初富士の穢土を憂ひて空にあり

https://ameblo.jp/seijihys/entry-12534343798.html  【初富士、初比叡、初筑波、初伊吹のこと】より

初富士にかくすべき身もなかりけり    中村汀女

正月の季語に「初富士」がある。元日に仰ぎ見る富士山をいう。

他に、初筑波初伊吹初比叡もある。

「初筑波」は茨城の筑波山「初伊吹」は岐阜・滋賀の伊吹山「初比叡」は京都・滋賀の比叡山のことである。句会で、地元の、或いは、ふるさとの山に「初」を付けて詠む人がいる。

例えば、東京では、初高尾…高尾山などである。

「合本 俳句歳時記」(角川春樹事務所)で調べて見ると、「季語」として掲載されているのは、初富士 初筑波 初比叡しかない。

私のこれまでの経験上、正式(?)な季語は、これに「初伊吹」を加えたくらいではないか、と考える。

句会で、「初高尾」などの句を見ると、これを「季語」として認めていいのかな?と、ふと考える。

まあ、私は、「季重なり」なども含め「季語」には寛容なほうなので、いつも季語として評価しているが、ふと、「初」をつけていい「山」に何か基準があるのだろうか?と考える。

「初弥彦」「初岩木」「初鳥海」「初穂高」「初白馬」「初生駒」くらいならいいが、

「初駒ケ岳」「初八ヶ岳」「初三輪」「初剣岳」など、山ならなんでもいいのだろうか? と考える。

そこで、はたと思いついたのが、おそらく本来は、「歌枕の山」であるかどうか?ということになるのではないか。富士山、筑波山、伊吹山、比叡山は堂々とした「歌枕」である。

風になびく富士の煙の空にきえて ゆくへも知らぬ我が思ひかな  西行法師

おしなべて春はきにけり筑波嶺の 木のもとごとに霞たなびく     源 実朝

世の中に山てふ山は多かれど 山とは比叡の御山をぞいふ     慈円

かくとだにえやはいふきのさしもぐさ さしも知らじな燃ゆる思ひを  藤原中将実方

古来より詩歌人に愛され、詠まれ続けて来た「歌枕の山」こそ、「初」に冠するにふさわしい山で、本来はそう詠むべきである。

そういう意味では「弥彦山」(新潟県)なども「初弥彦」と詠っていいのかもしれない。

また、「季語」というのは多くの人が詠めば、自然と「季語」として認知されてゆくものである。

以上を考えれば、

1)歌枕の山であること

2)以前より多くの人に季語として詠まれていること

のどちらかを満たしていれば、「季語」として認めていい。

ただ、俳句は「雅俗混合」の文学であり、「革新」の文学である。

愛される山も、時代とともに変わってくる。そういう意味では、今後、初〇〇

という山も出て来ていいし、いい句であれば評価していいのではないか、と考える。


https://www.facebook.com/hatakei0215/posts/1564744963719947/ 【畑恵 1月4日 ·

「初富士 2021」】より

初富士とは、元旦はじめに仰ぎ見る富士山のこと、俳句の季語にもなっています。

大晦日から緊張感の走る2021年の年明けでしたが、今年の元旦は久方ぶりに、裾野から頂上まで一点の雲もささぬ完璧な富士山を拝むことができました。

実は年の初めには、私にとってどの仕事よりも重要な御神事があり、元旦は毎年京都に向かうのが習わしとなっています。

ただ、今年は感染症対策の観点から延期や中止も視野に、10月半ばからあらゆる選択肢を検討してきました。

一時は日程を一月後半に移してという案も出されましたが、今後、緊急事態宣言が発出されることも想定される中、やはり新幹線の乗客数が例年極端に少ない元旦に移動することがベストであると判断し、念のためPCR検査を受け陰性も確認した上で出発を決めました。

但し、出張中の食事はすべてテイクアウトとし、必ず個室でとれる環境を確保。

また移動中には、飲食はもちろん洗面にも行かないことを徹底し、とにかく感染リスクを与うる限り排除することに努めました。

そのようにして臨んだ御祭事でしたが、神の御加護か天気予報で心配された積雪や寒波はどこへやら、近畿地方は例年以上に穏やかで暖かく晴れやかな神日和に恵まれました。

参拝客で混み合うこともない厳かな境内には、清々とした氣が満ちて早咲きの梅もほころび始め、身も心も隅々まで浄められる格別な年頭神事となりました。

天気はまさしく天の気分、気持ちですので、こんなにも澄み渡る日本晴のもと、完全無欠の初富士が臨めた2021年が良い年にならないわけがありません。

「雨が降らなければ、虹はささない(“No Rain, No Rainbow ”)」ということわざのように、試練を乗り越えた先には必ずこれまでよりも素晴らしい未来が来ることを信じて、すべてを楽しみ感謝できる一年にして行きたいと思います。


https://esdiscovery.jp/knowledge/kotoba2/yonmoji115.html 【厭離穢土】より

(おんりえど)

[意味]

法然(ほうねん)を開祖とする浄土教の仏教用語であり、『厭離穢土・欣求浄土(おんりえど・ごんぐじょうど)』というように対句(ついく)で使われることが多い。厭離穢土の読み方は一般に『おんりえど』の慣用読みが多いが、元々の正しい読み方は『えんりえど』である。

煩悩と苦悩で穢れた(けがれた)娑婆世界(しゃばせかい,この世)を厭って(いとって)離れるということ。浄土教では煩悩に塗れた娑婆世界・この世を『穢国(穢れた国)・穢土』とする思想があり、穢国を厭って離れるという意味である。

阿弥陀如来のいる西方極楽浄土は、煩悩の穢れのない『清浄な国・土地』とされ、浄土教の信者は死後に極楽浄土に往生することを切望していた。極楽浄土に往生したいと願い求めることが『欣求浄土(ごんぐじょうど)』である。

『厭離穢土・欣求浄土』は戦国時代に、徳川家康の馬印の文字として用いられたことでも有名である。松平元康(後の徳川家康)は、桶狭間の戦いで今川義元が討死にした後、三河国にある菩提寺の大樹寺に隠れてそこで自害しようとした。その時に、大樹寺の13代住職・登誉(とうよ)が『厭離穢土・欣求浄土』の言葉を用いて、俗世を離れて浄土を求めれば仏の加護を得ることができるとする説法を行い、松平元康の切腹を思いとどまらせたというエピソードが残されている。

[出典]

源信の『往生要集』の冒頭の章名。

[類義語]

[対義語]

欣求浄土(ごんぐじょうど)

[用例]

俗世間の経済生活や人間関係に疲弊して絶望した時には、この世から離れて静かに暮らしたいという『厭離穢土』の考えが強まってくるものだ。

仏教の浄土教思想の根幹を為す『厭離穢土』の概念であるが、古代中国の老子・荘子などの思想家も俗世を避ける厭離穢土に似た『遁世・隠棲・脱俗の理想』を持っていたのである。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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