Facebook相田 公弘さん投稿記事 『老いをどう生きるか』 坂村真民
一遍上人も芭蕉も、五十一歳でこの世を去られた。二人とも老翁の感じがする。
十分に生き切られたからであろう。特に芭蕉は自ら翁といっている。
四十歳になると世を譲り隠居した時代だからであろう。五十歳になると翁という感がしたのであろうが、現在は六十歳になっても翁どころではなく皆溌剌たるものである。
でも後もそうないから老いは老いである。この老いをどう生きるか、これが今後の一番
大きなものになってゆくだろう。ぼけず、寝たきりにならず、家族に迷惑をかけず、どう有意義に生きてゆくか、それは老いてから考えてはもう遅い。
若い時から考えておかねばならぬ重大な問題である。
今日の老人の悲劇は、そんなことを元気な時考えなかったことからきている。
いつ死んでもいいと、日本人はよくいうが、それは根本的にまちがっている。
釈尊は、そんなことは一度も言っておられない。
熱砂を踏んで八十歳まで教えを説いて歩かれたのは、衆生よ、私のごとくあれと、自からお示しになったことを思わねばならぬ。
わたしは釈尊の晩年に、そしてその死に人間としての最高の美しさを感じる。
二度とない人生を、どう生きるか。開きはじめた朴の花を仰ぎながら、切に思った。
https://www.shiruporuto.jp/public/document/container/kataru/020_shigeaki_hinohara.html【新しいことに挑戦を続けて若さを保とう】より
医学博士 日野原 重明
100歳を超えた今も現役の医師として医療に携わりながら、講演や執筆に精力的に取り組む日野原重明先生。
現在も高齢者の新しい生き方を提唱する「新老人の会」の全国展開や子どもたちに命の大切さを教える「いのちの授業」などその活動はさらに広がっています。
そんな日野原先生に幸せやお金観、そして有意義に人生を過ごしていくヒントを伺いました。
日野原 重明
(ひのはら・しげあき)
1911年山口県生まれ。37年京都帝国大学医学部卒業。41年聖路加国際病院内科医となり、院長を歴任し現在、聖路加国際病院理事長・同名誉院長、財団法人ライフ・プランニング・センター理事長など。東京都名誉都民、文化功労者、文化勲章受章。
人生は与えられたもの。だからこそ人や社会のために使う
取材で訪れたのは日野原重明先生が理事長を務める病院の理事長室。ソファに腰掛け、寸暇を惜しむようにインタビュー用の質問項目に目を通す日野原先生がそこにいた。
改めて紹介するまでもないが、日野原先生は日本で最も忙しい100歳の一人。テーブルの上にはたくさんの書籍や資料が積まれていた。その様子からも多忙さが窺われた。この取材は、毎朝の回診後に時間をいただいて行われた。取材の後も分刻みのスケジュールが日野原先生を待っている。
100歳を超えてなお、仕事を精力的に続けていく、その活力はいったいどこから来るのだろうか。それを考えていた矢先に、独特の柔和な笑顔が私たちに向けられた。
「命も時間もお金も何のためにあるか。そして何のために使うか。それが大事だと思います」
そう言って日野原先生は自身の人生の転機となったハイジャック事件について語り始めた。
1970年3月30日。当時現在の病院の内科部長だった日野原先生は、福岡で開催された内科学会出席のために旅客機「よど号」に搭乗していた。その機内で起こったのが「よど号ハイジャック事件」である。日本では犯罪史上初となるハイジャック事件。そこで日野原先生は人質の一人となり、日本海を越える。解放されたのは韓国の金浦空港だった。
「もう40年以上も前のことになりますが、そのときのことは今でも鮮明に覚えています。犯人側が指示した北朝鮮に向かっていた飛行機。金浦空港で降ろされ、解放された瞬間に私は決心しました。これからの人生はいわば与えられた人生。だから人のため、社会のために身を捧げようと決めたのです」
と話す日野原先生。その人生には大きな目的意識が常にある。
人間ドック。終末期医療。医療の世界で数多くの足跡を残す
日野原先生の口から出る人生という言葉。それは誰も真似ることのできない重さがある。100年の年輪を重ね、さらにそれを増し続けている日野原先生。その人生は明治44年、父親が牧師を務める家族の次男として始まる。
兄弟は6人。父親が牧師をしながら得る収入は大家族を支えていくには乏しく、子ども時代から質素な生活を送ったという。そんな日野原先生が医学の道を志したのは10歳のとき。尿毒症にかかり重篤状態に陥った母を懸命に治療する医師の姿に感動したことがきっかけだった。
その夢は変わることなく、貧しい生活の中で学費を工面しながら京都大学医学部に進む。在学中に当時、不治の病とされてきた結核に罹るなどの試練に直面するが、それを乗り越え、昭和16年に念願の医師としての人生をスタートした。
内科医として日野原先生は予防医学の大切さを早くから訴え、私立病院としては日本初となる人間ドックを昭和29年に開設。終末期医療の普及にも尽くしてきた。
また地下鉄サリン事件が発生したときは、院長として640人もの被害者の受け入れを無制限に実施し、犠牲者をただ一人に食い止めることにつながったことはマスコミでも大きく取り上げられた。さらに現在は定着している「生活習慣病」の名称も日野原先生によって名づけられた。医療の世界で日野原先生は数多くの足跡を残している。
「GNH(国民総幸福量)」に学ぶ これからの豊かさの考え方
「『大切なものは目に見えない』それは作家サンテグジュベリが星の王子様で話している言葉です。幸福はとても大事なものです。けれどそれはお金や、家、勲章といった目に見えるものだけで得られるものではないと思うのです」と日野原先生は幸福観について話しはじめた。そこで紹介されたのはブータンの「GNH」という考え方だった。GNHとは、Gross National Happiness、つまり「国民総幸福量」を意味し、1972年にブータンのジグミ・シンゲ・ワンチュク国王が提唱した。GNPで示されるような物質的・金銭的には測れない精神的な豊かさを目指す視点がそこにある。
「ブータンはGNPが高い国ではありません。けれどGNHつまり『私は幸福』という意識を一番多く持つ国とされています。私はここにこれからの日本が学ぶべき多くの課題があると考えています。ある程度の医療。そして命をつないでいくべき食事。それが整っていれば、豊かな人生はお金の多さではない。その意識改革が日本人に今こそ必要だと私は考えています」と日野原先生は話す。
子どもたちへ。そして若い世代に贈る 命と時間の使い方
日野原先生は数年前から小学生たちに命の大切さを教える『いのちの授業』を全国の小学校に出向いて行っている。
そこで必ず子どもたちに「命はどこにあるのか」という質問をする。
「ほとんどの子どもたちは、自分の左胸を指し、命は心臓にあると答えます。けれどそれは違います。心臓は血液を体中に送る重要なポンプの役割をしていますが、命そのものではありません。他の内臓器官も同じです。授業を通じて子どもたちは、命は指さして見えるものでもなく、目に見えないものだということを理解していきます。そしてここでも私は、サンテグジュベリの『大切なものは目に見えない』という言葉を紹介し、命のほかに時間も目に見えないことを話します」
目には見えない大切な命と時間。それは『生きる』ということに凝縮している。だからこそ生きていく尊さがそこにある。
そこで日野原先生は野口雨情が作詞したシャボン玉の歌に託された歌詞の意味を教える。歌に登場するシャボン玉は、ただの泡ではなく、野口雨情の幼くして亡くした女の子の命を表現していると言われていると聞くと、子どもたちの表情は変わってくる。
そして授業は、いつもみんなでシャボン玉の歌を口ずさんで締めくくられる。空に向かって飛んでいくシャボン玉、それが吹く風で消えないように願う作者の切ない思いを子どもたちは歌う中でかみしめていく。と同時に、大切な命をいじめなどで傷つけてはいけないことを理解していく。
子どもたちだけではない。日野原先生は機会があるごとに若い世代へアドバイスを送っている。
そのときによく例に出すのがアメリカと日本の学生の違いだ。日本では講義が教師の都合で休講になってもクレームは出ないが、アメリカの大学では学費をローンで賄ってでも、自分自身が学びたいという姿勢が強いため、教師側の都合での休講に異を唱える学生が少なくない。そこには日本の学生にはない自立心が感じられるという。若いうちは自分の可能性を伸ばす勉強への「投資」が大切だと日野原先生は訴える。
では成長後の人生は何のために生きるべきなのだろうか。日野原先生の答えは「社会のため」。難民や病気の人々などを支援していくことも大切なことであるが、それだけではなく、普段の生活をどうやって充実させるかも大切な命の使い方であり、それが他者へとの関わりにつながり、社会のためになるのだという。
成長期は自分のために。それ以降は他者のために。そういった時間の使い方をしてほしい。そんな願いを日野原先生は10歳の子どもたちのような若い世代に託している。
100歳はゴールではなく、通過点。今日も何かを始めよう
インタビューの話題は高齢者に移る。第2の人生、あるいは第3の人生を送る人々に対してのお金の使い方をアドバイスしてくれた。
「世界的な視野で見ると日本の高齢者はお金を預貯金としてたくさん持っています。そのお金は使ってこそ、意味があるのです。もしもより健康で安心できる生活を考えるなら、質の高い老人ホームのために使うという方法もあるでしょう。さらにそれだけではなく、できるだけ医療や福祉、文化など世の中の役に立つことに使ってほしいと思っています」
日野原先生は数年前から「新老人の会」を発足させ、その普及にも精力的に取り組んでいる。老人と言えば一般的には「老化」という負のイメージがある。しかし、この会では老のイメージを英語の「elder」に近い尊敬と捉えている。そして尊敬に値する老人として生きていくために、この会では(1)愛し愛されること(2)創(はじ)めること(3)耐えることの3つのモットーを挙げている。
「この会では75歳を超えてからパソコンや詩吟など新しいことを嬉々として習い始める高齢者がたくさんいます。私も98歳で俳句を始めました。ユダヤ人(オーストリア生まれ)の哲学者、マルチン・ブーバーの言葉に『人は創めることを忘れない限り、いつまでも老いない』とあります。その名言の通り、私も新しいことに挑む限り、人は老いないことを実感しています。
3つめのモットーにある『耐える』。そこには“冬来たりなば春遠からじ”の思いを込めました。阪神大震災を耐え抜いた人々が、昨年の東日本大震災の支援に大きく活躍しています。耐えることは、人を支え、励ます大きな力になるのです。冬の間、雪が積もると笹の葉はその重みで俯き加減になるでしょう。しかし、やがて雪が溶け、春になれば笹の葉は力強い生命力を発揮し、上へ上へと伸びていきます。人も同じはずです」
日野原先生はインタビューの終わりに自身の100歳の心境を関所にたとえて話してくれた。
日野原先生にとって100歳とはゴールではなく、関所、つまり通過点に過ぎないという。まだまだやるべき仕事がある。そのために日野原先生は今日も生きる。
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