https://ameblo.jp/minamiyoko3734/entry-12786499966.html 【セルフエスティーム(自己信頼)はセルフコンパッション】
http://honmanote21.cocolog-nifty.com/blog/2021/07/post-a6195a.html 【【響】<04>セルフエスティームからセルフコンパッションへ 自己肯定感の2つの意味】より
★勤務校のエンカレッジコース(通信制高校)の保護者のみなさんとお話をする機会がありました。エンカレッジの先生方と生徒のみなさんの日々の取り組みが、どんなに価値があり、今時代が求めているものなのかを情報共有しました。
★2011年3月11日までは、自己肯定感という意味は、どちらかというとセルフエスティームという言葉と親和性がありました。たしかに日本の生徒は自己肯定感が低いという統計がでているので、なんとか高めようという話は当時からでていました。しかし、3・11以降は、何かが違うという意識が日本では生まれてきました。
★残念ながら、その時点では、何が違うのか、世間はわからなかったのです。ただ、エンカレッジは無意識のうちでしたが、それがわかっていて、その了解の文脈で教育が行われていたのです。
★当時のセルフエスティームは語義的には自尊感情ですが、社会構造的な文脈では、最近サンデル教授が能力主義は悪だと指摘している、その能力主義の文脈で語られてきました。日本だと学歴社会に相当する社会構造的文脈です。勝ち組負け組を生み出す構造の中で、うちひしがれていないで、自尊感情をもって歩んでいくんだということです。心理学的な正確な意味とは違うかもしれませんが、おそらくそのような文脈の中でそのような意識で皆使わざるを得なかった構造上の制約があったはずです。
★しかし、3・11以降、たとえば、21世紀型教育機構のように、学歴社会を無化する動きが教育の中でもでてきました。その表れが、偏差値に関係なく東大クラスの世界の大学にガンガン入学するようになってきたのです。
★とはいえ、それとても能力主義の枠内で、サンデル教授や斎藤幸平准教授のいうようなコミュタリアンな共同体でも脱成長の社会でもありません。
★エンカレッジの生徒は、能力主義的あるいは学歴社会的構造の自己肯定感そのものに違和感を感じているのです。しかし、3・11より前は、そのような勝ち組負け組を生み出す社会が圧倒的でしたから、そこにいることは苦しかったでしょう。
★ところが、3・11以降は、そうではない居場所として、エンカレッジがあるということに意識していないのに気づく教師や生徒が現われてきたのです。
★そして、今回のパンデミックで、もちろん能力主義的社会は現存しているわけですが、それでもそんな能力主義的社会や成長神話社会だけではなく、最高善を求める共同体や脱成長社会の流れが生まれてきたのです。
★今まではエンカレッジはある意味、能力主義的社会からの避難所でしたが、今後はそういうセルフエスティームではない自己肯定感を認める社会が現れ始めているのです。エンカレッジの生徒の卒業後の進路は、能力主義社会か脱成長社会か選択できるようになってきたのです。
★もちろん、これは勤務校に限らずほとんどの全日制も同じですが、全日制の社会的環境は、まだまだ能力主義社会です。
★従来の通信制は、能力主義からいったん身を引いていたのを、再び参加するようにセルフエスティームの回復をサポートしてきたのでしょうが、今後はエンカレッジのように脱成長社会の社会構造を選ぶことができるようになったのです。
★では、その選択における自己肯定感とは何でしょう。それがセルフコンパッションなのです。自分を奮い立たせるセルフエスティームではなく、自分に向かいあい、自分の弱みをありのままに受け入れ、その弱みをどうするのか焦らず考えようよと思いやる時間を大切にするのです。
★そしてそのセルフコンパッションを大切にする仲間がいて、教師がいるわけです。セルフコンパッションが、仲間同士のコンパッションになり、そういう行いは世界を変えていきます。
★セルエスティームとしての自己肯定感からセルフコンパッションとしての自己肯定感にシフトする時代がやってきました。エンカレッジの生徒の世界が能力主義社会に属さない社会としてうまれつつあります。
★やがて、その流れが多くの全日制高校の進路指導に合流する時がやってくるでしょう。新しい思いやりの時代の到来です。
https://note.com/sasake_nn/n/n7324dd200e32 【セルフコンパッションについてよくある3つの誤解とその違い】より
セルフコンパッションという言葉をご存じの方はまだ少ないようです。なので既に知っている言葉の別の言い方として解釈される場合があるようです。今回は誤解されがちな言葉との違いを私なりに説明してみたいと思います。
自尊心(セルフエスティーム)とセルフコンパッション
かつて「高い自尊心がメンタルヘルスの向上をもたらす」「高い自尊心を持つ人は快活で社会的に成功する」という考えから、とりあえず自尊心を上げていこうというムーブメントがアメリカであったようです。1986年からはカルフォルニア州でも大規模なものがあったようです。ですが、近年の心理学の世界では成功者はそのマインドセットの結果として、ついでに高い自尊心を獲得したのであって、高い自尊心を得るだけでは成功と結びつかないのでは?と考えられてきているようです。
では自尊心とはなんなのでしょうか?自尊心とは「他者と比較して自分が優位にあるという評価、または他者からの直接的な肯定的評価を受けることで高まる特性」だそうです。
たとえば、座って受ける授業は得意じゃないし好きでもないけど、体育の時間が好きで運動が得意な男の子を思い浮かべてください。もしその子が「体育の時間だけは俺が一番になれる」と考えていたら運動能力に対して高い自尊心を持っていると言えるでしょう。また、あなたが「きれいね」「かわいい」「カッコいい」と言われたときに「でしょ?」と肯定的に受け止められたらあなたは外見に対して高い自尊心を持っていると言えるでしょうし、「そんなこと全然ない」と思ったのなら外見に対しての自尊心は低いと言えるでしょう。
自尊心は他(の人)と比較した時に感じる優越感とも言えるかもしれません。
では、なぜ高い自尊心が単独で存在すると問題なのでしょう?それは高い自尊心があくまで自分が優れていると考えていることから生まれるのであり、実際に優れていることを意味しないからです。
自尊心自体は悪いものではありません。やる気をあたえ、喜びを感じ、モチベーションを維持してくれます。ですが、環境によって左右されてしまうので、運動が得意な子がスポーツ推薦で強豪校に進学して同じレベルの子達に囲まれたり、外見に自身のある子がインスタグラムなどのSNSで容姿がきれいな人の写真に多く触れると、相対的に自分への賞賛が減ったような気がして自尊心が低下し、それに伴ってモチベーションが低下するかもしれません。
モチベーションが低下しなくても自尊心を維持しようとすると「もっと、もっと」と高みを目指すようになり自分は特別な存在であるという感情が高まります。すると「特別な自分」と「その他の人」の間に距離が生まれ他人に共感することが難しくなってくるかもしれません。
前回の記事でも書きましたが、セルフコンパッションの構成要素の一つは「共通の人間性の認識」です。「特別な自分」と「その他」の感覚が強い状態の時は成功した時は「自分だから成功した」と思うようになり、他人を顧みない行動をとるようになります。逆に挫折を味わってしまうと「自分だから失敗した」と考え、「失敗は誰にでもあるさ」と失敗することが多くの人に共通していることだと思えず、時には「(俺は悪くないけれど)アイツのせいで失敗した」と原因を外に求めがちになるかもしれません。
また、セルフコンパッションが高い人は「認知的完結欲求(=自分は常に正しくなくてはならないという欲求)」との結び付きも低いとされる研究もあります。自尊心が高い人は自分の優越感の根拠が脅かされると怒って攻撃的になったり、アドバイスを聞かなくなるなど防衛的になったりします。それに対し、セルフコンパッションが高い人は自分の地位が脅かされた時も「好敵手があらわれてやる気がでた」とか「忠告は耳が痛いが的を得ている」といったようにポジティブで建設的に受け取ります。
セルフコンパッションは比較を行うことなく、あるがままに自分を受け入れることを基本とします。なので成功した時は成功したことを受け入れ、失敗した時は失敗した事実を受け入れます。結果として物事に一喜一憂することなく、感情が安定して、常にその時の自分の最高のパフォーマンスを出し続けようとするマインドセットにつながります。
セルフコンパッションとうぬぼれ
うぬぼれや自己愛も基本的に他(の人)と比較・評価することで生まれるのでセルフコンパッションと自尊心で書いたのと同様のことが言えます。
良い面も悪い面も合わせて、あるがままの自分を受け入れるセルフコンパッションに対し、ナルシシズムな人は常に自分が高い評価を得られる根拠を守らなければなりません。そのため、「わたしってこんなにすごいのよ」と周りに証明しなければなりません。
そのため、ナルシシズムが良い方向に向けば、常に努力を怠らず、自らをより高いところへ導こうと誠実性の高い行動に結びつくでしょう。ですが、相対的ではあっても自分が優れていれば良いので、ナルシシズムが悪いほうに転べば、嫉妬深く、周りの評判を下げるような行動をとるかもしれません。あるいは、周りの評価を一切無視するようになるかもしれません。
たとえば、あなたの職場には積極的に同僚の仕事を手伝ってくれる人(仮にAさん)がいたとします。Aさんは自分でもタスクを抱えているにもかかわらず、「他の人に役立つのが好きなんだ」と言って雑務を肩がわりしてくれます。ですが時々Aさんは残業したり、本来持っているタスクをこなしきれてないようです。見かねたあなたが「手伝うよ」と声をかけたところ「これは自分の仕事だから」と譲りません。
このような人はもしかしたら「みんなを手伝ってあげる自分」というセルフイメージに自己陶酔しているかもしれません。それゆえあなたの「手伝うよ」という言葉に、自分の心を支えている「与える者」というポジションから「もらう者」へと変えられかねない言葉に脅威を感じ、譲らなかったのかもしれません。
このように傷つきやすいメンタルにつながりかねないうぬぼれ・自己愛・ナルシシズムはしなやかで強いメンタルをはぐくむセルフコンパッションとは異なると言えるでしょう。
セルフコンパッションと自己憐憫
セルフコンパッションの特徴である、「自分の失敗を優しく受け入れる」ということをあなたは自分を憐れむことや甘やかすことだと感じるでしょうか。はたして自己憐憫と同じなのでしょうか。
答えは「いいえ」です。
失敗・挫折・困難・悲嘆のときに「なんで自分だけがこんな目に!!」と思うのは人間である以上しかたのないことなのでしょう。怒りに我を忘れ、悲しみに打ちひしがれている間はそうあっても良いと思います。だけれど、しばらく経ったら、考えてみてください
挫折の中でも良かった面はまったくありませんでしたか?
困難を伴わない人生などないという事実をマインドフルに考えてみてください。きっと自己憐憫の負のスパイラルから脱却することができます。
自己憐憫はいわば自己批判です。自分をいたわっているつもりでも常に「おまえは最低で、何をやってもうまくいくわけがない」と言い聞かせているような状態になってしまいます。逆にセルフコンパッションは「わたしはあなたを見守っている。転びそうになったら支えてあげる」と声をかけてもらうことに似ています。
「おまえは最低で、何をやってもうまくいくわけがない」
「わたしはあなたを見守っている。転びそうになったら支えてあげる」
どちらが「やるぞ!」という気にさせてくれますか?もちろん後のほうですよね?
また、「なにをやってもうまくいくわけがない」と自分に言い続けると、セルフハンディキャッピングにつながりかねません。
セルフハンディキャッピングとはそのままの意味で自分にハンデをかけることを意味します。試験前に勉強をしようと思ったら掃除をはじめていつの間にか夜になってしまった。というのはセルフハンディキャッピングが働いていたのかもしれません。
いざ試験が終わって成績がふるわなかったときに、「しかたないよね、だって勉強しなかったんだから」というように自分の言動を正当化しようと言い訳(ハンデ)を求めるようになるのです。
試験で良い成績を取りたかったのなら早々に勉強を始めればよかったのだし、やらなければならないタスクがあるなら後回しにはしない方が良かったのです。伝えたい言葉があるなら早めに伝えたほうが良かったのです。
100mを速く走りたいなら10kgのバーベルを担いだままより、おろして走ったほうが良いとは思いませんか? ですがセルフハンディキャッピングがクセになっている人はハンデなしで100m走った後に全力で走った結果が遅かった事実を受け入れられないのです。「どうせなにをやってもうまくいかない。全力で走っても遅いに決まっている。だったら10kgもった方がいい。だって重りがあったら全力が出せないでしょ?」
そして走り切った後に「いやぁ、全然だめだったよ。なんせ10kg背負ってたんだからね」と言うのです。ですがこの場合、重りを持たない選択もあったはずです。
自己憐憫に陥ると無意識に「ダメな自分」「かわいそうな私」というセルフイメージを守ろうとしてより重く重くハンデを背負おうとします。
落ち込んだ時に「ああ私はなんてダメなんだ」と思うのは仕方のないことです。ですがその後は、つらいでしょうが、自分にセルフコンパッションを向けてください。全力で走っても遅かった事実をマインドフルに受け入れ(マインドフルになる)、世界には足が速い人と遅い人がいることを思い出してください(私たちは世界を共有している)。その上でも早く走りたいと願うなら、やる気が出るように自分を励ましてください(自分に優しくする)。
おわりに
セルフコンパッションを実践するにあたって、まずは自分のことだけを考えて構いません。自らの幸せ、喜び、平穏を願ってください。
「それは利己的になるのでは?」と思うかもしれませんが、セルフコンパッションの3つの要素を意識する限りその心配はありません。3つの要素は1.マインドフルになる。2.私達は世界を共有していることを認識する。3.自分に優しくすることでしたね? 特に「私達は世界を共有していることを認識する」を意識してください。自然と自分に優しさを向けるように他人にも優しさを向けられるようになってきます。
そうすると「あの人も自分と同じ人間なんだ」という感覚が強くなり、自分以外であっても成功した時はともに喜び、失敗した時も寛容になれます。
「あのヒトだから成功した」とか「アイツだからあんなヒドイことになったんだ」と自分と他人との間に海のような隔たりがあるようには思えず、むしろ「自分にも同様に成功するチャンスはあるかもしれない」「自分も同様の間違いを犯すかもしれない」と陸でつながっているように思えるようになるでしょう。
共通性の認識が高まると、苦しい時に「この苦しみが他人に分かるはずがない」とは感じず、「私の苦しみを分かってくれる人がいる、この苦しみをかつて感じた人がいる」ことが感じられるようになってきます。
もし、本を読む習慣があるなら伝記がオススメです。「私と同じような困難を味わったにもかかわらず、これほどの業績を世に残したんだ」と元気づけられるでしょう。どうか読んだあとはどうか「偉人は生まれながらに偉人なんだ。偉人と私は違う」とは思わないでください。偉人もあなたと同じ人間なのですから
最後に「共通性の認識」の例えに私が好きな話を添えます。仏教の説法なので、宗教色がきらいなひとは物語として聞いてください。全然ダメ、うけつけない!って人は読み飛ばしてください。
それでは、今回はこのあたりで失礼します。
”何よりもあなたが努力して幸せになれますように。あなた自身のためにセルフコンパッションを持てますように”
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インドのある村の、ゴータミーという女性は、幼子を亡くし、悲しみに身も心も壊れんばかりだった。
愛児の死を受け容れられず、死んだ赤子を抱いたまま、「この子を生き返らせて、この子を生き返らせて」と会う人ごとに激しい哀願をかさねるが、もとより叶わぬことである。
見かねた人がブッダに助けをもとめた。
ブッダは、ゴータミーにこのように言った。
「この村の家々をまわって、ケシの実をもらってきなさい。ただし、これまで一度も死人を出したことのない家のケシの実でなくてはいけない。それをもらってわたしのところに持ってきなさい。そうすれば、赤子は息を吹き返すだろう」
ゴータミーは家々を回った。我が子が生き返ると聞いた彼女は必死だった。
しかし、訪問をうけた家の人たちは、悲しく首を振るだけだった。
どの家を回ってもケシの実は手に入らなかった。死人を出したことのない家は一軒もなかったのである。
その時、ゴータミーはハッとした。愛するものを喪った悲しみは私ひとりのものではない。これまで、皆が味わってきた悲しみなのだ。生きとし生けるものは死を免れることができない。 その理をしっかりと胸に抱いて、悲しみを鎮めなければならないのだ。
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