芭蕉の月山の句 --- 諸家の「解」を見る

https://25237720.at.webry.info/201010/article_8.html 【芭蕉の月山の句 --- 諸家の「解」を見る】より

  雲の峰幾つ崩て月の山 芭蕉

尾形仂氏の評釈:

「盛夏の炎天に空高く立のぼっていた雲の峰が、いくつ崩れて、この月光に照らされた雲間に神々しくそびえ立つ月山となったのであろうか。まことに天の一部が崩れて地上に築きあげたかと思われるばかりの雄大森厳な山の姿であることよ」(角川ソフィア文庫『おくのほそ道』)

穎原退蔵氏の発句評釈:

「日盛りの空に立った雲の峰が、いくつか崩れくずれた果て、やっと夕べになって月が出たというのを、月の山にいいかけたのである。そのいいかけによって、また月下に照らし出された山の姿も浮かんでくる。巧妙な句法である。ただし紀行本文の「頂上に至れば日没して月顕る」を承けたものとすれば、作者自身は月山のいただきにあって月を仰いでいるのである。そして「あぁ、いよいよ月の山になったわい」と嘆声でも漏らしたのであろう。すると雲霧山気を凌いで、かろうじて山頂に辿りついた心持ちもこもっている。「雲の峰」と「月の山」とはことさらに対照された趣がある。

前の羽黒山の句にせよ、月山の句にせよ、山の名からの自然の連想による作意を主としている。そうした作意が必ずしも悪いのではない。ことに所望によって三山の句をしたためようとする場合、それは一種の趣向としておもしろいにちがいない。その意味で三日月の羽黒山などは成功した作であろう。自然の即景のままに受けとられて、いやみがないからである。しかし月山の句になると、かの「雪をかをらす」と同様なわざとらしさが多く感ぜられる。一句にも具象的な現実感が稀薄である。だから、月山の世に開かれたのを、月が雲を払ってさし昇ったのに喩えたのだという解や、雲の峰がいくつ地上に崩れ落ちて、かかる高い貴い月山になったのだろうというような説が、一解として成立し得る余地を存するのである。」(角川ソフィア文庫)

山本健吉の現代語訳:

「月山が月の光にくまなく照らされて、眼前に雄偉な山容を現わしている。昼間立っていたあの雲の峰が、いくつ立ちいくつ崩れて、現われ出た月のお山であるか」(飯塚書店『奥の細道』)。

山本氏は同書の「鑑賞」で「だが、どう見てもこれは頂上の景ではない」と言う。氏はこの句の鑑賞の難しさをよく理解していると見える。

萩原恭男氏の岩波文庫脚注:

「日中峰にかかっていた入道雲がいくつか崩れて、今は月山に月が照っている」。

岩波古典文学大系本の頭注:

「昼間の雲の峯が幾つか崩れ去って、やがて夜となり月のかがやく月山となった」。

同本補注:

「あの雲の峯がいくつ崩れ去ったら、その名の通り月の照る山となるだろうと想像した句と見る説もある」。

「て」を「たらば」と読むというこの補注の説は興味深い。

(私は)他に、小澤克巳、長谷川櫂、武田友宏各氏の「解」を参照している。

しかし結局のところ、尾形仂氏をはじめとして、ここに揚げた解釈者のだれ一人として、みずから月山に登り、泊まり、それを経てみずからの解釈を定めようとはしている者はない、と私には見える。それはきわめて軽率なことではないだろうか。それはまず芭蕉の句:「雲の峰幾つ崩て月の山」の、「て」の含む因果、もしくは時間経過が何か、ということを、解説者諸氏が「みずから動かぬ者」の立場で考えてしまっているという点である。これは実際、解釈として問題ではないだろうか。句の解釈の解読コードをまことに常識的・平地的・定常的なものにしてしまっているのである。そしてそれで難点が見えると、それを句のせいにしているのである。これは『奥の細道』の発句を解釈する正しい態度ではないと思う。

 問題を上げておけば、

 1.芭蕉は八合目より上は雲霧の中を登ったのではないか? 雲霧の中で「入道雲」などが見えるのだろうか?

「雲の峰」を入道雲などの雲の作りなす「峰の形」と取る解釈は、ありえない状況、もしくは句の出生地を離れた平地的状況を構成していると思う。

 つまり、「雲の峰」を「積乱雲やその他の雲の作り出す峰の形」とするならば、その雲の峰を芭蕉は、あるいは句の中の「私」は、いったいどこから見ているのだろうか? 雲霧の中で「入道雲」など見えるはずがないのだ。

 また、もっと下の例えば五合目あたりを歩いている時なら、「入道雲」も見えるかもしれないが、その場合「入道雲」と月山との位置関係はどうなるのだろうか? 一貫した解釈をしてもらわなければなるまい。わたし自身の説についてはすでに語っている。

http://25237720.at.webry.info/201009/article_18.html 【月山に行った (2)】より

注文していた『奥の細道』についての本が7冊届いた。月山の句についての読みだけさっと見る。予想通りだ。「雲の峰」を積乱雲と言ったりするものがほとんど。論者がみな月山に登っていないことがまるわかりだ。

まず、芭蕉は月山に登った。であればその登拝の経験のもっとも核心的なことを句に詠むだろう。そして実際芭蕉はそれをしているのだ。だが解説者はおしなべて麓の、しかもかなり離れた、月山を遥拝できる場所から詠んだ句かのように論じているのだ。芭蕉が雲霧のなかを登ったことを忘れている。

高山にはよくあることだが、月山も八合目より上は雲で包まれていることが多い。そしてもう一つ、芭蕉も紀行で書いているように、この登山は寒い。それは風が吹き付けているからだ。月山はたいていいつも風が吹きつけていると、頂上小屋のおばさんは語っていた。その通りだろう。

わたしが登った9月24日は、強い東風が吹いていた。多分強い風に晒されるだろうと思って、八合目の駐車場で準備している時、ヘリコプター用の、耳のところを毛皮で覆える帽子をわたしは身につけた。これは私が、1月2月に熊狩りで、雪の中をスノーモービルで登って行く時に使っているものだ。

そのヘリコプター帽が丁度よかった。激しい風が吹きつづけている。その日東風が吹いていた。それは近づく台風のせいだということだった。普段は西風が吹く。上り道、西風の方が風が山に遮られることが多く、多少は上りが楽になる場所もあるだろうが、風に晒されるのは尾根筋に出た時だ。

そういうところでは、西風であろうが東風であろうが、強い冷たい風に吹きあおられることになるのだ。飛ばされそうになることも一度や二度ではない。もっとも尾根筋に出たところ以外では、左右からクマザサやらの茂みが人の背の高さぐらいまでは茂っていて。そんなに風に悩まされることはない。

私の場合、9月24日の上りは頂上につく手前のころまではよく晴れていた。その手前についたあたりの時から、西側では雲が湧きはじめ、そして東側からは風が霧になって吹きすさんできた。25日に下山した時は、弥陀ヶ原の手前まで、ずっと雲霧の中だった。芭蕉が記しているようにである。

わたしのここまで述べたことだけでも、すでに多くの論者が芭蕉の三山巡礼について、芭蕉の現実とは大いにかけ離れたことを書いているということが予測できるだろう。そしてまた「秘密」についても誤解しているように見える。語ってはならないという秘密は、湯殿山だけのことではないのか?

それを月山の経験も語ってはならないことしている論者が多いが、その根拠はどこにあるのか? 湯殿山に関していは、そのご神体の形状から、語ってはならないということは容易にわかるのだが、それを月山にまで適用しようとする思考がわたしには理解できない。無駄な思い付きにすぎないだろう。

わたしがもっとも好感を持った一冊は、土屋博映の『奥の細道が面白いほどわかる本』だ。紀行の文章と月山の句とを整合的に読み取ろうとしていて、そうとうな成功を納めている。そうした整合的な読みを試みることすら多くの論者はしていないのだ。日本の芸術と学問のために非常に残念なことだ。

今は時間が取れないのでこのくらいの呟きでやめておくが、来週の木曜になれば多分執筆のための時間が取れる。その時はすべて典拠を上げて論じよう。

芭蕉の、

  雲の峰幾つ崩て月の山

の句に対して、その「雲の峰」の解釈を含む私の句を紹介しておく。

  峰幾つまどかに重ね月の山

だ。私の場合は、上り道が晴れていたから。

http://25237720.at.webry.info/201009/article_17.html 【月山頂上の句々】より

  峰幾つまどかに重ね月の山

  月山(つきやま)は汝(なれ)を殺すと吹きすさぶ哉

  床下に翁骨身の夜寒かな

  頂に智恵子姿見ぬ月の山  *

  ひとつ家に芭蕉とねたり月の山

* 山中智恵子に「月山」八十首(『風騒思女集』)がある。弥陀ヶ原での作歌と思われる。

峰が次々につづいていって、なかなか頂上にはたどりつかない。時々霧が吹き払われて峰の頂が見えるのぼりであれば、その期待がいくつも崩されることになる。ちなみに頂上小屋のおばさんもそういう解釈だった。心強い。千人の味方を得た気持ちだ。

つぎつぎ、幾つもの峰が現われてくるという上り道の経験を、この写真で感じてもらえるだろうか。

http://25237720.at.webry.info/201009/article_15.html  【月山へ】 芭蕉 月山 写真

芭蕉の『奥の細道』の理解には、まなざしこまやかなフィールドワークが欠かせない。

そしてある大胆さが。芭蕉はなぜ「崩れて」と言ったのか? これは大問題のはずだ。私の9月24、25日の月山登拝には道中雪はなかった。芭蕉の時の太陽暦7月25日は、私が経験した寒さよりも寒かったかもしれない。これは恐ろしい寒さだ。今日の登山者も小屋にたどりつけなかったら、多くが死ぬだろう。

ああ、この月山の、吹きすさぶ風の中の恐ろしい寒さについても、論者の誰も理解しているように見えない。これでは芭蕉の経験が分かるはずがない。

  月山(つきやま)は汝(なれ)を殺すと吹きすさぶ哉

  床下に翁骨身の夜寒かな

この二つの拙句はそのすさまじい寒さのことだ。この経験を、芭蕉は経験した。しかもそれこそを月山がかれに与えた賜物として経験した。わたしにはこの月山頂上の極寒の体験が芭蕉の(奥の細道での)経験の頂点であるように見える。

  ひとつ家に芭蕉とねたり月の山

この拙句はいまや狂句ではない。少なくとも通う時空を芭蕉と共有したと、わたしにはありありと、そしてまざまざと感じられた。頂上の小屋は芭蕉の時代と同じ所に立っている。まさにこの場所に芭蕉が寝ていた。この床の下あたりに。

http://25237720.at.webry.info/201010/article_3.html 【芸術時間 「芭蕉と月山」】より

芭蕉の『奥の細道』に「雲の峰幾つ崩て月の山」という句がある。すっきりとは理解しにくい句だ。実際「雲の峰」とは何か、「雲の峰が崩れる」とはどういうことなのか、よくわからない。わたしは「峰幾つ崩て雲の月の山」が元句だという読み方があるのかもしれないと思った。ガレ場になった峰々のことだ。確かめてみなければならない。

芭蕉は実際月山に上っている。「息絶(たえ)身こごえて頂上に臻(いた)る」という惨澹たる有様で。そしてその頂上で一夜を過ごしている。そこでは「笹を鋪(しき)、篠を枕として、臥(ふし)て明(あく)るを待(まつ)」という惨めさである。これは容易なことではない。その、月山登拝を詠んだ句である。容易なはずがない。

思い立って月山に向かった。昼過ぎに添削が終わった。それから準備して午後三時に車で家を出て、翌日昼過ぎころに八合目駐車場に着ければいい。おおまかな計画で出かけた。頂上の小屋に泊れるかどうかは現地で尋ねる。

九月二十四日、午後一時半頃駐車場に着く。小屋のことを事務所で確認してもらい、準備をして二時に上りはじめる。寝袋は置いてゆく。通常二時間半かかるという。時刻は既にやや遅い。体力に自信があるわけではない。途中膝が痛み、動けなくなるのを避けるべく、足を労り、しかし休むことなく上る。次から次、幾つも峰が現れる。だが道はそれを迂回し、さらに奥をめざす。稜線では風が厳しく吹きつける。私は耳を毛皮で覆うヘリコプター帽を用意していた。しかしそれでも寒い。四時頃にやっと頂上らしきものが見えた。小屋もある。

夕焼けは素晴らしかった。だが夜は山上すっかり雲霧につつまれた。月の道も見えない。容赦なく吹きすさぶ霧風の闇。私は小屋の中、布団と毛布の中で寒さに震えていた。以下拙詠四句である。

  峰幾つまどかに重ね月の山

  月山(つきやま)は汝(なれ)を殺すと吹きすさぶ哉

  床下に翁骨身の夜寒かな

  ひとつ家に芭蕉とねたり月の山

初句は「雲の峰」の解釈を含む。私の場合、上り道は晴れていた。そして、芭蕉にとって、月山で「崩れた」のは(つまり「雲の峰」とは)、彼の「風雅」だっただろう。

参照していただければ幸いだ。

 2.夜の月山頂上はずっと晴れていたのか? むしろ晴れて月が顕れたのは一瞬ではないか? 紀行が翌朝のことを「日出て雲消れば」と記してる点からすれば、夕方から一旦少しばかり晴れてすぐに再び雲におおわれたとするのが妥当ではないかと思われる。この点について同行の曾良は何も記していない。しかしもし小半時ばかりでも晴天に月(半月)が照っていたならば、芭蕉はもっと別の句(月の晴れ晴れとした趣を告げる句)を詠んだだろうと思われる。

 とりあえずこの二点の疑問を提示しておく。個々の論の批判的検討は必要か楽しみを感じたら行う。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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