Facebook相田 公弘さん投稿記事
今日は「長崎原爆忌,長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」
1945年8月9日テニアンを発した米軍のB29爆撃機「ボックスカー」が、第一目標の福岡県小倉市(現:北九州市)上空に達したとき、天候が悪化、日本軍高射砲からの対空攻撃が激しくなり、また、陸軍芦屋飛行場から飛行第59戦隊の五式戦闘機、海軍築城基地から第203航空隊の零式艦上戦闘機10機が緊急発進してきた事も確認されたので、目標を小倉市から第二目標である長崎県長崎市に変更し、午前10時30分頃、小倉市上空を離脱しました。
そして午前11時ごろ、「ボックスカー」はプルトニウム原爆「ファットマン」を、長崎市松山町で投下して500m上空で爆発しました。
約7万4千人の市民が死亡、約7万5千人が重軽傷を負いました。
広島に落とされた原爆はウラニウム原爆、プルトニウム原爆は広島原爆の1.5倍の破壊力がありましたが、長崎市は周りが山で囲まれた特徴ある地形であったため、熱線や爆風が山によって遮断された結果、広島よりも被害は軽減されました。
周りが平坦な土地であった場合の被害想定は、広島に落とされた原爆「リトルボーイ」の威力を超えました。
仮に最初の標的であった小倉市に投下されていた場合、平坦な土地が広がり、本州と九州の接点に位置するために、関門海峡が丸ごと被爆し、小倉市および隣接する戸畑市、若松市、八幡市、門司市、即ち現在の北九州市一帯と下関市まで被害は広がり、死傷者は広島よりも多くなっていたのではないかと推測されます。
2度目の原爆投下と前日のソ連対日宣戦布告を受けて、御前会議を開催、翌日未明、ポツダム宣言の受諾を決定しました。
被爆国の日本は、核の脅威を声を大にして世界に訴えるべきだと思います。
広島長崎で犠牲になられた方々のご冥福をお祈りいたします。
Facebook川嶋 博さん投稿記事 本日、長崎原爆忌。
広島を取り上げた作品に比較し長崎を取り上げた作品はあまり思いつかない。一つお薦めが。大澤豊監督作品「せんせい」。広島が舞台ではあるけれど同じ監督の「青葉学園物語」も、大傑作。ぜひご鑑賞を!
https://samatsutei.hatenablog.com/entry/20170409/1491747249 【大澤豊監督『せんせい』(1)】より
映画 昭和史 昭和58年(1983)8月24日公開。
(略)
◇解説 ロケ地・長崎/103分
原子爆弾が爆発した当時に爆心地付近にいて、原子爆弾による被害を受けた/人を「直接被害者」という。これに対し、原子爆弾の爆発後から数週間までに、/救護などのために爆心地付近に出入りした結果、放射能を帯びた付近の土壌や/放射性降下物(黒い雨や死の灰など)によって、残留放射線をあびた人を「入/市被爆者」という。入市被爆者は直接被爆していないにもかかわらず、その後/放射線の影響とみられる白血病やガンなどで多くの人が亡くなっている。
この映画は、原爆の爆発後、放射能に汚染された長崎市内を通り抜けて入市/被爆し、のちに急性骨髄性白血病でこの世を去った元長崎市立山里小学校、山/口竹子先生(享年32)をモデルに、長崎県下オールロケにより制作された。
監督は「ガキ大将行進曲」「青葉学園物語」の大澤豊。音楽は「若者たち」/「幸福の黄色いハンカチ」の佐藤勝。五十嵐めぐみが竹子先生役を熱演。
映画『ガキ大将行進曲』『青葉学園物語』もVHSでは発売されているが、DVDにはなっていないようだ。尤も本作もDVD情報は全くと云って良いほどヒットしないのだから、実際のところは分からない。五十嵐めぐみは、母が好きで見ていた天知茂の明智小五郎のシリーズに文代役で出ていて、私も中学から帰って夕方に再放送があると母と一緒に見たのだが、五十嵐氏のことは全く記憶していなかった。
◇あらすじ
竹子先生はとても風変わりな先生だった。
体育の授業では見晴らしのいい丘の上まで一緒にランニングしたり、ドッチ/ボールをすれば生徒より夢中になり、算数の授業では答えのわからない生徒に/手を挙げさせたり、バイクの後ろに生徒を乗せて家庭訪問に行く等…。
こんな先生だから、子どもたちはみんな竹子先生が大好きだった。
ある日、いつも元気な竹子先生が白血病で突然倒れた。
彼女は1945年(昭和20年)8月9日、原爆爆発後の長崎市内を母と妹と一緒に/通り抜けて入市被爆した一人だった。竹子先生は見舞いに来た子どもたちに/爆心地あたりを指し、あの日の長崎を語り始めた。
(略)
https://samatsutei.hatenablog.com/entry/20170811/1502463555 【大澤豊監督『せんせい』(4)】より
・川村湊『銀幕のキノコ雲――映画はいかに「原子力/核」を描いてきたか』 2017年4月10日第1刷発行・定価2500円・インパクト出版会・261+xxvii頁・四六判並製本 作者: 川村湊
ちょうど本作を取り上げた頃の新刊で、図書館の新刊の棚で目にして、借りて来た。
核兵器や原子力発電所について、私は他の危険なものと同じように考えていて、取り立てて何らかの発言をしようとは思っていない。最近、北朝鮮が何かしたらどうする、みたいな意見を目にするが、本当に何かしてきたらもうどうしようもないので、昔みたいに武器を手に立ち上がるわけにも行かない。東京に本当に飛んで来たら、もう逃げ隠れしても仕方がない。積極的に死にたい訳ではないが、別段何もしなくても良いと思っている。いや、私如きが何にもやりようがないだろう。
それはともかく、私の遠縁に、広島で被爆して行方不明になった人(大叔母の夫)がいて、全く縁がない訳ではないのだが、詳しい話は覚えていない。それよりも小学生の頃の私には恐怖が先にあって、父の転勤で関東に引っ越さずにそのまま兵庫県の小学校で6年生になっていたら、修学旅行で広島に行くことになっていたが、嫌で嫌で仕方がなかった。幸い、横浜市立の小学校で日光に行くことになり、中学も奈良・京都と云う日本文化に親しむ修学旅行になって、戦跡巡りと体験談を聞くということにならなくて嬉しかった。――強制しないと接する機会のない人もいるかも知れないが、私は好まないものを訳も分からずに強制されるのが嫌いなので、それを知りたいと思ったときに自ら知れば良いと思う。そのための基礎学力(読み書き算盤)は身に付けて置いて。
尤も、私が原子爆弾について調べるようになったのは、――年度の途中で海外に赴任することになった知人の後任として高校講師を始めたとき*1、その高校のベテラン講師で自分の主宰する塾に寝泊まりしている(週末だけ自宅に帰る)人がいて、その塾が私の家の近所だったので手伝いを頼まれたことがあった*2。中学生の担当だったのだけれども、1人だけ高校1年生の井伏鱒二『黒い雨』を読んでの夏休みレポートを手伝うことになって、初めて原爆文学を読んだ。しかしあの小説は構成が破綻していて、盗作云々は別としても名作とは云えないだろう。
だから、俄に興味が湧いて自ら調べたのではなく、仕事として調べたのだけれども、正直、生徒が要求する以上の知識を仕入れて、そこそこのところで済ませたいと思っていた生徒の助言者としては、余り役に立たなかったのであった。
大人になってしまうと小学生の頃に感じた恐怖感は雲散霧消して、別に怖くも何ともない。いや、何ともないと云っては嘘になる。――動ずることはない。しかし、原子爆弾を主題にした映画を積極的に見ようとはしていない*3。
だから本書に取り上げられている映画は殆ど未見である。差当り、本作に関する記述を抜いて置こう。巻末に横組み(左開き・ローマ数字の頁付)でi〜v頁「索引(映画作品)」とvi〜xxvii頁「「核/原子力」関係映画年表」があるのが便利である。
15〜47頁「I 原水爆恐怖映画の巻」の章、21頁3行め〜24頁12行め「長崎の原爆ドーム」の節に、23頁18行め〜24頁7行め、
『せんせい』は、四歳の時に長崎で被曝した山口竹子(五十嵐めぐみ)が、小学教師となり、五島の/学校に赴任して、転校生の信明・悦子の兄妹を中心に子どもたちと心の交流を続ける“二十四の瞳"/のような感動的な教師と生徒の物語だ。だが、オートバイで通学するように活発だった竹子先生は/白血病を発病し、子どもたちの願いや祈りも虚しく、長崎の病院に入院し、三十歳そこそこで命を/失ってしまう。
長門勇、北林谷栄、曾我廼家五郎八などの俳優が脇役を固め、子役たちが達者な演技を見せるの/だが、「原爆映画」の作品としては、凡庸の一語に尽きる。竹子先生が、死ぬ前に、教え子たちを稲/佐山の上に登らせ、長崎の原爆被災の話を聞かせ、原爆がいかに多くの悲劇をもたらしたかを語るが、/その語りや映像にはこれまでの「原爆映画」の紋切り型を超える、いかなる新しさもない。*4
とある。前回確認したように、「五島の学校に赴任」するのではなく、主人公と副主人公の少年「信彦」とその妹(悦子)は、「五島」の別々の小学校から同じ小学校に転任・転校して来るのである。「先生」を「オートバイで通学」と云うのも変で「通勤」だろう。なお「被曝」と云うのは、竹子先生は入市被爆者で、原子爆弾の直撃を受けた訳ではなく、その後、爆心地附近を歩いて「被曝」した訳だから「被爆」よりも「被曝」の方が適当なのであろう。
随分辛口なように読めるが、それは「原爆映画」としての評価であって、教育映画としては、十分な評価が与えられている。(以下続稿)
https://nordot.app/393562115841393761 【映画「せんせい」モデル 被爆者 山口竹子さん 温かい記憶 今なお 51年前、白血病で死去】より
51年前の7月22日、1人の被爆者の女性が長崎市内で亡くなった。元中学校教諭の山口竹子さん。急性骨髄性白血病だった。32歳。短くも最期まで思いやりにあふれた人生は、平和の大切さを訴える映画「せんせい」(1982年製作)のモデルとなり、ゆかりのあった人々に今なお温かい記憶を呼び起こす。山口さんの足跡をたどった。
67年7月21日。暑い日だった。県内の大半の小中学校はこの日から夏休み。長崎市立淵中教諭の菅直子さん=当時(33)=は朝から取り掛かっていた1学期の残務整理を急きょ切り上げ、長崎大医学部付属病院へと急いでいた。入院していた親友の山口竹子さんが「危篤」と家族から学校に電話があったからだ。
病室に入ると、山口さんの姿は見舞いに訪れた1週間前とはすっかり変わっていた。ベッドから起き上がれず、顔は腫れ上がり、皮膚は赤みを帯びていた。しきりに首の痛みを訴え、手足には輸血と輸液の針が刺さっていた。
夕方、病室を後にしたが、その夜は不安でほとんど眠れず、翌朝、病院に向かった。病棟につながる廊下を歩いてきた主治医に病状を尋ねると、疲れた表情で少し菅さんを見詰め、低い声で「亡くなられました」と告げた。
霊安室で山口さんと対面した。眠ったように静かな表情だった。眉や唇に濃い化粧が施され、頬に手を触れると温かみが感じられた。実感は湧かず、涙も出ない。ただ、何かを話し掛けたかったが、言葉にならず、ずっとそばに立っていたかった。
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山口さん死去の電報を静岡県清水市(現静岡市清水区)で受け取った人がいた。山口さんが長崎大学芸学部(現教育学部)卒業後、美術などの教諭として初めて赴任した西彼外海村立(現長崎市立)黒崎中の教え子で、当時造船の職工だった辻村千賀良(ちから)さん=当時(24)=。1週間ほど前に長男が生まれたと、山口さんに電報を打ったばかりだった。
小学5年生までに両親や2歳上の姉を亡くした辻村さんを、山口さんは中学卒業後も支えた。職工の日当は千円。生活は楽ではなく、香典3千円を送るのが精いっぱいだった。「もっと偉くなりたい。偉くなって竹子先生に恩返しをしたい」。妻と長男がいる借家の裏で、1人泣いた。
数日後、長男に着せるケープが届いた。山口さんが「千賀良君にお祝いを」と、家族に託したものだった。
◎ズーム/映画「せんせい」
1972年の西彼外海町(現長崎市)黒崎地区などを舞台に、五島から赴任してきた小学校教諭、山口竹子先生と児童の触れ合いを描いた作品。ある日、先生が突然倒れ、長崎大医学部付属病院に入院。先生は見舞いに訪れた教え子たちと稲佐山に登り、27年前に原爆が投下された長崎の惨状を語り始めた。先生は母親と一緒に焼け野原を歩いていた。原作は72年刊行の原爆読本「夾竹桃(きょうちくとう)の花さくたびに」(県原爆被爆教師の会平和教育資料編集委員会編)。長崎映画センター(現県映画センター)の企画。製作は映像企画、監督は大澤豊さん、主演は女優の五十嵐めぐみさん。82年11月から県内で上映が始まり、83年12月時点で小中学校など344カ所で14万2554人が鑑賞。県外でも上映された。
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