Facebook日本の神様カード・日本の神託カードさん投稿記事
「日本の神様よもやま話 其の二十八」
あす10月8日は「木の日」。
特に歴史的な理由があるわけではなく、漢字の「十」と「八」を組み合わせると「木」になることから、この日に制定されたものです。
日本は国土の65%が森林となっています。
それだけに、木材は豊富であり、人々は森や木からの恵みを有効活用して生きてきたといえます。
しかしながら、高度経済成長期に様々な材料として木材の需要が増えたことで伐採が進み、固有種は失われ、成長の早い外来種の杉ばかりが植えられるようになりました。
さらに時代が進むと、国内で木を伐採するよりも、海外から輸入する方が安くなったこと、また、森林保護が重要視されるようになったことなどから、植えられた外来種の杉は伐採されず、いまや日本の国民病となりつつある「花粉症」を生み出してしまったのです。
『日本の神様カード』にも登場する「大屋毘古神(おおやびこのかみ)」は、木の神様です。
この神様は「大きな木のように、大地に根を下ろして、自己中心性という眠りから覚める時がきています」と私たちに伝えています。
さらに、そのテーマは「現実を自分のうちに見つける」「古いパターンに気づき手放す」といったもの。
メッセージとしては「今まで放置していた問題や過去の出来事が、再び浮上してくる兆しが見えます」というものもあります。
これはまさに、固有種を経済の為に伐採して、外来種を目先の欲にとらわれて考えなく植林したことで引き起こされた花粉症をあらわしているようにも思えます。
大屋毘古神は「古い習慣を手放し、自由を手に入れましょう」と伝えています。
自己中心性という眠りに陥ってしまわないように、秋晴れの日には外に出て大きな木に触れてみましょう。
偉大な教師である木は、大屋毘古神のメッセージをきっと伝えてくれるはずです。
Facebook相田 公弘さん投稿記事
「生きた化石」といわれるイチョウのルーツは、2億年余り前にさかのぼり、恐竜の時代には世界で繁栄していたといわれます。
ところが、その後絶滅に向かい中国の一部でわずかに生き残ったものが、鎌倉時代の豪族による南宋との交易によって、初めてギンナンの実が大陸から伝えられた。
5代将軍・綱吉の時代に、長崎のオランダ商館付きの医師として来日したドイツ人ケンペルが驚いたのが、イチョウで、帰国の時、その種子(銀杏)を持ち帰って、絶滅したと思われていたヨーロッパでもイチョウが蘇ったのでした。
ゲーテはイチョウを愛し、次の様な詩を遺しています。
「銀杏の葉」 ゲーテ
東洋からはるばると わたしの庭にうつされたこのいちょうの葉は
賢い者のこころをよろこばせる ふかい意味をもっているようです。
これはもともと一枚の葉が 二つに分かれたのでしょうか?
それとも二枚の葉がたがいに相手をみつけて ひとつになったのでしょうか?
このようなことを思っているうちに わたしはこの葉のほんとうの意味がわかったと思いました。 あなたはわたしの歌をきくたびにお感じになりませんか、
わたしが一枚でありながら あなたと結ばれた二ひらの葉であることを
(手塚富蔵訳:世界の詩集1「ゲーテ詩集」角川書店)
1815年、66歳のゲーテは、この詩に自宅の庭に植えてあったイチョウの葉を添えて、25歳も若い恋人ヴィレマー夫人に贈ったという。東洋に一種のあこがれを持っていたゲーテには、イチョウは東洋の象徴でもあった。
銀杏(イチョウ)は東京都の木・大阪府の木に指定されているように、大都市の街中で最も多く目にする高木種で、イチョウが都会の街路樹として好んで利用されるのは、排気ガスなどの大気汚染に強い落葉樹という性質によるが、耐火性に優れるという特質が防災面で期待されていることもあるらしい。
東京は近代以後、関東大震災、東京大空襲と2度大火に見舞われたが、一面焼け野原という状況で、火に耐えて生き延びたイチョウは少なくない。
銀杏は美味しいですが、あの果肉の臭いには参ります。(^_^;)
※写真は、足利氏宅跡・鑁阿寺(ばんなじ)の大銀杏です。
https://note.com/perc_blue/n/n2b170d007ff5 【がじゅまるの樹には妖精が宿る】より
がじゅまるの樹には妖精が宿る。
そんなことを聞いたことがありませんか?
Wikipediaでがじゅまるを調べると、次のような記述があります。
沖縄県ではガジュマルの大木にはキジムナーと言う妖精のようなものが住んでいると伝えられる。
わたしが20代前半の、大学卒業したくらいで、当時付き合っていた人と別れて実家に戻り、多少傷ついていた頃。
とある雑貨店で、がじゅまるの樹を買った。
その一年ほど前に沖縄に行ったときは特に買おうとも思わなかったのに、その時見たがじゅまるに何かを感じたのかもしれない。買った時の詳しい経緯とか気持ちは一切覚えていないのだ。
手入れがとても簡単で、水を毎日はあげる必要もなく、とにかく手がかからないのに部屋に緑がある。なんかいいな、みたいな。
がじゅまるがわたしの元に来て何年経った頃のことで、これまた詳しいことはさっぱり覚えていないのだけど。ある日母がわたしに、「この木はあなたの木だね」と言った。それは所有者がわたしであるという意味ではなく、この木はわたしの分身のようなものだという意味だった。彼女がなぜそう思ったのか、それも定かではないが、その言葉はわたしの中に残った。
結婚して実家を出るとき、もちろんがじゅまるも一緒だった。
リビングに飾り、定期的に水をやり日向に移動させていたら、ぐんぐん枝を伸ばすようになった。それまで力を温存していたかのように、突然、ぐんぐんと。時期が来ると緑の葉をしっかり携え、それはそれは生き生きとしていた。
枝が伸びたということは根っこも?となり、知人のお母さんが園芸関係の仕事をしており、植え替えをしてもらった。窮屈なもともとの小さな鉢から解放され、広い棲家を手に入れたがじゅまるは、さらに生き生きと枝を張り、その元気な姿をわたしに見せてくれた。
クリスマスにはツリーの代わりに、枝にオーナメントを飾ることもあった。
いつしかこの木のことを「がじくん」と、安直な呼び名で呼び、水をあげたり日向に出したりするたびに話しかけていた。わたしはもともと人間以外の、無機質なものに対しても話しかけるタイプの人間で、植物は生きているから意思疎通が取れると思うと、話しかけてしまう。
そんながじくんと、数年前にお別れをした。
数年前、わたしは当時の職場の上司によるパワハラで数ヶ月間休職をしていたことがある。春先から夏まで、4か月ほど。その年の夏はとにかく暑く、エアコンを毎日つけっぱなしにしないと溶けてしまいそうな日々だった。
抑うつ反応と診断されたわたしは、朝起きることもままならず、なんとか重い身体を引き摺り出してリビングに移動しては日向ぼっこをし、空腹を感じたら食事を摂り、その日その時できそうな家事をし。夜は薬の副作用で眠れない日々を繰り返していた。
そんな日々の中でがじゅまるのお世話が疎かになった。自分自身のこともままならず、同居人からの救いの手もなく、苦しいなか、ベランダで陽に当てられたままのがじゅまるを見るたび、水をあげなくちゃとか、そろそろお部屋に入れてあげなくちゃとか。思うのに行動が伴わず、時々気まぐれに水をあげる程度になってしまっていた。よくないとは百も承知だった。
そしてある日、そのときはもう病の元凶の職場を去り、新しい場所に行くことが決まっていた頃かもしれない。
がじゅまるの幹が空洞であることに気づく。
いや、そこまで行く前から、うすうす気づいてはいたのだ。その度に樹木医を検索したり、気にはかけていたけれど、行動に移せなかった。
こころを病むことは、想像以上に苦しくて、今まで出来たことがすんなりできなかったり、頭と身体がバラバラになるなんてしょっちゅうだった。だから、がじゅまるが壊れていくのが分かっていても、うまく対処出来なかった
がじゅまるの幹は空洞で、でも、なぜかとてもきれいに思えた。わたしが病みはじめたタイミングと、がじゅまるが枯れはじめたタイミングが似ていて、がじゅまるの枯れが進むと、わたしの体調が落ち着いていった。
「(この)がじゅまるは、わたしの木」
がじくんが身を挺して、わたしに元気をくれたのだと、そう思った。幹が空洞になったのは、妖精が去ったからだ。なぜかそんなふうに思えた。ふしぎなことに。
わたしはがじくんに、何度も何度も、ありがとうと言った。そして、泣いて謝った。
わたしはモノにも命が宿ると思うタイプなのですが、がじゅまるのがじくんほど、その力を感じた植物はまだほかに出会っていません。
育てるのが簡単と言われたハーブも枯らしてしまったのに、このがじゅまるだけは10年以上わたしのそばに居てくれて、最後にわたしに命をくれました。
これを書きながら、がじゅまるの最後の光景を思い出し、泣きそうになりました。
それから、部屋に緑があるといいなと思いつつ。まだぴんとくる出会いはありません。
またがじくんみたいな、すてきな緑に出会える日が来ますように。
おしまい
https://ameblo.jp/rentomiku/entry-12638193257.html 【ガジュマルの木に住む妖精】より
公園の中に温室があり、入ってみたら大きなガジュマルの木がありました。
なんか ほかの植物も沢山寄生しているのかな?
ガジュマルの木を見ていたら、昔の知人を思い出しました。波照間島の出身の人です。
沖縄最南端の島ですね。
その人の家の庭にガジュマルの木があり、庭でお昼寝していると、その木に何かがやってくる といっていました。
一緒に遊ぶ ということではなくて。あ~、また来ているな~とわかる。目に見えない?
気配を感じる のだそう。
木から いつの間にかするすると移動してきて自分の腕とか肩とかにやってくるそうです。
後で、「 キジムナー 」?と聞いてみましたが、「 わからない 」と彼女はいっていました。
「 でもいるんだよねぇ。見えないんだけど。いるのがわかる。 」
そういっていました。
彼女は もう亡くなってしまって もうその話も聞くことができません。
ガジュマルの木を見ると思い出します。
沖縄に行くと、大きなガジュマルの木が沢山あります。
それらを見ていると、本当に そんな妖精、お化け?妖怪?が宿っていそうだなあと思います。私もそんな妖精?お化け?に会いたいな。
最近 大好きなオキナワに全然行けてないけど、沖縄に行くと やっぱり大きなガジュマルの木を探しています。
大きな木には昔から 聖霊が宿るともいいますね。きっと なにかはいるでしょう。
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