https://www.haigan-tomoni.jp/useful/sotoiko/haiku/haiku02.html 【ゆるっと俳句散歩】より
俳句を始めてみたいけど、何を詠んだらいいのかわからない、という人も多いのではないでしょうか。そんな時は、俳句の素材を求めて戸外を散策する「吟行」に出かけましょう。前回に引き続き、俳句雑誌「鷹」の編集長である高柳克弘先生と一緒に公園を歩きながら、吟行の楽しみ方、自然観察のポイントを伺いました。
ゆるっと俳句散歩 Vol.2<実践編>
自然は季語の宝庫。見て、触れて俳句の世界を体感
今回は公園を散歩して自然に触れながら、身の周りにある季語を見つけたり、目にした情景をことばに書き留めたりしながら、実際に俳句を詠んでみるところまで挑戦します。でも、初めての吟行でどこに行けばいいのかわからないという方も多いかもしれません。
「歩くところは、山や湖、神社仏閣などの名所旧跡でもいいですが、わざわざ電車や車で出かけなくても、近所の公園や庭園をぐるっと一周するだけでもいいでしょう。そこで自然や風景を見ていると、意外にたくさんの季語が存在していることに気がつくはずです」と高柳先生。
俳句を詠もうとすると、つい家の中で黙々と作るようなイメージがありますが、できるだけ外へ出て俳句を作る習慣を身につけると俳句も上達するそうです。
「普段目にしているものや、自分の知っていることばだけで俳句を作ろうとすると、ありきたりの句になってしまいがちです。自然は俳句の材料が溢れる宝庫。花、樹木、空、鳥など、たくさんの季語に出会うことができます。自然の風景に身をおいて、どんなことばが思い浮かんだか、どんな景色に感動したのか、しっかり観察するのが吟行の第一歩。はじめから句を詠もうとする必要はありません。例えば、鳥が飛んでいる、花が咲いているなど、目にしたもの、触れたものなどをありのままに書き留めておくことが大切です」
<観察のポイント>
目に見える範囲だけでも、観察のポイントがたくさん
見つけたのは一本の大木。いたるところに季語が
木の下で見つけた「落ち葉(おちば)」は冬の季語。
今回訪れたのは東京都内にある国営昭和記念公園。池や森、庭園、運動場にサイクリングロードと、広々とした敷地に花や樹木などの自然が溢れ、吟行にぴったりの場所です。
公園に入って初めて出会ったのは一本の大木。すると、先生がなにやら木に鼻を近づけていますが…。
「この木も立派な冬の季語『枯れ木(かれき)』になります。この公園には落葉樹がたくさん見られますが、『冬木立(ふゆこだち)』『寒林(かんりん)』という季語にもなります。俳句の世界では、四季折々に咲く花や木はそのまま季語になることが多いものです。外に出かければ季語に苦労することはありません。
次にこの木に触れてみましょう。どうやら昨日の雨で湿っているようですね。匂いを嗅いでみると、古い木の香りがします。続いて木の周りを見渡すと落ち葉がありますね。こうした目についたもの、感じたことなど、気づいたことはメモ帳(句帖)に書き留めておきましょう」
見つけたのは一本の大木。いたるところに季語が
高柳先生は公園を散歩する親子に注目。なんと、子どもの持つ「なわとび」も冬の季語なんですって!
高柳先生が即興で詠んだ俳句。俳句は即興の文学だと改めて実感します。
先生にお話を伺っている最中に、偶然自転車でサイクリングコースを走る人たちが見えました。先生は早速メモを取っています。
「観察するのは何も植物や花だけではありません。公園を行き交う人も観察の対象です。例えば、どんな自転車に乗っているか、どんな服装をしているか。特に防寒のためのコートやブーツ、マフラー、手袋も冬の季語になります。『厚着(あつぎ)』『着膨れ(きぶくれ)』などは、少しユーモアのある季語。
見たままの映像や思い浮かんだことばを忘れないようにメモに残しておきましょう」
でも、季語を一つひとつ覚えるのは大変です。覚えるコツはあるのでしょうか。
「季節の季語を集めた歳時記を使うのがおすすめです。吟行に出かける前に、どんな季語があるのか事前に調べておいたり、散歩中に見かけたものが季語になっているかどうか見てみたり。
歳時記には季語だけでなく、季語の言い換え方が載っているため、五・七・五の音数にうまくことばを当てはめられない、使いたい季語が今の季節に合っていないというときに、代わりの季語を見つけることができます。吟行の際にはメモ帳と一緒に持ち歩くと便利です」
季語を言い換えると俳句を作りやすくなる!
気になったものはどんどん写真に撮りましょう。「被写体だけでなくその周りにあるものなど、『構図』を意識しながら撮影することで句を作りやすくなります」と高柳先生。
気になったものはどんどん写真に撮りましょう。
先生のアドバイスのもと、自然を観察するうちに少しずつ吟行のポイントがわかってきました。
ふと私たちの目にとまったのは、水辺に浮かぶ色とりどりのボート。人は見当たりませんが、暖かい季節なら人で賑わう場所だけに、その様子が気になりカメラ付きの携帯電話で写真撮影。
早速、歳時記で「ボート」を調べてみるとどうやら夏の季語のようです。
「確かに『ボート(ぼうと)』は夏の季語であるため、今の季節には合っていませんね。そんな時は、先ほどの歳時記の使い方でお話したように、『冬のボート』と言い換えても問題ありません。
こうした言い換えの仕方を知っておくと、俳句を作りやすくなりますよ」
カラスは年中いる鳥であるため、季語になりませんが、季節を感じさせる「寒」と合わせれば「寒鴉(かんがらす)」に。
赤い花をつけていた「ツバキ」は春の季語ですが、同じように「寒」と合わせれば「寒椿(かんつばき)」というように次々と季語の言い換えに成功しました!
同じところに止まったままじっとしているカラス。「寒鴉」とすることで冬の季語に。
春の季語「ツバキ」も「寒椿」とすることで冬の季語として読むことができます。
一期一会の出会いを探す
先生のガイドのもと、季語を探しに公園内を散策してみると、常緑樹が目につきます。俳句の材料を集めるには春や夏のほうがいいのでしょうか。
「そんなことはありません。どんな季節にも必ず季語はありますし、この季節は少しずつ花のつぼみが膨らみ始め、春の訪れに立ち会えるのもこの季節ならでは。また、冬には冬の珍しい季語に出会うこともあります。例えば、あの木の上を見てください」
先生に促されて木の上を見てみると、お正月の風物詩「凧」が木の上に引っかかっているのが見えます。
一期一会の出会いを探す
「『凧(たこ)』は春の季語ですが、『いかのぼり』と詠めば新年の凧を指し新年の季語として使うことができます。こうした風景は春や夏に見ることはできませんよね。おそらく新年早々親子で凧揚げをしていて、風に飛ばされて偶然この木に引っかかってしまったのでしょう。その時の子どもの表情や想いを思い浮かべると一気に俳句の世界観も色濃いものになります。
また、ポツンと立っている赤いポストの背景には『枯園(かれその)』が見えますが、色が明るいものと暗いものを対比させることで、新鮮なイメージを与えてくれます。俳句だからといって、無理に難しいことばを使おうとする必要はありません。大切なのは、自分の心が揺り動かされた小さな感動を、日常生活で使っていることばで素直に表現することです。こうした一期一会の偶然を大切にすることで、吟行の楽しみが広がると思います」s
一指 李承憲(イルチ イ・スンホン)
心の中で起こった思考や感情を変化させようとしたりなくそうとしたりせず またそれを好きか嫌いかという評価もせず ありのまま見守っていると 思考や感情がだんだん静まってきます。
何にも執着せず内面で起こるさまざまな考えや感情を静かに見守る心はすべてを偏りのない
バランスのとれた自然な状態に戻す力があります。
これが瞑想の核心ポイントでもありこの心が水昇火降の状態をつくり出します。
FacebookAyuka Mizoguchiさん投稿記事
いやぁ、あまりに共感したのでシェアをさせてください♪
学歴もなく、知識もないような人が素晴らしい洞察力や知恵を持っていることがある。
また、スピリチュアルとか悟りとかまったく知らない人が、ものすごく愛を体現していることがある。
知識や情報よりも「観察の目」があること。
二つ翻訳しましたので、ぜひ読んでみてください♪
https://ayukablog.wordpress.com/2023/02/23/%e7%9f%a5%e8%ad%98%e4%ba%ba%e3%81%8b%e3%82%89%e8%a6%b3%e5%af%9f%e8%80%85%e3%81%b8%e3%80%9c%e7%9b%ae%e8%a6%9a%e3%82%81%e3%81%b8%e3%81%ae%e3%82%b9%e3%83%86%e3%83%83%e3%83%97/?fbclid=IwAR1cM4Ir1r_AqZsS33ch2M7GBhtp0BMCEvjFG5yqHfdMvOjn9aNS0su0etU 【知識人から観察者へ〜目覚めへのステップ】より
恥ずかしいぐらい久しぶりですが、あまりに納得の行く言葉を見つけ、シェアせずにはいられなくなりました(笑)。
とりあえず原文をご紹介しましょう。これは和尚ことバグワン・シュリ・ラジニーシの「Awareness」という本からの抜粋です。(英文の下に訳文をつけました。)
If you become a mind, you lose consciousness – mind means sleep, mind means noise, mind means mechanicalness. It is knowledge that keeps you asleep; hence, the more knowledgeable a person is, the more asleep. Innocent villagers are far more alert and awake than the professors in the universities and the pundits in the temples. The pundits are nothing but parrots; the academicians in the universities are full of nothing but holy cow dung, full absolutely meaningless noise – just minds, no consciousness.
思考中心になると気づきの意識を見失う。思考とは眠っているということ、騒音であるということ、そして機械的ということだ。
知識があなたを眠り続けさせる。つまり、知識があればあるほど眠りが深くなる。無邪気な村人のほうが大学の教授、寺院にいる権威者よりもよっぽど警戒力があり、目覚めている。権威者(知識人)はオウム以外の何者でもなく、大学の研究者たちの中身はまったくもって空っぽ、またはまったく意味のない雑音でいっぱいで、せいぜい牛のフン程度のものがあるだけだ。ただ思考だけ、気づきの意識はまったくない。 (あゆか訳)
う〜む、大学の研究者たちの頭の中身は牛のフン程度って、だいぶ手厳しい(笑)。ちなみに私の両親とも大学教授でしたが、この文章を二人に読み聞かせたらたぶん笑って賛成する気がします。
さてイギリスでは、2021年の6月にマスク義務やすべての感染対策が解除になりました。一応お願いベースは残っていましたが、お願いはほぼスルーされ、だいぶ前にコロナは終わっている感じです。今はインフレと光熱費の高騰でみんなの頭はいっぱい。
ですが、この文章を読んだとき、コロナ禍に間中にずっと感じていたことが見事に書かれていると思ったのです。何かというと、私たちがいかに報道(他者の言葉など)を鵜呑みにしているかということです。聞いたままを事実として受け止める。自分自身の観察よりも、報道を頭の中でコピペしていく。
例えば、”感染者数が増えています”と報道されると、頭の中で”感染者数が増えているんだ”とコピペされ、そのまま終わり。権威者が言っているのだから、専門家が言っているのだから正しいに違いない。だから、自分で考えなくて良い。
ちなみに、この話を先日お話会でしたところ、自分はそうではない!と言われましたが、ここは一般的(自我の傾向)なお話しをしています。また、コロナ禍を例に出していますが、普段からこの傾向は私たちとても強いです。(私ももちろんやっています)
つまり、ここで起きていることは、コピペして他者に考えを委ねる。抜けているのは、ほんと?という疑問を持つこと、そして自分で観察し、感じて、考えること。
一方例えば、カナダではトラック運転手たちが、外に出られない子どもたちや家族に会えない老人たちが病んできている、ここまで自由を奪うほど猛毒なウイルスではないのじゃないか?と疑問を持ち大規模なデモが起きました。
トラックの運転手が知識や教育がないということではなく、デスクワークではない体を使っている仕事の人のほうが肌感が生きているのではないかと思うのです。
和尚は続けて、動物のほうが目覚めている、周囲の出来事に注意を向けていて、観察を怠っていないと書いてあります。つまり、動物は思考にハマらない分、ありのままの今ここにいるということです。
ですが、私たちは情報や知識、論文などのほうをより重視し、そっちが正しいとしてしまうことで、自然を観察する力、自分で考える能力、共感する心などを失ってしまいがちです。
さて、ここでもう一つ動画を紹介させてください。”科学って何?”というタイトルです。
Allen Savory – What Is Science?
短いので翻訳してみました♪
科学とは何だろう? 人は科学に対して曖昧な言い方をするが、科学とは一体何なのだろうか?
大学で修士や博士号を得た人が自然の現場にやってきても、彼らは精査が入った論文以外は何も信じない。論文しか受けつけないのだ。観察しよう、考えよう、討論しようといってもやらないのだ。
”これは精査されていますか?”としか聞かず、それが彼らにとっての科学なのだ。まったく持って嘆かわしいことだ。若く優れた頭脳を持って大学に入ったのに、脳が死んだ状態で卒業していく。それが今の学問。もし、論文が精査されていれば、彼らがその結論は正しいと判断する以前に皆が同じ結論に達したということになる。
これによる意図しない影響は、新しい知識や新しい科学的な洞察が生まれた時、それらが精査されているということはあり得ないということだ。つまり、新しい発展、科学にとっては非常に大きな発展をブロックしてしまっていることだ。(信じない、取り上げないという点で)
科学の新しい発見を振り返ってみれば、それらはほとんどいつも科学の主流ではなく、隅っこから違った見方をするところから生まれてきているのだ。高度な腕のキャンドル職人が、電球を思いつくことはあり得ない。新しい発見はその世界の中ではなく、そこを破った外側から生まれて来るのだ。
こういった自分自身の愚かさで、私たちは自分たちを破壊してしまうだろう。(アラン・セイボリー 2020)
あまりに賛成で何も付け足すことはありませんが、最後の言葉は本当にそうだなと思ってしまうのです。実際に起きていることを見る能力がなくなっていくことで、まずほんとうの危険と嘘の危険の区別がつかなくなること。
そして、今ある情報や知識の外に無限とある可能性を見過ごしたり、否定したりしてしまうこと。
ちょっとネガティブに書いてきてしまいましたが、最終的に、私たちは生命のエネルギーという本質から生まれ、本質そのものですね。なので、あまりに本質から離れると、本質に戻りたくなる、目覚めたくなる衝動も起き上がってくるに違いないと思うのです。
最後にまた和尚の言葉、”人は自分の思いに自分が気がついている分だけ目覚めている”
私たちの中には、自分がまったく気づいていない育った過程で刷り込まれた思い、価値観、ビリーフがたんまりとあります。これらも言い換えれば、周囲の言葉や出来事をそのままコピペして、出来上がっているものです。
ということで、まずは自分が自分の思考、ストーリー、意味づけ、解釈、価値観にしっかり気づくこと。そして、そこからまず自由になって、一緒に目覚めへと歩む仲間を増やして行きたいですね。
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