Facebook西尾仁さん投稿記事 [即身成仏](抜粋)
本来の成仏は悟りを得ることですが、日本の死生観では、死ぬと「成仏」すると考えています。成仏とは、時間の軸を失うことなのです。
魂は肉体を離れ、時間のない世界で生き続けます。では、時間がなくなると、なぜ、悟りを得るのか?答えは簡単です。
過去の「後悔」=(過ぎ越し苦労に悩み)未来の「心配」=(取り越し苦労に煩わされる)
が無くなるからです。
苦の根源は、「後悔」であり、「心配」です。その「後悔」と「心配」により、『今』という時間を一生懸命生き切れないのです。本当に実存しているのは『今』だけです。
『今』には「後悔」も「心配」もありません。
意識を『今』に向けるだけで悟れるのです。これが、真言密教の極意、即身成仏です。
物事に集中しているときは時間が経つのを忘れることがあります。
それは、今・今・今・今・今だからです。そこに「苦」が入り込む隙間がないのです。
【人間は万物の霊長ではあっても、万物のならず者になってはいけない。】
人間を他の動物と区分しているものこそ、本心・良心というものである。
人間は、本心・良心によって、自分自身に対する人間としての存続の義務を問う生き物なのである。
自分とは何か、人間とは何か、心とは何か、宇宙とは何か、神とは何か、如何にい来るべきか・・・・・
魂は肉体の主人であり、心と肉体は生命(魂)の道具である。
一人ひとりの人間として、生命を通して人間として生かしめている幽玄霊妙な中枢の主体を、中村天風は『霊性心』と呼んでいる。
その『霊性心』の発露が本心・良心の働きである。
心なら犬や猫にもある。前頭葉を持つ四ツ足の動物はみんな心を持っているかも知れない。
しかし同じ自然物であっても人間は『霊性心』が備わっている。
そこに人間の人間としての尊厳がある。
生命が愛と光とエネルギーによって守られ育てられて来た様に、
人間は『霊性心』を発露することにより、『人の喜びを我が喜びとする』愛があり、
光がみのり、力となることができる。
人間は万物の霊長ではあっても、万物のならず者になってはいけない。
清水榮一 著「中村天風に学ぶ絶対積極の言葉」より
https://online.samgha-shinsha.jp/contents/8e4d0ed8f074 【ネルケ無方「日本人と道元禅師の死後観」】より
ネルケ無方 ねるけ・むほう
1968年、旧西ドイツ・ベルリン生まれ。7才の時、母と死別してから人生に悩む。16才で坐禅と出合う。高校時代から禅僧になる夢を抱いて、坐禅道場に通い続ける。1990年、春は京都大学の留学生として来日、秋から兵庫県の但馬地方にある曹洞宗・安泰寺に上山。半年間の禅修行。大学のドクターコースを中退、1993年から安泰寺で出家得度。8年間の雲水生活を経て嗣法。2001年から大阪城公園で「ホームレス雲水」として毎朝の坐禅会を開く。2002年から2020年まで、安泰寺堂頭(住職)をつとめた。現在、大阪を拠点に講演活動や坐禅指導を行っている。主な著書『迷える者の禅修行』(新潮新書)、『裸の坊様』『曲げないドイツ人 決めない日本人』(以上、サンガ新書)、『僧侶が語る死の正体』(共著、サンガ)、『日本人に「宗教」は要らない』『今日を死ぬことで、明日を生きる』(以上、ベスト新書)など多数。
来たる2021年12月4日と12月11日に、ネルケ無方師(禅僧)と前野隆司先生(慶應義塾大学大学院教授)によるオンラインセミナー「生と死を考える」が開催されます!
幼少の頃から生きることに絶望し、坐禅に出会って生への希望を見出したドイツ人の禅僧ネルケ無方師。7歳でお母様を亡くされたネルケ無方師は、幼い頃から「いずれ死ぬのに、なぜ生きなければならないのか」と疑問を持たれ、子ども時代から生きることに苦悩されてきました。お父様や学校の先生に相談しても答えをはぐらかされて解決には至らず、16歳に偶然出会ったお釈迦様の教えに救いの道を直感し、日本へと禅修行に旅立たれました。
ネルケ無方師の「生と死」への問題意識はどのようなものだったのでしょうか?
オンラインセミナー当日のお話の導入にもなる、ネルケ無方師による「生と死」ついての探求を「オンラインセミナー開催記念特別コラム」としてご紹介します。今回のテーマは「日本人と道元禅師の死後観」です。
■日本における死後の概念
日本人の死後観について少し振り返ってみたいと思います。
仏教の宗派によっても多少違いますが、大体の宗派では、死んだら成仏すると言われます。禅宗でもそうです。亡くなったおばあさんは成仏した、そのように表現します。
成仏したならば、再びこの世に生まれ変わることはありません。なぜならば、仏は生まれ変わらないからです。
ですから、本来、四十九日の法要をする必要はないはずですが、だいたいみんなちゃんとやります。都会では四十九日のときにまた親戚を集めるのは大変だからといって、葬式当日に四十九日の法要までやってしまうことも多いようです。
四十九日というのは成仏できなかった凡人が、再びこの世に生まれ変わるまでの期間です。その間、故人に少しでも仏道に目覚めてもらうために、七日ごとに読経する習わしもあります。曹洞宗では、明治時代に編集された『修証義』という在家向けのお経を読むのが一般的です。
四十九日の法要を終えれば、故人は輪廻転生して別の生命に生まれ変わっているはずです。しかしお盆になると「ご先祖様が帰ってくる」と言うことになっています。別の生き物として生まれ変わって、再びこの世に生を受けているはずのご先祖様は、いったいどこから帰ってくるのでしょうか?
浄土真宗には浄土観というものがあって、割としっかりした死後の教えがあり、一般的にお盆にご先祖様は帰ってこないことになっています。もちろん、再びこの世に生まれ変わったからではなく、阿弥陀如来の力によって極楽浄土に往生しているからです。
しかし、最近の真宗ではご先祖様が帰ってくることもあるようです。たまに私は真宗のお寺にも講師として呼ばれて行くことがあるのですが、聞けば、ある真宗の住職さんは、棚経(たなぎょう)[※]をされていると言います。ご先祖様は帰ってこないはずなのに、なぜ棚経をするのかというと、そうしなければ檀家さんに「サービスが悪い」と言われるからなのだそうです。
こんなこともありました。私のお寺には檀家がないので、お盆のときには九州のお寺でお手伝いをしているのですが、その最中に不思議なことに気づきました。仏壇にお供えしてある仏飯(ぶっぱん)が、位牌の数よりも少なかったのです。
その理由を聞いてみたら、三十三回忌、あるいは五十回忌を過ぎると、もうご先祖様は帰ってこないことになっているといいます。
おそらく裏にあるのはこういう事情だと思います。仏壇の前に正坐して、手を合わせてご先祖様を思い浮かべたならば、その人にとってご先祖様は戻ったことになる。しかし、実際に五十回忌を過ぎると、おばあさんやおじいさんを思い出す孫たちも、現実的にほとんどいなくなる。そういう意味で、ご先祖様はもう戻らなくなった、そう言われているのだと思います。
ご先祖様は、三十三回忌、あるいは五十回忌までは帰って来るとして、そのあとどうなるかというと、仏様から神様になるのだそうです。
これも不思議です。輪廻転生の教えからすると、何歩か譲って神様が成仏することがあるとしても、いったん仏になった者がどうして神様になるのでしょうか。
※棚経:祖先の霊を祀ること。
■道元禅師の死生観
死後観は宗派によって色々ですが、曹洞宗に限って言えば、死後はこうなるのだ、というはっきりとした教えはありません。
曹洞宗を日本に伝えた道元禅師は、『正法眼蔵』の「現成公案」の中で死後についてこのように述べています。
かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。
「かのたき木」は燃やす薪(まき)のことです。薪は「はひとなりぬるのち」、つまり薪が燃えて灰となったあとに、「さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず」、木が燃えたあとは灰となるけれども、この灰が再び木に戻ることはない。人間も同じように、死んだあとには再び生を得ることはないと言っています。
ここだけを読めば、道元禅師は輪廻転生を否定しているようですが、実はそうではありません。
例えば、『正法眼蔵』の「道心」という巻では、仏法僧という三つの宝に帰依することが勧められていますが、道心に目覚めるために、日夜休むことなく「南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧」と唱えなさい、と書いてあります。あれだけ坐禅を強調している道元禅師は、ここでは念仏者のような教えをしています。驚くことなかれ、その念仏は死んだ後にも続くのです。
中有までも後生までも、おこたるべからず。かくのごとくして、生生世世をつくしてとなへたてまつるべし。
「中有」とはつまり、中陰の四十九日間のことです。死んだあとの四十九日間も、次の一生も、その次の次の生も、ずっと「南無帰依仏、南無帰依法……」を唱え続けなさい、というわけです。
また、曹洞宗の出家得度の際の得度式や在家の受戒式では、道元禅師の言葉をもとにして、師匠が弟子たちに戒律を授ける際に「今身より仏身に至るまで、此の戒能く持つや否や」と問いかけ、弟子達は「能く持つ」答える慣習が今でもあります。
「今身」というのは、今のこの身のことです。「今身より仏身に至るまで」というのは、仏の身を得るまでという意味です。今の人生のうちに仏になる可能性は非常に少ないので、今生から来世、再来世と、輪廻転生していつか仏になるまでは仏の道をずっと実践し続けよ、という意味だと解釈することができます。
つまり、ここでは生まれ変わりが前提となっているのです。
道元禅師の『正法眼蔵』の「発菩提心」という巻には「自未得度先度他(じみとくどせんどた)」という表現もあります。自分が仏にならなくても、まず他の人々が救われるようにしよう、自分が仏になるのがたとえ最後になるとしてもそれでいい、あるいは、自分が永遠に仏にならなくても、自分がずっと迷いの世界の中で輪廻転生を続けることになっても、他の生きとし生けるものをまず救おうじゃないか、という意味になります。
ここでもやはり生まれ変わりが前提となっています。
つまり、道元禅師は、現成公案の中では死んだら再び戻らないと説きながら、一方で、「仏身を得るまでは、輪廻の限り修行を続けよ」とも言っているのです。
道元禅師ですら、死後についてどう考えていたのかわかりにくいと言わざるを得ません。
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