Facebook杉浦 貴之さん投稿記事 【建国記念の日】
日本という国がどのように作られて、いつから始まったのか、思いを馳せる日ですね。
「建国記念の日」とされる2月11日は、明治政府が『古事記』(712年)や『日本書紀』(720年)の記述から、初代天皇とされる神武天皇の即位日と〝解釈″した日。
〝解釈″です。
その日は旧暦の紀元前660年のこと(2683年前)とされています。
なぜ2683年前なのか?本当に2683年前なのか?という問いを発動させたほうが人生は面白いです。
初代の神武天皇は実在したかはっきりしていません。
物的証拠がないのです。10代天皇の崇神天皇から実在した、
26代の継体天皇からは確実だ・・・などいろいろな説があります。
日本の始まりがはっきりわからないなんて、本当にロマンだと思います。
こうだ!と固定して考えるより、想像をを巡らせたほうが楽しいです。
日本の始まりの記述のある『古事記』や『日本書紀』は天武天皇がプロジェクトを作り、
元明天皇の代に編纂されたもの。
「神武天皇」という名前もそのときに作られました。
「日本」という国名もこの頃から文献に登場します。
当時、近隣諸国からの圧力が強まり、国を治めるために天皇を神格化し、対外的に日本という存在を確固たるものにするために作られたとも言われています。
時を経て、近代国家としての道を歩み始めた明治政府が日本のオリジナリティや
存在感をアピールするために、旧暦の紀元前660年2月11日を「建国記念日」として定めたと言われています。
どちらの時期も外圧が強まり、国民の心をまとめる必要があったときですね。
『古事記』や『日本書紀』はフィクションと伝承の入り混じった物語。
現実的に考えると、今から2683年前は弥生時代とされる時代。
その頃に日本という国が始まったと考えるのは無理があるかなーと思います。
当時は小国が乱立し、リーダーという存在はあったと思います。
しかし、当時仮に、神武天皇(カムヤマトイワレビコノミコト)が実在したとして、
自身が天皇という自覚もなく、日本を興した・・・という感覚はなかったと思います。
そして『古事記』に記されている神武天皇は130歳くらいまで生きたとなっていて、その後の天皇も100歳超えが何人もいます。
それは非現実的だし、やっぱりフィクションかな~。しかしそうとも言い切れないのです。
神武天皇が実在したされる説の中には、当時は1年を2年と数える春秋法で暦が計算されていたと主張するものもあり、その数え方でいくと神武天皇も60代の寿命なんです。
ただそうなると計算が変わってきて、神武天皇が即位したのは紀元前70年(今から2090年前)くらいとなり、もう少し時代は新しくなります。古墳時代が始まる頃です。
この時期なら『古事記』に書かれていることと地政学上も符合するところがあるそうです。
古墳が全国にできたということは、統一国家があったと考えても良さそうですね。
邪馬台国が出現し、ヤマト王朝、大和朝廷が出てきます。
ただ日本列島が国として統一されたのはずっと先で、平安時代も関東から北は蝦夷(えみし)と呼ばれ、勢力を広げようとする大和朝廷には屈していませんでした。「征夷大将軍」の「夷」というのは蝦夷のことです。
いつをもって日本は始まったとするか?
歴史学者、考古学者、言語学者、生物学者、地政学者の研究が進み、これからいろいろなことが分かってくると思います。
「日本の始まりは?」には諸説がいろいろあって、めちゃくちゃ面白いです!
言われたまま、教えられたままを信じるのではなく、自分なりに考えることが大切ですね。
日本を築いてきた方々に感謝する日にします。
https://yomukiku-mukashi.com/tousei.html 【カムヤマトイワレビコの東征】より
https://www.youtube.com/watch?v=XvSvyPZB9sI&t=50s
東征のはじまり
ウカヤフキアエズノミコトから生まれた四柱の御子のうち、四男の神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)と長男の五瀬命(イツセノミコト)は、日向の宮殿で相談しておられました。
「このまま日向にいたって仕方が無いと思うんだ。」「兄さん、いよいよ行くのですね。東に!」「うむ。この国を治めるにはもっとふさわしい場所があると思うんだ。弟よ、協力してくれるかい」「兄上、もちろんです!」こうしてイツセノミコトとカムヤマトイワレビコの兄弟は軍勢を率いて日向(ひむか)から舟に乗って出発し、まず豊国の宇沙に着きます。
「御子さま、どうぞお食事を」「お口にあいますかどうか…」
宇沙では服従のしるしに盛大な歓迎を受けました。その後、筑紫の岡田宮(おかだのみや)に一年、安芸国 多祁理宮(たけりのみや)に七年、吉備の高島宮(たかしまのみや)に八年留まりました。
神武東征
その後、さらに東へ向かう途中、速吸門(はやすいのと)という海で、「おーい」と声がしました。声のほうを見ると、亀にまたがった老人が袖を振り振り、海の上を近づいてくるのでした。
「なんじゃお前は?」
「私は国つ神です。海の道は見知ったるものです。
御子さま、私を使ってみませんか?御子さまのお役に立ちたいのです」老人はうやうやしく頭を下げます。
「ふん、面白そうなじいさんだ。いいだろう。棹をつたってこい」
舟から棹を老人のほうに伸ばして、老人が棹をつかんで、舟に乗り移りました。
これにちなんで、老人の名を槁根津彦(さおねつひこ)と名づけました。
イツセの死
さらに東への旅は続きます。
浪速の津(大阪湾)を過ぎ、白肩(しらかた)の津に泊まった時、登美(とみ 奈良市)の豪族ナガスネビコが軍勢を率いて攻めてきました。
「戦だッ、戦ーーッ!!」
ヒュン、ヒュンヒュンッ…!双方、矢を射合います。
「ぐおおーーーッ!!」ドカドカドカーー
五瀬命はみずから先頭に立って駆けていきますが、
ヒューーーードスッ「ぐはあ!!」その手に、敵の矢を受けてしまいました。
「兄上!!」
「大丈夫だ弟よ。なんの、これしきの傷…つうッ!!太陽の神の御子が、太陽に向かって戦ったのがよくなかったわい。下郎の矢を食らうとは!!迂回して、太陽を背にして敵を討つ」
バカラッ、バカラッ、バカラッ「ああっ!兄上、無茶な…!!」
イツセノミコトは海で手の血を洗い、その場所から
迂回して紀伊国(きのくに)の男之水門(おのみなと)に着きますが、
力尽きてしまいました。
「ぐぬう。下郎から手傷を受けて死ぬとは…無念!」
バッタァーー。こうしてイツセは息絶えました。
以後、遠征軍はカムヤマイワレヒコが率いることになります。
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