穴太衆

Facebook平木 大士さん投稿記事  近江国の日吉めぐり④ ~穴太衆~

日吉大社のある坂本のまちを語るうえでかかせないのが石工職人・穴太衆(あのうしゅう)です。

日本中の名だたる城の石垣を築いたといわれる技術集団でありここはそんな、穴太衆の里ともいわれていて自然石を積みあげた、美しい石垣も坂本の景観のひとつとなっています。

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https://ameblo.jp/navihico-8/entry-12740027808.HTM【近江国の日吉めぐり④ ~穴太衆~】より

日吉大社(ひよしたいしゃ)のある坂本(さかもと)のまちを語るうえでかかせないのが石工(いしく)職人・穴太衆(あのうしゅう)です。

安土城(あづちじょう)の石垣を築いたことから織田信長(おだのぶなが)豊臣秀吉(とよとみひでよし)の時代にひろく世に知られ大阪城・名古屋城・江戸城など数多くの城の石垣を手掛けた職人集団だそうです。

自然石をそのまま使用した野面積み(のづらづみ)は穴太積み(あのうづみ)[穴太衆が組んだ野面積み]ともいわれ大地震にも耐える堅固なつくりながら水はけもよいので豪雨にも強く数百年を経ても崩れることがないのでいまでもその姿を残しているようです。

坂本の地は、そんな穴太衆の里でもあって穴太積みの石垣が坂本の景観の一部となっているようです。

もともとは、この地の古墳づくり集団だったといわれていてこのあたりにみられる横穴式石室の古墳の石積みと似ているのだそうです。

また、これらの古墳は朝鮮半島ゆかりのものといわれるほかあたりの住居跡からは鮮半島ゆかりの竃の煙をつかった暖房施設『オンドル』の遺構も見つかっていることからこの地に移りすんだ渡来人がはじまりであるとされているようです。

比叡山(ひえいざん)天台宗(てんだいしゅう)の開祖・最澄(さいちょう)はこの地の豪族であった三津首(みつのおびと)の子だといいますが三津氏もまた渡来系だそうです。

この地には、ほかにもさまざまな渡来系氏族が暮らしていたといいますからこうした氏族のうち古墳など土木事業をになうものが穴太衆となっていたのでしょう。

平安時代になると比叡山・延暦寺の伽藍の石組も手掛けたようですね。

こうして、独自の技術が確立されていったのでしょう。

もちろん、石垣に適した岩石の豊かな地であることも関わっているのでしょうね。

また、比叡山での修行をおえた高齢の僧は坂本をたまわって暮らしたといわれていて

比叡山の山坊(さんぼう)にたいして坂本は里坊(さとぼう)といわれたそうですが

里坊に築かれる庭園にも石組みが用いられたようです。

戦国時代には織田信長や豊臣秀吉に見いだされたといいますが織田信長の比叡山の焼き討ちによって日吉大社までも焼失したのが1571年であり安土城の築城が1576年だといいます。どのような経緯とどのような心中で石垣を築いたのかも気になるところですね。

ちなみに、焼き討ち後の統治を任された明智光秀が坂本城を築いたのも1571年だといいますからもしかすると、坂本城で穴太衆が見いだされたのかもしれませんね。

穴太衆の石組みは渡来系のひとびとによる古墳つくりにはじまり平安時代には比叡山延暦寺によってはぐくまれてゆき戦国時代(室町時代後期)の城の石垣によって全国にひろがっていったようですね。

しかしながら、あまりに堅牢なつくりのためメンテナンスもほぼ必要がなくまた、現代では

新たに石垣を築く機会も減ってきたために穴太衆もしだいに廃業していったようです。

いまでは、穴太衆の名は『粟田建設』という建設会社1件を残すのみだといいます。

穴太衆の技術をつたえ国内だけでなく世界にまでひろげてゆく活動を行っているようですね。「石の声をきく」ことで石垣にぴたりとはまる自然石がみつかるそうです。

それもまた、ひとつの境地なのかもしれません。

粟田というように、この方々は四国の阿波からながれてきた一族だといいます。

血縁ではなく業(わざ)によってつながるというのはまさに古代氏族のありかた

そのものという感じでとても興味深いです!

日吉大社には大宮川(おおみやがわ)[三津川(みつのかわ)]にかかる石橋が3つあり

それぞ大宮橋(おおみやばし)走井橋(はしりいばし)二宮橋(にのみやばし)といい、あわせて日吉三橋というそうですがこれらもすべて穴太衆の手によるものだといいます。


http://blog.livedoor.jp/kaidanyawa/archives/54034199.html 【マチュピチュ城の秘宝】より

中山市朗です。

昨日、日本のマチュピチュとして一躍有名スポットとなった我が故郷の竹田城跡の怪談について書きましたが、今日も夕方のニュースで、観光客が急激に増えたことによって、雑草がなくなり、土がむき出したことによって、降り注ぐ雨水がそのまま土にしみこみ、石垣を内部から崩す要因になりかねない、という保存か、観光かで悩む地元の人たちのことを取材していました。今年は年間40万人もの観光客が見込まれるとか。 

私が竹田に住んでいた頃は、一万人、来てたかなあ。

さて、私の祖父が郷土史の研究家であったことも書きましたが、血は争えないもので、私もアマチュアの立場ながらも歴史の研究をしております。別に祖父から託されたわけでもないんですけど。気がついたら、あれ、これって爺さんが追ってたことやん、て。

竹田のある朝来市は、あの生野銀山のある生野町と隣接し、いろいろと真田の抜け穴のようなものがあちこちにあるという噂や、秀吉の宝物が埋まっているという話も子供の頃に聞いたのですが、どうなったのでしょうね。ああいう話も巧く利用すれば、まだまだ観光資源もあるように思うのですが。

ところで、竹田城の石垣の石積みは、石と石との間に隙間のある野積み、つまり穴太積みという手法がとられています。石と石の間をきっちり合わせるより、こちらの方が地震などに強いとされるわけです。

穴太とは、あのう、と読み、穴太衆という石工集団の手法なのです。

石工、といえば、フリーメーソンを思い出しますね。あれももともとは石工集団の組合のことですから。

今のフリーメーソンは、実のところ、いわれている石工組合として古代からあったものと関係があったのかどうかは、判然としないんです。ですが、石工職人たちが特別な情報を後代の職人たちに、その技術や目的、育成のための情報を口外せずに伝える必要性があったことと、彼らが神殿造りに関わることで、神の至聖所を知ることもできた、あるいは欧州の国々を自由に行き来する特権が与えられていたことなどが、石工組合の特殊性をもたらし、神秘の奥義があるとすれば、ソロモン神殿やエジプトのピラミッドの造営に携わった石工の伝承の中に封じ込められたのだ、とする神秘学者やラビたちもいても不思議ではなく、事実、フリーメーソンというものが神秘化していったという部分が、あるのですね。

竹田城の石垣を積んだとされる穴太衆という石工集団も、そのルーツを辿れば、古代の古墳の造営に従事していました。つまり、古代の天皇や皇族の宗教観と密接な関係にあったことが想像されます。

古墳時代の天皇の宗教観とは、はっきりと物部神道であった、といえましょう。

穴太衆の本拠地は滋賀県大津市坂本穴太とされていますが、このあたりは古代の製鉄遺跡が大量に出ていて、穴太の石工技術は製鉄技術にも生かされていたようです。

穴太神社が大阪府八尾に鎮座しています。八尾はもともと矢を負う、から来た地名でして、つまり矢を作る職人たちがいた土地で、現に弓削という土地もあり、他にも物部氏との関係を示す町名がいっぱい残っています。

物部はもののふの語源となったとされ、古代において天皇の軍隊を司っていました。古代の軍隊は、常に神とともにありました。軍事と神事は密接なものであったわけです。ですから物部が、武器を作る職人たちと共同で行動を取っていたことがわかります。現に物部守屋は、物部弓削守屋とも、名乗っていました。母が弓削の女だったようですね。その、八尾の物部の地に、穴太神社があるわけです。

由緒書きには、穴太とは、安康天皇の設けられた御名代部の一つ、とあり、安康天皇は、わが国で最初に鉄の矢を用いた天皇であるとされ、その矢を穴穂矢といったと「書紀」にあります。

穴太と穴穂は同意語のようです。また穴穂部は泥穂部であり、穴生とも表記され、土木建築にも関わったのではないかとも思われます。秦氏との結びつきがここに現れます。

実は、この八尾の穴太神社こそが、聖徳太子の母君である、穴穂部間人皇后の生誕地であると、同神社の由緒にあります。つまり、聖徳太子の母は、物部の血を引いていた可能性があるわけなんですね。

聖徳太子は、大工の神として四天王寺の番匠堂に祀られています。手に金尺という直角に曲がったコンパスのようなものを持っています。その太子の血筋が石工集団にあったとすると、こりゃ、石工、コンパス、建築の神に対応し、つまりはフリーメーソンの象徴にピッタリ合いますがなこれ。

これ、伊達や冗談ではありません。

聖徳太子が定めた冠位十二階。この趣旨はなんだったか。

朝廷に従える臣下を十二の等級に分け、地位を現す冠を授ける、とウィキにありますが、これは聖徳太子が朝廷のしがらみから離れ、氏、姓に関係なく、個人の功績によりその位次を示そうとするものです。

これって、人種、身分を問わず平等に加入できて、個人の功績、徳によって次なる階位に上がるというフリーメーソンの考えに極力似ているわけです。また、フリーメーソンは切り刻まれない石、自然石を真実の象徴とするわけですが、四天王寺も自然石による四天王寺四石がその礎となっていて、また、フリーメーソンの太陽神話の延長としての東西南北の象徴も、四天王寺の現すところなのです。しかもフリーメーソンの奥義には神秘学があることは確実であり、冠位十二階もおそらく道教を中心とした日本の神秘学のはじまりがあったと思われるのであります。

とすると、冠位十二階のシステムを後にフリーメーソンがとりこんだ、あるいは冠位十二階が、その頃あったかも知れないプレ・フリーメーソンからそのシステムをとりこんだのでは、と思えてならないのです。

そんなことがありえるのかって?

小井、という姓に、どうやらヒントがありそうなんですが。

小井とは、いさらい、と読みます。

どなたか、情報、お持ちではないでしょうか。

ところで、聖徳太子と物部の関係をもっと知りたい方は、ハート出版から出てます「聖徳太子 四天王寺の暗号」わお読みください。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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