https://ninchishoyobo.com/column/3215/ 【俳句が認知症予防に効く?】より
俳句といえば、近年はTBS系列番組の「プレバト」をイメージされる方も多いのではないでしょうか。実はこの俳句、日本認知症予防学会理事長浦上教授も認知症予防のために「短歌」や「俳句」といった創作的な活動を提唱しています。
ではなぜ「俳句」が認知症予防に効くといわれているのでしょうか。
俳句は右脳で景色や光景を想像し、左脳で五・七・五の語数を合わせるため、非常に脳を活性化させるといわれています。また創作した俳句を一息で何回も読むと、呼吸筋力のトレーニングになります。 呼吸筋力が強くなると、肺に空気がたくさん入るようになり脳の働きもよくなるといわれています。
弊社でも福井県坂井市にて「60歳から始める認知症予防教室」を開催し、その中で俳句教室を行いました。初めて俳句をつくった方も多かったのですが、俳句のためのネタ探しで普段の散歩道が変わって見えた、時事ネタを違う視点で表現できないかと思考するため興味がわくようになった、など普段の日常生活に刺激が出てきたとたくさんの感想をいただきました。(略)
http://rihaken.org/05_yotabanasi09.html 【介護夜汰話】より抜粋
認知症老人のコミュニケーション覚え書き
その33 「ほんとのアイデンティティ」と「セコいアイデンティティ」
この連載の2013 年6 月号と7・8 月合併号で、アイデンティティこそがコミュニケーションを困難にしているのではないかと書いた。それに対しては次のような疑問が寄せられた。
「認知症は高齢者が環境の変化などによってアイデンティティを失ったことが原因、少なくともきっかけである。したがって介護職の仕事はそのアイデンティティを取り戻すことを応援することだと三好さんは言ってきたんじゃないですか?」と。
疑問は当然である。私たちはアイデンティティを守ることを認知症ケアの基本だと考えてきた。だからこそ、認知症ケアの7 原則(『痴呆論』)の最初に、①環境を変えるな、②人間関係を変えるな、③生活習慣を変えるな、の3 つを挙げている。
施設入所などによって、環境と人間関係を変えざるを得ない場合には、生活習慣を保つことでアイデンティティを支えるべきだと訴えてきた。『実用介護事典・改訂新版』の“生活習慣” の項を引いてみよう。
その国や地域、家族や個人が暮らしていくうえでくり返してきた様式のこと。それを通してアイデンティティを確認していることも多く、生活習慣を大切にすることは介護の原則の一つである(後略、P444)。
その生活習慣の中でも最も大切なのは、食事、排泄、入浴であるとして、原則の④つめは「介護の基本をより大切にしよう」を挙げている。さらにアイデンティティを喪失させられた老人にはより積極的にそれを取り戻し再構築するために、⑤個性的空間づくり、⑥一人ひとりの役割づくり、⑦一人ひとりの関係づくり、を提案してきた。
どの原則も、アイデンティティを守り、取り戻していくために大切で有効な方法である。特に⑥一人ひとりの役割づくりでは、「役割づくりの3 条件」を提案していて、介護現場でもよく知られるようになっている。それは、1. 昔やっていたことかそれに近いこと、2. 今の能力でできること、3. それをまわりからほめられ認められること、である。これは、かつてのアイデンティティを支えていた条件を、高齢や認知症になっても、擬似的に再現することで、アイデンティティを取り戻そうとする現場の工夫が生んだ方法である。
ではなぜアイデンティティが問題なのか。アイデンティティという言葉は、定義はあいまいで、いろいろな意味合いで使われている。私たちの使い方も含めて。訳語も、「自我同一性」だったり「自己同一性」だったりするし、さらに「社会的アイデンティティ」なんて表現まで出てくる。この場合、いわゆるアイデンティティは「自己アイデンティティ」と呼ばれたりもする。
「自我」と「自己」はどう違うのか。どうやら「自我」とは他人と隔絶した自分のことで「自意識」に近いイメージ。それに対して「自己」は人との関係の中の自分、人から見られ評価されている自分のこと。さらに「社会的アイデンティティ」となると、職業に代表される社会での役割を果たしている自分ということになる。
「自我」となると、人の言うことや世間の評価なんか気にしない純粋な人、言いかえればわがままな人、あるいは、唯一神との関係で自分を律しようとする倫理的な人、または「神は死んだ」と叫ぶ、ニーチェの「超人」のイメージが湧いてきて、日本人の私にはピンと来ない。私たち日本人が自分は自分であると実感できるためには、まわりの人の評価、さらには社会的役割が不可欠な気がしてならない(『関係障害論』参照)。
特に現代人は社会的関係によってアイデンティティを確認する傾向が強いのではないだろうか。W氏は一代で会社を起こして一部上場したワンマン社長である。家族にも従業員にも一方的に命令し自分の仕事の仕方を「社訓」としてまわりに強制する人だった。その彼が脳卒中で左片マヒになり、問題行動が始まる。
医療なら「脳血管性」と診断するだろうが、もちろん典型的な「葛藤型」である(『痴呆論』の3 分類参照)。社長は退任せざるを得ないし、誰も彼の命令は聞かなくなる。彼のアイデンティティとは「社会的アイデンティティ」そのものだし、「プライド」という言葉とほとんど同じ意味である。そんな人のプライドやアイデンティティなんか崩壊したって放っておけばいいじゃないか、と思う人はいるだろう。
はい、私も個人的にはそう思う。でも介護関係者としてはなんとかプライドを取り戻せないかとアプローチするだろう。たとえば、前述の3 条件に合うような役割づくりを試みたり。しかしそんな、擬似的な社会的役割すらすることができなくなったときにはどうすればいいのか。
社会的役割がなくなっても落ち着いて安らかでいられるためには何が必要だろうか。それを「ほんとのアイデンティティ」と呼ぶとしたらそれはどんなものだろうか。まわりの人の目も世間の評価も気にしない「自我同一性」だろうか。いやそんな自意識過剰の世界であるはずがない。
私は、私たちがアイデンティティと呼んできたもの、「ほんとのアイデンティティ」があるとしたら、それは、生命体としての同一性ではないかと思っている。「生きているということへの肯定感」が最もピンとくる表現である。老人、認知症の老人が、その「生きているということへの肯定感」を得られるために私たちに何ができるだろうか。
そのほとんどは母子関係で決まっているのではないかと私は思わざるを得ないのだ。はたして今から取り返しがつくのだろうか。ただ、そうした「生きているということへの肯定感=ほんとのアイデンティティ」を感じられない人ほど、学歴、社会的地位、ブランド物、金、といった「社会的アイデンティティ=セコいアイデンティティ」によってそれを埋め合わせようとしているのだと思っている。その推論は、私のひがみによる偏見だとは思えない。
2013年5月 認知症老人のコミュニケーション覚え書き
その27 コミュニケーションを取り戻すⅠ
認知症老人とのコミュニケーションが下手な人は、自分自身とのコミュニケーションもうまくいっていないのではないか。特に自分を専門職として強く意識している人に下手な人が多いのは、シロウトとしての自分自身とのコミュニケーションを意識的に断念してきたからではないかと述べてきた。
いまや、医師、看護師、PT、OT だけでなく、ケアマネ、介護職といった介護関係者もみんな専門職であり、専門職となることを目指すべきだと思われている。となると、介護現場にいる私たちはみんな、そうした傾向と無縁ではいられないことになる。それに対する歯止めはあるのだろうか。
まず、そうした“専門職化” を拒否するという道がある。資格はもちろん、資格をとるための勉強も拒否し、その代わりに、現場で老人に有用な方法を探し出し、マニュアル化できないエピソードを積み重ねていくのだ。具体的な例をあげよう。いまや、紙芝居を介護の世界に定着させた第一人者として知られるようになった遠山昭雄さんである。
彼は、やむなく2 級ヘルパーだけはとったそうだが、他の資格をとろうとしないだけでなく、管理職になることも拒否してきた人である。一度主任かなにかになったが辞退したという。難解な本を読みこなす頭脳とセンスの持ち主である遠山さんのことだ、資格を取得するぐらいは朝飯前のことだろうし、経験豊富だから管理職としても務まるだろう。
しかし彼にとっては、介護の仕事を続けたことそのものが『金に負けない生き方としての人生の選択だった』と、本誌連載で書いている(Vol.214 号参照)。彼は、相続をめぐって「敗北感」を感じているそうだ。しかし私はこうした生き方が、できることなら最後に「勝利感」を味わえるようになることを願っている。半ばは「負け惜しみ」が入っていたとしても。
しかし、こうした“遠山流” は誰にでも真似できることではない。自信と信念がなければ難しい。生活のためには資格もとって、それなりの地位、立場にも就きたいという生き方をする私たちのような者はどうすればいいのだろう。私がPT やOT、看護師にアドバイスしている方法がある。
彼らもまた患者とその家族とのコミュニケーションに苦労している人が少なくない。特に医者とのコミュニケーションに通じるように努力すればするほど、患者、家族とのコミュニケーションが難しくなる。その理由は、この間述べてきたとおりである。私のアドバイスは、専門教育を受ける前の自分を思い出して、その自分がわかるように語れというものだ。
高校を卒業したときの自分は、「上腕二頭筋」も「中殿筋」という名前も知らなかったはずだ。「ADL」も「ROM」も縁のない世界だったはずだ。その自分を頭の中で想定してコミュニケートすれば、患者、家族にも通じるはずではないか。しかし、「シロウト」を否定することで「プロ」になろうとする傾向の強い専門教育と医学という特殊な世界にいたせいで、この方法は意外と難しいのだ。
昔のことは忘れているのだから。意識的に。そして無意識的に。医学の世界でも介護界でも、人生経験をいろいろ経てからこの世界に入ってきたという人がいる。そうした人たちは、患者、家族、さらには認知症老人とのコミュニケーションがうまい人が多いと思う。それは、シロウトとしての自分の生活が長くて、専門教育や医療界、介護界の傾向に影響されることが少なかったからに違いない。
シロウトだったときの自分も容易に思い出せるだろうし、患者や家族としても医療職や介護職とのコミュニケーションに違和を覚えたという経験があったという人もいるだろう。再び例をあげよう。稲川利光さんは、医師でNTT 関東病院リハビリセンター長である。講演では「アンパンマン」の歌で寝たきり老人の存在の意味を伝える人だ。
彼の話が介護職はもちろん、一般の人にまでストレートに伝わるのはなぜか。彼は医師になる前はPT だった。ちなみに私とはPT 養成校の同級生だ。彼にはPT 校への入学の動機があった。認知症だったおじいさんが病院で亡くなった。しかし足が屈曲拘縮し棺に入らない。お兄さんと2 人で泣きながら膝を伸ばしたという。
その病院が「リハビリテーション病院」だったのだという。この悔しさから、就職が決まっていた銀行を辞めてPT 養成校に来ることになる。いわば、家族としての経験が専門家になることの根拠なのだ。さらに医師国家試験の当日に腰痛のためアルバイト先の特養スタッフにストレッチャーで会場に運んでもらって受験する体験までしている。
患者として医療、介護も自ら体験しているのだ。こうした人はコミュニケーションはうまい。専門職になる動機、根拠が、シロウトの自分にあるのだから。患者や家族とのコミュニケーションをうまくなろうとすれば、自分自身がシロウトだったときの自分を抑圧したりしないで思い出せばいい。というのが方法の一つである。
では、認知症老人とのコミュニケーションをうまくするにはどうすればいいのか。認知症だった頃の自分を思い出せばいい、とはいかないではないか。それは、また次号で。
認知症老人のコミュニケーション覚え書き
その26 自分とのコミュニケーションⅢ
認知症老人とのコミュニケーションが下手な専門家は、実は自分自身とのコミュニケーションができない人ではないのかと述べてきた。シロウトであったときの自分とは断絶したところで、専門家としての自分をつくりあげているのではないかと。
したがって彼らは認知症老人とだけでなく、患者やその家族とのコミュニケーションも下手である。“インフォームドコンセント”(=説明と同意)をいくらやっても、専門用語ばかりで患者、家族には伝わってないなんてことは珍しくない。
では、そんな専門家にならないためにはどうしたらいいか。これは一つのやり方だが、専門家になる前の自分を思い出すというのがある。専門教育を受ける前の自分をイメージして、その自分にわかるように書き、語るというやり方だ。そうなると、子どもとのコミュニケーションをうまくするには、子どもだった頃の自分を思い出せばいいということになる。
でもこれが難しい。私たちは、早く一人前になれ、自立しろという圧力をいつも受けてきたから、<子どもの自分>は否定していくもののように感じてきた。でも、人生にはそうした自分の子ども時代を思い出し、コミュニケートするチャンスがある。子育てだ。でも今の日本では残業ばかりで、特に男性はそのチャンスを生かせない。
母親が子どもといっしょになって子どものように遊ぶのは「健康な退行」と言われている。言い方を代えると、人間の基礎の部分に回帰することである。さらにこれは、過去へ回帰するだけではない。未来への回帰でもある。「未来への回帰」とは矛盾した表現だと思うだろうか。しかし、老いとは再び人間の基礎の部分に戻っていくことである。
特に認知症の老人の行動規範は、法律や常識といった社会的規範から遠ざかり、赤ん坊と同じ快・不快の法則に戻っているように思える。だから、子ども、特に赤ん坊に近い子どもとのコミュニケーションのうまい人は、認知症老人とのコミュニケーションもうまいはずである。そして自分自身が老い、認知症になったときにも、その自分とのコミュニケーションもうまいだろうということになる。
「老いた自分との関係障害」が認知症老人の問題行動の基本であると私は主張してきたが、こうなると、どんな人が認知症になりやすいか、なりにくいかもわかってくることになるだろう。世の中には性格や生活習慣と認知症を関連づける俗説が氾濫している。
たとえば、赤ワインを飲むと認知症になりにくい、なんてことを医師が書いている。じゃ、フランス人は認知症になりにくいのか? カレーを食べるといいなんてのもある。じゃインド人はぼけないのか? いずれもデカルト的個体還元論に基づく怪しい俗説である。しかし、私たちの考えなら次のようなことは言えるかもしれない。認知症老人とのコミュニケーションのうまい人は認知症になりにくい、と。
世の中には認知症の予防についての本やテレビ番組があふれている。しかしそれらを熱心に読み、見る人たちは、認知症への嫌悪がその動機となっている。そうである以上、こうしたハウツーは逆に認知症になりやすくするものではないか。だって認知症を嫌悪している彼らは、決して認知症老人に近づいたり、関わろうとしないのだから。
最初からコミュニケーションを断絶しているのである。その点、私たち介護現場にいる者は、人生で大きな得をしている。なにしろ否応なく認知症老人と関わらざるをえない。そしていいケアをしたいと思う人ほど認知症老人とのコミュニケーションがうまくなる。そして、私の推論が当たっているのなら、認知症になりにくくなる、なったとしても問題行動は起こりにくくなるはずである。やはり介護の仕事を続けるべきなのだ。
ネットはもちろん、雑誌にも隣接する国民への差別や独断があふれている。だが、そんな差別的断定をする人ほど実際にその国の人々と関わっていないのだ。ちゃんと関わり、コミュニケーションをとってきた人は、どの国にも民族にもよい人も悪い人もいて、その割合はみんな同じだということがわかっているから、断定的な言い方なんかしないはずである。
他者とのコミュニケーションを断絶して、国家主義、民族主義という小児的自己中心性を振りかざす人たちこそ、すでに認知症を内包しているのである。なぜなら、歳をとって、自分の中から「他者」が出現したときにコミュニケーションがとれないだろうから。もちろん石原や安部のことを言っているのである。
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