Facebook北條 毅さん投稿記事
セミナーやセッションで、僕が何かを教える時には、「まずは僕のやり方をお伝えします」と言うようにしています。
「まずは」、なんです。なぜなら、その先には僕のやり方を超えていってほしいから。ㅤ
守破離(しゅはり)、という思想がある。
元々は千利休の茶道の教えから発生した思想で、何らかの「道」を修行していく段階を現したものだ。
「守」 師が教えた型を守り、なぞらえることで基本を身につける段階
「破」 他の教えも含めてみずから学び研究し、みずからに合った型を模索して、師の教えた型を破っていく段階
「離」 様々な型を習得することで、型を離れ、型にとらわれないみずからの「道」を見出していく段階ㅤ
守破離、というこの3段階の教えこそ、進化成長の本質なのだと思う。ㅤ
親や学校、先輩や上司、他にもいろんな人から、これまで多くのことを教えてもらってきた。
もちろん、そこで身についたことや得られたものは数え切れないぐらいあった。そのことには心から感謝している。
けれど同時に、その学びの時間に息苦しさを感じることも少なくなかったように思う。ㅤ
それは、この「守」ばかりを求められていたからだったのだと、ある時に気づくようになった。
ㅤ基本は大切だ。進めば進むほど、基本の重要さを身にしみて感じた経験は誰しもあるんじゃないだろうか。もちろん僕も同感だ。基本は大事だと思う。とても、とても。
けれど同時に、基本は基本であって、目的ではないのだとも思う。
何かを学ぶ時に、ひとつの例として師の型を学ぶことは、基本を身につけるためにとても意味のある段階だけれど、それはその先の応用や実践へと進むための最初の段階として与えられるものなのだと思う。
人生は学びの旅路だ。特に現代は、家庭や学校に限らず、様々なところであらゆることを学ぶことができる。
けれどそれらの学び家では「守」を、つまり「型を守る」ことを目的にしているところが少なくないように感じられることがある。そこで「教えている型」以外のものを決して許さないような頑なさを感じることがある。
それは、「型」に閉じ込める生き方なんじゃないだろうか。たまたまその「型」が自分にぴったり合った人もいるだろう。けれど程度の差はあれど、そうじゃない部分もある人のほうが多いんじゃないだろうか。
「守」に取り組む場を用意するのなら、その先の「破」や「離」へと進むための場であってほしい。「守」に留め、「守」ばかりを目的にするんじゃなく、「破」や「離」をこそ目的とし、喜び後押しするような場であってほしいと思う。
少なくとも、僕はそうでありたいと思うし、そのことを忘れてはいけないのだと思う。
だから僕は、「まずは僕のやり方をお伝えします」と言う。
そして、「僕のやり方を学んだら、みなさん自身のやり方を見つけ出していってください」
そう言うし、これからもそう言っていきたいと思う。
僕の方をどんどん破り離れていってほしいし、僕もまたいろんな型をどんどん破り離れていきたい。ㅤ
それぞれが、それぞれの「型」を見つけていく。
最初の入口になった、きっかけになった「型」はあっても、それだけに収まらないそれぞれの「型」を、自分の力で見つけ出していく。
基本を元にして、それぞれの「道」を見つけ出し、そしてその「道」を、自分の足で歩んでいく。ㅤ
そんな世界こそが、美しい世界だと思うんだ。
それぞれが、それぞれの道を、自分の足で歩いていくんだ。
https://www.acropolis.jp/nihondentou/12 【日本の伝統から学ぶ 守破離】
『守破離(しゅはり)』とは、古来より日本で重んじられている言葉で
道を極めようとする者が伝え継ぐ師と己に対峙するための心構えをあらわしたもの。
「守」 、、、
師からの教え、型、技を忠実に「守る」こと。
これらを確実に自分のものにして自然と行うことのできる状態になった段階。
「破」 、、、
守を「破り」次の段階に進むこと。
師から教わった型を基に試行錯誤し、自分に合ったより良いものを作りあげていく段階。
「離」 、、、
積み重なる鍛錬の末、型にとらわれることなく独自の表現を生み出し、新しいものを確立した段階。
この段階こそが “師を超えた境地”とも言うそう。
この「守・破・離」はどんな事柄にも通ずること。
私がこの言葉を知った時、衝撃を受けました。
あまりにも素晴らしく迫力のある言葉だったので。
実際の道のりは鍛錬の連続。簡単ではない。
覚悟をきめた者の歩む道のりがまさに「守破離」だなと。。。
さいごに、千利休が残した言葉を。
「守りつくして、破るとも、離るるとても、本(もと)を忘れるな。」
今回は 以上で締めたいと思います。
記事をいつも読んで下さっている皆様の
なにかのきっかけや気づきになっていたら幸せだなと思います。
いつもありがとうございます。
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