持ち寄った俳句をグループで連歌に仕立てる句会(連句会)は 俳句によるヒーリング効果を一層高めるのではないでしょうか
https://jhaiku.com/haikudaigaku/archives/53 【俳句の作り方 - 俳句入門 「お~いお茶新俳句」入選を目指して 俳句大学】より
俳句の用語 連句
五・七・五の長句と七・七の短句とを連ねていくのが連句といわれる形式の文学で連歌を崩した内容のため、俳諧の連歌、あるいは俳諧という呼び名がついています。
俳諧とは滑稽という意味で、17世紀前半に連歌から別れ、隆盛を誇りましたが、元和年間(1680年前後)に薫風俳諧が確立されて俳諧が止揚されました。この後、俳諧の連歌の発句が独立し、俳句の形式が生まれました。
そのため、正岡子規の俳句革新運動の頃、連歌と俳諧の連歌、さらには俳諧の連歌と俳句とを区別する便利な言葉として、俳諧の連歌を連歌ならぬ連句と称する気風が生まれた、ということです。
https://www.asahi.com/articles/ASK9J5RHLK9JUCVL00B.html 【この発想なかった…言葉のリレー「連句」 「恋」縛りも】より
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文化の扉
1人が五七五を詠んだら次の人が七七を詠み、また別の人が五七五……と、長句と短句を連ねる「連句」。現在の俳句の母体であり、かつては連句が主流だった。他人と共に創作する「座の文芸」のだいご味が、今また注目されている。
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36句詠む「歌仙」 発想の飛躍がだいご味
筆と硯(すずり)を置いた卓を囲み、にぎやかな話し声が続く。歌人の岡野弘彦さん(93)、文芸評論家の三浦雅士さん(70)、俳人の長谷川櫂さん(63)が毎月開く連句の会。
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36句詠むので和歌の名手三十六歌仙にちなみ「歌仙」という。松尾芭蕉以来、連句で最もポピュラーな形式だ。流れは「序破急」で表される。
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句の数によって形式が変わる
厳かな場かと思いきや、1人が黙考中に他の2人はしゃべっている。話題も句の出来から近況、岡野さんの師・折口信夫の思い出話までと尽きない。岡野さんと三浦さんは、句ができると「捌(さば)き」役の長谷川さんにみてもらう。捌きは式目(しきもく)というルールに則しているかを判断し、時に修正も提案する。一句一句も作品で、全体も一つの作品。捌きは連句の深みや広がりを左右する重要な役どころだ。「視点を転換し、発想の飛躍で一座を驚かせるのが面白い」と三浦さん。歌仙の粋を「切断と再結合」にみる。
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この席では、鰻(うなぎ)→紐(ひも)→地震(ない)→「プーさん抱いて泣くはどこの子」(櫂)と展開し、5時間かけて11句まで詠んだ。連句を詠むのは「巻く」といい、歌仙のタイトル「○○の巻」は最初の句「発句(ほっく)」の中から取る。今回は「秋蟬(あきぜみ)の巻」となった。
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恋の句や花の句を入れるルールも
歴史は和歌にさかのぼる。
和歌から、五七五、七七をみや…
http://www.local.co.jp/renku/index2.html 【やまぐち連句会|連句とは何ぞや?】より
●「連句」というと「俳句?」って聞き返されることがほとんどです。否、場合によっては「そりゃあ何ねぇ?」と言う人も沢山おります。
●「連句」とは、端的に言えば、読んで字の如く「連なる句」。人と人が言葉を交わすのと同じです。
●相手が何かを言ったら、こちらが受けて返す。イメージが膨らんでおしゃべりタイムは、時として際限なく続きますよね(イメージが萎んで、即刻おわり、という場合も多々ありますが・・・)。
●そんな会話と同じで、連句では、それを五・七・五で言い、七・七で反応し、又、五・七・五で応対をする。そして七・七で・・・と、集まった人たちと連々と続けていくのです。
▼「ははぁ~ん、平安時代に男と女が、暇にまかせて詠みあってやった、あれかね」と、イメージ的に思うかも知れませんね。
●違うのです。あれ(平安時代の貴族達の返歌)は、和歌に和歌を返すというもので、恋のやりとりでした。「詠んで返す」という行為は同じですが、あれは貴族さまの恋文の往復でした。
▼「ほんじゃぁ、あれかね、え~っと、何だっけ・・・あれよ、あれ!う~ん、連歌、あっそうそう、鎌倉時代とか、それ以前の時代のとかの、連歌だ」。
●半分ピンポ~ン! 大雑把に言えば連句の大もとは連歌ということになります。連歌は五・七・五の長句に七・七の短句を長短長短と繰り返し、なんと百句も続ける「百韻」が基本でした。しかも、使える言葉が決められ、すべて大和言葉+雅語で云々カンヌンと、高尚なのですがとても窮屈なものでした。連句は「句を付け合う」という点では連歌が祖先ですが、内容や性質や面白味などは、それとも大きく違うのです。
▼「じゃぁその後、時を経て、形式も変わり、漢語や俗語も使用して息抜きに余興としてやるようになった『俳諧之連歌』か」
●流れをはしょって言えば、その後「俳諧之連歌」から「俳諧」(「連俳」とも称された)というものが単独のジャンルとして独立し、庶民の間で広く「俳諧」の座がもたれるようになって、三十六の句を巻きあげる「歌仙」となっていきました。それが連句のもとだと言えます。
●江戸時代にも「俳諧」を「連句」と呼ぶ人がいたと伝えられていますが、現代に至る「連句」という用語が一般化するのは、高浜虚子が積極的に用いはじめた明治三十年代になってからだ、と言われています。
▼「歴史の講義はあとでいい。で、おたずねしとるのは、一体、連句って何ね?ということじゃが、一体何ね、連句って」
●「連句」とは、繰り返して言えば、読んで字の如く「連なる句」。人と人が言葉を交わすのと同じです。
●連句は、五・七・五或いは七・七で表現された相手の言葉から、雰囲気や伝わって来る匂いや響きを感じ取り、自分の自由な発想で次の言葉を付けていきます。
●一人の句、或いは数人の句が場に出されると世話人(捌き手)を中心にワイワイガヤガヤおしゃべりしながら、一つの句が出来上がっていきます。
●それは、まるで一つの村で、気さくな長老(オサ)を中心に、村がより素敵に楽しくなる為に集会をしているようなものです。
●素敵で楽しい村を創っていく為には「自由な発想」や「共にという精神」が必要であり、自ずと相手を思ったり尊重する気持ちが出て来るのです。連句はそんな村づくりととても良く似ています。
▼「『共に』ということで思い出すのは、『講(こう)』や『結(ゆい)』などという言葉で残っている日本人の生活のあり方じゃが」
●最近はそんな言葉もめったに聞かなくなりましたが、日本人が大切にして来たもの、そして今は忘れているものを、知らず知らずのうちにたくさん発見できるのも、連句がもつ妙味なのです。
●連句は歌仙という文芸であると同時に、現代に欠けて来た家族や知人、初対面の人たちとの会話や思いの原点に触れる事もでき、そして自らの感受性を磨くこともできる玉手箱なのです。
▼「連句を体験すると、自然とそのような感覚が戻ってくる、あるいは、そのような感覚が芽生えてくるのか?」
●連句を体験すると、まずは「これが俳句の先祖なのだ」ということを知りますが、そんなことよりもむしろ、連句を知ったら「楽しくって、おもしろくって、興味深くって、いろんな発見や魅力がわんさかあるんだよ~~」って不思議と大声でテンション上げて知らせたくなります。それが連句なのです。
▼「ところで素朴な質問じゃが、俳句と連句(俳諧)の違いは何なん?」
●俳句と言えば、松尾芭蕉を思い出す人もいると思います。ところが芭蕉自身は「俳句では私より優れた弟子は沢山いるが、俳諧に於いては私の右に出る者はいないだろう」と自負していたのです。
●俳諧は、江戸時代になって三十六句続けて詠む歌仙となって落ち着き、芭蕉は俳諧師として全国を歩き、歌仙を巻きました。そして、松永貞徳の「貞門俳諧」や西山宗因の「談林俳諧」などを経た俳諧の世界は、松尾芭蕉の「蕉風俳諧」の出現によって言語遊戯を超えて芸術的領域にまで踏み込むことが可能になった、と伝えられています。
●その歌仙の一番最初の句を発句(ほっく)というのですが、明治に入って、正岡子規がその俳諧の発句を「これこそが俳句だ」と称して独立性を認めたのが、現在に至る俳句なのです。だから、俳句はもともと俳諧の一部だったのです。言い換えれば、現在の「俳句」の語源は「俳諧の発句」からきたもので、俳諧の発句を略して俳句と言うようになったのです。
●その時、子規が横暴にも「発句(俳諧の発句=俳句)は文学なり、連俳(その付け合い=俳諧)は文学に非ず」とまで宣言したものだから、俳句の世界が急に広がり、それに反比例して俳諧の人気が急降下していったとも言われています。でも、ひとりよがりだった当の本人も、晩年には俳諧の凄さを認め直し、自らも歌仙を巻いているのです。
●俳諧の発句から独立した俳句は、「独詠の文芸」と言われるように相手の返事もいらないし一人の世界で作ることができますが、連句(俳諧)は、そうもいきません。人と人が集まって初めて成立するものなのです。それが「連句は座の文芸」と言われる由縁でもあります。
▼「その作品を創るプロセス、集まった仲間と共に作品を作っていくという文芸は、世界のどこをみてもありそうでないのかのお」
●音楽で言えばJAZZのセッション、あるいは交響楽、芸能で言えば映画づくり、メディアでは創刊号の雑誌づくりなど、手法や感覚的には近からず遠からずいろいろとありますが、誰にでも門戸が開かれ、誰もが直ぐに出来る「座の文芸」とすれば連句をおいて他にはないのかも知れません。
●故人の夏目漱石や寺田寅彦らも歌仙や連句の素晴らしさを書き残し、早くから連句の持つ世界を看破しておりました。加えて数学者の岡潔は「人生というものを知りたかったら芭蕉に教えてもらうのがよろしい」「連句のすごさが見過ごされるのは日本にとってもったいないことだ」と言い切っておりました。
▼「俳諧の魅力については、個々人の感覚によって様々に語られるものだろうが、根源的にはどこに行き着くのだろうかね」
●俳諧の先祖の連歌のずうっと先祖を辿っていったら、日本の国を作ったという神話、イザナギノミコトとイザナミノミコトが交わした「古事記の中に出て来る会話」に辿りつきそうです。実は古事記以前にも諸々あるのですが、それはさておき、言葉というものは「響き」、そしてその響というものは「言霊」なのですね。だから、この連歌や俳諧(歌仙)は言霊として神社に奉納されていたのです。現在でも正式な百韻や歌仙は神社に奉納されています。
●そうしたことからみると、俳諧(連句)の根源は「響き合い」だと言えるのかも知れません。でも、これもやはり、個々人ひとりひとりが、連句の醍醐味というものに接して、直接、自分の肌で百人百様に感じとるものだと思います。もしかして、壮大な宇宙があなたの前に現われるかも知れません。
▼「ときに、たずねるが、山口県には俳諧の歴史が一体どこにあるん?なかろうがね」
●ここ山口県周南市(旧新南陽市)の山崎八幡宮には、宝歴9年(1759)から明治5年までの連歌62帳が奉納され、書いた懐紙とその時使った硯や関係文書が重要文化財として残っていることを知りました。また、大内氏の館の後には、芭蕉の師匠である宗祇の連歌の一句が碑になり建てられています。大内政弘の招きで文明12年(1480)に宗祇が山口にやって来た時の歌です。
●古くから山口県も連歌や「俳諧(連句)」とは無縁ではないのです。
●「山口県における連句はいま、どうなん?やっている人おるんかね?山頭火じゃけえ俳句ばっかりじゃろう」
●連句そのものの特質上、活動は目立ちませんが、各地域にいらっしゃいます。そして、静かに深く進んでいます。古くから俳句と連句の両方を楽しんでいる人もいます。
●また一方で、最近は、連句の楽しさや良さが伝わり、新たな人たちが飛び込んで新しい動きをつくろうともしています。そして、連句の醍醐味を応用して様々な取り組みの現場でオリジナルな利用も模索され始めています。
●今後は、全国的にみると、連句人口も増えつつありますので、山口県においてもそうなると思います。否、そうならないと、とても変です。
●
だから俳諧ご期待あれ! そして、座にどうぞ!
連句 座の文芸 やまぐち連句会の合言葉、それは究極の文化歌仙やまぐち連句会連衆
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クリスマスイブと連句との関係は、殆ど無関係の関係ではありますが、
たまたまその日が当HPの開設となって以来のアクセスを頂いております。
そして、時は止まらずに経過し、2017年は、あなた様で数えること 人目のありがた~くおめでた~いお方さまのご訪問です。
▼
ところで貴方は今年「連句人になりそうな」御人?
それとも今年も「なもん、知るか!」と言いそうなお方?
●連句と言葉のミニ知識●
【其の一】
連句(俳諧)では、最初の挨拶句を「発句」と言いますが、では、巻きあがる最後の句を何というでしょう?
そうです。「挙句(あげく)」と言います。実は、日本語で古くから言われている「あげくの果て」の語源は、この連句の「挙句」からきているのです。
【其の二】
連々と句を付け続けて最後に至る挙句。そのひとつ前の句では優雅な「花の句」を必ず詠みます。
何かをやった時によく「あなたに花を持たせてあげよう」と言いますが、それは、挙句に至る前に必ず詠む、連句では欠くことが出来ない大切なポジションを占める花の句、それを詠む人からきているのです。
「あなたに花を持たせてあげよう」の語源は、実は「あなたに花の句を詠ませてあげよう」だったのです。
連句。それは、わたしたちが日常さりげなく使う「言葉」の中に、今も、連々と生き続けているのです。
とてもトテモ、疑う余地もないほどに文化不毛、はたまた、砂漠化現象の今日この頃、
あなた、連句しませんか。
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