https://tsukinami.exblog.jp/21669458/ 【上田五千石に学ぶ「俳句に大事なこと」】より
俳句入門の名著である、上田五千石さんの『決定版・俳句に大事な五つのこと』(角川学芸出版刊)から引用します。
上田五千石:ウエダ・ゴセンゴク。昭和八(一九三三)年生、秋元不死男門下。平成九(一九九七)年没。「氷海」同人を経て、「畦」創刊主宰。
【眼前直覚~「いま」「ここ」に「われ」を置く~】
俳句は「いま」ということ、「わたくし」ということを大切にする。「只今眼前」であり「たった一人の私」である。時空のこの一期一会の交わりの一点に於いて一句はなる。昨日の私でもなければ明日の私でもない。だからこそ、俳句は「言い切る」ことを絶対とする詩型なのだ。
煖房の車窓から見て、冬の田を詠ってはならない。冷房のビルの窓から見おろして、日盛りの町を句にしてはならない。眼に見えているというだけで、眼前とはいえない。対象と同じ空気の中で、真に見なくて、直覚のすべはない。
決して「他人(ひと)ごと」の句をつくってはならない。そこにそれが在るから写しとる、というのでは写生といえない。「もの」と私が、のっぴきならない関係になるのを待って、はじめて独自の視角が生まれる。「他人ごと」の句は俳句ではない。
「自分を入れなくては俳句にならない」と言うと、情を叙べることと受け取るむきがある。「もの」に触れ、「こと」に当たっての、たった一度の(未だ曾って誰も有しない)「感動」を体験することに「自分」が在ることを忘れているのだ。「われ」「いま」「ここ」に腰を据えることが大事。
俳句では拱手傍観、というのは許されない。他人を詠うにも、自分とののっぴきならない関係にあって作中に引き据えなくてはならない。作務僧が何かしている、では句にならない。炭焼が炭を焼いているだけでは報告だ。作務僧と語り、炭焼と触れ、その人の思いに感じ入らないでは俳句ではないと心得たい。(拱手傍観=きょうしゅぼうかん。腕組みして観ているだけで何もしないこと。)
誰にもゆずれない自分の人生―そこでは自分が主役だ。それを如実にするのが俳句だ。俳句は「われ」が主役の時だ。「われ」という主役をぬきにして、俳句はない。
【現在】
俳句作りは振り返ってはいけない。振り返るから、年をとり、老いるのである。回想、回顧の情を述べていては、繰り言だ。
【もの】
俳句が叙述に終始しようとするとき、私は「もの」を“一品添える”ことを心掛ける。「こと」に「もの」を介入させて、句に腰をつくるのだ。“一品”の具象によって、イメージが強化されるのは、やっぱりトクだ。
【初心者はトクな道】
俳句の内容とか、表現とかに、何の制約もない。ただ、ながい間の実作者の体験の積み重ねが、ソンかトクかを識別している。たとえば「観念」より「事実」、「抽象」より「具象」がトクであり、「季重ね」や「二切字」がソン。「空想」より「写生」、「こと」より「もの」がトク。「過去」や「未来」より「眼前いま」がトクという具合だ。初心者はトクな道、やさしい方途でいきたい。
【自在な眼】
俳句をつくるのに“構え”てはいけない。日常茶飯、常住坐臥、普段着の気持になることが大切である。自在さが肝要である。そうでなければ、何も見えてこない、リラックスしないと、自在な眼が働かない。(「リラックス」の名訳に「大いなる緊張」があるが、私の更なる名訳は「油断なきだらしなさ」である。)
【取合せ】
俳句は二つの事物(もの)を取合せればいいのです。その二つの事物の一つは大方季語ですから、“季語と事物”の取合せです。その取合せの佳いのを上手と言い、悪いのを下手と言います。取合せて作りますと句は多く、しかも早く出来ます。こんなに作り易いことをみなさん御存知ないのが口惜しいことです。(『去来抄』の芭蕉の言葉の五千石訳より)。
「取合せ」―遠い二つの物(季語と事物)をアナロジイ(類比)、すなわち、どこか、何かで通い合うところを発見して一気に結びつける―は詩の原理である。いわゆる二句一章の問題ではない。俳句という短詩型の本質である。
十七字(音)で物を述べれば、ただの十七字(音)である。その十七字(音)を二つの部分に分ちて、それを互に関らせれば、その間にクレバスを覗くことができる。そこにポエジー(詩)の世界がある。(クレバス=氷河や雪渓の割れ目。)
「一句一章」で詩ができるという説は誤りです。というより、そんなことはできないのです。一見「一句一章」で仕上げているように見えても、詩として成り立っている句(俳句)には「二つの相反するものの調和」が達成されているものです。
世に「一句一章」の俳句があるという説を聞くが、「一句一章」に見える文体のことであろうか。詩は二つの事物の関係がなくては発生しないのであるから、俳句は「一句一章」に見えても“二物衝撃”の詩であると正しく考えた方がいい。「一句一章」を平句(ひらく)の「ひとへ」と等しくあつかえない所以である。
【定型】
俳句は定型詩―。定型というのは結局のところ、日本人の生命のリズム、心情の流れに則して、快適にまとめた調和であって、言葉の組成をもっとも美しくなるかたちになるように、高能率的に配されるように練り上げられた「型」である。芭蕉の「舌頭に千囀せよ」というのは、その「型」に「定」まったか否かの検分にほかならない。
【季語】
季語というものは自然そのものではなく、日本人の生命感、心情、美感覚といったものに溶かしこまれ、深くこなされた自然への了解を基にした言葉であろう。だからリアルであり、アイディアルなものと言える。不思議な特殊言語であり、弾性があり、磁性がある。
季語はなるべく手つかずのまま用いたい。「山眠る」が一番美しく、「眠る山」がそれに次ぎ、「山眠り初む」とか「山深眠る」などと応用すると品下る。季語はそれ自体磨きぬかれた宝石のような言葉だからだ。
【切字】
「や」「かな」「けり」は切字の代表だ。「切字はたしかに入たるよし」という芭蕉の言葉は初心の者に断定の精神を形で求めたものだ。俳句は十七音断定の詩。言い切る決意が詩型を生かす。
俳句は俳諧の発句の略であるから、平句(ひらく)とはちがっていなければならない。眼前の情景を平板に五・七・五にしただけでは、「ひとへ」の句づくりであり、平句の位になる。そこで、「ひとへ」を仮に「ふたへ」に転じる方法として「切れる」ことを心がければいい。こころみに切字をつかって句づくりをする「ひねる」のもいい。異質の配合をするのだ。但し、直覚、直覚でいく。
【挨拶の心】
夏はすずしく 冬あたたかく 春のどやかに 秋はさやけく
俳句は読み手を不愉快にしてはならない。あいさつのこころです。こころづかいです。句の品が下がるのは、ここのところを欠くからだ。
【諧謔】
「諧謔」とは「人の心をやわらげ面白がらせる言葉の意」(『岩波漢語辞典』)ということだそうである。それならば、滑稽の文学であり、諧謔の詩である俳句は「人の心をやわらげ面白がらせる言葉」の集まりでなければならない、と言うことになる。俳句―人の心をやわらげ面白がらせる言葉の集まり。
【句会】
恥をかくことを好むものはいない。だが、恥をかくこと、恥を積み重ねることで、真実、われわれは、はじめて自らを叱咤し得ること、誰しもおぼえのあるところである。「恥掻場」の額をかかげる茶室のことを読んだおぼえがある。句会など、さしずめ、かっこうの「恥掻場」ではないか。
【吟行】
「船」を見にゆくなら、「舟」偏の文字くらい検(しら)べておきたい。「船尾」「船首」「船橋」「舷灯」「舷梯」「舵手」「艙口」―。いくつもある。「舟」の部分で、「舟」全体をあらわすことができるなら、俳句ではまったく好都合になる筈だ。
Facebook能村 聡さん投稿記事《あなたにとって「幸せな生き方」とは何ですか?》
あなたにとって「幸せな生き方」とは?
お金や地位を得ること?あるいは人から社会から認められる?
でも、どんなに金持ちになっても心が満たされない人がいます。お金は手段でこそあったとしても、目的ではありません。
それでは、果たして人から認められれば幸せなのでしょうか?
子供の頃から成績や、学歴、容姿などの、目に見える結果で評価されてきました。そんな他人基準の評価に振り回されているあなたは、本当に幸せなのでしょうか?
自分にとっての本当の幸せがなんなのか、ちょっと立ち止まって考えてみましょう。
その答えとは、以下に挙げる2つのことを実践する生き方ではないでしょうか?
まず1つ目は、「魂が喜ぶ事をする生き方」なのだと思います。「生きがいを実践する生き方」といってもいいかもしれません。
あなたは何かをしていて、心の底からワクワクし、時間や食事を忘れてしまうまで夢中になることがあるでしょうか?
夏休みの子ども達のように熱中して「遊べる」ことがあるでしょうか?
それがあなたの「魂が喜ぶ事」なのです。
「魂が喜ぶ事」を実践している限り、あなたはその分野で自分の持てる能力を最大限に引き出すことができるでしょう。
もちろん「魂が喜ぶこと」が「仕事」となって生活できているのか理想的ですが。
「幸せな生き方」の2つめの答えは、「まだ見ぬ幸せを求める生き方」をするのではなく、「すでにある幸せに気付く生き方」をすること。しあわせの青い鳥がどこにいるかはもうよくご存知ですね。
幸せは「どこかに求めるものではなく」、「今ここに見い出すもの」なのです。
幸せを感じるために,外を探しまわっていませんか?自分の内に、幸せになるための「真珠」があるのを忘れないで下さい。
「当たり前のこと」は、本当は「当たり前ではない」のです。それはその当たり前を失った時に初めて気づくのでは遅いのです。
すべては奇跡であり、宇宙の法則のもとに必然として起こっています。
幸せを感じられるカギとなる心は、「感謝の心」を持つことです。ありがたいは、有り+難い(そうあることが容易な当たり前のことではない)なのですね。
そして、感謝しているから、「感謝したくなるような出来事」が、さらに引き寄せられてくるのです。
さらに言うと「他人の幸せを自分ごとのように喜ぶ」これが出来る様になると、自分が一生の内に見出すことのできる幸せの数は一気に倍増します!
感謝する心は、常に宇宙の無限の富に近いことを忘れてはならないと思います。
そして、この本当の「幸せの青い鳥」は、あなたの内面に、「無条件の愛」を感じるときに発見することになるのです。
Facebook相田 公弘さん投稿記事 「与えられた条件の中で」
藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…
■禅の研究と著述に96年の生涯を傾注された鈴木大拙(だいせつ)博士が、こういう言葉を残されている。
「人間は偉くならなくとも一個の正直な人間となって信用できるものになれば、それでけっこうだ。真っ黒になって黙々として一日働き、時期が来れば“さよなら”で消えていく。
このような人を偉い人と自分はいいたい」平明、しかし深遠な一つの幸福論である。
■「時処位(じしょい)の自己限定」という言葉がある。
人は誰でも一つの時代に一つの処で一つの位地・立場を得て生きている。
その時処位で他を願わず精一杯努力をすることである。
■与えられた条件の中で運命を呪(のろ)わず、不平不満を言わず、いま自分にできる最善の努力をする…運命を切りひらく鍵はそこにある。
■人間を襲い、蝕(むしば)む天敵。それは心の中に巣くう不平不満である。
事あるごとに湧(わ)き起こってくる不平、不満、愚痴こそ、人間を滅ぼす天敵である。
■人間を損なう天敵の対極にあるもの、それが感謝である。
心が感謝の思いに満ちあふれた時、あらゆる不平不満は一気に消え去る。
感謝こそ人間という生命体を健やかに成長させる根幹である。
◇『小さな人生論 ポケット名言集』致知出版社
今の仕事や、今の地位、今の境遇は本当ではない、間違っている、と思っている人は多い。
本当の自分は他にあり、今は仮の姿なのだ、と運のなさを嘆く。
しかし、今がどんなに不本意であっても、それが現実であり、事実なのだ。
今を大事にせず、投げやりに生きるものに、夢や志を語る資格はない。
我々には、「いま」と「ここ」しかないのだから。
今の人生は、「過去のさまざまな場面で、自分が選んできた結果だ」と言う。
しかし、「選んだのではなく、与えられた」と考えることもできる。
この人生は「与えられた」のだ、と気づいたとき、人は、襟(えり)を正し、謙虚になり、感謝の気持も生まれる。
「蒔(ま)かれた種は、蒔かれた場所で芽を出し、花をさかせる」黙々と淡々と、自分の今の仕事や勉学に最善を尽くす。
感謝の心で、日々を過ごしたい。
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