https://sectpoclit.com/shusenkinennbi/ 【【秋の季語】終戦記念日/終戦日 終戦の日 敗戦日 敗戦忌 八月十五日】より
【解説】8月15日は「終戦記念の日」とされていますが、はたして「終戦」なのか、それとも「敗戦」なのかという問いは、俳句でもあります。季語として「終戦記念日」や「終戦日」を避けて、あえて「敗戦日」「敗戦忌」を使う人もいれば、あえてその選択を避けて「八月十五日」を採用する人もいます。
1955年の報道以降は、8月15日が「終戦=平和」の日として認知されるようになって現在に至っています。多くの歳時記には、「ポツダム宣言を受諾」したのがこの日であるように書かれていますが、実際には8月14日です。まあ、それはさておき、「敗戦」の日であり9月3日(ミズーリ号での調印)の日付が忘れられて、8月15日という日が特別な日であるように感じられるようになったのは、そのような戦後政治の力学がはたらいています。
日本政府は、この日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」として、全国戦没者追悼式を主催しています。テレビや新聞などでもおのずと、戦争を回顧・検証する番組や記事が多くなります。
【終戦日】
終戦日妻子入れむと風呂洗ふ 秋元不死男 堪ふる事いまは暑のみや終戦日 及川貞
終戦日象が鎖を曳きずれり 和田浩一 しらじらと橋を曝せり終戦日 西村和子
甲高きラジオの時報終戦日 片山由美子 終戦日父の日記にわが名あり 比田誠子
【敗戦日】
八月の富士のくろがね敗戦日 水原春郎 濡縁のとことん乾く敗戦日 宇多喜代子
敗戦日少年に川いまも流れ 矢島渚男
【敗戦忌】
影の数人より多し敗戦忌 渡辺誠一郎 敗戦忌まじめな舌と生きてゐる 橋本直
【八月十五日】
いつまでもいつも八月十五日 綾部仁喜 八月十五日兜太さんが居ない 黒田杏子
八月十五日烈火の薔薇を買ふ 石寒太 隣へ貸す八月十五日の大鍋 寺井谷子
八月十五日木影が家の中 中田剛 カンバスの余白八月十五日 神野紗希
【八・一五】
カチカチと義足の歩幅八・一五 秋元不死男
【その他】
玉音を理解せし者前に出よ 渡辺白泉 敗戦の前後の綺羅の米恋し 三橋敏雄
https://note.com/muratatu/n/n5d59e3d4babe 【『証言・昭和の俳句』増補新装版を読む】より
本書は、二〇〇二年刊の『証言・昭和の俳句』上下巻(角川選書) をそのまま再録し、後半にこの二冊を読んだ現役俳人たちの新稿の評文を加えて、全一巻として増補した新装版である。
(きき手・編集)
黒田杏子 (語り手)
桂信子・鈴木六林男・草間時彦・金子兜太・成田千空・古舘曹人・津田清子・古沢太穂・沢木欣一・佐藤鬼房・中村苑子・深見けん二・三橋敏雄
(増補新装版書下ろし執筆者)
宇多喜代子・下重暁子・寺井谷子・坂本宮尾・山下知津子・中野利子・夏井いつき・対馬康子・恩田侑布子・神野紗希・宮坂静生・齋藤愼爾・井口時男・高野ムツオ・横澤放川・仁平勝・筑紫磐井・五十嵐秀彦・関悦史・星野高士
〇 「増補新装版 あとがき」(黒田杏子)より抜粋
およそ20年前に出ました角川選書『証言・昭和の俳句』(上・下巻)は好評を博しました。「俳句」に連載された13名のロングインタビューをまとめたもの。聞き手は私黒田でした。(略)
このたびの増補新装版にはあらたに現在この国の第一線でご活躍中の皆様から書き下ろし四千字の玉稿を頂いております。
(以下、「件」37号掲載の関連記事からの引用を抜粋)
この大型連載企画の実現は海野編集長の英断あってのことでしたが、証言者十三名の人選にはきき手をつとめました私黒田の希望がそっくり叶えられております。
さらに証言のきき手は黒田がすべて担当しましたが活字化の段階では、証言者の一人語りとなっております。事前に用意、どなたにも用意してあった質問事項は、小見出しに生かすなどの工夫を致しました。つまり、収録の段階では対話形式をとっておりますが、どなたの場合も最終的には一人語り。これは私のアイディアであり希望でした。(略)
結果としてこの方法は正解、「俳句」誌のロングランの大型連載は予想を上まわる多数の読者の支持を得、共感の内に迎えられました。(略)
この本の構図は一言で言えば、学徒出陣世代の俳人達に、六十年安保世代の黒田がじっくりと話を伺うというものでした。(略)
いろいろと考えた末、二〇二一年の八月十五日に、この『証言・昭和の俳句』を再び世に出す、そのことを私は決めました。
具体的には写真を含め、十三名の皆さまの証言と自筆略年譜、そして基調な自選五十句はすべてそっくりそのまま、これを第一部として収録。さらに増補新装版として今回刊行いたします今回はつぎの二十名の方々に書き下ろしの原稿を頂戴する(おひとり四千字まで)。(略)
パンデミックのさなか、二〇二一年の終戦日、八月十五日に世に出る『証言・昭和の俳句』全一巻・像を新装版がおひとりでも多くの皆様、読者に迎えられることを希い、祈っております。
※
〇 齋藤愼爾著「『証言・昭和の俳句』散策」からの抜粋
(略)
黒田さんは「いま俳句に何が出来るか」というテーマを常に模索する思索と行動の人である。その眼には俳壇は沈滞しているとしか見えなかった。「現代俳句の〈現在〉」といったシンポジュームへの参加者も少なく、後退戦の雰囲気がきわめて濃厚である。そんな自覚を持つ俳人も少ない。(略)
本書の〈まえがき〉に書かれていることを、敢えて引用したのは、何か歴史的とか運命的といえる〝事件〟がおこるためにはどのような情況になっていなければならないのか篤と考えてみたいからである。
海野編集長から「綜合誌でこういうことをすべきだという提案などありましたら、ご意見をお聞かせ下さい」との電話が入る。黒田さんは「昭和俳句の証言者として、学徒出陣世代の俳人を中心に、重要な俳人たちの本格的な取材、つまり時間をかけた聞き書きを、今世紀のうちに、誰かが本気になってやっておくべきではないでしょうか」と答えた。
すわこそ時来るという瞬間である。余計なことを一言申し述べると、「学徒出陣世代」云々は咄嗟とはいえ、黒田さん以外の人には思いつかない発想であろう。
(略)
戦後七十六年、昭和は遥か茫々。八十二歳の私の個人史に何か刻印された記録はあるかと自問した。一つあった。昭和五十六年、わが師・吉本隆明は熊本市で石牟礼道子、渡辺京二と、食事をともにした。渡辺氏が吉本氏に「石牟礼さんは反核集会へ出たんですよ」と揶揄(からかい)気味に言うと、「石牟礼さんは出席しても構わないんです」と答えた。吉本氏は『「反核」異論』(深夜叢書社)の著書もある如く、反核運動を鋭く批判していた。
渡辺京二氏は「吉本さんの石牟礼道子に対する理解は深い」(石牟礼道子評伝年譜))と感じ入る。吉本氏の言は最高の尊敬(オマージュ)だった。
私の生涯史最大の衝撃を受けたこの出来事を黒田杏子さんの立姿に重ねてみたい。黒田さんがたとえば句碑を生前に七十余基も建立(した、させた)金子兜太らと友人付き合いをしていても、「黒田さんは構わないんです」と私は如何なる時、如何なる場所、如何なる人々を前にしても、そう応えるだろう。
黒田さん、次は『証言・平成・令和の俳句』ですよ。
※
〇 必読の勧めと読後感想
わたくしごととしての感想を付記すれば、前書に当たる角川選書の『証言・昭和の俳句』を読んだとき、「小熊座」主宰の佐藤鬼房の実直な人柄とその俳句精神に改めて触れたような気がして興味深く読んだ。
だが他の俳人たちについては(大変失礼なものいいだが)数名を除いて、当時の私にとって、ほとんど関心も興味もない人たちであった。せっかく上下巻揃って購入したので通読すると、各氏には各氏の、俳句に向き合った格闘の歴史的重みがあることを知り、貴重な読書体験となった。
そういう意味でも、一つの時代を牽引した俳人たちの業績とその時代背景を学ぶことができる、本書のような「仕事」の大切さを再認識したのだった。
その「仕事」を為すには、その「仕事」が「できる」人を必要とする。
それは誰にでもできることではない。
その点において、本書の編者、黒田杏子氏を置いて他にはないのではないか、と改めて思った。俳句界を横断的、俯瞰的に捉えられる「自由さ」を持ち、かつ行動できる人は、俳壇を見渡しても、そんなに居るものではない。
黒田杏子氏がその適任者である所以を、この増補版の寄稿者の一人、齋藤愼爾氏が述べていたので、その当該箇所を先に抜粋・引用した次第である。
かつて「小熊座」で俳句時評を担当していたとき、皮相な反原発反核詠が一時的に俳句界に溢れたことを批判的に評したことがある。原発問題などには無関心で、そのことを背景にした句を詠んだこともないような俳人が、原発事故後になって、自分は元より反原発反核論者だったというような、「後出しジャンケン」めいた言動をして憚らない皮相性に目を覆いたくなり、その点に絞って批判記事を書いたことがある。
「あなた達は原爆と原発という核問題のいったい何を知っているというのだ」
とは、書かなかったが、そのような気持ちで批判したのである。
その後で刊行された吉本隆明の著書『「反核」異論』を読んだ。当時の反原発から即、反核へと気分的に短絡してしまう世相の皮相さを批判する視点は、私が俳句時評で述べた視点とは微妙に違うが、根底で繋がる点がある。
原発事故問題と、核技術という科学技術問題は性質が違う。
核技術問題は、その科学的意義を人類の文明論的な視座で熟考しなければならない問題だ。最近になって若い哲学者がその本質的な問題を「哲学的」に論じた好著が出現している。ここまで認識が深められるまで十年の歳月を要するような難問なのだ。
原発事故問題はそれと違って、実に薄っぺらな問題だ。経済優先主義による、過剰な「安全性」だけの喧伝と、過疎地の麻薬漬け的な経済効果優先という、騙し討ち的な手法で推進された行政と経済の問題がからむ。
現代文明の「文明禍」という視点で近代、そして特に戦後日本の姿を批判する石牟礼道子の視座は、その問題の核心を見据えている。
齋藤愼爾氏が触れている、吉本隆明の石牟礼道子リスペクト発言には、そのような深い認識があったに違いない。
齋藤愼爾氏がそのエピソードと比肩する重さを認めた上で、金子兜太をはじめとする多様な作風の違いを持つ俳人たちにインタビューする企画を立てることに、
「黒田さんは構わないんです」
という視点には、物事の本質論的視座へのリスペクトが滲んでいる。
たとえば私は、金子兜太が現代俳句を牽引した業績に賞賛の念を惜しむ者ではないが、彼の「社会批評」的視座は薄っぺらにしか感じない。晩年の「何でも俳句になる」という大衆化奨励的姿勢も、アミニズム思想の奨励も、どこか地に足のついていないスローガン言語的で、実のない上滑り感を抱いてしまう。
それは私が文明禍の町、水俣に生まれ育ち、成人して石牟礼道子を読んできた、個人的で相対的な批判に過ぎない。
そのことに拘る限り私は金子兜太には合いには行けない。批判をしにわざわざ直接会いには行きたくはないという意味で「行けない」のだ。
金子兜太にインタビューをして何かを語らせるという「仕事」には、私が今述べたような表現論的な「批判」の眼差しは邪魔になる。
そのようなことを超越して、そこに時代の記録としてのなんらかの「価値」を見出し、それを記録するという俯瞰的な視座と行動力がない限り、この十三名の俳人たちの「一人語り」を引き出すことなどできないことである。
齋藤愼爾氏が指摘しているのも、本書の企画刊行だけに限らない、黒田杏子氏の不偏にして不断の俯瞰力と行動力への讃辞であろう。
そのことについては、別稿で述べたように、黒田杏子氏の「巡礼」の思想と無関係ではないだろう。
また角川選書版を読んだとき、その俳人の一人語りと自選五〇句を読んだ、読者としての俳人は、どんな感想をいだいているのだろう、と思ったことを思い出す。
この増補新装版は、私個人のそんな思いに見事に応えた企画になっていて、「黒田先生、完結編の『仕事』をされたのだ」と感じ入った次第である。
新稿を寄せた各俳人の評文は、昭和という時代と格闘した俳人達の精神的な軌跡を、より深く理解するためにとても示唆に富むものばかりである。
是非、購読されることをお薦めする。
と同時に、黒田杏子氏たち「六〇年安保世代」(戦中、子供であつた世代でもある)の、その時代との格闘の業績を、今度は戦後、高度経済成長時代の世代(団塊の世代など)が記録するという、黒田式文化の記録の志は、継承されるべきであると改めて思った次第である。
だが、今、見回す限りでは、その役目を果たせる、第二の黒田杏子的存在がいるのかどうか、私には解らない。
少なくとも、それは私のような者の任を越えていることは確かだ。
齋藤愼爾氏の結びの文の言葉を再録して、代りの言葉としておこう。
〈黒田さん、次は『証言・平成・令和の俳句』ですよ。〉
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