https://ameblo.jp/seijihys/entry-12588389043.html 【パンデミックがもたらすもの】より
今日も一歩も家から出ていない。東京も大変なことになってきた。世界はもっと大変だ。
私もなるべく家に籠もっているが、それでも散歩や買い物、外食には行ける。
国によっては部屋から出る事さえ出来ないところもある。
そんな生活を何週間も続けるなんて、どれだけ大変なことだろう。
こういう爆発的感染を「パンデミック」と呼ぶそうだ。
日本や世界はこれからどうなるのだろう…と不安にもなるが、歴史を振り返って見れば、こういう苦難はわれわれの時代だけでなく、過去にもたくさん起きており、ある意味、「人類史はウイルスとの闘いの歴史」ということも出来る。
昔は医学も未発達であったから、たくさんの人が亡くなった。原因も治療法もわからず「疫病」と呼ばれていた。「疫病」で、私がまず思い浮かべるのは、「奈良の大仏建立」のことである。
「奈良の大仏建立」には疫病を鎮める目的があった、とかつて聞いたことがある。
そのことを説明している文章はないか…、と探したら、厚生労働省HPに大塚美邪子という方のエッセイを見つけた。引用する。
奈良の大仏が作られた理由のひとつが感染症対策だった、というのをご存知でしょうか?
大仏の制作が開始されたのは西暦745年。
聖武天皇が位に付いていた8世紀前半、天平9年(737年)には、当時の政治の中枢にいた藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂の四兄弟が、当時猛威をふるっていた天然痘で相次いで死去したそうです。
そのほかにも、天平時代は例年旱魃・飢饉が続いたり、天平6年(734年)には大地震で大きな被害があったり、社会が不安にさらされた時代であったそうです。
聖武天皇による東大寺大仏の造立には、こうした社会不安を取り除き、国を安定させたいという願いが背景にあったものと推測されています。
これを読むと、大地震も大きな要因となっていることはわかるが、当時は原因もわからない、したがって対策もわからない疫病になすすべもなく、ひたすら「仏の大きな慈悲」にすがるしかなかったことがわかる。
藤原四兄弟は今で言えば総理大臣や重要閣僚のような地位であったから、その衝撃は大変なものであっただろう。
簡単に言えば、聖武天皇は、とてつもない大仏を造り、その大きな強い慈悲の光で世の中を照らしてもらい、疫病を消滅してもらおうと考えたのだ。
また、鎌倉仏教の発生も、疫病が大きく影響した、と言われている。
ここでは「日蓮宗」を紹介したい。これも創価学会HPで見つけた文章を引用する。
大聖人(※…日蓮上人のこと)が鎌倉での弘教を開始された当時、毎年のように、異常気象や大地震などの天変地異が相次ぎ、大飢饉・火災・疫病(伝染病)などが続発していました。
特に、正嘉元年(1257年)8月に鎌倉地方を襲った大地震は、鎌倉中の主な建物をことごとく倒壊させる大被害をもたらしました。
大聖人は、この地震を機に、人々の不幸の根本原因を明らかにし、それを根絶する道を世に示すため、「立正安国論」を著され、文応元年(1260年)7月16日、時の実質的な最高権力者であった北条時頼に提出されました。
これも大地震や飢饉とのセットだが、疫病も大きく影響している。
簡単に言えば、法華経(日蓮宗)を強く、みんなで信仰し、国難を乗り越えようとしたのだ。
日本を代表する祭、京都の「祇園祭」も疫病が大きく関係している。
これも京都八坂神社のHPを引用する。
貞観11年(869)に京の都をはじめ日本各地に疫病が流行したとき、平安京の広大な庭園であった神泉苑に、当時の国の数66ヶ国にちなんで66本の鉾を立て、祇園の神を祀り、さらに神輿を送って、災厄の除去を祈ったことにはじまります。
祇園祭は日本三大祭の一つであり、京都三大祭の一つであり、日本三大曳山祭、日本三大美祭の一つでもある。
いわば日本最高の祭であるが、これも「疫病」を鎮めるための祭なのである。
変な言い方かもしれないが、疫病、パンデミックは日本に大きな、そして、華麗で、立派な文化を生み出した、とも言える。
別に疫病がエライ、と言っているわけではない。
疫病などの困難に彼らなりに必死で考え、立ち向かった、昔の日本人がエライと言っているのだ。
そして、おそらくこれは日本だけの話ではないだろう。実に立派だし、見習いたい。
ネット、テレビ、新聞は相変わらず不平不満、文句、愚痴を並べ立てている。
こういう姿勢は何も生み出さない。
今度のパンデミックが日本や世界に何をもたらすのかは私などには到底わからないが、身近なことで考えれば「医療の遠隔診療・電話診療・オンライン診療の推進」や「在宅勤務の普及」だとか、新しい暮らしのスタイルが生まれるかもしれない。
考えてみれば、毎日、あれほど多くの人が、満員電車に押し込められて会社に行く必要はない。
私もサラリーマンをやっていたからわかるが、在宅で済ますことが出来る日は必ずあり、それをしないのは会社経営者の自己満足や社会の風潮に流されているだけに過ぎない。
もちろん毎日行かなければいけない職種もあるが、そうでない人が在宅勤務の機会を多くすれば、通勤だってずいぶん楽になる。
子育てにもよい影響を与えるだろう。
(ひょっとしたら離婚率は増えるかもしれないが…(笑)。)
そういうプラス思考や新しいものを生み出していこうとする姿勢が大事かもしれない
https://www.toibito.com/column/humanities/ethnology/2594 【病を鎮める生命デザイン】より
鶴岡 真弓
ケルト十字架 アイルランド ©Tsuruoka Mayumi
日本列島人はAかBかという二項対立的な思考ではなく、AとBの中間性を大切にしてきました。天秤を思い浮かべていただくと、お皿の部分ではなく、幹の部分。体幹のバランスに重きを置いてきたのです。感覚的で微妙なものに価値を見出してきたことは、たとえば次の和歌にも表れています。
秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる
これは『古今和歌集』に収められた藤原敏行の名歌です。秋の訪れが紅葉の色づきのように目に見える形では分からないけれど、風の音で感じられる。敏行はまさに<非在の在>を実感しています。
こうした感性にも通じる日本人の特質を、心理学者の河合隼雄先生は<中空構造>と呼びました。そしてそれは、欧米式の強制力には拠らない方法を取った、新型コロナウイルスのパンデミック対策では、功を奏している部分があるのかもしれません。
そもそもpan-demic(パンデミック)のpanは「あまねく」、 deは印欧語根のde-に由来する「分ける」ことを意味しています。democracyのdeと同根。誰とでも<分かち持つ>こと、これがパンデミックでも民主主義でも大原則になるのです。ペストが流行した14世紀、ヨーロッパでは照応(コレスポンダンス)の哲学が広まりました。宇宙空間の星が一つ動くことで、人間界もそれに合わせて動かされてしまう。自然界のできごとと人間界のできごとが直結していることへの気付きです。そしてパンデミックで社会的なヒエラルキーが一気に変わってしまうことを<運命の車輪>とも表現しました。風が吹けば桶屋が儲かるといった「小さな因果関係」ではなく、宇宙大の車輪が回転するイメージをしっかりと把持したのです。
鎮死者
今回のタイトルにある「病を鎮める」の「鎮める」という言葉には、静かにさせるというイメージがつきものですが、もともとは「心霊みずからが<祀られる場所>を求めて来て、その土地に落ちつくこと」、それが「鎮める」でした。旧字体の「鎭」の旁(右側)は、行き倒れた死者を表しています。日本でもそのような「鎮死者」は呪力と霊力を持ち、怒れる存在とみなされてきました。
新型コロナウイルスの感染拡大により、遺体がモノと化し、仮設の埋葬場に穴を掘って次から次へと入れられる映像が世界各地から届いています。これはまさに「鎮死者」の光景です。しかし「鎮死者」は、決して憐れではありません。絶大な力をもって、護り手となりその土地に鎮まってくださるということなのです。
「鎮」の部首は「金」偏。金に代表される鉱物は、太古から鈴のようにチーンと鳴らす瞬間、死者とつながると考えられてきました。まさに「鎮」は、金属が炉の中で燃えたぎり全体と繋がっていくイメージなのです。
太陽の鳥
昨今話題になっているアマビエの姿は、鎮死者のように<土地に宿る精霊>として、人々の結束を促すために現れたのだと思えます。浜辺で光っていたという伝承から、アマビエの「発光」はクラゲのイメージと重なります。近年日本各地の水族館でクラゲ(海月)が人気を集めているのは、こうした生物が何か大切なことを発信しているからかも知れません。その発光は江戸時代の奇談集『三州奇談』にあるように「くらげ火」や「海月の火の玉」と呼ばれ、それはケルト起源のハロウィーンの夜に現れる鬼火のように、死と生の間に揺れる火・光です。
赤クラゲ「栗氏千虫譜第9冊」国立国会図書館蔵
つまりアマビエは、こうすればこういう得があるというような「小さな因果関係」ではなく、死に向き合う難事にこそ、利己ではなく利他を思う共同体へと人間が大きく変わる「契機」として現れ、生死の光を点滅させながら、それを促しているのではないかと思えます。
アマビエには羽毛のようなものがあります。羽のある存在といえば、西はアイルランド、東はモンゴル・日本まで、ユーロ=アジア世界の諸民族は、とくに鷲・鷹を象(かたど)った「生命デザイン」を力強く伝えてきました。欧米の列強や大国が鷲・鷹を国旗やエンブレムに組み込んできた歴史があるのは、それが猛禽で威嚇的だからではなく、ユーロ=アジアの人々にとって天と地を繋ぎ天空を悠々と飛ぶ「太陽の鳥」であり、「死をくぐり再生する」神々しいシンボルだったからです。
そもそも「デザイン」(design)とは、ラテン語の「デシナーレ」(designare)に由来し、「方向を指し示す」という動的意味を持っています。鷲や鷹もアマビエと同じく共同体に難事が起こるとき、重要なデシナーレをする徴(しるし)として存在してきたということです。「鷹匠」というシャーマン的な職能がユーラシアから日本列島にも伝わってきた理由がここにあります。
「精霊としての鷹」キルギスタン(撮影:鶴岡真弓)
アイルランドの詩人・劇作家のイェイツ(1865~1939)は、日本の能に影響を受けて『鷹の井戸』という戯曲を書きました。生命の泉を守ることができるのは人間の英雄・クーフリンではなく、鷹の化身です。イェイツは鷹に、ケルト伝統の「all living things / 生きとし生けるもの」への崇拝観念を託しました。鳥やセミ、動物たちは何億年もの間、この地球上に生きてきた。人類は新参者に過ぎない。イェイツが作品にしたこの先人の思想は、自然保護やエコロジカルといった人類がついこの前に思いついた主義のような薄っぺらなものではありませんでした。
<種>として生きる
1918年2月21日、アメリカ・シンシナティの動物園で、一羽の鳥が死にました。これにより、カロライナインコという一つの種が地球上から絶滅しました。ヨーロッパからアメリカに人類が大移住することで果樹園がつくられ、インコは害獣として駆除されるようになり、その果ての出来事でした。
ちょうどその頃、スペイン風邪のパンデミックが生じていました。1918年1月~20年12月にかけて流行し、当時の世界人口のおよそ1/4にあたる5憶人が感染、1700~5000万人が亡くなったとされています。死者の中には、社会学者のマックス・ウェーバー、建築家の辰野金吾、画家の村山槐多も含まれています。
1918年パンデミック「スペイン風邪」野戦施設 アメリカ カンザス(wikipedia)
そして20世紀初頭は、疫病と同時に世界大戦が進行していました。パンデミックの真っただ中にある1918年夏、日本は英米仏軍と共にシベリア出兵を宣言します。歴史の教科書では戦争についてはページを割いても、スペイン風邪については十分に記述されていません。疫病も同じウエイトで語られる必要があるのに、人間のつくった大砲、武器などの人工物がもたらした死だけを重視し、自然界の微生物やウイルスのもたらした死を軽視する傾向が根強くあるということです。
このような歴史(記述)が繰り返されるなら、22世紀も23世紀も人類は、優れた性能の戦闘機や巨大なミサイル、大量死をもたらす指導者を英雄視し続けるでしょう。しかし今回の新型コロナウイルスのパンデミックにより、私たちが戦争だけでなくウイルスという微細な存在によってその生死を左右される、自然界の一員であることが再認識されたようにも思えます。
私たちが武器の製造にまったく関わらず、絶滅危惧の鳥たちの死にもまったく加担しない善人になれるのか、暗中模索の日々が続きます。しかし先人に学びアマビエや鷲や鷹の「生命デザイン」をみつめることで、この地球で生かされていることに思いを致すことは可能です。改めて申し上げるまでもなく「地球の主人公」は人間ではありません。それは生きとし生けるものたちと、「鎮死者」のように行き倒れ、累々と堆積されてきた死者たちの総体なのです。私たちは、一人の<個>ではなく、人類という<種>として生きることで、この地球の生命循環を脈々とつないでゆく一員になれるのです。
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