FacebookHiroshi Kaneiさん投稿記事
ターシャ・テューダーさんの言霊を集めました。
先人達の想いが未来へ…そしてあなたへ届きますように。
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若い人には、挫折や失敗、思い通りにいかないことがあっても、自信をなくしたり、悲観したりしないでと言いたいわ。世の中は動いているんですもの。あきらめてしまったらそれまでよ。それより、世の中にある良いこと、楽しいことをつかむ努力をしてほしいわ。
昔から言うでしょう?何もしなければ、何も生まれないって。辛抱することは、大きな夢をつかむこと。価値のある良いことは、時間も手間もかかること。
無理をしないで、今の自分にできることを楽しんだら?季節は確実に進み、それぞれの季節に、それぞれの美しさと、やるべき仕事がある。
わたしにとって、人生でいちばん大切なことは、心の充足です。
与えられた運命、自分が置かれた環境に、満足して生きることです。老いは、自然の贈りもの。私たちは、みな死に向かっていくのよ。でも、決して死を恐れることはない。
それより大切なのは、今この時を、精一杯生きること。
どんな瞬間にも、生きていることの喜びを感じとること。人生は短いから、不幸になってる暇なんてないのよ。朝日の輝きが、風にゆれる枝が、心を満たしてくれる。
その喜びを忘れずに生きていきなさい。
何かに夢中になるのは大事なことです、何でもいいの。それが人を前に進ませます。
急ぐことがいいとは思いません、私は何でもマイペース。
仕事も、納得するまで時間をかけます。子供達には家の手伝いをよくさせました、
責任を果たすのは当たり前という気持ちを持つことは大切だと思います。
最初から恵まれすぎてるより、足りないくらいの方が人生からより多くの喜びを引き出せる、
ということもあります。
私が心掛けてきたことは、騒音、ごたごた、攻撃的で付き合いにくい人を避けること。
自分の経済力に見合った生活をすること。できるだけ自給自足すること。
ほかの人が何をどうしようと、自分がいいと思うようにすればいいのです。
動物にも鳥にも、心や感情があることを忘れている人がいるのは、悲しいことです。
子供は、のびのびとした楽しい子供時代を過ごし、その間に自分で感じ、考え、夢を見、決断し、実験する必要があるのです。
親が子供にしてやれる事で、とくに大切なのは、子供時代に楽しい思い出をたくさん作ってあげる事です。
ユーモアは、人を笑顔にさせ、幸せにし、人の営みを豊かにします。わたしは八十九歳になりますが、やりたいこと、学びたいことが、まだたくさんあります。
長生きして、生きる喜びを満喫するつもりよ。生きているって、すばらしいと思いませんか。
家事をしている時、あるいは納屋で仕事をしている時、これまでの失敗や過ちを思い出すことがあります。そんな時は考えるのを急いでやめて、スイレンの花を思い浮かべるの。
スイレンはいつも、沈んだ気持ちを明るくしてくれます。思い浮かべるのは、ガチョウのひなでもいいんだけど。
わたしはジョージ・バーナード・ショーの次の言葉を座右の銘として生きて来ました。
「人は自分が置かれている立場を、すぐ状況のせいにするけれど、この世で成功するのは、立ち上がって自分の望む状況を探しに行く人、見つからなかったら創り出す人である」
もし、わたしに人生哲学のようなものがあるとすれば、ソローの言葉がいちばんよく代弁しています。
「夢に向かって自信をもって進み、思い描いた人生を生きようと努力するなら、思わぬ成功を手にするだろう」
まったくそのとおりです。この言葉は、わたしの人生そのものです。
人を喜ばせ、人の役に立ち、自分もおもしろいと思う生き方をして来られたこと、
これからもそのように生きていけそうなことを、嬉しいと思います。
生きていれば、落ち込むこともあります。
状況を好転できると思ったら、ぜひ努力すべきです。
でも、変えられないなら、それを受け入れて歩み続けるしかありません。
何があっても「生きていることを楽しもう」という気持ちを忘れないで。
今が、人生でいちばんいい時だと思います。
若い頃は、やりたくないこともやらなければならなかったし、疲れることも、やってもやっても終わらないことも多かったわ。
家計のやりくり、税金の支払い、仕事の締め切り、契約の更新といったことのうえに、途中からは、四人の子どもをひとりで育てるという仕事が加わりました。
それらのことが、全部なくなり、今は子どもや孫にしてやりたいことをし、好きなように絵を描き、大好きな庭仕事をし、動物との生活を楽しめるのですもの。
私は、社会通念より自分の価値観に従って生きるほうを選びました。
だから、おもしろくて充実した人生を歩んできたのだと思います。
年齢については現実的にならなければ。若い頃に戻りたいと思っても、何の役にも立ちません。歳を取っても、できることは、たくさんあります。新しいことも発見できるはずよ。
無理をしないで、今の自分にできることを楽しんではどうかしら?
これまでの人生は無駄だったなんて、どうして思う必要があるでしょう。
そう思う人がいたら、残り人生を、これまでの分まで楽しんで、と言いたいわ。
一生は短いんですもの。やりたくないことに時間を費やすなんてもったいないわ。
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ターシャ・テューダー(Tasha Tudor)1915~2008
アメリカの絵本画家・挿絵画家・園芸家・人形作家。彼女の描く絵は「アメリカ人の心を表現する」絵と言われ、クリスマスカードや感謝祭、ホワイトハウスのポスターによく使われています。50歳代半ばより自給自足の一人暮らしを始め、1800年代の農村の生活に学び、広大な庭で季節の花々を育て続けるライフ・スタイルは、日本でも注目を集めました。
世界中のガーデナーたちが憧れた偉大なターシャ・テューダーさんは、2008年6月 92歳で永眠されました。
Facebook岡本 頼孝さん投稿記事 「腐る野菜と枯れる野菜」(長文です)
腐る野菜と枯れる野菜は何が違うのか。そんな疑問点を考える投稿を見た。
なかなか面白かったのだが、僕は「野菜は小さい方を選びなさい」という本の中で、無肥料無農薬の野菜は枯れていくと書いているし、牛糞や鶏糞を使う野菜は不自然であると書いている。
批判覚悟でそう書いている以上、僕なりの考えはあるわけだが、ただ、その本を書いて既に8年が経過しており、今の考え方は随分変わってきた。
そのため、今の考えを書いてみたいと思う。
まず発酵と腐敗は何が違うのかという点から考えてみる。
この二つは同種の菌が作用する時も多いのだが、食品を製造する上で、有益に分解する場合が発酵で、有害に分解する場合が腐敗となる。
例えばヨーグルトの場合は乳酸菌による分解で乳酸や酢酸を作り、良い食料品となる。しかし、日本酒を製造する過程で特殊な乳酸菌が繁殖すると、火落ちと言って腐敗とみなされる。
どちらも食中毒を起こすことはないが、片や美味なるヨーグルトであり、片や臭い日本酒である。
納豆は日本人にとっては発酵であり、海外の人から見れば腐敗になるかもしれないし、シュール・ストレンミングやホンオ・フェや、あるいはくさやは、人によっては発酵であり、そして腐敗でもある。
結局は人間にとって有益か無益かの違いであり、発酵する野菜が品質が良く、腐敗する野菜が品質が悪いということにはならない。まずこの点が大切である。
で、次に本題の腐敗する野菜と枯れていく野菜は何が違うのかという点を考えてみる。
三つのよく消毒した清潔な瓶の中に、自然栽培のご飯、有機栽培のご飯、慣行栽培のご飯を入れ、封をして放置する実験が行われた。
結果は、有機栽培(牛糞)はドロドロに溶け、慣行栽培は黒ずみ、自然栽培は形を保っていたという、さもありなんな結論だったようだ。
この実験は僕が行った実験ではないので、詳しくは解説しないが、この実験が恣意的かと言うとそうでもないと思う。おそらく条件は同一に整えての実験だと思う。
下手に恣意的にすることで、むしろ信用を失う可能性が高いので、流石にそこまではしないだろう。
この例はご飯だが、野菜でも同様な実験は一部の農家によって行われており、概ね似たような結果になる。
しかし何故こういう結果になったのだろうか。
野菜で考えてみる。野菜の根がどうやってミネラルを吸収するのかと言えば、有機酸によるイオン交換、浸透圧、そして菌根菌を介した共生。
化学肥料は水溶性のミネラルである。水に溶けた肥料分は浸透圧で根に入るため、野菜が持つ自由水の量は増えがちである。これが腐敗に繋がる可能性がある。
では有機肥料はどうかと考えてみる。
有機栽培では、土壌中に野菜の根から放出された有機酸を利用したイオン交換で吸収される分が多いだろう。
牛糞や鶏糞などの有機肥料には有機体窒素が多く含まれる。これらは微生物の力でアンモニア態窒素や硝酸態窒素に変化して野菜に吸収される。
有機肥料には有機体窒素が多いため、その分、野菜が持つ硝酸態窒素量も多くなる。そして硝酸態窒素が多ければ腐敗しやすいという現実もある。硝酸態窒素は腐敗菌を増やしやすいのただ。
しかし、自然栽培では自由水は増えにくい。なぜなら土壌中にある水溶性のミネラルは少なく、灌水することも稀なので、少なくとも水脹れはしないだろう。
また、高濃度の肥料を与えないため、硝酸態窒素も少なくなる。それは硝酸態窒素の検査キットなどて調べれば一目瞭然であり、また、土壌分析でも明確になる。
つまり、自然栽培は成長が芳しくないと言う事実もあるわけだ。だからこそ、自然栽培の野菜は腐敗せずに枯れていくという現象が起きると考えても良いのではないだろうか。
さて、腐敗するものが悪い、枯れるものが良いという点から始まったこの議論だが、僕は正直に言って、その前提が間違っているように思う。
確かに自然栽培野菜は腐りにくいが、それは腐る前に水分が一定量抜けてしまうからと考えられる。植物は水分が抜ければ腐りにくいものだ。
だから、自然栽培野菜とは言え、ビニール袋に入れて保管すれば、水分が抜けずに腐敗菌が繁殖するのは当然である。
水分が少ない、あるいは抜けやすく腐りにくいのが良い野菜とは限らない。むしろ、野菜はそれなりの量の自由水を持ち、瑞々しい方が美味しく感じるものだ。
硝酸態窒素が少ない方が確かにエグ味は少ないが、それが美味しさに繋がるとも限らない。窒素が少なく成長の遅い野菜は、インパクトの薄い、味のない野菜になってしまうかもしれない。
つまり、腐るからと言って悪い野菜ということではなく、枯れるから良い野菜ということではないということだと僕は思う。
それはそれぞれの栽培方法による野菜の特徴であり、どれを選ぶかは消費者次第である。生産者が「これがいい、あれが悪い」などと自分の栽培方法を押し付ける方が、消費者にとっては迷惑ではなかろうか。
「野菜は小さい方を選びなさい」を書いてから8年経ち、自然栽培や自然農の野菜は確かに腐るよりも枯れていくものという主張は変わらない。
しかしそれは栽培方法による特徴でしかなく、それで野菜や穀物の良し悪しを決めるということ自体が間違いであると思うようになった。それが今の結論である。
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