言霊(ことだま) シリーズ 音の魔力

http://www.isc.meiji.ac.jp/~katotoru/20190629.html 【言霊(ことだま)シリーズ 音の魔力】より

以下、朝日カルチャーセンター・新宿教室のサイトより引用。引用開始

言霊(ことだま) シリーズ 音の魔力 加藤 徹(明治大学教授)

 私たちの祖先は「あらゆるものにはタマシイがある。草木や石にも、もちろん言葉にもタマシイがある」という自然認知をもっていました。そのような古代日本の言霊思想(ことだましそう)は、実は、今の私たちのあいだでも姿を変えて生きています。

 生まれた子供に名前をつけるとき姓名判断を気にしたり、披露宴の挨拶で「分かれる」「切れる」を忌み言葉としたり、「ヒット商品やヒット作品のネーミングにはある隠れた法則がある」という噂がささやかれる、など。

 例えば欧米の女子名にはバーバラとかポーラとかジェーンなどがありますが、日本では、芸能人の林家パー子さんとか「ドラえもん」のジャイ子などの例外を除き、女子の名前にバ行やパ行、ザ行の言葉を使いません。なぜでしょう?

 私たちの日常には、実は謎があふれています。この講座では、古代から現代まで、言霊の思想について説き明かします。(講師記)

引用終了

★言霊とは?

 日本において、言葉に宿ると信じられた霊的な力のこと。狭義の「言霊」は日本固有の信仰だが、言霊に似た考え方は世界各地に存在する。

 遣唐使の時代、日本を「言霊の国」と考える自覚が高まった。

山上憶良(660年?-733年?):神代より 言ひ伝て来(け)らく そらみつ 倭の国は 皇神(すめかみ)の 厳(いつく)しき国 言霊(ことたま)の 幸(さき)はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり ……(以下省略)(万葉集・巻五・894)

柿本人麻呂:言霊の八十(やそ)の衢(ちまた)に夕占(ゆうけ)問ふ占(うら)正(まさ)に告(の)る妹(いも)はあひ寄らむ(柿本人麻呂歌集・巻十一・二五〇六)

柿本人麻呂(660年?-724年):葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国 しかれども 言挙げぞ我がする 言幸(ことさき)く ま幸くませと 障(つつ)みなく 幸くいませば 荒磯波(ありそなみ) ありても見むと 百重波(ももへなみ) 千重波(ちへなみ)しきに 事挙げす我れは 事挙げす我れは

磯城島(しきしま)の 大和の国は 言霊(ことだま)の 助くる国ぞ ま幸くありこそ(万葉集・巻第十三 3253, 3254)

★コトと言と事

 cf.物と事と時間 文学で楽しむ東洋哲学 2018.6.23

 古代ヤマト民族の言葉では、事も言もコトであり、区別しなかった。

〇『岩波古語辞典 補訂版』(1974第一刷/1992補訂第三刷)より引用

(引用開始) こと【言・事】(一)【名】≪古代社会では口に出したコト(言)は、そのままコト(出来事・行為)を意味したし、また、コト(出来事・行為)は、そのままコト(言)として表現されると信じられていた。それで言と事は未分化で、両方ともコトという一つの単語で把握された。(途中省略―加藤)コト(事)は、人と人、人と物とのかかわり合いによって、時間的に展開・進行する出来事、事件などをいう。時間的に不変の存在をモノという。(以下省略―加藤―引用終了)

〇漢字「事」の字源

 「事」にあたる甲骨文字は、竹の棒(ないし小さな木の旗)を手でもつ形、と解釈する説が有力。人に「つかえる」(事・仕)、立つ、というイメージもある。

〇ミコト(御言・御事・命・尊)

『新約聖書』ヨハネ福音書冒頭の「ロゴス」(言)は、古代日本語の「ミコト」と訳すと趣旨を把握しやすい。

以下、https://ja.wikisource.org/wiki/ヨハネによる福音書(口語訳) より引用。

(引用開始) 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。(中略―加藤)そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。(引用終了)

https://www.youtube.com/watch?v=44ibKpgfUuU&list=PL6QLFvIY3e-nNphQjjleBcVTJx1Y7UpQw

★言霊思想の背景

〇「音」の不思議。

 ヒトは視覚が発達、イヌは嗅覚が発達、コウモリやイルカは聴覚が発達。

 ヒトにとって「音」は幽冥界に直結する不思議な感覚。「音」に「日」で「暗」、「音」に「門」で「闇」。

 cf.playとpray、「再生」と祈り

遠藤周作『万華鏡』(朝日新聞社、1993)「人生の再構成」p.156より引用

 敬愛するわがデーケン神父さんはある時、こんな人生再構成の話をしてくださった。癌で死を前にした一人の母親が、子供たちのために、彼女にとって生涯の思い出だった色々な歌をテープに吹き込み、そして死んでいったという。

 そのテープによって子供たちは母が自分たちのために歌ってくれた幼い頃の童謡、家族のみんなで歌った色々な歌、そして母の好きだった歌をそのままの肉声できくことができた。

 何という美しい、素晴らしい人生の再構成であろう。何という愛情のこもった形見だろう。

 私自身も亡母と亡兄の声のこもったテープを持っている。亡母は今の芸大(当時の上野音楽学校)の卒業生だったので、彼女の歌ったグレゴリアンの古いレコードが残っていて、そのレコードをテープに再生することで私は忘れがたい母の肉声をまだ聴くことができるのだ。

 たった一人の兄弟だった亡兄の声も彼の対談がテープ化されていたお蔭で一人でそっと耳にする夜がある。

 私の経験では実際の声は遺書や写真よりもずっとあざやかに故人を身近に感じさせる。だから自分の歌声を残してくれた末期癌の母親のやさしい心情を子供たちはどんなに感謝しているであろう。母親はそれによって、自分の人生が何であったかを子供たちに再構成してみせたのだ。

〇「運搬霊」という発想。幸運や不幸などを人から人へ運ぶ目に見えない霊魂の存在が信じられた。

 cf.川野明正「東アジアの〈運搬霊〉信仰─日韓中の霊物にみる特定家庭盛衰の伝承」,『饕餮』,第12号,中国人文学会,pp.8-56,2004年9月

 言葉によって知識や情報、感情を人に伝えることができるのも、一種の運搬霊の働きと考えられた。

〇「予言の自己成就」self-fulfilling prophecy

 アメリカの社会学者マートン(Merton, Robert K(ing)1910年-2003年)が提唱した、社会現象のメカニズムの一つ。たとえ根拠のない予言でも、みんながその予言を気にしすぎて行動すると、結果として予言通りの状態が現実化してしまう、という現象のこと。例えば「あの銀行はつぶれる(という根拠のない噂)」→「みんなが預金をおろす」→「本当に銀行がつぶれる」。

 米国では1932年当時の旧ナショナル銀行の倒産が有名。日本では1973年、愛知県の女子高生3人が「信用金庫は危ないよ」と何気なくつぶやいた一言から起きた「豊川信用金庫事件」が有名。

★音声と意味

 ある種の哲学的・宗教的な考え方によると、音声と意味は別個に存在しているのではなく、密接不可分の関係にある。

例 哺乳類たるヒトにとってのm音の特殊性

 ヒトの新生児は母乳を吸う。そのため「両唇音」を多様する「喃語」は、ヒト共通の最も原始的な発音である。

 なお、オウムやインコは哺乳類ではないため「くちびる」を持たず、ヒトの両唇音をまねて発音することはできない。

例 素読や詩吟の考え方

 音声そのものに意味がやどっているので、一字一句の意味を分析する必要はない、という考え方をする人もいる。

〇人類の言語の発音

 日本語は、母音の数も子音の数も、世界的に見ると平均的である。特に多くも少なくもない。

 国際音声記号(IPA)などを参照のこと。

〇母音の表情について

 「ア」は最も大きく口をあけて屈託のない明るい母音。

 「オ」は「ア」に次いで大きく口をあける力強い母音。

 「エ」は曖昧さと複雑さを帯びた母音。

 「イ」は(声楽では高音を出しやすい)。

 「ウ」は口をすぼめる内向的な母音。

 あっはっは、おっほっほ、えっへっへ、いっひっひ、うっふっふ、など擬声語や間投詞の母音の表情の違いに注意。

〇子音の表情について

 子音もさまざまな表情がある。呪文の音声や、ネーミング、キャッチコピーなどでも重要な意味をもつ。

★世界の有名な呪文から見る「言霊」の響き

〇阿吽(あうん)

 古代インドのサンスクリット文字(梵字)で、a(阿)は何の屈託もなく口を大きく開けた始原の音、m(hūṃ 吽)は口を完全に閉じた終末の音。神社の狛犬、寺院の金剛力士像などの「阿吽」も有名。ヨガの最後にとなえる聖音「AUM」(オウム)も同系。

 AUM 〇アーメン

 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など「アブラハムの宗教」共通の用語。ヘブライ語で「そのとおり」の意。「ア」で始まり「ン」で終わるという音声的構造は「阿吽」に類似。

〇六字大明呪(ろくじ だいみょうじゅ)

 Oṃ maṇi-padme hūṃ(オーン・マニ・パドメー・フーン)。梵字六字からなる。「阿吽」とも関連がある陀羅尼(だらに。総持)。

〇アブラカダブラ Abracadabra

 西洋で最も有名な呪文の一つだが、語源には諸説ある。初出は、ローマ帝国のカラカラ帝(在位209年 - 217年)に仕えた内科医セレヌス・サンモニクス(Serenus Sammonicus)の著述で、当初は病気治癒の呪文だったが、その後、魔法の言葉として広まった。

 母音aと、破裂音b、ふるえ音r、破裂音k、破裂音dなど、破裂音とふるえ音の繰り返す音声によって、病魔をはじき飛ばすことを暗示する。

〇くわばらくわばら

 雷や、嫌なことを避けたいときに唱える呪文。語源には諸説ある。「くわばら」の「く」は東京方言では無声化して、kuwabaraとkwabaraの中間くらいに聞こえる。最強母音ア、破裂音であるkとb、はじき音(日本語的には流音)であるr(ないしl)の組み合わせを二度繰り返すことで、災厄をはじき飛ばす、という無意識の音声的意味合いは、アブラカダブラと全く同じ構造である点に注意(これはひょっとすると、加藤徹の発見)。

〇羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶

 唐の玄奘三蔵が漢訳した『般若心経』の末尾に出てくる真言(しんごん。マントラ)。現代日本語では「ぎゃてい、ぎゃてい、はらぎゃてい、はらそうぎゃてい、ぼじそわか」と発音する。サンスクリットの原文はローマ字化して示すと“gate gate pāragate pārasaṃgate bodhi svāhā”。意味は「往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ」(岩波文庫版『般若心経・金剛般若経』)。ア音、破裂音、ふるえ音、摩擦音、鼻音などの並び方が効果的である。

〇阿毘羅吽欠蘇婆訶

 日本語では「あびらうんけんそわか」と読む。大日如来に祈る呪文。サンスクリット語の“a,vi,ra,hūṃ,khaṃ”は「地水火風空」の「五輪」を意味し、“svāhā”(ここでは蘇婆訶という漢字を宛てる)は般若心経の「薩婆訶」と同じ。前に「唵」(おん)を付けて「唵阿毘羅吽欠蘇婆」と唱えることも多い。

★濁音と半濁音に対する感覚

 日本人は、清音はきれいで正しいが、濁音はにごって汚く、半濁音は下品である、という感覚をもっていた。

 日本以外の外国語では、濁音は力強く、半濁音ははじけるリズム感があると好意的に評価されることが多い。

 江戸時代の国学者・本居宣長は『漢字三音考』天明5 (1785) 年刊において、日本語の発音は世界で最も正しいこと、半濁音のような下品な音は本来の日本語にはなかったことを力説した。

 近代の国語学者・上田万年(うえだかずとし 1867年-1937年)は、1898年に論文「P音考」を発表し、国語のハ行の頭子音はもともと両唇破裂音の無声子音 p であった、という推定を述べ、学界を騒然とさせた。

「おそれ多くも、皇室のご先祖である彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト。山幸彦)の発音は、ピコポポデミノミコトだったと主張するのか」

 という感情的な反発も起きた。

 イギリスのコメディ・シリーズ「Mr. ビーン(Mr. Bean)」の主人公の名前「ビーン」も、はじめから多国籍展開を考えており、一音節であること、濁音と鼻音をいれて響きを目立たせること、どこの国の庶民にも受け入れやすい意味であること、などを考慮したうえで「ビーン」(豆、の意)に決定された。

 西洋では半濁音の人名も多い。ピーター、ポール、プリシラ、等々。日本では半濁音の人名は変わった印象をもつ。泉ピン子、林家パー子、林家ペー、等々。山田風太郎(本名は山田誠也)のフータローはかっこいい響きだが、プータローは別の意味になってしまう。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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