FacebookOSHO Japanese投稿記事 自分を愛し、そして見守りなさい
ゴータマ・ブッダのもっとも深遠なスートラから始めよう。
自分を愛し、そして見守りなさい――今日、明日、いつであろうと。
「自分を愛し……」
愛は魂の栄養だ。ちょうど体にとって食べ物がそうであるように、愛は魂にとってそうだ。
https://www.osho.com/.../other.../love-yourself-and-watch 【自分を愛し、そして見守りなさい】より
ゴータマ・ブッダのもっとも深遠なスートラから始めよう。
自分を愛し、そして見守りなさい――今日、明日、いつであろうと。
「自分を愛し……」
愛は魂の栄養だ。ちょうど体にとって食べ物がそうであるように、愛は魂にとってそうだ。食べ物がなければ、体は弱い。愛がなければ、魂は弱い。そして、どの国も、どの教会も、どの特権階級も、人びとが強い魂をもつことを望んだためしがない。なぜなら、スピチュアルなエネルギーのある人は、かならず反逆的になるからだ
愛はあなたを反逆的に、革命的にする。愛はあなたに、高く舞いあがる翼を与える。誰もあなたを騙せないように、あなたを搾取できないように、あなたをしいたげることができないように、愛は物ごとへの洞察を与える。ところが、聖職者と政治家たちは、あなたの血でのみ生き延びる――彼らは搾取することでのみ生き延びる。彼らは寄生虫だ、すべての聖職者、すべての政治家たち。
彼らは、あなたを精神的に弱くするために、確実な、100パーセント保証の手法を見つけた。そしてそれは、あなたに自分を愛さないように教えることだ――なぜなら人は、もし自分を愛せなければ、他の誰をも愛せないからだ。その教えはひじょうに狡猾だ。彼らは言う、他人を愛しなさい――というのも、もしあなたが自分を愛せなければ、愛することなどまったくできないことを彼らは知っているからだ。それでも、彼らは言いつづける――他人を愛しなさい、人類を愛しなさい、神を愛しなさい、自然を愛しなさい、妻を、夫を、子どもたちを、そして両親を愛しなさい、だが、自分を愛してはいけない。なぜなら、彼らによると、自分を愛するのは利己的なことだからだ。
彼らは自己愛を他の何よりも非難する――しかも、彼らは自分たちの教えがひじょうに理にかなっているように思わせてきた。彼らは言う、もしあなたが自分を愛したら、あなたはエゴイストになる。もしあなたが自分を愛したら、あなたは自己中心になる。それは真実ではない。自分を愛する人は、自分の中にエゴがないことが分かる。エゴが生じるのは、自分を愛することなく他人を愛することの中で、他人を愛そうと努力することの中でだ。
愛は義務など何も知らない。義務は重荷、形式的な行為だ。愛は喜び、分かち合いだ。愛は非形式なのだ。愛する人は、自分は十分やったとはけっして感じない。愛する人はいつも、もっと可能だったと感じる。愛する人は、「相手に恩恵を施した」とはけっして感じない。むしろ逆に、「私の愛が受け取られたのだから、私は恩恵を受けたのだ。相手は私の贈り物を受け取ることで、それを拒絶しないことで、私に恩恵を施したのだ」と感じる。義務の人は考える、「私のほうが上だ、精神的だし、特別なのだ。私がどれほど人びとに奉仕しているか、見るがいい!」
自分を愛する人は自分を敬う、そして、自分を愛し、自分を敬う人は、他人をも敬う。なぜなら彼は、「まさに私がそうであるように、他の人たちもそうなのだ。まさに私が愛を、敬意を、尊厳を喜ぶように、他の人たちもそうしている」と知っているからだ。彼は、私たちは違ってはいない、基本的なことに関する限り、私たちはひとつだということに気づく。私たちは同じ法の下にある――エース・ダンモ・サナンタノ。
自分を愛する人は、愛をこよなく楽しみ、とても至福に満ちるために、愛は溢れだす、それが他の人たちに届きはじめる。それは届くしかない! もしあなたが愛を生きたら、あなたはそれを分かち合うしかない。あなたは永遠に自分を愛しつづけることはできない。なぜなら、ひとつのことがまぎれもなくはっきりしてくるからだ。ひとりの人を、自分自身を愛していると、まさに途方もなくエクスタティックで美しいから、もし自分の愛を多くの、多くの人たちと分かち合い始めたら、さらにどれほどのエクスタシーがあなたを待ち受けていることか!
ゆっくりと、さざ波がさらに遠く、さらに遠くへと届きはじめる。あなたは他の人たちを愛する。それから、あなたは動物たちを、鳥たちを、木々を、岩を愛しはじめる。あなたは全宇宙をあなたの愛で満たすことができる。全宇宙を愛で満たすのは、ひとりの人で十分だ。まさにひとつの小石が湖全体をさざ波で満たすことができるように――小さな小石。
人間は神々しくならなければいけない。神々しくならない限り、成就は、充足はないだろう。だが、どうすればあなたは神々しくなれるのか? あなたがたの聖職者たちは、あなたは罪人だと言う。あなたがたの聖職者たちは、あなたは絶望的だ、地獄に行く運命だと言う。そして彼らは、自分を愛することをとても怖がらせる。
人びとがこれほどあら探しの名人なのはそのためだ。彼らは自分のあらを見つける――その彼らが、どうして同じあらを他の人たちの中に見つけられずにいられるかね? 事実、彼らはそれらを見つけ、それらを誇張し、それらをできるかぎり大きくする。それが唯一の救済策のように思える。なんとか面目を保つために、あなたはそうするしかない。だからこそ、これほど多くの批判と、これほどの愛の欠如がある。
いいかね、これは仏陀のもっとも深遠なスートラのひとつだし、このような洞察をあなたに与えられるのは目覚めた人だけだ。
自分を愛する人は、楽に瞑想的になることができる。なぜなら、瞑想とは自分自身といっしょにいることだからだ。
もしあなたが自分を憎んでいたら――あなたがそうしているように、そうしなさいと言われてきて、それに信心深く従ってきているように――もしあなたが自分を憎んでいたら、どうして自分自身といられるかね? 瞑想とは、自分の素晴らしい個としての在り様を楽しみ、自分自身を祝うこと以外の何ものでもない。それこそが瞑想とは何かのすべてだ。瞑想は関わりではない。相手はまったく必要ない。自分だけで十分だ。人は自分自身の栄光に浴する、自分自身の光に浴する。自分が生きているから、自分が存在しているから、ただうれしいのだ。
世界における最大の奇跡は、あなたが在るということ、そして、私が在るということだ。在ることは最大の奇跡であり、瞑想がこの最大の奇跡の扉を開く。だが、瞑想できるのは、自分を愛している人だけだ。さもなければ、あなたはつねに自分自身から逃げている、自分自身を避けている。醜悪な顔を誰が見たいかね、そして、醜悪な存在を誰がのぞき込みたいかね? 誰が自分自身のぬかるみに、自分自身の闇に深く入っていきたいかね? 地獄だと思う自分の中に、誰が入っていきたい? あなたは、このすべてを美しい花で覆い隠しておきたいし、つねに自分自身から逃げだしたいのだ。
だから、人びとは絶えず仲間を探し求めている。彼らは自分自身とはいられない。他の人たちといたいのだ。人びとは種類を問わずに仲間を求めている。自分自身と付き合うことを避けることができれば、何でもいい。彼らはまったくばかげた何かを観ながら、3時間は映画館にいる。何時間も探偵小説を読んで、時間を無駄にする。ちょっと何かやっているふりをするために、同じ新聞を何度も何度も読む。ただ暇をつぶすために、カードやチェスで遊ぶ……まるで時間があり余っているかのように!
愛は自分自身とともに始まる。そのときは、それは広まりつづけることができる。それはおのずと広まりつづける。それを広めるために、あなたは何もしなくていい。
「自分を愛し……」 仏陀は言う。それから、すぐに付け加える、「……そして見守りなさい」。それが瞑想だ、それが、仏陀が瞑想につけた名だ。だが、最初の前提条件は自分を愛することだ。それから、見守る。もし自分を愛さずに見守りはじめたら、あなたは自殺したくなるだろう。
多くの仏教徒たちは自殺したくなる。彼らはスートラの最初部分に注目せずに、すぐに二番目――自分を見守りなさい――に飛びつくからだ。実際に私は、仏陀のこの経典、『法句経』の解説で、自分を愛しなさいという最初の部分に注目しているものには一度も出会ったことがない。
ソクラテスは言う、汝自身を知れ。仏陀は言う、汝自身を愛せ。そして、仏陀のほうがはるかに真実だ。なぜなら、自分自身を愛さない限り、自分自身を知ることはけっしてないからだ――知ることは、その後でしか訪れない、愛が下地をつくる。愛は自分自身を知る可能性だ。愛は自分自身を知るための正しい道なのだ。
「自分を愛し、そして見守りなさい――今日、明日、いつであろうと」
自分の周りに愛に満ちたエネルギーを創るがいい。自分の体を愛し、自分のマインドを愛しなさい。自分のメカニズム全体を、自分のオーガニズム全体を愛しなさい。愛が意味しているのは、それをそのあるがままに受け容れること、抑圧しようとしないことだ。私たちが抑圧するのは、何かを憎むときだけだ。私たちが抑圧するのは、何かに反対するときだけだ。抑圧してはいけない。というのも、もし抑圧したら、どうやって見守ろうというのかね? 私たちは敵と目を合わすことができない。見入ることができるのは、愛する人の目だけだ。もしあなたがあなた自身の恋人でなければ、あなたは自分の目に、自分の顔に、自分の現実に見入ることができないだろう。
見守ることは瞑想だ、仏陀が瞑想につけた名だ。「見守る」は、仏陀の合い言葉だ。彼は言う、気づいていなさい、油断せずにいなさい、無意識でいてはいけない。ぼんやりと行動してはいけない。機械のように、ロボットのように動きつづけてはいけない。人びとの動き方が、それなのだ。
見守りなさい――ただ見守りなさい。仏陀は、何を見守らなければいけないのかは言わない――すべてだ! 歩いていれば、自分の歩みを見守る。食べていれば、自分が食べているのを見守る。シャワーを浴びていれば、水を、かかっている冷たい水、水の感触、その冷たさ、背骨を走る震えを見守る――すべてを見守りなさい、「今日、明日、いつであろうと」
ついに、自分の眠りすら見守ることのできる瞬間が訪れる。それが見守ることの極致だ。体は眠りにつき、見守る者は覚めたままそこにいて、すっかり眠っている体を静かに見守っている。それが見守ることの極致だ。現時点では、実情は逆だ。あなたの体は目覚めているが、あなたが眠っている。これからは、あなたが目覚めていて、あなたの体は眠っているだろう。体には休息が必要だが、あなたの意識に眠りは必要ない。あなたの意識は意識だ。それは油断のなさ、それが、その本性そのものだ。
あなたがさらに油断しないようになると、あなたは翼を持ちはじめる――そのときは空全体があなたのものだ。人は地と空の、体と魂の出会いなのだ 。
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