https://www.sakigake.jp/special/2020/haiku/article_49.jsp 【選句のポイントは?】より
俳句には「選」がつきものです。新聞の読者投稿欄は、選者によって選ばれた作品が掲載されます。どんな句が選ばれるか。その判断基準は選者の頭の中にあるわけですが、選ばれて公表された作品を見ると、この選者はこういう作品を評価しているのだな、ということがうすうすわかります。
この欄にもよく登場する俳人高浜虚子に「選は創作なり」という言葉があります。選者は、選ということを通して作品の価値を発見する。さらには作家を育成する。だから選というのは創造的な行為だというのです。では、その虚子という人はどんな選句をしたのでしょうか。
次の四句は森川暁水(ぎょうすい)=1901~76年=の作。「ホトトギス」昭和6(1931)年9月号の虚子選入選句です。このうち○を付けた句は、後年に虚子がさらに厳選した『雑詠選集』採録句です。○が特選、無印が佳作と思えばよいでしょう。
○梅雨の漏りふえつゝ夜に入りにけり…(1)
妻起きてひとりさわげり梅雨の漏り…(2)
○わらうてはをられずなりぬ梅雨の漏り…(3)
梅雨の漏りかゝりてぬるゝ水仕かな…(4)
暁水は「昭和の一茶」と称され、貧困を詠った作が得意でした。これらは梅雨の雨漏りを詠んだ作。○印の句は、事実をたんたんと詠んだ(1)と、作者の困惑した表情が彷彿(ほうふつ)とする(3)でした。いっぽう、騒ぐ妻を詠んだ(2)と、濡(ぬ)れながらの水仕(みずし)(台所の水仕事)を詠んだ(4)は、その事柄を狙って詠もうとした作意が露(あら)わなので、○に至らなかったと推察します。
このように同じ題材の句を並べると、句の選び方がある程度わかります。今回は、同じ題材を詠んだ複数の投稿句を見比べてみましょう。
事実をたんたんと詠む
梅咲きて百七歳の叔父が逝き …(1)
大往生梅の香りに送られて …(2)
花好きな叔父を偲ばす梅の花 …(3)
樋渡タツ子さん(湯沢市、74歳)の作。私が選者なら、この三句では(1)を選びます。「百七」という具体的な数字が効果的。「梅咲きて~叔父が逝き」という簡潔な口調が良いですね。(1)と比べると、(2)の「大往生」「梅の香りに送られて」は演出が目立ちます。作者には言いたいことがたくさんあるわけですが、それをことさらに言おうとせず、事実だけをたんたんと詠むほうが、読者には受け入れられ易いのです。(3)は「偲ばす」が少し言い過ぎかもしれません。「偲ばす」を消してはいかがでしょうか。
梅咲くや花の好きなる叔父の逝く
素朴な表現を心がける
陽が差して賑やかに舞う寒雀 …(1)
極寒の朝に煌めく冬日差し …(2)
屋根の雪雫となりし雨水かな …(3)
永井喜則さん(北秋田市、63歳)の作。冬から春への移ろいを詠みました。私が選者なら、この三句では(3)を選びます。「雨水」は二十四節気の2月半ば。「屋根の雪雫となりし」は雪解けの気分を誇張することなく、そのまま詠んでいます。いっぽう(1)の「賑やかに舞う」、(2)の「煌めく」は少しばかり肩に力が入っています。たとえば次のように、より素朴な表現を試みてはいかがでしょうか。
たくさんの寒雀が飛ぶ様子は、
日がさしていくつも飛ぶや寒雀
極寒の朝の明るい日の光は
極寒の朝や明るく冬日あり
https://gospel-haiku.com/hl/senku.html 【選句の心がけ】より
俳句上達のためには、確かな選句力、鑑賞力を培うことが大切です。
選句力を向上させるには
選句力というのは具体的な基準がないので、それを向上させる方法を説明するのはとても難しいです。
けれども、選句力が向上すれば作句力の向上になるということだけは保証できます。 選句力の向上に役立つかどうかは別として、わたしが句会のたびに必ず励行していたチェックの方法を皆さんに公開します。
まず自分の選句と選者の選とがどのくらい一致したかをチェックします。 同じ句会メンバーの中の尊敬する先輩たちのそれとの比較もまた有効ですね。 こうしたチェックをすることで、自分の選句が正しい方向を目指しいているかどうかを常に確認することが出来るのです。
このチェックは、多くの方が取り入れている方法と思いますが、もう一歩突っ込んで学習すると更に効果的です。 それは、選者の選のうち自分が取りこぼした作品について、なぜ自分は採れなかったのか、 どういう理由で選者はその作品を採ったのかということを復習するのです。
選者の選評などを真剣に聞いていればそのヒントが得られるはずですし、それでも分らないときは遠慮なく聞くという勇気も必要です。 こうした努力の積み重ねを実行する人としない人とでは、同じ年月の修行をしても明らかに力の差が出てきます。
選句力を向上させるのにさらに有効な方法は秀句鑑賞の学びをして鑑賞力を向上させることです。 このことについては次章で詳しく説明しましょう。
鑑賞力を向上させるには
鑑賞力を向上させるのに一番よい方法は「合評」です。 ただし、合評もただ漫然と参加していたのでは、血となり肉となることは期待できません。 では、どのような姿勢で参加すればいいのかという、「合評の壷」を説明しましょう。
季語・季感をチェック
句意を鑑賞する前に、作品に使われている季語はどれか、作品に詠み込まれている季感はどうかを真っ先にチェックします。 必ずしも、「季語=季感」ではないことは、繰り返しお話しているので理解いいただいていると思いますが、 この段階のチェックで間違いを犯すと、そのあとの句意の鑑賞はめちゃくちゃになってしまいます。
秋口といふその言葉待たれゐし 青畝
この作品のことは合評でも触れました。使われている季語は、「秋口」ですが、季感は晩夏です。 この作品を秋の句と決め付けて鑑賞してしまうと、句意を理解することは出来ないですね。 俳句は、季語云々ではなく、「季感」が全てなのです。 仮に、季語らしいことばが全く使われていないケースであっても、 一句の表現に季感が感じられれば、「無季」ではなく、立派な俳句なのです。 一例を示しましょう。
植え終へし棚田に風の生まれけり きみこ
これはわたしの友人、きみこさんの作品です。確かに「季語」と言う言葉は見当たりませんね。 けれども落ち着いて一句を鑑賞すると「植田」という季語の変形であることが分ります。
老らくの手習を星御覧ぜよ 青畝
さてこの句はどうでしょうか。「星」だけでは季語にはなりませんね。
実はこの作品は七夕の句なのです。 願い事を短冊に書いて七夕の笹に吊るしますね。 裁縫や習字などがうまくなるようにという意味があったと伝えられていますが、 先生のこの句はそれを踏まえて詠まれているのです。
これらの句を無季と決めつけるのは愚かであることが分っていただけたと思います。
じつは、季語チェックでもっとも重要なポイントがあります。 それは、一句の中に季語が詠み込まれていても、 前後の取り合わせで、全く季感を捉えていない作品があります。 いわゆる「季語動く」という作品です。 選者は、真っ先にこのチェックをしますので、没になる作品のほとんどは、 これに該当します。
俳句は一人称の文学
川柳と俳句との比較論をするつもりはないのですが、俳句は基本的に一人称の文学と言われます。
必ずしも作者自身という意味ではなく「主人公」と言うほうが適切かもしれませんね。 要するに、一人の主人公がいて、その人の目から見た(感じた)情景(感動)を写生するのです。 客観写生を勘違いする人が多いですが、作者が存在せず第三者的な目で詠まれたかのように鑑賞するのは間違いです。
「主人公=作者自身」と決め付けて鑑賞するのもよくありません。俳句は日記のようなものですが、あくまで文芸なので作者が主人公でない場合も許されるのです。
春憂しと妻のわたしに言はれても みのる
みのるのこの作品は、作者はみのる、主人公は妻です。
これは、あくまで一例として揚げただけですのでこのような作り方を推奨しているわけではありません。
句意を具体的に鑑賞する
◯◯がいいですねぇ〜 △△という措辞も素晴らしいですねぇ〜
という具合に表現や言葉だけの鑑賞で終わってはいけません。 作者は、何に感動したのか、何を伝えたいのかということを具体的に感じ取る訓練が重要なのです。
ああかもしれない、けれどもひょとしたらこうかもしれない
という自信のない鑑賞もお勧めできません。きちんと一句の焦点を捉えることができずにいつも曖昧な鑑賞をする…そういう癖がつくからです。間違いや勘違いを恐れず、「自分はこうだと思う」と断定して、勇気を持って鑑賞してください。仮に間違っていたとしても恥ずかしいことではありません。そのための勉強なのですから。
他人の意見は必ず読み返す
自分の意見だけを主張して他人の意見や鑑賞を全く顧みない(興味がない)…という姿勢も反省したいですね。
なるほど、そういう視点もあるのか
と素直に受けいれる謙虚さをもちましょう。
合評は、それぞれの意見を、参加者全員が共有することで、はじめて一句の鑑賞が成り立つのです。
青畝先生の俳句を GHメンバーで合評した記録は、有志の方によってまとめられて一覧記事になっています。一年間かけて合評しその後それを有志のメンバーでまとめてくださったこの記事は GHの財産です。
青畝俳句研究(合評)
この合評記事を読み返したとき、みなさんはどのように感じられるでしょうか。
一人一人の意見に納得するのではなく全員の記事を読むことで鑑賞句の全体像がよく見えてくる。そう思われたのではないでしょうか。合評は、それぞれの意見が集合されて確かな方向を示してくれる生きた教科書なのです。
合評に参加されたメンバーもぜひ過去の合評記事を読み返してみてください。合評に参加しているそのときには、感じなかった新しい発見があるはずです。
なぜ、このときはこんな風に感じたのだろう?
と不思議に思えたり、合評当時は、いまひとつ理解できず不消化のままだったのが、時間が経過して読み返すと "なるほど" とうなづくことも多いはずです。
つまりあなたは合評を通してそれだけ進歩したという証しなのです。
鑑賞力以上の句は詠めない
英文の読み書きなら自信があるという商社マンでも英会話となれば全く別というひともいます。文字ベースの会話は出来ても、ヒヤリング(生の英語を聞くこと)が出来なければ、しゃべることは出来ないからです。相手のいうことが理解できないのに、応答することは出来ないですよね。
俳句も同じなのです。俳句の知識や論理は誰にも負けないと豪語する人が、他人をうならせるほどの佳句を詠んだり鑑賞文を書いたりできるかというと、じつは全く無関係なのです。なぜなら自然からの語りかけや作者が伝えたい感動を正しく理解できなければ、その感動を言葉に表現したり、鑑賞したりすることは出来ないからです。
表現力は経験を通して上達できますし、添削という方法を通して指導することも出来ます。でも感じ方というのは個性の問題ですし鑑賞力と言うのは個性の源なのです。そしてそれらは自分で修練して自身で磨くしか向上させる方法はないのです。
この記事を読み進まれた方は、わたしが何をいいたいのかはもうお気づきですよね。偶発的に佳句が生まれることもありますが、それは本物ではありません。俳句を一生の友、生活の支えにしたいと考えられるのなら鑑賞力を鍛えることに時間を惜しまないでください。日々積み重ねた努力の結果は決して嘘をつきません。
選者はどこを見ているか
最後に、選者としての視点について少しお話しておきましょう。句会の席で互選が発表されるとき選者は何を考えてその披講を聞いていると思われますか。全ての選者がそうしているかはともかく私の場合は、
誰がどのような選をしているか
ということに神経を集中させています。その人の選句傾向が分ればおおよそのレベルが判断できますし、その人をどのように指導すればよいかがよく分るからです。
どの句が一番高得点を得るか
ということにはあまり興味がありません。互選の結果がその作品の価値を決めるものではないからです。
みのる選がそうだと言い切るだけの自負はありませんが、一般的には句会の席上でどれだけ互選で得点を稼いでも選者の選に入選しなければ没であり、誰一人互選にとってくれない作品であっても選者の選に入ればその作品は入選句として光を放つのです。
GHは結社ではありません。単なる趣味の俳句サイトに過ぎませんが本物を探求されようとする方の道しるべでありたいと願っているので、あえてこのことを書きました。この記事を読まれて
みのるの主張はおかしい
というご意見もあるかと思いますがどうぞお許しください。
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