いのちに向きあう

Facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL) さん投稿記事

いのちに向きあう

 神戸連続児童殺傷事件から25年。あの衝撃は忘れることが出来ません。犯人逮捕の速報が14才の少年と告げたとき、まさに言葉を失いました。確かなこと、確かなものが崩れたような感覚も覚えました。

 答えのない問いの中に生きるのが人間でしょうか。語れないものを語ろうとし、見えないものを見ようとする、その深さの中で人間性のようなものが育っていくような気がします。すぐに解決できないことの中に大切なことが隠れていますね。

 いま、テレビでもつけようものなら、コメンテーターといった人が、すぐに言葉を用意します。粘り腰とか地べたの苦労・・・とは遠いものです。それは視聴率の世界ですから、それにならって、美醜を即刻判断したり、すぐに善悪を決めるような思考回路にならにように自覚しないといけませんね。美しさと正しさだけを享受しよう・・・とはいかないのですから。個々が成長していく過程で見いだすものであり、その意味も変化していくものでしょう。

 半月ほど滞在したアマゾンから帰国して「アマゾンレポート」と名付けたものをアップしたのはちょうど3年前のこの頃です。急がず、悠然と人生を歩むことを、私も含めて現代人は忘れていることを痛感しました。

満点の星空を仰いで、じぶんたち、いのちを生んだ大元がなにかと、おのずとわが身に問いかけた日々から、便利で快適で効率的で生産性重視の世界に帰り着いたときの「逆カルチャーショック」。空港に着いて電波がつながったとたん、誰もが携帯に見入ってしまう。それは電車の中でもレストランでも路上でも同様で、しばらく忘れていた異様な光景が私たちの日常だったのです。

人も生き物ですから、「自然」と隔離(物理的にも精神的にも)されたら自然には生きていけないのが道理です。生産性をできるかぎりアップするのが「よい」というのは、つまるところお金の事情であり、そのお金の事情に振り回されて、道理や当たり前が見えにくくなっているのですね。

そうして「いのち」といのちにつながるものに鈍感になってきたのかも知れません。見えないもの、語れないものに向き合う努力を続けて、鈍化して精神を鍛えねばなりませんね。


http://www.kadokawaharuki.co.jp/soul/poem/0808.html 【俳句の写実を信じるな】より

正岡子規の俳句革新以後、高浜虚子の政治的な言動で、俳壇は半径五〇センチの「盆栽俳句」に終始し、詩の真実が見えなくなってしまった。

正岡子規の純粋で幼稚な写実主義は、近代西洋美術のデッサンに過ぎない。

しかも、高浜虚子は「写実=写生」という考え方で、俳句に枷まで架けてしまった。そして、現在も俳壇は俳句の根本を「写実」と「写生」に置いて、それ以後の思想を放棄してしまった。絵画におけるデッサンに過ぎない「写実」に力点を置く限り、俳句は写真や映像の下に位置することになる。

だが、写生とは本来、「おのが生を写す」ことである。作者の人生を、いのちを、こころを写すことなのだ。写実は写生の一部であって、全体ではない。詩の根本はわずか十七音の文字に、おのれの「いのち」と「たましひ」を乗せて詠うことなのだ。

ある時、俳人の森澄雄さんは、私に次のように語った。

「俳人は神仏を信じなくてもよいが、『虚』を信じなければ駄目だ。でないと巨きな世界が詠めない。今の俳人は最も大事な『虚』が詠めなくなった」

「虚にゐて実を行ふべし」の名言を芭蕉は残したが、詩の真実としては、「実」よりも「虚」のほうが巨きい。例えば、芭蕉の次の一句も完全な「虚」である。

一家に遊女もねたり萩と月   芭 蕉

そして、芭蕉の俳諧開眼となった次の一句もそうだ。

古池や蛙飛びこむ水の音   芭 蕉

蛙が池に飛び込んで音を立てたというのは、芭蕉のイメージである。何故なら、現実的には音がしないからである。芭蕉の多くの句は、空想句つまり「虚」である。子規・虚子の言う写実ではない。しかし、虚でありながら実以上の「詩の真実」を見出したのだ。


http://blogs.makusta.com/kaishin/%E3%81%8C%E3%82%93%E3%81%A8%E5%90%91%E3%81%8D%E5%90%88%E3%81%86%E4%BF%B3%E5%8F%A5.html 【がんと向き合う俳句】より

2015年6月19日学習塾, 本に囲まれて, 開進学園kaishin

  『 いのちの一句 』

     いのちの歳時記編集委員会

     毎日新聞社

  身近なものとなった<がん>と、私たちはどのように向き合えばよいのだろうか。

  本書は、がんを経験した人が詠んだ俳句(がん句)と、彼らのがんにまつわるエピソードを集めたものである。

 逝く空に桜の花があれば佳し 三波春夫   口づけも夢のなかなり春の雨 小津安二郎 

 間断の音なき空に星花火 夏目雅子   夏を病む静脈に川の音を聞く 岸田今日子 

 だーれもいない虫籠のなかの胡瓜 渥美清 


http://randomkobe.cocolog-nifty.com/center/2011/07/post-6c10.html 【いのちの歳時記編集委員会◎いのちの一句 ──がんと向き合う言葉】より

森さんの愛娘いずみさんも37歳で膵臓がんで亡くなっている。〔…〕

「今年のお彼岸に、娘が眠るお墓に久しぶりに行った。こんな句をつくったよ。〈まあだだよ娘の墓洗ふ彼岸花〉ってね」〔…〕

俳句を通じて、日本人の死生観をみつめ直したい。俳句は短いけれど、そういう不思議なパワーがある。暗くなるのではなく、闘病中の患者や家族の励ましになる、がんの検診率を高めることにも寄与したい、それが森さんの望みであった。

死と向き合いながら、病院にもパソコンを持ち込み、原稿を書きつづけようと、最後まで頑張ってきた。〔…〕

がんばれといはれてもなあ鰯雲  英介

皆が、頑張って!もう少しで治るから……。そう励ましてくれるのは分かるが、もう十分、力いっぱい自分は頑張ってきたよ、といいたかったのであろうか。

──石 寒太「森英介──死を前に向き合う夫婦」

◎いのちの一句──がんと向き合う言葉│いのちの歳時記編集委員会│毎日新聞社│ISBN:9784620319902│2010年10月│評価=○

<キャッチコピー>

生きる勇気が満ちてくる。渥美清、夏目雅子、吉村昭ら25人のがん経験者が読んだ俳句と、彼らの生の記録。公募“がん俳句”200余収録。

<memo>

森英介、1939年生まれ。元毎日新聞記者にして名編集者。本書の発案者だが、刊行を待たずに死去。


https://ameblo.jp/dotedotedote/entry-11086228949.html 【いのちの歳時記編集委員会『いのちの一句』】より

がんで亡くなった方々の俳句を紹介した本です。その方々の横顔を綴る短いエッセイ25編の中で、俳句が掲げられています。

死へのカウントダウンという特別な状態の中で捻られた句ですから、読む方にも自ずと居住まいを正させてしまう力があります。

印象に残った句をいくつか。

さやうなら一語一語の冬の息    白澤弓彦

月をゆがめている熱がある     住宅顕信

お遍路が一列に行く虹の中     風天(渥美清)

雛飾りつつふと命惜しきかな    星野立子

春浅くまだ行き逢えぬ人はどこ   眠女(岸田今日子)

ものの芽や人にやさしくしたくなり  江國滋

截り捨てし胃より土筆が噴き出しぬ 八田木枯

間断の音なき空に星花火      海童(夏目雅子)

遠花火もつれ話の間をつづる    山岡荘八

ゆくあてのなくて見ている蝸牛   大谷乙彦

明日は亡き乳房にシャワー迸り   萩原郁美

この先を考へてゐる豆のつる    吉川英治

酒断って知る桎梏のごとき夜長   楠本憲吉


  

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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