https://weekly-haiku.blogspot.com/2008/07/blog-post_6542.html 【近代俳句の周縁 4 日本の原風景の痕跡あるいは銃後の日常の記録~臼田亜浪・飯田蛇骨・富安風生・水原秋桜子共著】より
『勤労俳句の鑑賞』(昭和21年3月/編纂:俳句研究編集部/代表:伊東月草/発行:目黒書店/167頁)
橋本 直
古本屋をまわっていたときふと目に付いた。「勤労俳句」という用語なんて初耳である。今「蟹工船」が流行っているけれど、一瞬そのようなものかとも思った。すでに背表紙が壊れかかっており、紙質はひどく悪い。戦後まもなくの出版。横書きを右から読み始める共著者名とタイトルであることには、やはり違和感がある。それにしても、タイトルからすれば、栗林農夫(一石路)とかが書きそうなのに、なぜ臼田亜浪、飯田蛇骨、富安風生、水原秋桜子の四人なのだろう。
さらに、広告類が一切なく、奥付の次から裏の見返しまで四枚がまるまる白紙であることも変な感じである。しかも、頁をめくると、「俳句研究編集部」名による、昭和二十年八月二十日の日付(下写真参照・クリックすると大きくなります)のある、敗戦(ポツダム宣言受諾)を受けてという体裁の序文があり、「本書は、俳句を通して勤労、勤勉の精神を身につけるべく、働くよろこび、ものをつくるたのしさをうたつた作品を集め、これに現代大家の鑑賞的批評を乞うたものである」云々とあって、要は戦に負けてこの国は大変なことになった。そこで、勤勉にならにゃいかんが、俳句でも勤労意欲を増進させよう、というコンセプト(下写真参照)。初見、なんじゃこの本は、という感じだったのである。
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昭和二十年八月二十日の日付のある編集部名による序文は、おそらく編集代表の伊東月草の手によるものと思う。この、玉音放送からわずか五日しかたたないで書かれたことになっている序文と、集中の臼田亜浪の「付記」中の「皇紀二千六百五年十月一日校正に際して」から、非常に短期間にまとめられ、翌年三月には出版の運びとなっていると推定される。平時である現在の出版の状況を見ても、これらの日付がどの程度正しいのかは定かでない。むしろ、日付にこめられた意味の方がポイントかも知れない。例えば、同じ目黒書店から出ている大野林火の句集「早桃」は、昭和二十一年八月十五日発行である。その日に込めた思いがあるのは明らかだろう。ちなみに二十年八月二十日は灯火管制が解除された日らしい。
編集代表が伊東月草であるとき、著者がなぜこの四人なのかを考えると、戦時中の状況が顔を出す。伊東月草は角川源義の師でもあり、芭蕉の研究などでも名をなす学者肌の俳人であるけれども、国士的に頭でっかちな資質があったらしく、大政翼賛の動きに乗って全国の俳句結社に働きかけ、もろもろ悪名の高い小野蕪子とともに「日本俳句作家協会」を起ち上げている(楠本憲吉は「バスに乗り遅れないようにと、月草が取った時局順応の処置」とやや擁護を感じる物言いをしている。「昭和俳句史 上」『俳句講座』明治書院)。
これがのちに「文学報国会」の「俳句支部」となるが、その部会長には当然の如く虚子が座り、代表理事に秋桜子、幹事長に風生、常任理事に月草、幹事に蛇笏、亜浪らが名を連ねていた。つまり、戦後出た本ではあるが、戦前の月草の意志働きかけの延長線上にこの本は成ったとみてよいだろう。さらに後年、同書店からでた『句作の道』(二巻 昭和二十五年)でも、彼らは主要執筆者として活躍している。
冒頭、広告類が一切なく、奥付の次から裏の見返しまで四枚がまるまる白紙であると書いた。結論から言えばその理由はまだよくわからない。この時期の出版物がすべてそうであった訳ではないだろうが、「俳句研究」をだしていた改造社は、戦時中当局ににらまれ、横浜事件などの弾圧を受けて解散させられてもいたので、その関連があるかも知れない。
印刷は「改造」と同じ秀英社(大日本印刷の前身)であった。この時期、紙も不足し、その確保の困難を乗り越えるのは大変だったはずであり、さらにこの間にやってきたGHQの検閲もパスした上での出版で、これは容易なことではなかっただろうと思われる。鈴木六林男も「証言・昭和の俳句 上」で、戦後のGHQの検閲のことから語り始めるが、関西は事後検閲だが関東は事前検閲だったとも言う。
このあたりの経緯の資料は少なく、GHQの検閲を研究した江藤淳の労作『閉ざされた言語空間』(文春文庫)でも、今ひとつよくわからないのだが、GHQの資料には削除または掲載禁止の対象の指針を定めた検閲方針リストがあって、江藤は「古来日本人の心にはぐくまれて来た伝統的な価値の体系の、徹底的な組み替え」が意図されている、と指摘している。江藤の指摘する視点は、今日的にも非常に重要であるが、彼の論法を真に受けて敷衍すると、とても生ぐさい戦後があらわれる。しかしそれは、この本の内容と微妙な齟齬が感じられるのである。
閑話休題。以上のように、出版の経緯など縷々述べると、いささかあやしい書物っぽいのであるが、内容は非常に堅実な選集である。目次は、「初富士」水原秋桜子、「さわやかに」富安風生、「高原の秋風」飯田蛇笏、「農魂と工魂と」臼田亜浪。一句一句に鑑賞がつき、章末に選者の自作が五,六句載っているが、風生はそれを載せない代わりに冒頭で一文を書き、月草のやや頭の中優先のコンセプトに対し、「生活人の俳句に直接工場生活を詠つたもののみ強要するのは少し無理である。工場人にとつて激しい勤労が生活の現実であると同時に、激労の間のほつとした僅かの憩ひに、工場の庭隅の一木一草に日本人らしい心やりをもつ」等々と至極まっとうな批判を書いており面白い。以下、各々から恣意に句を引く。
「初富士」
初富士や工都の煙いくすぢも 矢島年秋
枯野みち四方ゆあつまり船作り 篠田悌二郎
みのを着て学徒なりけり田を植うる 大月九合草
刈り終へて一隊の乙女稲架を組む 齋藤栄一郎
箱根疎開学園
蒲団干す子等のたのしも照紅葉 小林広子
「さわやかに」
さわやかに機械は鐵を截りはじむ 鈴木莞爾
肥桶をきれいに洗ひ草紅葉 井手陶泉子
末弟を弟子とし夜なべ忙しく 立花大生
昼は山夜はつぎはぎの母の冬 山添斗汐
電休日は俳句を作る石蕗の花 久保太一
「高原の秋風」
大野ヶ原共同開墾
高原の秋風にのる呼子笛 大須賀秀子
麦打の調子揃へば唄ひけり 福間吐史
稲車頭うづめて押しきたる 木下慈杖
風つよき石狩の野に耕馬出づ 比良暮雪
耕牛をはげますこゑの稚き 迫 牛彦
「農魂と工魂と」
鍬祭る日を昏々と土ねむる 大石石佛
窓よりの初日旋盤つかふ手に 石坂春水
土曳きの橇舐るよに人かがめり 佐野良太
片影にこぼれし塩の点々たり 大野林火
短日の虹へ工門押され出づ 藤田洲明
このように、一部有名俳人の作品があるものの、作者のほとんどは、おそらく当時の各選者の結社内の関係者で、今や無名の俳人達である。戦後すぐの出版だからといって、あらためて戦後に俳句を集められようはずもなく、多くは戦前戦中に詠まれた作と思われる。いわば、銃後の作である。そのなかから「勤労」にまつわる句を選んだものであり、しかも、鑑賞文には時折戦時体制を感じさせるくだりもあって、GHQの検閲によくひっかからなかったと思う。同時に、戦時下では戦時下で、戦争の影など微塵もない、穏やかに働く風景など、かえって公刊がはばかられたかもしれないような作品も含まれ、ごくごく普通の、もはや失われた原風景としての近代日本の日常の営みを読むことができる作品集となっている。
(本稿引用中の一部は旧漢字をあらためていることをお断りする)
https://haradatakeo.com/%E3%83%96%E3%83%AD%E3%82%B0/%E3%82%8F%E3%81%9F%E3%81%97%E3%81%AE%E5%8E%9F%E9%A2%A8%E6%99%AF%E3%80%81%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%8E%9F%E9%A2%A8%E6%99%AF/【わたしの原風景、日本の原風景】より
前回のコラムでは、安倍公房の戯曲『城塞』について取り上げました。
公房はエッセイ『一寸後は闇』で私小説を書かない理由のひとつとして、「現在が、現在のままで過去に送り込まれることはなく、消化された現在は、たちまち過去一般に還元される。」と述べています。
しかし作者による仕掛け、嘘が仕込まれて出来上がる作品の中に、作者の生き様は少なからず投影されているものです。実際、城塞の舞台となった満州の一家庭のイメージは、公房自身の満州での幼少期の原風景が色濃く反映されていることでしょう。
同時代に活躍した寺山修二の演劇、俳句も、青森での彼の幼少時代の原風景から湧き出たイメージ(例えば、イタコ・恐山和讃から、死者が蘇る暗闇の演劇、地獄めぐりの演劇の着想を得た。)が物語の中核をなしています。
私はいま、『原風景』ということばを使いましたが、この語の解釈について随分と前からもやもやしていました。
「あなたの原風景はどんなの?」と聞かれたら、私はまず、生家の庭と塀を思い出します。中学生の頃まで私が住んでいた家は、日本の家のつくりとしては珍しく、飾り門を通して表から庭全体が見渡せました。また、高さ2mのうち下半分は足をかけられるような石造りでしたので塀によじ登るのが容易でした。つまり本来の侵入者を防ぐという塀の用途は全く果たさないのですが、座るのに十分の厚さがあるという不思議な塀でした。母親の帰りを待つとき、あるいは友達を待つとき、塀に座って道路で待ち人が現れるのを待ったものでした。時には、危なっかしくも塀をまたぎながら追いかけっこや水鉄砲の打ち合いも楽しみました。
幼少時代に全く気付かなかった自分の家の塀の特異性に気づいたのは高校生だったでしょうか。
カナダの家庭にホームステイをする機会がありました。ひとは孤独のとき、感性が静かに研ぎ澄まされ、今まで気に留めなかったものに気づくことがあります。そのホームステイ先は駅から非常に遠い郊外にあり、バス亭からも住宅街をいくらか歩かねばなりませんでした。その道を間違えないで帰るのに注意が必要でしたので、帰り道の家々をよく観察したものでした。幸いだったのが、欧米の家は広い前庭があり、表からもその美しい庭を見渡せるということです。家々の色鮮やかな庭は通るものをあたたかい気持ちにさせてくれました。(そして塀より庭の特徴を頼りに家路につく方がより楽しい体験でしょう。)
帰るころにはすっかりホームステイ先までの遠い道々にも親しみを覚えていました。帰国後の家路で目に映った日本の家々が、塀が高く、庭も見えない、なんとも秘密めいたつくりに見えたことか!
“わたし”の原風景は名もない路地のお話しですが、皆さまの原風景はどのようなものでしょうか。こういう思い出話をするとき、パリや京都のように、教会あるいは寺院がそこら中に点在し、全ての通りに名前がついている都市の場合、話す方も聞く方もイメージが想起しやすく、羨ましいなぁと思います。
では“日本”の原風景とは何なのか。絵画だけでなく、俳句や文学など様々な形態で表現されてきた主題ですが、2011年の山種美術館の美術展「美しき日本の原風景―川合玉堂・奥田元宋・東山魁夷―」展というのが印象に残っていますので、ここではそのお話しを。
のどかな田植えの様子を描いた玉堂の《早乙女》(トップの写真です)、失われゆく京都の姿を描きとめた魁夷の京洛四季の連作の展示がありましたが、主催者がこの展覧会に原風景と名付けたのは、かつては存在した日本各地の故郷の姿や伝えていきたい日本の心の風景を忘れぬようにという願いをこめたからのようです。
会の趣旨を読みながら考えたのは、「原風景は懐かしさを伴う、人の心の奥にある原初の風景と定義するのであれば、今の子どもたちのどれほどがこの絵画に懐かしみを感じながら鑑賞するのであろうか?」ということでした。
魁夷らが提示する“日本の原風景”なるものは、都会人にとっては日常において不在の風景なのであり、自ら求めてやっと辿り着ける景観です。高度経済成長後の日本に生まれた私と“日本の原風景”を結びつけるのは、実際の景観より、童話や絵本、にほんむかしばなし、そして文学です。魁夷の雪景色を見て懐かしく感じるのは、『もちもちの木』の切り絵の雪景色が原体験なのか?住んだこともない長屋を懐かしく感じるのは、作家の自伝を何度も読むうちに自分の原体験と錯覚するようになったのか?というふうに。
都会のビル街に育った子どもにも、もちろん、ビルとビルの狭い路地といった、それぞれの原風景があります。では彼らは、伝統的な“日本の原風景”をどう感じるのだろうか。都会に育ち、日常で自然や田園風景に触れることのなかった三島由紀夫の原風景は古典文学に拠ったといいます。
2012年の調査では小学生のテレビ、ゲーム、パソコンの映像媒体との接触時間は、本(26分)の約7倍もありました。また、PCでYoutubeなどの動画を日常的に見る小学生は約4割であり、高学年になるほど接触時間は増えています。*1
これだけ映像媒体との接触時間が多いと、古典作品を通してかろうじて受け継がれてきた“日本の原風景”は、映像イメージだからこそ表現が容易になったSFや近未来的景観に近いうちにとってかわられてしまうのでしょうか・・・
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