Facebook セラピストのためのサービス向上委員会投稿記事 「和のカラダを取り戻す」
真逆のカラダの使い方を身につけると今まで感じていなかった様々な感覚が蘇ってきます。
そして、寄りかかりという地球の重力と共同作業を行うから施術でカラダを痛めない。
https://blog.esalenbodywork.jp/2021/10/blog-post_29.html?fbclid=IwAR20LZXd6MXaUyS2EVhTeUiiRXMslFQcMnkNyEBokJzqIHBMS9e9pqxnQ4Q 【「和のカラダ」を取り戻す】より
ゆったりセラピー基礎講座を進めていく中で、年を追うごとに気づいているのは、受講生の多くが ”実は寄りかかれていない”という現実です。
それは、カラダのコンディションが 寄りかかることが困難な状況にありどうしてもえいやっと腕の力を使ってしまう、 ってことなんです。受け手は、えいやって腕の力で押されると 気持ちよくないのです。
寄りかかってもらえると その刺激は深部まで伝わり、気持ちよくその違いは、受け手ははっきりと分かります。
でも、施術している本人はそこらへんが よく感覚できない、ってことなんです。
(受け手が、寄りかかりを体験したことがないとえいやって力で押されてもそこそこ気持ちいーかもーって思ったりするかも 笑)
私たちは寄りかかれないカラダに なってしまっているんですね。
(正確にいうとそれまでに経験した 体育教育や社会的圧力によって寄りかかれないカラダに作られていく という感じではないのかな)
例えば、僧帽筋を常に使って腕を動かすパターン 体軸をねじって使うパターン
骨盤を前傾させて立つパターン 脚部の外側に体重を乗せるパターン
こういったカラダの使い方のパターンは 一般的なもので、多くの人が同じような パターンを身につけています。
そして、こうしたパターンは 肩こりや腰痛、手首や股関節、膝の痛みを もたらしやすいですし、もし、その方が施術者であれば寄りかかりを使えない ってことになるわけです。
また、施術によって自分のカラダを痛めてしまうことが 起こります。
先にキャンペーンを行なった ゆったりセラピーバランスケアの施術はそうした現代日本人に顕著な カラダのパターンに働きかけ、より良いバランスを 構築することに役立ちます。
これは、私が31年間ずっと エサレンアプローチを実践し続けて発見した 施術の方法でもあります。
ゆったりセラピーを勉強し始めて 寄りかかりということに真剣に取り組むとそれまで無意識的で当たり前だった 自分のカラダの使い方のパターンを変更せざるを得なくなり、 最初は、はぁ~っ??てな感じで 困難に感じるのですが、トライして損はないよ、と思います。
まあ、じっくり取り組んでくださいな。
それらの取り組みは、「和のカラダ」を取り戻すってことなんです。
なんで、「和のカラダ」かというと 着物を日常着にしていた時代の人々は先に挙げたパターンとは真逆のカラダの使い方をしていたはずです。
僧帽筋を常に使って腕を動かすパターン→前鋸筋を常に使って腕を動かすパターン
体軸をねじって使うパターン→体軸をねじらないパターン
骨盤を前傾させて立つパターン→骨盤を後傾させて立つパターン
脚部の外側に体重を乗せるパターン→脚部の内側に体重を乗せるパターン
これらの現代人とは真逆のカラダの使い方は、何かの特別なトレーニングを受けて 身に着けた、というのではなく、昔の人々は着物を着るという日常の中で自然に自ら鍛錬していったことなのだろうと推測します。
少なくとも数百年、あるいは数千年のカラダ文化の 蓄積があり、それらは着物を着ることによって 非言語的に、伝承され、鍛錬されてきたのだろうと思います。
つまり、着物を着ることは ボディワークであり、ソマティクスだったのです。
ですが、押し寄せる西洋化の怒涛のような波の中で 私たちは着物を捨て去りました。
便利になったような気がしていますけど、 失ったものは大きいのです。
ゆったりセラピーを学ぶことで 「和のカラダ」を取り戻して欲しいなと思いますし、 施術を通して、 他の人が「和のカラダ」を取り戻すことを 手助けして欲しいなと思っています。
「和のカラダ」を取り戻すことに取り組むと今まで感じていなかった様々な感覚が蘇ってきます。
そして、寄りかかれる。寄りかかりとは、 地球の重力との共同作業です。そして、地球とつながったカラダで”在る”ことなんです。
そうしたカラダの使い方を現代の私たちは 忘れ去っているのです。
https://blog.esalenbodywork.jp/2017/07/blog-post_11.html 【”奪われた”からだ】より
長年、受講生と接していて気付いたのは、誰でも普通にできる、と私が考えていたからだの使い方ができなくなっている、人がほとんど、ということなんです。
あるいは、感覚的に理解し難いものになっているようだ、ということなんですね。
例えば、同手同足。例えば、体重移動する時や向きを変える時の股関節 を使う動き
私は、こうしたからだの使い方は、特別のものではなく、日常にあるものだと理解していました。というのも自分の場合はそうだったからです。
特別の訓練を受けて習得した、というわけではなく気がついたらそうしていた、という類のものです。
それらは、子どもの頃、田んぼの畦みちを苗を運んだり、毎日させられた雑巾がけだったり、あるいは、台所の板の間に座り込んですり鉢を動かないようにしている役割だったり、
解かれて束になっている毛糸に腕を通してピンとはり巻き上げるのに合わせて動かしたり、
のちには、鎌で稲を刈ったり、鍬で畝を作ったり、遊びもからだを使うものもがたくさんありました。
お手玉だったり、おしくらまんじゅうだったり、あやとりだったり、そり遊びだったり。
からだを使って、寄りかかったり、リズムをとったり踏ん張ったり、ぶら下がったり、
誰かと息を合わせたり、毎日、そんなことに溢れていました。
そしてそれらが上手に出来れば出来るほど手伝いも遊びも、楽しくうまいこと行えたのです。
しかし、思い返してみるとそれらは私の子供時代の話であって、その後、急速に消えていった生活でした。
家事は電化され、農作業の多くは機械化され、からだをうまいこと使わなくてもあるいは使えなくても、便利に速やかにいろいろなことが行えるようになりました。
おそらく、私は、そうした”からだ”を使った生活の体験のあるなしの境目の世代だと思われます。
私から上の世代は、そうした生活の経験を持っており、私から下の世代はそうした生活の体験は極めて少ない、そういうことなのではないかと思います。
コースに来てくれる方々は、ほとんど私より歳若い人たちになってしまっていますから、
からだの使い方の常識が違ってしまっているのもうなづけます。
実技習得のコースでは、基本的には、私のデモンストレーションを見ていただいて
その後、相モデルで実技実習を重ねていくという方法で進めていきますが、デモを見ていただいただけでは、からだの使い方は読み取っていただけないんですね。
なぜなら、ほとんどの人が私とは全然違った、というか真逆のからだの使い方をしているからなんです。
私はそれを逆手、と呼んでいるのですが、踏み出した足と逆の手を使って、触れようとすることです。
そうすると体軸にねじれが生じて、実は、ゆったりセラピーの触れ方としては、いろいろなことがうまくいかないのです。
一見、同じ手技をしているように錯覚するのですが、寄りかかれない、手のひらに力が入って感覚できない、ということが起こります。
寄りかかっているつもりが、圧迫になりがちです。
そして、それはからだの使い方のクセとでもいうふうに体に染み込んでいて、常に踏み足と逆の手を差し出したくなります、
そうではなくしようとするとなんだか違和感があって混乱してしまう、という 代物です。
私は基本、逆なんですね。
踏み出す足と同じ方の手を差し出して手技を行おうとし、(同手同足)もし、逆の手を使うと違和感を感じるのです。
最初、私は、なんでわざわざ逆手を使うのかなーそれってしんどくないのかなー
でも、そういうふうにしたいのだからそれでいいのかなー、でもなんだか違うような気がするーとのんきに思っていました。
多くの人にとっては、私にとっては逆手、と呼んでいるからだの使い方が普通であり、日常になっているのです。
私にとって、これは驚くべきことでした。
しかし、だんだんとそういうからだの使い方をしている限りゆったりセラピーのタッチの質は実現しないことに気づいていきました。
これは、現在インストラクターとして活躍している ゆったりセラピー協会のメンバーの忍耐強い、タッチの質への探求の賜物です。
ミヒャエル・エンデの「もも」という物語を読んだことはありますか?
時間泥棒に盗まれた時間を、ももという女の子が取り返してくれる、というお話です。
この物語は、近代文明の本質を巧みに表現してくれて、しかもその罠からどのように抜け出すのか、つまり盗まれた時間をどうやったら取り戻せるのかまで語っています。
私たちは、この社会の中で、時間を盗まれるとともにからだも奪われているのかもしれません。
多くの受講生が、ゆったりセラピーのからだの使い方がすぐには飲み込めなくてできない、と悩みます。
でも、それは「できない」のではなく奪われたのだ、私は、今ではそう理解しています。
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