http://nanakusanome.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-69dc.html 【残酷なものに童話も・・・俳句から・・】より
残酷なものに童話も水仙花 泰子
この句は水仙花が季語になっているので、誰もがギリシャ神話の「ナルキッソス」を連想します。泰子さんもそこを考えたのでしょう。残酷なものは我々の現実の生活の場ばかりでなく、遠い昔から語り継がれた神話や民話、童話、童謡に溢れています。
ところで、確か二十年ほど前、「本当は恐ろしいグリム童話」が刊行されました。よく知っている童話を、「怖い」という視点で読み解いていて、大きなブームになりました。それから童話や童謡なども「怖い」という視点で読み解く人が出ました。
それにしても残酷で怖い話が、世の中lから抹消されずに、親から子へと広く受け継がれているのは何故でしょう。それは、話の中に、なにがしか生き方について考えさせる力があるからでしょう。ナルキッソスの話にしても、「自己愛に陥らなければ長生き出来ただろうに」と言えるでしょう。
実際、私達は子どもの頃、親から、怖い話や地獄に堕ちるという類の話を聞いて育ちました。話の後では「だから、そんなことをしてはいけません」とか「よかったね」という一言が付け加わっていたように思います。
横道に逸れますが、小さい頃、父は添い寝をしてよく話をしてくれました。後から思えば、大概は「蜘蛛の糸」や「杜子春」などの話でした。中に「梅干しの種を、畳の隙間に捨てたので、夜、種が踊り出した」と言うのがありました。その頃でも梅干しは、子供にとっておやつではありませんから、食べた後の種を畳の隙間に隠す必要はなかったのです。あの話は何であったのだろうとふと思い出すことがあります。ただ単に話の種に困って話したのか?
話を戻せば、やはりその頃に出版された河合隼雄の「昔話の深層」が好きでした。怖いぞ怖いぞと言うばかりでなく心理学的に読み解いているところが好きでした。
余談ですが、昨年「宗教を物語でほどく」アンデルセンから遠藤周作へ(島薗進著)が刊行され、読みました。読み解かれた物語は「100万回いきたねこ」「人形姫」「軽いお姫様」「なめとこ山の熊」「新約聖書」の「放蕩息子」、「法華経」の「長者窮子のたとえ」、「水の子陸の子のためのおとぎばなし」「イワン・イリッチの死」「きりこについて」・・・などなどで、そこから、「宗教は物語のなかにある」、「「死」を超える」、「「弱さ」と向き合う」、「「悪」に向き合う」、「「苦難」を受けとめる」、のテーマで考察されていました。終章は「重なり合う宗教と物語」・・・です。
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