松尾芭蕉は地質学者?

https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/6370874/  【松尾芭蕉の視点で、「1億年後の地球」を考えてみると……?】

https://ameblo.jp/seijihys/entry-12690362001.html 【松尾芭蕉は地質学者?】より

(山形県山形市 山寺(立石寺))閑さや岩にしみ入る蝉の声     松尾芭蕉

(しずかさや いわにしみいる せみのこえ)

NHK「ブラタモリ」で知ったことだが、実に興味深かったので、書き留めておきたい。

この有名な句は「おくのほそ道」の山形県山形市「山寺」で詠まれた、俳句史上屈指の名吟である。

で…、この、芭蕉が詠んだ岩はどういう岩か?という話が出て、それは、デイサイト質凝灰岩(でいさいとしつ・ぎょうかいがん)であることを知った。

「デイサイト質凝灰岩」とは、簡単に言えば、デイサイトを含んだ凝灰岩である。

「デイサイト」は安山岩と流紋岩の中間の組成の火山岩で、溶岩が固まって出来た石、「凝灰岩」は火山が吐き出した火山灰が堆積した出来た石である。

(デイサイト質凝灰岩 ※山口県立山口博物館HPより拝借した写真)

「デイサイト質」というのが、私には難しいので、「凝灰岩」にのみ焦点を当てて話を進めてゆく。

写真を見てわかるように、この石は白い粒(火山灰)が凝縮して出来たもので、密度が薄く、石全体に小さい穴がたくさんある。

「ブラタモリ」で言っていたが、音楽室の壁に「小さい穴」がたくさんあるのは、音響効果の為で、無数の穴が音を適度に吸収したり、反射させることが出来るからなのだそうだ。

そう考えてみると、山寺の石(凝灰岩)も「蝉の声」を「適度に吸収し、適度に反射している石」と考えていい。

芭蕉は、この「凝灰岩」だからだったこそ、岩にしみ入る蝉の声を感じたのではないか。

芭蕉は「地質学」の知識はもちろん持っていなかったが、直感的に、この地の「地質」を見抜いた、と考えられる。

周囲の蝉の声から、風土の本質を直感的に見抜いた、と言える。

(玄武岩)

例えばこの「玄武岩」(げんぶがん)などの密度の濃い、重々しい石であれば、蝉の声をはじいてしまう。

山寺がもし玄武岩で出来ていたら、この名吟は生まれなかった…、と考えることが出来る。

こういうところを見ても、芭蕉恐るべし! と思うのである。


https://www.jstage.jst.go.jp/article/geosocabst/2016/0/2016_091/_pdf/-char/ja

【『おくのほそ道』の地質学】より

蟹澤聰史(東北大学)

松尾芭蕉は元禄二(1689)年、歌枕に憧れてみちのくを行脚し、『おくのほそ道』を著した。旅の中で芭蕉がとくに感嘆したのは、歌枕の地を別にすると、日光、那須殺生石、松島、山寺、出羽三山、象潟の流れ山、那谷寺などの自然であった。これらの風景は、第四紀火山活

動、あるいは新第三紀の火山による火砕流の産物である (蟹澤,2012)。なお、本文からの引用は萩原(1979)による。

日光・那須 日光では滝の織りなす風景を、那須の殺生石では火山ガスによる生物への影響を「石の毒気いまだほろびず」と記している。

松島 「東南より海を入て、江の中三里、浙江の潮をたゝふ。島々の数を尽して、欹ものは天を指、ふすものは波に匍匐。あるは二重にかさなり、三重に畳みて、左にわかれ右につらなる。負るあり抱るあり、児孫愛すがごとし。……造化の天工、いづれの人か筆をふるひ詞を尽さむ」と述べている。この付近は中新世松島層軽石凝灰岩、シルト岩などを主体とする。侵食に対する抵抗力の違いで、芭蕉も感嘆し、「造化の天工」と言わしめた景観もこういった自然の摂理が働いた結果であろう。

山寺 「岩に巌を重て山とし、松柏年旧、土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て、物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這て、仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。 閑さや岩にしみ入蝉の声」と描いており、これも新第三紀の火山活動による火砕流、凝灰岩の織りなす光景に感嘆している。立石寺のある山寺周辺は、山形盆地の北東縁部で、新第三紀中新世末期頃の火山活動に由来した堆積物が主体である。根本中堂のある辺りは山寺層の塊状無層理デイサイト質軽石凝灰岩・火山礫凝灰岩からなり、溶結凝灰岩を挟む。これらの凝灰岩には、タフォニの発達した急斜面の景観が見られる。

出羽三山 月山には精進潔斎して登ったことが『曽良旅日記』には記されている。湯殿山では「忽て、此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍て筆をとゞめて記さず。…… 語られぬ湯殿にぬらす袂かな」とあって、曰くありげな湯殿山の奇石について言を避けている。古くからあった奇石信仰の例であろう。

象潟 松島の白い凝灰岩と象潟の茶色っぽい流れ山を対比して「……江の縦横一里ばかり、俤松島にかよひて、又異なり。松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえ(へ)て、地勢魂をなやますに似たり。 象潟や雨に西施がねぶの花」と、中国春秋時代絶世の美人西施になぞらえ、前に訪れた松島を思い浮かべている。

石山寺 「奇石さまざまに、古松植ならべて、萱ぶきの小堂、岩の上に造りかけて、殊勝の土地なり。 石山の石より白し秋の風」とある。

「石山の石より白し……」の句については、近江の石山寺の石と比較しているとの説と、「吹く秋の風は、那谷寺の石山の石よりも白い」との二説がある。ここの奇石は新第三紀の医王山層凝灰岩が主体で、流紋岩質の火山灰や火砕流堆積物が固結して生じたもので、黄土色~灰白色のゴツゴツした表面を持ち、凝灰岩特有のそそり立つ崖を形づくり、タフォニも発達する。なお、近江の石山寺の岩石はジュラ紀付加体である美濃帯中の石灰岩が熱変成を受けたもので、珪灰石が随所に見られ、那谷寺の石とは異なる。

『おくのほそ道』の行程の大部分は東北地方なので、芭蕉は火山活動による特有の地形と、そこに根付いた松や楓などの植生にことのほか心を動かされたのであろうとの感が深い。このような地質学と文学や芸術との思いがけない接点を探すのも文化地質学の目的の一つであ

ろう。

文献

萩原恭男校注(1979)『芭蕉 おくのほそ道 付曽良旅日記 奥細道管菰抄』岩波文庫, 290pp.

蟹澤聰史(2012)『おくのほそ道を科学する』河北新報出版センター,209pp.

キーワード:おくのほそ道、第四紀火山、新第三紀火山活動、

Keywords : “Oku no hosomichi”, Quaternary volcanoes, Neogene

volcanic activity


https://www.asahi.com/articles/ASPCC6RGNPCBULUC003.html 【芭蕉が一句「象潟」の成り立ち探れ 歴史解明へ地質調査】より

 山形、秋田両県の3市1町などで組織する「鳥海山・飛島ジオパーク推進協議会」は、パークの見どころ、象潟(きさかた)・九十九島(くじゅうくしま、にかほ市象潟町)で11日まで簡易ボーリングの地質調査をした。地下の堆積(たいせき)物を分析し、かつて存在した汽水湖「象潟湖」の形成過程などを解明したいという。

 今回の調査は、数年後に予定する本格的な掘削調査を前にした予備調査。八木浩司・山形大教授(地形学)の指導の下、委託業者が8~11日、象潟町小坂など3カ所で地下を掘った。

 かつて湖底だった可能性が高い同町善階森では、深さ約4・8メートルまで掘り進め、土砂を抜き取った。八木教授によると、この地点の地下4メートルより下では、鳥海山から流れてきた火山泥流の安山岩が確認できた。その上の地層は黒や灰色の泥で、カキや巻き貝、二枚貝が混じっていた。

 協議会は今後、泥の中の植物プランクトン・珪藻(けいそう)の化石を調べる。珪藻は塩分濃度などの水質によって生息する種類が異なるため、その分布を確かめることで、そこが海だったのか、汽水湖だったかなどを分析。象潟湖の範囲を特定したいという。

 九十九島は鳥海山の火山活動の痕跡で、約2500年前の山体崩壊で大量の岩と土砂が日本海まで至り、海の中に「流れ山」が浮かぶ入り江や湖をつくった。

 江戸時代には象潟を訪れた松尾芭蕉が俳句に詠むなど、宮城の松島と並ぶ景勝地だったが、1804年の大地震で地盤が隆起し、陸地になった。島々は小山となり、「象潟」の名で国が天然記念物に指定している。

 協議会は、地震で隆起する前の湖と陸地の境界の証しとなる湖岸線について、貴重な地形遺産で学術的な価値が高いと判断。当時の形状が残る重要度の高い湖岸線跡は保護・保全を図る考え。八木教授は「過去の湖岸線は保存する必要があり、その位置の確認は、大きなミッションの一つだ」と話す。

 鳥海山・飛島ジオパークは2月、日本ジオパークに再認定された際、同委員会から、九十九島について「地球科学、歴史学の学史上貴重な場所」との評価を受けた。ただ、2028年完成予定の圃場(ほじょう)整備事業によって、湖の堆積物や湖岸地形が乱れ、地震の痕跡など考古学的な資料が失われる可能性があるとして、総合的な学術調査をして保全に生かすよう求められた。(佐藤仁彦)

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