全体に帰る

Facebook清水 友邦さん投稿記事

世の中には様々な名称の治療法がありますが、大切なのは物理的な接触よりも二人の間に沈黙が起きたかどうかにかかっています。

沈黙の時間がなければ、物理的なワークだけになってしまいます。

本当の深い癒しが起こるのは、お互いが深い沈黙に入ったときなのです。

沈黙すると、自他を分ける境界が溶け出して(メルティング)、深い癒しが起きます。

ヒーリング(治癒)とは、バランスのとれた全体に帰ることを、意味しています。

そこではもはや、霊気、愉気、気功、手当と名称の違いや、どちらの手法がすぐれているかを論じる事に、全く意味は無くなります。

1973年頃、私は東京の渋谷区に住んでいて、渋谷駅から道玄坂を上った神泉にあった宇野多美恵女史(以下敬称略)が主宰する相似象学会に通っていました。

相似象学会があった場所はホーマーイオンの会社のビルが建っています。

相似象学会とは、兵庫県六甲山系の金鳥山で、神社の宮司の子孫であるという平十字(ひらとうじ)から見せられた八鏡文字(はっきょうもじ)の巻物を解読した楢崎皐月の、カタカムナ文献を研究する団体です。

似象学会には様々な人々がいましたが、その中に日本CIの佐々井譲氏が学んでいました。

佐々井譲は、谷克彦とともに食用塩の研究をしたニガリ塩の考案者でした。食用塩研究会は自然海塩「海の精」の製造会社の前身です。

桜沢は晩年原子転換の研究をしていて、楢崎の研究に興味を持っていました。カタカムナの原子転換は、ミトロカエシといいます。

そのころ渋谷駅の南口ガード近くにあった、自然食品店の天味という店に通っていました。

天味を開設したのは小川みち女史です。

桜沢如一が1940年に食養会から独立して、無双原理講究所(研究所ではなく講究所)を開設した時のスタッフが小川みちです。桜沢は当時、反戦活動で警察ににらまれていたので、そこで食箋を担当していた小川みちは、給料をもらっていなかったので取り調べをした警察官はげすの勘ぐりで情婦と思い込み、そのことが新聞に記事にされています。

渋谷の南口にあった天味は、後に渋谷西武の近くでレストランを開業しています。

天味で購入した本が、旧制甲府中学校校長の江口俊博「手のひら療治を語る」です。

「手のひら療治を語る」著者の江口俊博は臼井霊気療法学会に2年間、在籍していた事が在り、臼井亡き(1926年3月9日 )後の1927年に霊気療法学会を去り、手のひら療治の会をはじめています。

やめた理由が「霊気は誰でも持っている力なのにお金を取るのはおかしい」ということでした。

臼井亡き後に臼井甕男のお墓がある西方寺に霊気の石碑が建立されましたが、二代目会長の海軍少将牛田従三郎に人望がなく、江口俊博だけでなく、他の有力な会員も次々と組織を離れてしまったので臼井霊気療法学会は衰退してしまいました。

いずれにしても創始者から二代目にバトンタッチする時は古今東西内紛がつきものです。

2022年は霊気療法学会の100年目の節目にあたりました。

江口俊博は 「道具もいらず費用もかからず、ただお互いに手を当て合えばいいのだから、一燈園の方たちには最もふさわしい療法だろう」と京都鹿ケ谷の一燈園に真っ先にいって広めました。

一燈園とは倉田百三の『出家とその弟子』のモデルだった明治5年(1872年)生まれの西田天香が創立した共同体です。

一燈園と手のひら療治の浅からぬ因縁は、甲府中学校の校長だった江口俊博が新講堂の落成記念式典に、一燈園の西田天香を講演者として招いたことからだったようです。

73年頃渋谷の天味に置いてあった「手のひら療治」の本とマクロビオティックとは関係がありました。

桜沢如一と結婚する前の里真夫人は、病弱だったので江口俊博から治療を受けていました。

その江口から桜沢を紹介されて結婚をして、桜沢里真夫人となったのです。

江口俊博は、石塚左玄の食養の考えに共鳴し桜沢如一と交流があったのです。

マクロビオティックをはじめた桜沢如一と里真夫人の中を取り持ったのは、江口俊博でした。

江口から伝授を受けて手のひら療治の普及につとめた三井甲之は神智学協会日本ロッジの三浦関蔵やマクロビオティックをはじめたの桜沢如一とも交流がありました。

手のひら療治は昭和五年に東京の警視庁が公認してから各地の都道府県で順次公認され全国に広がっていきました。

井村宏次の「霊術家の饗宴」によると大正~昭和の初期に名前が知られていた手当法の霊術家に人体放射能の松本道別、全能精気療法の講田象堂、霊子術の田中守平、霊気放射能の松原皎月、心霊光線の大山霊泉、放射線触手療法の森美文、病元全能術の澤田進幸、霊素手当法の富田魁二などがいました。

その中で霊子術の田中守平は中国の外気功に大きな影響をあたえています。人体放射能の松本道別は野口整体に影響を与えました。当時の日本には約3万人を越える霊術家がいたといいます。

手のひら療治としてマクロビと一燈園では知られていましたが、終戦後の日本で霊気はすっかり忘れ去られてしまいました。

臼井霊気を受け継いだ林霊気研究会で1938年に霊気の伝授を受けたハワイ生まれの「高田はわよ」によって霊気は海外に渡りました。

高田はわよに22人のティーチャーがいましたが、ラディアンス協会とアライアンス協会の二つの系統に分かれました。

それは22人の一人のバーバラ・レイ(ラディアンス協会)が、伝授を完了したのは自分だけであると主張したからです。

商売の世界では他店との差別化を図らなければ売り上げに影響します。八つ橋の本家、元祖争いのようなものです。自分の霊気が正統で優れていると主張するのは商売の世界ではよく見られる話です。

霊気は「高田はわよ」の孫のフルモト(アライアンス協会)を経由してインドのOSHOコミューンに伝わりました。

70年代のOSHOコミューンには世界中から医師、セラピスト、ボディワーカー、様々な治療家、ヒーラー達が集まっていて、ありとあらゆる手法の融合がおきていました。

そこで様々な融合が起きた霊気はOSHOサニヤシンのアジャバ(フランク・ペッター)とチェトナによって日本に持ち帰えられました。二人は1993年から日本でアチューメントをはじめました。

OSHOコミューンにはOSHOKIとOSHOレイキとOSHOネオレイキと三種類のレイキがありました。

表に出さない団体もありますが初期の日本の霊気団体のほとんどがOSHO経由の REIKIから最初にアチューメントを受けています。

現代レイキの土井裕はOSHOのサニヤシンからアチューメントを受けた事を明らかにしています。

アチューメントを受けたレイキマスター達が日本で大量に現れました。たちまち、レイキヒーラーが、爆発的に出現したのです。

とにもかくも、大正から昭和にかけて、日本で生まれたレイキとマクロビオティックは世界中を席巻しました。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000