親ガチャ 子ガチャ

:仏教の教えから見る 親ガチャ 子ガチャ

https://agenda-note.com/customer/detail/id=4385 【人生はスマホゲームと同じ?「親ガチャ」「子ガチャ」に注目が集まる背景】より

最近、「親ガチャ」「子ガチャ」という言葉をよく聞くようになりました。言葉自体は2021年より前に使われていたのですが、この数ヵ月、大手メディアが報道することで、より広く知られるようになりました。

「ガチャ」とは、スマホゲームのガチャ(特別なグッズやキャラクターを得るための仕組み)に由来します。レアアイテムやレアキャラが登場する確率は非常に低く、その意味において「アタリかハズレかは運次第である」という意味が込められています。

すなわち、「親ガチャ」「子ガチャ」という言葉には、どんな努力をしたとしても、生まれてきた環境や容姿、頭脳、運動神経は運であり、どの親のもとで生まれてくるか、あるいはどんな子どもが生まれてくるかは「ガチャ」のようなもの、という意味が込められていると考えれば良いでしょう。

せっかくの授かった命を何だと思っているのか、なぜ努力して逆境を跳ね除けないのかという綺麗ごとは、この際ですから止めましょう。今回は、この「ガチャ」という言葉が注目を浴びる背景に焦点を絞り、そこから社会を覗いてみたいと思います。

人間が生み出した「努力」という呪い

まず大前提として、筆者も世の中の大半は「運」だと考えています。

「運」の良し悪しを、「道徳」の良し悪しに紐付けて考える「道徳的運」という認知バイアスがあるように、自分の幸運や不運を自分の行為に関連して考えたくなる気持ちは分かります。「情けは人のためならず」ということわざもあるくらいです。

ただ、自分に何かが本当に返ってくるのかは立証不可能ですし、すなわち「そうであって欲しい」と考えているだけのような気もします。

筆者は昔、両親が離婚した後に母子生活支援施設で数年間、母と妹の3人で仲良く暮らしていました。6畳ほどの部屋でトイレは共同、風呂無しシャワーのみ、見たことのない大きさのゴキブリが出るような施設でした。今で言うところの、生活困窮家庭だったと思います。

そうした環境にあって、奨学金で大学に通えたのは、親の支えもありますが、偶然であり運でもあります。「努力したから」と言えるような生存者バイアスは持ち合わせていません。内閣府「子供の貧困に関する現状」によると、大学進学率は全世帯で73%ほど、ひとり親家庭で58%ほど、生活保護世帯で33%ほどです。世帯年収が下がるほど進学率が下がるのですから、筆者はイレギュラーな存在に過ぎません。

その後、アドテク黎明期に広告効果測定サービスの開発に携われたのも、10冊以上の書籍を出せたのも、偶然であり運だと考えています。筆者本人の努力ではありません。書籍に関して言えば、すごく頑張って書いたのに売れなかったものもあれば、かなり脱力して書いたのにすごく売れたものもあります。そんなものです。

努力をすれば、何かを達成するかもしれません。しかし、達成しないこともあります。「こんなに努力したのに!」と憤る気持ちも分かりますが、それは「公正世界仮説」といって、人間の行いに対して公正な結果が返ってくると考える認知バイアスそのものなのです。

「努力をすれば報われる」のであれば、報われない者たちは「努力をしていない」「努力が足りない」と言っているに等しいでしょう。こうした思考が極端に偏ると、大地震を前に「天罰」と口走る政治家が現れたり、「カーストが低いのは前世の業が悪かったから」と言い出したり、犠牲者側を非難する傾向にあります。

結局、人は努力を信じたいのです。人間が生み出した一種の呪いとも言えます。

いつの時代も抱える鬱屈した感情

自分の不運や、思い通りにうまくいかない環境を「ガチャ」に投影していると考えると、昨今の「親ガチャ」「子ガチャ」という言葉の理解が進みます。「投影」については「『人はなぜ、その商品を好きになるのか?』行動経済学でメカニズムを解き明かす」で詳細を説明しています。

いつの時代も、そうしたモヤモヤした心境が商品やサービスに投影され、大ヒットを記録してきました。70年代は「およげ!たいやきくん」はサラリーマン哀歌と称され、90年代は矢沢永吉さんのBOSS CM「まいったなぁ」は社会の厳しさを表現したと称されました。

いつの時代も同じなのです。「変わりたい」「抜け出したい」。そうした鬱屈を、90年代であれば、例えば新興宗教が、最近であれば例えば情報商材やサロンが満たしていると筆者は考えます。

一方で、そうした変身願望や逃亡欲求を満たしてくれるサービスが、真に自分自身を変えるかと言えば、大半は違います。それが分かっているのに、手を伸ばしてしまうのは行動経済学で言う「双曲割引」に引きずられているからです。

例えば、ローンを組んでマンションの購入を決めたとします。販売業者からは2つの支払い方法を提示されました。その時点での自身の月給は手取り35万円だとします。

支払い方法A:10年間は毎月6万円、11年目~30年目は毎月12万円を支払う。

支払い方法B:最初から毎月10万円を30年間支払う。

実際にはお金の価値は変動しますから、名目ではなく実質で考えると、10年後の方が…という考えも無くはないでしょう。また、支払額に応じて金利が違いますから、もちろん支払総額も変わります。そのあたりを差し引いても、Aを選択する人は多いでしょう。

なぜなら人は目先を過大評価し、遠い将来は過小評価してしまうからです。明日支払う10万と11年後に支払う10万を比べて、主観的には目先の利益の方がより大きく感じてしまうのです。ちなみに、損失も同様です。同じ利益や損失であっても、時間的な近さと遠さによって、主観的な評価には違いが生じるのです。これが「双曲割引」です。

生存者バイアスを持った年配の先駆者は「苦労をしろ」「経験が自分をつくる」と言います。それは正しいかも知れません。ただし、生き残った人の話だけでは真に参考にはなりません。だからと言って、目の前の苦労だけはとりあえず避け、明日やろう…と先延ばしにするほど、真に変われる機会は逃していくばかりです。

ちなみに冒頭、筆者が10冊以上の書籍を出せたのは運と表現しましたが、依頼に応えて文章を書けたのは長年コツコツと積み重ねてきた能力です。能力を発揮して、あとは人事を尽くして天命を待つ。そういう境地にたどり着きたいものです。

「親ガチャ」「子ガチャ」の背景にあるもの

「親ガチャ」「子ガチャ」は、最近になって急に生まれた概念ではありません。環境に対する不遇、能力に対する諦めや苛立ち、そうした少なからず怨嗟(えんさ)の声は長らくありました。言葉として面白いからかメディアで語られる機会も増えていますが、根元に迫れば、右往左往する必要もないでしょう。

世の中を取り巻く現象に対しては、点ではなく線で見る、満たされない欲望や欲求はおよそ普遍的なものですから時間軸で考える、そうした訓練を積みたいものです。

世の中、うまくいく機会もあれば、そうじゃない機会もあります。それらがトータルで±0になるのが人生だ…なんていうのも全くの嘘で、ボーナスステージのような人もいれば、そうじゃない人もいるでしょう。

そんなもんだと割り切り、自分のいる場所で自分なりに楽しい人生を歩むしかないと筆者は考えるのですが、皆さんはどう思われますか?


https://president.jp/articles/-/50389?page=1 【「人生にアタリやハズレはない」岩井志麻子が"親ガチャ"という言葉に覚えた強い違和感】より

自分の親は選べない。それをおもちゃ売り場やソーシャルゲームの「ガチャ」にたとえた「親ガチャ」という言葉が話題を集めている。作家の岩井志麻子さんは「妹は私とは真逆の良妻賢母だが、世間には有名人になった私のほうを当たりとする人もいる。ガチャと人生はあまりに違いすぎる」という――。

私は「当たり」を引いたことになるのか

はやり言葉に疎い私も、「親ガチャ」なる言葉はなんとなく目にしたり聞いたりするようにはなっていた。子どもは親を選べない、というのを表す流行語らしい。

通常の自販機は自分で商品を選ぶものだけれど、カプセルに入った玩具のそれは、何が入っているか何が出てくるかは、運任せ。自分では中身を選べない、通称ガチャ。

ソーシャルネットゲームのキャラクター入手になぞらえている、という説もあるが、私はポケモンGOしかやらないので、こちらはあまりピンとこない。私も観光地やドライブインなんかで見かけると、お土産代わりに親ではなく本物のガチャはついやってしまう。

いずれにしても、親ガチャなる言葉は流し読み、聞き流していた。

それ自体、私が親ガチャで恵まれていたということなのか。親ガチャは当たりではなく、はずれはずれと思っている子ども側から語られがち、だそうだから。社会的地位の高い金持ちの親がいれば、もっと楽に暮らせるのに。あんな毒親でなきゃ、自分はこんなふうに落ちぶれはしなかったのに。みたいに。

とっくに成人しておいて親のことをいうのは…

現世の不幸がすべて「前世の因縁」などといわれてしまえば、こちらは何もいい返せず、思考停止に陥るが、親ガチャだと因果や敵が目に見えるので、真面目な論争にもなる。

世間一般の公約数というのだろうか。

それでいうと、うちの親は決して当たりではない。社会的地位も金もない。

しかし、私は親ガチャではずれた、なんて思ったこともない。

私はたかが岩井志麻子の分際で、妙なプライドが高い。

不遇や不幸を誰かのせいにするより、自分のせいにしたほうが楽なのだ。

ましてやとっくに成人しておいて、いまだに親のせいにするなんて幼すぎないか、とまで感じてしまう。

念のために書いておくが、成人してもずっと親との葛藤に苦しむ人たちを否定も責めもしない。

ひき逃げされただの通り魔に刺されただの、人間関係がなくて完全にこちらに落ち度もない場合は除き、むやみにかわいそうとか、一方的に被害者扱いされるのは大変な屈辱だ。

私がバカだったからだと、私は自分を責めるほうが救われる。

そう、私は親に限らず誰かのせいにしないほうが救われるという、主義や思想ではなくたぶん性癖なの。

ただ、すべて自己責任で、という考えはまったくない。

本当に被害者としかいいようのない人はいるし、他者の救済が必要な人もたくさんいる。そして、本当にひどい親の下に生まれてきてしまった、と同情せずにはいられない子どもたちもたくさんいる。そこは社会が対応する必要があると思う。

韓国では「ガチャ」ではなく「スプーン」

この概念は、わが国だけでなく、二度目の夫の生まれ育った韓国にも似た言葉と考えがある。

昔から育ちの良さを表す際に、生まれながらに親にくわえさせられているという匙(スプーン)になぞらえ、親が富裕だったり高位だったりする家の子を「金匙」と呼んでいた。

今では、金の上には財閥子女などのダイヤモンドスプーンが、土の下には糞スプーンがあるそうだ。

元々は欧州の「金持ちの子は銀のスプーンをくわえて生まれてくる」という慣用句にちなんだものだろう。

つまり親ガチャ、洋の東西を問わず昔からあったのね。

確かに、これも洋の東西を問わず、昔はどんな親の下に生まれるかで、ほぼ子どもの人生、将来は決まっていた。今現在も、途上国と呼ばれている国はそのまんまだ。

しかし現在の日本は、貧困層の出でも金持ちになれたり、華麗な経歴はなくても成功者になれたり、というチャンスはいろいろあるし、実際にそうなった人もたくさんいる。

なれない人は努力不足、といっているのではない。これは「社会ガチャ」と呼ぶべきか。

あと自分の中で行われる、「自分ガチャ」も影響しているだろう。あまり深く考えず、まさにガチャ気分でやってしまったことが、良くも悪くも重大な結果を招くことがある。

私も、学歴も美貌も才能も金もなく、それこそ有力な親もおらず、離婚してすべてゼロになって上京してきて、おかげさまでテレビに出させてもらったり本を出してもらったりで小銭には恵まれているが、ひとえに社会ガチャ、自分ガチャで当たったからだ。

良きこと、幸せだといえることは、すべて自分の努力、自分の才能、だなんていえない。それらはみんな、出会ってきた皆さんのおかげです……。と、ここまで書いてきて、私って偽善者か妙な宗教の信者か、一周回って立派な人かとも迷ったが、これらの考えで生きることが、とにかく自分にとって楽だからにすぎない。

親ガチャにはずれたといっている人たちだって、社会ガチャ、自分ガチャすべてにはずれることはないのだ。

当たり」「はずれ」はすぐにはわからない

こういっちゃなんだが、今の韓国人夫は複雑な家庭に生まれ育ち、親は早くに離婚、彼は高校だけ出て繁華街でその日暮らしのバイト生活をしていたら、プチ有名な日本オバサンに見初められてしまったのだ。

思えば夫は、当たりはずれで判定できない、とんでもないガチャを引いてしまったものだ。ポケモンのガチャをしたら、カプセルから本物の怪物が出てきてしまったのか。

あくまでも金銭的なことだけをいえば、夫は明日をも知れぬ貧乏暮らしから、ちょっとした贅沢や娯楽がある生活になれた。ただし、18歳も年上の妻はあちこちで顰蹙を買い、時に韓国にまで悪名が轟くという、もらい事故や延焼からも逃れられなくなっている。

このように、当たりはずれも後になってわかる、評価が分かれる、しばらくして結果が変わることもたくさんある。実は自分の親は当たりだったと、死後にわかることもある。

思いがけないものとの出会いが楽しい

さて、親ガチャなる言葉があるとすれば、子どもガチャもあるはずだが、こちらはさらに反発や反感を招く言葉、概念である。

ちなみに私の妹は、私とは真逆の良妻賢母だ。しかし世間の見方は、分かれてしまう。

うちの親に対し、「妹さんはまともなのに姉はあんな変になって」と、はずれた姉を持ったことに同情する人もいれば、「妹は一般人だが、姉はちょっとした有名人になった」と姉のほうが当たりとする人もいるのだ。

うちの親は子に当たりはずれなんて言葉は使わないが、妹のほうは予想した通りのものが出てきた、と見ているようだ。姉である私は、まさかこんなものが出てくるとは……。と自分らの中に装填されていた思いがけないものに驚いているようではある。

私にも息子がいるが、大学は出ても定職に就かず三十近くになってもふらふら夢のような夢を追っている子だ。

なんというか、わが親とはちょっと違う感じで、自分の中にストックされていた変なものがガチャガチャッと合わさってポンと出てきたのがこれか、意外といい仕上がりじゃないか、なんておもしろがっている。

そうだ、私がガチャをするのは、思いがけないものとの出会いが楽しいからだ。

日々を楽しくするために

欲しいものが必ず出てくる通常の自販機と違い、何が出てくるかわからないそれの醍醐味って、はずれと思ったものが案外いいものだった、となることじゃないのか。

福袋も、欲しかったものが入っていたときの喜びはいうまでもないが、意外とそれまで興味なかったものが良くて、気がつけば長く愛用するようになったりもする。負け惜しみに近いかもしれないが、酸っぱい葡萄で生きるよりは日々を楽しくしてくれる。

ちなみにうちの息子にとって私は、子どもガチャにはずれた、といわないだけでもう、当たりらしい。私も、息子が親ガチャにはずれたといわないだけで、当たりといえる。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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