https://abetoshiro.ti-da.net/e11694654.html 【17文字のノンデュアリティ】より
昨夜の講演で松尾芭蕉の話をしました。
芭蕉は禅のスペシャリストですが、旅をする中で禅の世界をたった17文字の言葉で表現しています。
禅の世界と言うとわかりにくいかもしれませんが、早い話が非二元(ノンデュアリティ)です。
このブログの読者なら、非二元と言ったほうがピンとくるかもしれませんね。
17文字のノンデュアリティ
いま僕は60年代のアメリカで生まれた「奇跡のコース」を超訳していますが、まるで言葉の洪水のように非二元を解説しています。
しかし芭蕉はたったの17文字。ここに日本人の感性を見る気がします。
静かさや 岩にしみいる蝉の声
ここに読み手はいません。ただあるがままがあるだけです。しかも蝉の声が鳴り響いているのに静寂だと言います。
言葉としては矛盾しますが、よく噛み締めれば味わい深い何かを我々は感じるとることができます。
たぶんこの国の人たちは昔から、非二元の何たるかを身体で知っていたのではないでしょうか。
分離した「私」という概念が少なかった。
明治時代にイギリスに留学した夏目漱石が、日本の友人に送った手紙の中で「だいぶ英語を理解してきたが、ひとつだけわからない単語がある。
それは『I』という言葉だ」と書いたそうです。
そういえば英語は、なんにでも主語をつけますよね。日本語ではいちいち言いません。
「I am hungry」は「お腹が減った」でいいのです。
そういえばお腹が減ったな。何か食べよっと。よい週末をお過ごしください。
この記事へのコメント
「I」に「私」という意味があること 「I」が「愛」と発音できること 「I」が「1」という数字になること偶然ではありません。
これらの一致は「I(私)はI(愛)であり I(愛)はI(1つ)である」という真実を宇宙が示しています。
愛によって宇宙のすべての現象は完全に1つにつながって展開されています◎
全ては1つです◎
宇宙全体は常に完全に一体です◎
非二元的 日本人の感性が 奇跡のコース そのもの あとは 気が付く だけ
阿部さんに いまここから ありがとう 10月末
( I ) Will Go To okinawa。
蝉の声、好きなんです。
「ジジジジジ」とか濁点交じりのとがった音に聞こえますが、なんでか・・・その音が『澄み切っている』ように聞こえるんです。
>静かさや 岩にしみいる蝉の声
は、その『澄み切った音』が岩にしみいるように感じる程、他に余計な音が無い『静かさ』に満ちている、そんな感じになりますね。
瞑想状態に入っていく感じがあります・・・・・
奇跡のコースに対して自分の中に二つの感情が存在します
文章を読むと必ず心がほっとします
しかしもう一度読もうとするとそれに抵抗する感情が湧いてきて繰り返し読むことがなかなかできません
無理せずに気の向くままに任せていますが不思議です
模察と申します。
> 静かさや 岩にしみいる蝉の声
この句は、芭蕉が坐禅してる時の様子をあるがままに表現していると勝手(笑)に思ってます。
静かさは、何も無い根源のあるがまま。自己も他者も完全に消えています。
岩は、不動の岩のごとく足を組んでゴツゴツと坐している様子。
蝉の声と、なぜ蝉を擬人化したのでしょうね?人の声でも鳥の声でも、芭蕉にとっては同じです。それは、音が音として、いまここに只起こっているだけしかなかったからではないかと思います。
思考や感情を手放して岩の如く何もせず静かに座り、ただ音だけが響き渡っている今の様子を味わっている光景が目に浮かんできます。
ただ在る風景の一コマを、たったの17文字で描写する俳句のような表現方法を生み出した日本の文化の奥底に、大陸からもたらされた禅の心が反映されているのは、興味深いお話ですね。
このただ在る風景が、私たちにとってのリアリティなのですが、そこにマインドを投影して見ている世界は、リアリティそのもののように見えても、私たちは、実は一味違う世界を見ているのでしょうね。
私たちは、なかなかこのことに気づけませんが、ひとたび気づくと、色の世界も違って見えてくるので、不思議ですね。
私たちは、生きている間に、無意識の内に、あらゆるものに自己投影をするように、生まれついているのでしょう。
西洋文化では、ギリシャ哲学に見られるように、いろいろな面から常に"わたし"についての精神的な形而上学的な思索が深められ、その延長で、産業革命以降は、個人主義が発展し、その傾向は、ますます顕著になってきていますが、一方、西洋文化に出会う前の東洋文化には、そのような傾向が希薄なのは、対照的ですね。
しかし、最近は、ミーイズム(自分主義)に見られるような個人至上主義的な精神のあり方が多くの人の共感を得ているように感じていて、この傾向は、東西を問わず、世界に広まり続けて行くことでしょう。
それが、良いか悪いか、ということではなく、そういうものとして、顕れているだけなので、それもあるがまま、ということになりますね。
マインドに色付けされない、あるがままのリアリティに寛ぐ。
このことを、生きる極意と、阿部さんは仰っていましたが、多くの人が、瞑想や禅などの実践を通して、その生きる極意を体得し、自分の人生をあるがままに、味わうことができると良いですね♪
小さい頃から知っている有名な俳句ですが、そう言われてみれば、ただ起きていることの認識があるだけ(ほんとうは何も起きていない)ことを表現しているみたいですね。
>静かさや 岩にしみいる蝉の声
マインドフルネスって何?悟りの境地ってどんな感じなの?と聞かれたら、この一句を詠めばいいのかも!!
イエスの言葉が2000年後にまで伝わったように芭蕉のこの一句も日本が続く限り、ずっと伝わる感じがします。言葉☆言葉☆ ありがとうございます
昨日 雲黒斎さんが You Tube で まだ 蝉のなく声がする 井の頭公園から 配信されていました。
大島ケンスケさんという方が、阿部さんと智子さんから受けた 瞑想伝授の時の お話をされていて とてもわかりやすかったです。
先日、リバースマントラ伝授をうけ 毎日瞑想していますが、正直 たとえ朝晩30分でも
日々の生活の中 時間はないし これといっとた効果はないし これは続けるのは 無理っぽいなーと感じていたので、参考になりました。
奇跡のコースは 読むだけ状態です。
時間をとって なにを すれば いいのか?ただ 言葉にするだけ状態で。。。
日々の生活の中で すぐ 忘れてしまいます。
でも、なにもしないよりは ぜんぜん 良いかとは 感じています。
阿部さん いつも ありがとうございます。
こんにちは( ╹▽╹ )蝉の声に例えたのって、マジで音がないと、ミーンミンミン音じゃなく、耳鳴りでもない、シーーーン感じるよ??石は鎮座しかない自分自身かな笑。私も防音の部屋に1人ベッドであぐらしかない日はシーーーン。あ!扇風機の音は聞こえるか笑←煩いから弱(◡ ◡)
昨夜の講演会、とてもよかったです。何回も聞きたいと思います。いつもありがとうございます。
夏目漱石のなんですね。
このメッセージとリンクすると、この句は今までの、ただ聞いたことあるな、というのとはまた違ってきますね。音が消え入る静けさが残る。。昨日の講演、また後ほど見ますね!
振る IKEA 買わず 飛び込む 店の中 待つお場所( ̄▽ ̄)←暇か❓
ただ在る世界をあるがままに認識すること。
それが、禅であり、ノン・デュアルティ(非二元)なのですね。
ノン・デュアルティでよく言われる"コレだけが在る"のコレは、あるがままに在る世界のことを言っているのでしょう。
(それで、話が食い違ってしまい、噛み合わないのかもしれません、笑)
目の前の当たり前に在るリアリティは幻、あるがままに在る世界は幻だという理解が、あることをきっかけに、突然やって来ることがあります。
そして、その上で、それでは何が本当に存在するのか?
この宇宙に、真に実在するのは、何なのか?が、明らかになることがあります。
(仏教的な世界観、宇宙観で言うと、欲界から色界へ、そして無色界へという感じでしょうか。)
その時を境に、この目の前のリアリティの奥に、人間の意識上には顕れないもう一つの世界(次元)が、真のリアリティとして顕れるので、それまでのリアリティの世界は、夢のような実体のない幻となります。
この二つのリアリティは、コインの表裏のように、表から見ると、裏は見えませんが、表があるから裏もあり、裏がないと表もないという、切っても切れない関係にあります。
表裏一体、つまり二つで一つ、不二一元(アドヴァイタ=アは非、ドヴァイタは二つ)であり、人間の認識を境に、色と無色(空)と言っているだけで、顕現も未顕現も含めて、完全に一つの宇宙が在るだけなのです。
色即是空、空即是色。
マインドを通さない色の世界(物質次元)に重なるように、空次元(非物質の次元)が大宇宙の隅々まで広がっています。
通常、私たちは、空次元を五感を通して認識することはできませんが、この空次元は、ある体験を通して、明らかになることがあります。
その体験は、物質世界(色界)という時空を超えた非物質の世界(無色界)に入って行くことなので、物質的な存在である肉体には無理ですが、精神である意識には、充分可能なのです。
昨日のお話、今日も聞きました。何度も伝えてくださってありがとうございます。
15年以上前、亡き叔父がオンライン上で俳句サロンを開いてました。
拙い五七五を、一句投稿しましたっけ(*´▽`*)
「寿々ちゃん、素直にそのまんまを表現すればいいんだよ」って、レクチャー(おおげさ)を受けて、そのまんま詠んだんですけど、、、、。
今、読み返してみたら季語がどっこにもないのでした(;_:)
涼しくなって、毎夏落ちる食欲が戻ってきました。
これから、秋刀魚を焼いて、キノコと秋野菜の天ぷら揚げます。
あべさんこんにちわ。
今日の北海道はあたたかです。感謝・感謝。
昨日旭川まで研修に行ってきて~おかげさまで無事戻りましたが
今日は全身がつかれてだるくてしょうがありません。
おこることがおこっている?
それでも大好きな鴨せいろをいただき、ニンジンを掘って洗い
穂じそをおしょうゆにつけました。
絵の中で芭蕉さんと一緒にいるのはそらさんですね。
芭蕉は江戸時代からもう宇宙の中に生きてたのですね。
芭蕉さんの句が悟り。 かわず飛び込む水の音 集めて早し最上川 なにやらゆかしすみれ草なんだか主語のIがどれもないですね、そういえば。日が落ちて、何やら涼し北海道
いつもありがとうございます☆
英語だと、主語がないと言葉が成り立ないですものね。(事柄を説明するにも主語が必要ですよね。)
ワンネスという言葉があるのも、最初に個人ありきだから、なんでしょうね。(もともと個を意識していなければ、ワンネスという言葉すら必要ないですものね。非二元とワンネスは、また違いますが。)
虫の鳴き声も、"声"として捉えることができるのは、日本人とポリネシア人だけらしいです。
世界の大半では、単なる音(それも雑音)としか認識できないようです。
虫の鳴き声に情緒を感じるのも、日本人ならではなんですね。
(この時期は、夜に鈴虫の鳴き声を聞くのが楽しみです。優しく秋の深まりを感じさせてくれます。)
リバースマントラ を伝授していただきありがとうございました。あの日以来、毎日瞑想を続けております。
昨晩は椅子に座り目を閉じ、教えて頂いたマントラ を心で唱えただけで直ぐにスーッと深い瞑想に入っていました。
最初は30分が長く感じていましたが今ではあっという間に終わっている感じです。
瞑想中、毎回 身体の揺れや動きが違うのも面白いです。明日の瞑想会も楽しみにしてます。
坐禅会に通い始めて3回目くらいに、突如 耳の中で鳥が鳴き始めました。
まだ半眼も覚えず 目を閉じて座っていたので みんなに気づかれない様にそっと手を耳元で振りました。
鳥が肩か頭に止まっているのかと 疑ったからです。
しかし 何にも触れず 鳥の声は けたたましく響き続けました。
坐禅が終わると その鳥は境内の高い木の上で鳴いていました。
あまりの不思議さを先輩に尋ねると「そういうのあるよ、良い進み具合だね」と言って貰い、それから坐禅が楽しくなりました。
向老師も ブログでお尋ねした所 経験あるようです。
今日も庭に色々な鳥達がやってきますが、この距離は私が在ると信じて疑えない事。
本当は 全部内側で起きているって事。
初めて私がこの世界を疑った日の事を 芭蕉の句で思い出しました。
日本社会は同調圧力が強いとか日本人は欧米人に比べて個人が確立されていないとかよく言われるのは、実は日本人が霊的一体感が強いことを表しているという話を聞いたことがあります。
昨日の講演会も有難うございました。
「そうですそうです!まさに実感してます!」と思いながら聞いていました。
周りにも広がり始めている実感もあります。広がっているのではなく、その波動の中にいるのか。
昨日の講演会、ありがとうございました。心に響いて何度も聞いています。
本当に、阿部さんの言葉だけが拠り所になってきています。
責任や常識や比較や努力や優劣や損得や。。私はただ安心感に包まれたい。
肯定をして信頼をして、流れを楽しんで過ごしたい。その為に、瞑想を続けていきます。
何度でも、昨日の言葉を聞きます。全体が仕向けてくれている素晴らしいご縁に感謝です。
今日はお礼を言いたくて、メールしました。このブログを読み始めて10年位です。
ふとした瞬間に、自分の中にあたたかいものがずーとあった事に気付きました。
(なぜ、今まで気づかなかったのかの方がふしぎですが。)
それは、他の人や、木々や、物の中にも同じものが宿っていること。なんという感動的な宇宙の配慮。涙が止まりませんでした。
それから、阿部さんのブログを思い出して、この幸せの絶頂感、何の恐れや心配もない気持ち、今まで私を苦しめていた働かない夫へさえも(これは私の自我の苦しみですが)、
夫のおかげだ~と、心底、感謝できるほどの満たされた気持ち、でも数日で消えていくんだ~とか、知っていたので、有難いです。
(数日たって、多幸感は薄くなってきていますが、
自我が主体だったのが、それが土台になった感覚です。
皆同じものが土台でその上に個性が乗っているんだから、繋がっているんだから、
頭でこねくりまわさず、素直にやりたい事をやれば上手くいくという感覚もあります。)
それから、この体験も瞑想を阿部さんのネット配信などのおかげで、ほぼ毎日最低でも10分ぐらいするようになったからかもしれません。
コロナ禍が無ければ、瞑想習慣も身に付かなかったことでしょう。
本当にコロナ禍が目覚めへ導いているんですね。
沖縄までお礼に行きたい所ですが、見ず知らずの私が飛んでいっても困るでしょうから、
文章にて。ありがとうございました。
それを知っても、知らなくても いま、ここの練習ですね。
そして、たいして今は何も変わっていませんが、目覚める人が増えれば、戦争が無くなる!
って、阿部さんがおっしゃていた事、その通りですね。
夏目漱石が「I」が分からないと言ったお話し心に残ります。
英語圏で暮らしていると日本語の感性や季節を表現する言葉が見つからない事は良くあります。
簡単そうな“紅葉”でさえ言い換えるのが難しい、まして“情緒”や“趣き”、“佇まい”、などと言う漠然とした表現は無理。
英語の数学みたいなはっきりとした表現決して嫌いではないのですが、日本に生まれて良かった、、、とつくづく思います。
まるまるさんのコメント、その通りだと感じます。
体験している私たち人間がリアリティだとしている世界は、体験者の頭の中に起きている認識の中だけに存在する世界であり、距離も、時間も、何もかも、それを体験している人の頭の中に(一種の錯覚として)起きているだけなので、どのような認識も無くなると、体験している世界のリアリティは、消滅してしまいます。
つまり、物質次元は、私たち人間の認識の中にしかないことになります。(睡眠中は、この世は消えています)
しかし、その認識がなくなったら、何も無いかと言うと、そういう訳ではなく、仏教でも、すべては縁起、因果、因縁によって成り立っていると言われていますから、ナニカが在るので(質量因)、この世である物質界も在る(結果)、ということになります。
それでも、私たちの認識が無くなると、宇宙もこの形では存続できなくなる、ということになります。
絶対無が、形をとって宇宙となる過程(流れの中)で、人間のような存在が顕れたことは、正に、神の戯れリーラとしか言いようがありませんが、これも必然の流れだったのでしょう。
このカラクリは、複雑なので、そう簡単には解けないかもしれませんが、秘密が秘密でなくなった時の歓びは大きいと感じます。
物質次元は、人間にとっては、体験の世界、認識の世界でもありますので、この次元に人間として顕れている間は、人間としての体験を思い残すことなく味わって、源へと還って行きたいものです
https://place.oneness-g.com/2017/01/16/%E4%BF%A1%E3%81%98%E3%82%8B%E5%8A%9B/ 【信じる力】より
みなさん、初めまして。ワンネスグループ東京オフィスの片桐と申します。心理カウンセラーをしています。
これから、ワンネスグループの紹介とともに、日常でも使えそうな心理学の話題を書いていきたいと思います。時々ふざけた内容を書くかもしれませんが、あらかじめご了承ください。
さて、2017年の始まり。ワンネスグループの一員として私は地元、山形県の立石寺からスタートすることにしました。
松尾芭蕉が訪れたことで有名ですが、中学校の時の国語の教科書にも出たので、覚えている方もいるかもしれません。
「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」地元の不思議な風習で、片桐家のご先祖様の「歯の骨」が納骨されていることもありますが、同時に、「悪縁切り」のお寺としても有名です。
依存の対象との縁を断ち切れるよう、お参りしてきました。
皆さんからは、こんなツッコミがあるかもしれません。
「心理学って言っておいて、しょっぱなから神頼み?」いえいえ、それは違います。
正確には「仏頼み」です。仏教寺院ですので。
イラッとした方もいると思いますが、ちょっと耐えてください。ここで本題に入りたいと思います。
日本(だけでなく世界でも)では、今のように科学が発展する前、神様や仏様に祈ることで精神の安定を保っていました。
人知の及ばないものは全て、神様や仏様のしわざだと考えたのです。(妖怪などもそうですね)日本は今、「無宗教」と自覚している人も多いと思いますが、例えばウ○コが漏れそうな時、神様にお願いするはずです。「もう少し耐えさせてください」と。
我々にも、心の奥底に、信心する部分が残っているのです。
(人は生まれながらに信心する心がある、という内容は「コーラン」にも書いてあると、イスラム教徒の友達が教えてくれました。ウ○コの事は書いてませんが。)
信じる対象があった昔と、それが見えなくなった今とで、どちらが「幸せ」でしょうか。
心理学では、明確に「信じるものがあった方が幸せ」という回答を出しています。
薬の薬効を調べる実験の際、比較対象として偽薬(プラセボ)が一緒に使われますが、
プラセボと比較することで、その薬が本当に効いているのか、「良くなるかも」という気持ちで良くなっているのか、がわかります。
実際、「良くなるかも」と信じる気持ちがあるだけで、病気が良くなったりすることもあります。某有名な頭痛薬の薬効成分は錠剤のほんの一部に過ぎず、あとは体に無害な成分で作られています。
それくらいの大きさがないと、「薬をのんだ」気持ちにならず、効果がない人も多いようです。(薬は同じ成分でも、大きく、高価な方が、効きやすいんだそうです。)
ノンアルコールビールを「お酒ですよ」と言って出すと、実際に酔っ払うという実験結果もあります。全て「信じる力」が効果を発揮しています。
一方、カウンセリングでも、うまくいくための最も重要な要素は、「このカウンセリング(カウンセラー)なら大丈夫」と信じる心が生まれるかどうかにあります。
どんな手法を使っているかは、二の次です。
キリスト教を主題に多くの偉大な作品を遺した遠藤周作は、小説「深い河」の中で、「神」という言葉を嫌がる登場人物に対して「その言葉が嫌なら、他の名に変えてもいいんです。トマトでもいい、玉ねぎでもいい。」「それに、ぼくは玉ねぎを信頼しています。信仰じゃないんです。」と語らせています。
「鰯の頭も信心から」。
どの宗教が優れているか、私は専門家ではないのでオススメはできませんが、まずは、身の回りの人、お守り、カウンセラー、自らがこなしているプログラムを、疑わずに無心で信じてみてはいかがでしょうか。
それは、科学の力を超えて、効果を発揮するはずです。
ということで、お読みいただきありがとうございました!
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