Facebook岡部明美さん投稿記事【自我と魂】
これからの時代は本当に「この肉体だけが自分」と思っているか
肉体と共にある「魂」も含めて自分であるかという、自己認識の違いが、生き方を大きく左右していくでしょう。
肉体だけが自分と思っていると、肉体を「生存」させることを第一義とする「自我」の論理だけで生きることになり、さまざまな限界や歪みを生じさせることになります。
しかし、「魂」という、もう一つの次元を「自己認識」に持ち込んでみることで、自分という存在がより立体的になり、さまざまな人生背景や境遇、経験してきた出来事などが、全て意味のあるものとしてつながり、自分という「生命」と「存在」を全肯定できるようになります。
昨今「自己肯定感」という言葉が流行っているようですが、肉体自我100%の認識で生きている限り、とりあえずの肯定感を上げた気にはなれるかもしれないけれど揺らがない絶対的な肯定、つまり「根拠のない大丈夫感」を得られることはありません。
肉体はいつだって壊れやすく、朽ちゆくものであり、死にゆくものであるがゆえに自我は必然的にそれに抗おう、そうならないようにしよう!という「不安」を根拠に働くからです。
人は、あれが不安、これが不安・・・と、いろいろな不安材料があるから不安なのだと思っていますが、そうではありません。
自我そのものが不安なのです。
自分のことを肉体だけ・自我だけと思って生きている限り、不安から逃れることはできません。
だからこそ、本当に絶対安心・大丈夫の心境になりたければ、自分が「魂存在であった」という体感実感が必要なのです。
逆に、そこさえわかれば、いかに自我が「根拠のない恐れ」に惑わされていたのか、ということにも気づけるようになり、自我の愚かしさ・浅はかさに笑っちゃいながらも、その健気さ必死さに胸がほっこりしたりもするでしょう。
自我も含めて肯定してしまう、ということができるようになるのです。
自我と魂。この二つをしっかりと見る目、感じる力を高めていくことがこれからの時代をのびのびと調和的に生きていくためのカギであるという思いをますます強くしている今日この頃です。
これは今回の【YouTubeあけみちゃんねる】ライブトークのゲスト大塚あやこさんがご自身のメルマガに書かれていたものです。
あやちゃんとのライブトークは前編と後編に分かれていて、今回は後編です。
🍀YouTubeあけみちゃんねる
ゲスト:大塚あやこ(一般社団法人ビリーフリセット協会代表理事)
【後編】 テーマ「魂として生きる」 https://youtu.be/p0J66Tz9cxw
【前編】 テーマ「苦しみの原因を見抜く」
https://www.youtube.com/watch?v=9TgDB_9C-6U
Facebook相田 公弘さん投稿記事 【嫌な人に対して「嫌」と言える人に】
斎藤一人さんの心に響く言葉より…
嫌な人から好かれたら、おかしな人間になってしまう。だっておまわりさんが泥棒から好かれたら、おかしいでしょう?嫌な人から好かれると、その人も嫌な人になります。
そうして嫌な人間とつきあっているから嫌な人生になってしまう。嫌な人はまれにしかいません。その“まれ”とわざわざつきあうことはありません。
ほとんどの人はふつうか、いい人なんだから、そっちとつきあえばいいんです。
「この人、嫌だなあ~」と思ったら、はっきりと顔または声に出して、「NO!」と言っていいんです。「NOと言ったら、相手の人を傷つけるから」なんて言う人がいますが、傷ついているのは相手ではありません。「NO」と言えないあなたです。
だいたい黒いものを黒いと言うだけなのに、なぜそんなに傷つくんでしょう?
我慢しても何もいいことはありません。
「我慢は美徳」などと言いますが、我慢からは「うらみ」しか生まれないんです。
ある人から、「一人さんはどうして神様からこんなに味方されるんでしょう?」と聞かれました。
自分でも「どうしてかな」と考えたんですが、それは神様が喜ぶようなことをしているからだと思います。
では神様が喜ぶことって何かな、と思ったとき、いろいろ思いつきましたが、嫌な人に「嫌」ということもその一つだと気づいたんです。
人に「NO!」というのは冷たい人間に思えます。でも嫌な人に嫌な顔をせずに親切にしても、その人の嫌なところは直りっこない。嫌な人は嫌な人です。
そういう人は自分で苦労して、嫌なところを直せばいいんです。
逆説的な言い方をすると、嫌な人に「嫌な奴」として接するあなたの気持ちを大切にすることが、相手のためにもなるんですね。
よく「どんな人にもいいところがある」という言い方をします。それはたしかです。
嫌な人にも探せばいいところがある。でもそれを探すのはあなたの役目ではありません。
なぜわざわざあなたがそんなことをしてあげなきゃいけないのか(笑)あなたの周りにはいい人がたくさんいるんですよ。あなたはその人たちと仲よく、楽しくしていればいいのです。なぜあなたが犠牲を払ってまで嫌な人のために、嫌な思いをしながら、その人のいいところを探さなきゃいけないんでしょう?
嫌な人間にもある「いいところ」を探すのは、嫌な人自身にまかせておけばいい。
嫌な人は嫌われ、「NO!」と言われて、初めて自分で「これじゃいけない」と悟るんです。
一番いけないのは、嫌な人間から嫌われるのを恐れたり、その人から好かれようとしたりすることです。
その中でも一番最悪なのは、嫌な人間をいい人に変えようとすることです。
知り合いにも、暴力亭主と一緒にいて、相手につくして変えようとしていた女の人がいました。
何度も言いますけど、自分は変えられても、人は変えられません。
その人の場合も「離婚する」と言ったときだけ、亭主は反省して優しくなりますが、すぐ元に戻ってしまう。
私はその女の人にこう言いました。「相手は直る必要なんかないんだよ。直す必要があると思ったら自分で変わるよ。亭主はそのままでいい。ただあなたとは合わないから、あなたは別な人を探してください」世の中には、その暴力亭主と合う人がいるかもしれない。
その亭主を見て「いい人だ」と思う人もいるでしょう。「だけど、私はそう思わない。私はNO!です」でいいんです。
嫌なものに「嫌」と言えないのは、口うるさい親に育てられ、親から嫌われるのを恐れている人に多いんです。
『斎藤一人 変な人が書いた人生の哲学』PHP文庫
嫌な人に「NO!」と言えない人は、「人がいい人」に多い。
「人がいい人」は断ることが苦手だ。
断ることによって、人から嫌われることを恐れるからだ。
断れない人は、逆に、人に都合よく利用されやすい。
結局は自律していないからだ。
大人になっていないということも言える。
子どもの頃から、「素直ないい子」をやってきたので、自己主張が苦手だ。
自己主張しすぎるのも問題だが、まったく自己主張ができないのはもっと問題だ。
いい人は理由がないと断れないと思ってしまうが、嫌な人に「NO!」というのに理由はいらない。
嫌だから嫌なのだ。
あっという間の人生。
我慢して生きていくにはあまりにも短すぎる。
嫌な人に対して「嫌」と言える人でありたい。
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