山の方から、谷あいをまるで疾風のように、黒いころもの坊さんが駈け降りて来るんですよ、念仏をとなえながら、またたく内に私の前を通り過ぎ、二人とも若いその坊さん達は、はだしでどしどし駈けて行ったんです。不思議なこともあるもんだとぼんやり私は見送っていましたがね。念仏はだんだんに細く微かに、やがて聞こえなくなったんですよ。後で調べたら、あすこは昔大きなお寺があったところらしいんですね。河原の坊といわれるところでしたよ。土台の石なんかもあるという話でしたよ。何百年か前の話でしょうねぇ、天台か真言か古い時代の仏跡でしたでしょうねぇ。」(鈴木健司著「宮沢賢治 幻想空間の構造」)

私たちの本質は生死を超えています。

『ぼんやりと脳もからだもうす白く消え行くことの近くあるらし』 (歌稿A165)

私たちが死と呼んでいるものは物理的な肉体が要素に分解して、非物質的な目に見えない身体である精神(マインド)・魂(スピリット)だけになることを表しています。

「私の世界に黒い河が速にながれ、沢山の死人と青い生きた人がながれを下って行きまする。青人は長い手を出して烈しくもがきますがながれて行きます。青人は長い長い手をのばし前に流れる人の足をつかみました。また髪の毛をつかみその人を溺らして自分は前に進みました。あるものは怒りに身をむしり早やそのなかばを食ひました。溺れるものの怒りは黒い鉄の瓦斯となりその横を泳ぎ行くののをつつみます。流れる人が私かどうかはまだわかりませんがとにかくそのとほりに感じます。」(1918年10月1日 保阪嘉内への書簡)

賢治は目に目えない世界を感じていました。振動レベルによって意識の世界は階層に分かれています。

若い頃の賢治は苦しんでいたので否定的なマイナスの振動帯の体験をしていました。

心が落ち込んでいるときは落ち込みの振動レベルに同化してしまうので、落ち込みのプログラムが作動して否定的な経験を味わうように宇宙はできています。

そうならないようにするには、落ち込んだとき、その振動レベルに同化しないように意志力を使って今この瞬間に集中することです。

そうすると、世界は肯定的な意味にあふれ自己の感覚は広がります。

マインドはいまここにいられないのです。

農民芸術概論綱要序論 宮沢賢治

世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない

自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する

この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか

新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある

正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである

われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である


Facebook清水 友邦さん投稿記事「宮沢賢治と仏教 4」

「石丸さんが死にました。あの人は先生のうちでは一番すきな人でした。

ある日の午后私は椅子によりました。ふと心が高い方へ行きました。錫色の虚空のなかに巨きな巨きな人が横はってゐます。その人のからだは親切と静な愛とでできてゐました。

私は非常にきもちがよく眼をひらいて考へて見ましたが寝てゐた人は誰かどうもわかりませんでした。次の日の新聞に石丸さんが死んだと書いてありました。

私は母にその日「今日は不思議な人に遭った。」と話してゐましたので母は気味悪がり父はそんな怪しい話をするな、と云ってゐました。

石丸博士も保阪さんもみな私のなかに明滅する。みんなみんな私の中に事件が起る」

(宮沢賢治 大正八年保阪嘉内あての書簡)

「みな私のなかに明滅する。みんなみんな私のみんな私の中に事件が起る」この言葉は春と修羅の「わたくしといふ現象は假定された有機交流電燈のひとつの青い照明です(あらゆる透明な幽霊の複合体) 風景やみんなといっしょにせはしくせはしく明滅しながらいかにもたしかにともりつづける因果交流電燈のひとつの青い照明です」に対応します。

私といったときに賢治は全てを包んでいる大きな私とその大きな私の中で明滅する実体のない二つの私があることを言っています。

また賢治は親友の保阪の手紙に

「アオイ山ノナミ、(ユケドモユケドモ)雲ハシハヲツクリ山ヲツクリ、人ハマナコヲトヂテアラハレル木立水ヲ『マコトノ世界トヒトシカラズヤ』トカナシンデ行キマス。世界ノAモ、世界ノ’Aモ均シク寂カナ秋ニナリマシタ。」

と「A」と「’A」と分けて現実の目に見える世界とマコトノ世界の二つの世界があることを説明しています。

マコトノ世界とは天台教学のあるがままの真実の姿を意味する「諸法実相」のことです。

賢治は大正7年に種山ヶ原に同行した佐々木又治宛の手紙で

「コノ辺ノ山ヤ川ノエ合ナンカハモウアナタニハ夢ノ様ニ思ハレルデセウ。本統ニコノ山ヤ川

ハ夢カラウマレ、寧ロ夢トイフモノガ山ヤ川ナノデセウ」

現実の目に見える世界とは夢から生まれた世界と言っています。

精神世界ではこの世は夢だと言います。

「神は言い給うた、実際には眠っているのに、彼らは目覚めている、と汝は考えるであろう」コーラン18-18

「おまえにせよ、みな夢を見ているのだ。いや夢だといっているこのわたしでさえ、例外なしに夢を見ているのだ。」荘子

「人間の意識は深く眠っており、機械のように生きている」グルジェフ

仏教では生死の夢から覚める事を涅槃といいます。そして夢から覚めて涅槃に入る人を仏、覚者と呼びます。私たちは目が覚めるまで、思考が作り上げた自我と言う監獄で光と闇、苦悩と歓喜が織りなす夢を見続けるのです。

別な保阪嘉内宛の書簡で賢治は聖徳太子の有名な言葉「世間皆是虚仮仏只真」を引用し

世間とは実体のない世界であり仏だけが唯一真実だと言っています。

真実の仏とは賢治は別なところで法性とも言っていますのでマコトノ世界=「’A」=法性=法身=諸法実相=真実の仏となります。

賢治は目に見えない世界を感じる心を持っていた人でした。

目に見える現実世界と目に見えない世界の中で葛藤する中で賢治は自分の感性と一致する仏教の言葉に出会ったのです。

それが、島地大等の赤本『漢和對照妙法蓮華經』だったのです。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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