時空を超えて

Facebook石山 裕雅さん投稿記事

私の異色中の異色作 『縄文の魂』

世界的なカウンターテナーの本岩孝之氏にいつも歌って頂きました

https://www.google.co.jp/.../amp.amebaownd.com/posts/4702616  【2018.10.27(土) 奉『縄文神楽』〜文化庁芸術祭参加公演】より

公演内容:

●囃子組曲『大和礼賛』ー祀るー

作詞作調・構成演出 石山裕雅 謡・笛・道中太鼓・舞 石山裕雅 大拍子・大太鼓・打物 石山社中※縄文さながらの天地自然の恵みに感謝を捧げる原始的な神祭りに着想し組曲

●歌と笛で紡ぐ構成曲『縄文の魂』ー約束の場所ー

作詞作曲・演出構成 石山裕雅 補作 本岩孝之 歌 本岩孝之 笛・謡・太鼓 石山裕雅

太鼓・打ち物 石山社中

※一万年に亘り平和な社会を築いた縄文の世界を歌と和楽器で紡ぎ描きます。

一章 鶏鳴の夜明け 岩戸神話の長鳴き鳥の声にて、縄文の扉を開きます

二章 萬の楽土 縄文王国の風土、人々を美しい旋律と共に垣間見ます

三章 彼らの願い 縄文の人々の祈りと感謝、親子愛、神々との神楽、歌声、壮大にして崇高な縄文の人々の暮らし、かつてそこに確かにあった、豊かな楽土の躍動を鮮やかに描きます

四章 明日への種子 長き縄文の時は終わり、彼らの魂達は未来に希望を遺し、天地に還ってゆきます

五章 狂乱の叫び 日本を襲って戦争、天変地異、人災の様を描き、一気に現代まで進みます

六章 魂の行方 多くの痛みを抱えた現代の日本、富と引き換えに失ったもの、富の向こうに見えたもの、縄文人への鎮魂、感謝、未来へ向けての希望を唱えます。

初演、再演、そして今回と、上演のたびに進化改作を経て成長する作品であります。

類稀な本岩氏の歌声と石山太夫の篠笛の織り成す和洋の新たな音楽世界に誘われ、いざ縄文の国へ。

●一管『弥生神』

構成・作舞 石山裕雅

舞 石山社中

笛 石山裕雅

古典に基づきながらも縄文か弥生に淘汰され進化された神の姿を新たに生み出します。

笛のみの最も深淵な形式での特別奉演。

☆全体を神楽の本来の形式で神事の中に組み込み進行し、舞い、謡い、吹き、打つ、深く広い芸域と、古典に基づく創作の曲、全く新たな声楽家との曲など、伝統と革新を有する神楽太夫の存在感と、日本の芸能の始まりとなる神楽の真髄をご覧頂きます。

https://m.youtube.com/watch?v=_69Qkm32k60

日本の伝統芸能「神楽」と西洋歌劇が27日夕、東京・池袋で融合する。上演されるのは「奉 縄文神楽」(たてまつる じょうもんかぐら)。幅広い音域で知られるカウンターテナーの第一人者、本岩孝之さんが縄文神楽の舞台に登場、舞と笛、太鼓などに混じって神代の物語を高々と歌い上げるのだ。芸術の秋、和洋トップ同士による奇跡のコラボが実現した。

 「縄文神楽」とは神楽の中でも民間を中心に広まった里神楽をベースにしたもので、上演する無形文化財武州里神楽「石山社中」の十世家元・石山裕雅さんが考案した。石山さんは演目の作詞と作曲を担当した。神楽は基本的には舞と笛、太鼓などが主要な部分を担うが、「縄文神楽」では従来の形式に加え、歌の役割を増やすことで伝統を踏襲しつつ新たな形を生み出した。


http://myhp.jcv.jp/dimen/page047.html 【縄文の心と魂】より

【先入観の払拭】

私達の先入観として、文化というものは、時と共に高度に発達するのであり、時代を遡り、昔になる程、劣悪であったに違いないと思いがちです。これは、どうも間違いのようです。

遺跡の発掘が進み、縄文時代中期~1500年間の三内丸山遺跡の全貌が、分かり始め、

1997年には国の史跡に、2000年には特別史跡に指定されました。

その他にも、縄文時代の高度な文化を示唆する遺跡は幾つもありますが、先入観に曇った目では、真相に近づけないようです。

先入観をぬぐい去り、日本人の起源、魂のルーツをたどっていくと、見えてくるものは、日本全国共通の文化基盤として、高度に発達した縄文時代に行き着くという事実です。

その遺物の多くが、不思議と、心を打ちます。

弥生時代に比べても、現代アートに比べても、見劣りしていないのは、何故でしょう?

文化の担い手は、一つひとつの技法を、試行錯誤しながら体得していきます。

既にあるものを理想とし、これに向かって試行錯誤する、模倣的学習。

独自の理想を求め、今迄にないものに向かって試行錯誤する、創造的学習。

模倣的学習と創造的学習を総合することで、高度なものが発達します。(総合的学習)

情報に接する程に、目が肥えてきます。作り手の目が肥えてくる程に、高度なものを作ろうとします。利用者の目が肥えてくる程に、高度なものを求めようとします。

その結果、作り手、利用者、双方の欲求に押されて、文化は発達します。

情報が行き交う範囲内の人口が増える程、文化は発達します。日常的な文化は、いつの時代にも、地域差があるはずです。

作り手による偶然の差もあるでしょうが、入手できる情報の傾向や、利用者の求める傾向が、大きな要因でしょう。

その傾向は、日常使う品物や情報が交流し、且つ、普通に人が行き来する範囲を、一つのまとまりとし、このまとまり毎に異なるはずです。

ここでは、その範囲を仮りに「開放的交流圏」と呼ぶことにします。

情報が瞬時に行きかう現代は、文化の差が縮まってきています。過去に遡る程、情報の流通は遅くなります。地域の特色が大きくなる傾向が推測できます。

情報の流通に壁があると、地域差は、もっと大きくなるはずです。

地域の縄張りをめぐり、争いや対抗が深まると、情報の壁になります。情報の壁は、そのまま、開放的交流圏の障壁になります。

農耕生産を主体にした先史時代の社会、狩猟採集を主体にした先史時代の社会、障壁が増え、開放的交流圏が狭くなりやすいのは、農耕生産の方でしょう。

どちらも、土地の生産力に依存しており、これに伴う縄張争いはあり得ますが、狩猟採集より、農耕生産主体の方が、・ 縄張り内の人口密度が高く、境界の監視を強められる。

・ 人口が集積しやすく、縄張り内で自給自足できる品物を増やしやすい。

・ 縄張り外との交流を減らし、情報の壁を作りやすい。

・ 縄張りの境界を、そのまま、開放的交流圏の障壁にできる。

自給自足で良しとすれば、農耕生産主体の方が障壁が増えても、不思議ではありません。

恐らく、弥生時代、各地に農耕が広がるにつれ、縄張り争いが深まったでしょう。

対立解消の方法は、古今東西、大きく分けて3つ。

力ずくの決着ではなく、双方で利を分けあうよう、話合いで調整する方法・・・・・・・・・・・・・・・・A

(当事者同士の話し合いで上手くいかなければ、第三者を入れて調整)

対立しても、強弱が判明したら抗争を止め、序列を決めて無理をも受入れる方法 ・・・・・・・・B

弱者を衰微させ、強者を太らせ、最終的な絶対者を絞る方法 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・C

対立解消の3方法の中で、

Cを選ぶのが、独裁ないし専制です。Bを選ぶのが、服属です。Aを選ぶのが、和解です。

日本列島(広い意味では、樺太から台湾までですが、このページでは台湾と樺太を除きます。)では、大抵の場合、序列が決まれば、無理をも受入れ、抗争を止めていました。

有力者同士では和解や服属で対立を解消し、独裁も専制も頓挫してきました。

有力者の支配下では、一般の人々の対立は、和解を基本とし、誰かが調整にあたりました。

この一番の例外は、卑弥呼が一時的な緩衝装置になっていた地域の、弥生時代。

奴隷制の専制的国々が、耕地と労働力を奪い合って戦っていたようです。(参考書⑬)

(歴史家は、鎌倉時代以降を封建制としましたが、そんなマルクス主義的な発展段階論で、

古代以来の日本の歴史をとらえる事は、たぶん無意味でしょう。)

以上を考えると、弥生時代は、戦国時代同様、一般的に開放的交流圏は狭かったはず。

かえって、縄文時代や旧石器時代の方が、開放的交流圏は格段に広かったはずです。

実際、旧石器時代の日常的な道具の材料である黒曜石は、遠方まで運ばれています。

装身具である翡翠製品や南方産の貝殻は、縄文時代の日本列島全域に運ばれています。

   ・・・・・・(参考書①⑪)

縄文時代の遺物の多くが、弥生時代に比べて見劣りしないのも、不思議ではありません。

日本列島全体の人口は、縄文時代の方が、弥生時代に比べて格段に少ないものの、一つの開放的交流圏内の人口は、縄文時代の方が多かったかもしれません。物によっては、縄文時代の方が、高度に感じられるのは、この為かもしれません。

弥生時代の方が、高度に発達したのは、農耕技術は当然のことながら、その他は、戦いの技術や、集団の拘束・統率技術、金属技術であり、一般人が暮らしを楽しむ技術や文化は、縄文時代の方が、発達しいていたかもしれません。

縄文文化は、豊かで高度なものであり、外洋を渡る交流があったことも分かりました。

日本人の国民性、心根、文化を、正当に理解するには、この縄文の理解が不可欠です。

【日本理解のスタートライン】

国際関係においては、背景となる文化の違いが、相互理解の障壁になる場合があります。

交渉する相手、ぶつかる相手に合わせてこちらの出方を変えていかないと、埒があかないばかりか、こちらの真意を逆に受け止られる事すらあるのが現実です。

例えば、日本人一般のレベルが高すぎて、相手が理解できずに通用しない場合や、逆に、相手の一般レベルが高すぎて、日本人には理解できない場合などです。

黒船来航以後、日本は、既にある国際基準に従わされる側でした。

一つの正当な基準(グローバルスタンダード)が、先にあるという誤解が定着しました。

本当は、多国間の交渉の中で、共通化できる基準を増やしていくのが、グローバル化のはず。国々が群雄割拠する中で、交渉やぶつかり合いが繰り広げられて物事が動きます。

国どうしの交渉には、身勝手な理屈も使われ、優位に立つ為に情報も操作されます。

時代や地域的背景を無視、攻防応酬の片方を無視することで、偏向させる情報もあります。

このような歪められた情報しか与えられていない国の人々や、情報の歪みなど考えにくい日本人が、まんまと嵌められるケースは少なくありません。

縄文の心と魂を、色々な角度から考えてみる事で、日本人の国民性、心根、文化を、正当に理解するスタートラインにしたいと考えます。

【手掛かりとしての発掘物と伝承】

土の中から発掘される遺物は、先史時代の状況を推察するには、貴重な証拠ですが、何千年も、分解せず残るのは、極めてわずか、偶然にも近い好条件に恵まれた物だけです。

文字や記録の乏しい時代では、遺物に痕跡を留めにくい事柄もあります。

それでも発掘物から文化を推察する手掛かりとして、考古学者は、次の6つを挙げています。

(イ).その遺跡で確認された事実

(ロ).同族と推測できる周辺の遺跡に残された事実

(ハ).同時期の同じ文化圏の遺跡で確認できた事実

    (文化圏の範囲は、各種の土器・土偶・石器の分布状況などから推定)

(ニ).古今変わらないと推定できる生理・生態などに基づく推定

(ホ).日本及び世界の狩猟採集民についての民俗学や民族誌から類推できる解釈

(ヘ).想定できる活動や方法のうち、可能性の高いもの(実験などの検証を経て絞る)

   ・・・・・・(参考書①P151より要約)

ただし、(ホ)と(へ)の方法には、推察者の先入観が影響しかねないと、私は考えます。

一方、「伝承」は、荒唐無稽に映るかもしれませんが、上記の先入観を破る手掛かりになり、中には、何らかの事実の反映が残っていると考えても良いでしょうし、昔の人々の事実誤認があったとしても、当時の世界観の影響と推察しても良いでしょう。

あるいは、そのような創作をした意図を推測することで、何かが分かるかもしれません。

現代の私達にとって、伝承というものは、不確かなものというイメージです。

伝言ゲームで、情報の変質を経験しており、伝承も同様だろうと言う先入観があります。

実際は、図や文字、音声、映像など記録技術の発達で、伝承の技術が退化したのです。

真偽の程は不確かですが、一万年、正確に伝承を保つ技術もありそうです。・・・(参考書:⑤)

最初の情報を作った人々に事実誤認や意図的な創作があれば、正確に伝承されたとしても、事実とは異なる物語になりかねないですから、

「伝承=事実」と言うことはできませんが、「伝承=事実無根」とも言えません。

何れにしても、伝承のどの部分が、どこまで事実を反映しているか、検討するには、

物的証拠や状況証拠などに相当する、多様な学問的研究と照合する必要がありそうです。

【発掘物からの推測】

● 社会観1--埋葬から

耳飾り、ヘアピンなどが、日常生活の跡からよく発見されるようです。

縄文人は、装身具を日常、あるいは、ハレの日に身に着けていたと推測されています。

しかし、装身具ごと埋葬され.る事は少なく、生業に関わる副葬品がある事、(参考書①P106、195) などから、つぎのような見方にも納得できます。

『各種の個人的能力によるゆるやかな階層は存在した。時に、階層は代々受け継がれて固定する場合もあったらしいが、固定的な上下関係となったり、余剰や特定の原料・設備・技術などを独占し、直接生産には携わらない階層、つまり階級が誕生していたとは考えにくい。』

   ・・・・・・(参考書①P197)

● 社会観2--集落形成から

狩猟採集を主にしている人々にも、縄張りはあるはずです。

夫婦と子で家族を作る哺乳類は、一家族ごとに、距離をおいて縄張りを作るのが一般的です。

人類も、家族を作りますが、今は、基本的に、複数の家族で集団(集落等)を作ります。

日本列島にいた人々は、縄文時代も、旧石器時代の一時期も、同様に集団を作りました。

一家族の縄張りではなく、複数の家族で、縄張りを共有していたと推測できます。

複数家族が集団で暮らしていた痕跡と推定される、3万5千年前からの「環状ブロック」が、関東・中部高原を中心に全国各地から発見されています。        ・・・・(参考書①P32)

この「環状ブロック」は、日本でしか発見されていません。         ・・・・(参考書②P21)

一家族しか入れそうもない小振りの移動住居(テント的)が、環状に並んでいたようです。

環状ブロックは、ナウマン象などの大型哺乳類の狩りを共同で行う、比較的対等な関係にある複数の家族が集まったキャンプ地であったと考えられています。

 http://www.avis.ne.jp/~nojiriko/index.html

 http://www.city.midori.gunma.jp/iwajuku/jouhoufile/origin45/origin045_2p-3p.pdf

2万4千年前に噴火し鹿児島湾を作った姶良カルデラの火山灰より上の地層からは、

すなわち、2万4千年前を過ぎた後では、環状ブロックは姿を消しています。

その頃には、大型哺乳類が絶滅していたと考えられています。

ところが、縄文時代前期半ばから中期にかけて、東北地方南部から関東・中部地方に、

よく似た形態の、環状に発達した「環状集落」が多くなります。(参考書①P132、235)

広場を中心に竪穴住居が複数建っていました。

2万年の時を隔てても、集落構造が似ているのは、何とも不思議ですが、格差の少ない

息の合ったチームプレーをしながら、暮らしを支え合うと言う、共通の理念かもしれません。

日本列島では、3万年以上前から、人と人との係わり合い方、協力態勢の作り方が、独特に発達し、精神文化にも深く影響しているのかもしれません。

このような居住跡の多さに比べ、洞穴内に居住した痕跡は極めて少ないようです。

ただし、洞穴の入口や岩陰を利用した「岩陰遺跡」は、あったようです。

ヨーロッパやシベリアでは、洞穴内に居住した痕跡の例が多く、 (参考書①P44)

そこでは、家族と集団の基本的関係は、今とは違っいてたかもしれません。(洞窟遺跡)

洞穴の奥まで全体を使って住む事になれば、一つの住居内の人数は増えるでしょう。

強力なリーダーの統制下で、大勢で一緒に住む状態も、想像できます。

(それが、エディプスコンプレックスや父権優位型神話の素地になったのかもしれません)

岩陰遺跡では、居住可能な人数は少ないので、強力な統制は必要なかったでしょう。

争いの決着方法として、ABC、大きく分けて3つの方法を説明しました。

環状ブロックや環状集落では、Aの和解の方法で共存を図っていたのではないでしょうか。

そう考えないと、集落の形は不自然です。

今も、日本では、曖昧でも、皆で合意できる決着を選ぶ傾向にありますが、このような傾向の、そもそもの始まりだったのかもしれません。

● 美醜観--土器・土偶・装身から

発掘された土器や土偶は、端正でもなく均整もとれず、しなやかでも可憐でもありません。

自然の中の可憐な美しさ、(あふれ過ぎていて、低い評価だったかもしれませんが、)

この種の美しさを、縄文人が感じていなかったはずはありません。

にもかかわらず、ゴテゴテとした、歪とも言える造形を追求した心は、何だったのでしょう?

私が、作品から感じるのは、不自然さをも克服できる力強き生命力です。

不自然さは、生理的にも、生存競争的にも、本来は不利に働きます。

また、抜歯の風習や、歯を鋸状に削るなど、生理的には不利に働く事をあえて行いました。

刺青を連想する模様を付けた人物描写もあります。

何か、生命力や威圧感を誇示しようとしていたのではないかと、私は推察します。

素焼きと言う素材では、しなやかさや可憐さを表現するのが、難しい事もあるでしょうが、

それにしても、力強さや生命力を連想する作品の多さは、特別です。

縄文人の最大のテーマが、生命力だったのかもしれません。

● 祖先観--墓・改葬・合葬から

旧石器時代にはなかった墓が、縄文時代、定住生活に伴って集落の中に造られました。

縄文早期に副葬が始まり、生産の余剰や交易などが発達し始めた証と考えられています。

   ・・・・・・(参考書①P81)

縄文中期になると、東北地方から北海道にかけて円筒土器文化圏が成立しています。

中でも、三内丸山遺跡では、リーダー格と推定される者の墓が別格扱いで配置されており、

長年祭られた事実もあり、祖先崇拝の萌芽と考えられます。 ・・(参考書①P89~128、234)

東北地方南部から関東・中部地方の、前期半ばから中期にかけての環状集落では、

集落の中央広場に墓地が据えられて、祖先を核にした生活が営まれていました。

   ・・・・・・(参考書①P235~236)

異なる種族が合体し、改葬、合葬したケースもあります。(千葉県権現原貝塚)

   ・・・・・・(参考書①P134)

縄文後期には、東北地方の大規模な集落は解体し、小規模な集落に分散しましたが、

代わって、東日本南部から西日本にかけて、住居数が増えてきます。

寒冷化に伴う移住があったと推測され、土器や装身具の種類からも裏付けられています。

集落から離れた所に、環状列石の墓を造り、その下に遺骨を埋葬するようになりました。

周辺集落が共同して、改葬、合葬し、結束の証と祭りの場にしたものと推定されています。

近畿地方では、縄文後期後半から晩期に環状配置墓も現れています。

   ・・・・・・(参考書①P237~263)

縄文後期から晩期にかけて、複数の集団の間で、同盟を結び、結束を図る方法として、

祖先の遺骨の改葬、合葬が、東西に広まった可能性があると、私は推察します。

土地の支配をめぐり、縄張りが細かくなり、同盟を求め始めた表れかもしれません。

縄文後期から、原始的農耕(焼畑など)が、東日本にも広まった可能性が高いと考えます。

   ・・・・・・(参考書⑫P63グラフ)

● 食糧事情--狩猟・漁労・採取・栽培と気候変動

縄文時代の1万年以上の間、温暖化が進んだり戻ったりしていたことが分かっています。

『縄文人は、獲物を求めてさすらっていた』、あるいは、『土地に慣れ親しんだら定住した』

と、現代の私達は、うっかり思いがちですが、食糧を安定確保して定住する為に、

動物や植物などの生態や活用方法を知り尽くし、慣れ親しんだ動植物と暮らしたはずです。

気候変動によって自然環境が変化すれば、慣れ親しんだ動植物を求めて、

温暖化が進めば南から北へ低地から高地へ、寒冷に戻れば北から南へ高地から低地へと、

日本列島の中で、人々の移動があったと考えることができます。(参考書③P10~16)

日本列島内には様々な起源をもった種族がいたと考えられます。

仮に、異なる種族間では、混じり合う事を避けて暮らしていたとしても、

このような人口移動があれば、混じり合わずに暮らし続けることは難しかったでしょう。

むしろ、混じり合う事で、異なる自然環境について、知識を交換していたかもしれません。

知識の交換により、暮らしが楽になり、生活にゆとりも生まれたのではないでしょうか。

● 三内丸山遺跡の位置づけ--進取の気性にあふれた種族の交易拠点か?

縄文中期、黒潮を渡り切る航海術が、日本列島にもたらされていた事は、分かっています。

南洋の海洋族(日本人の起源、・・記載の⑥種族)が青森湾まで来ていたのかもしれません。

外洋魚を好む食事(参考書⑥)、南方原産の栽培作物の導入なども、証左の一つです。

大変広範囲の交易拠点として発展した大集落であり、

1500年も続いたという意味では、王国にも匹敵するのではないでしょうか?

縄文中期、日本列島各地の遺跡から、非常に広範囲の交易を示す品物が出土しています。

   ・・・・・・(参考書⑪)

縄文時代にも、進取の気性に溢れた、活気のある時期があったものと推察します。

縄文中期には東日本、縄文後期~晩期には西日本を中心に、

進取の気性が新しい時代を切り開いていったのではないでしょうか。

【弥生文化の影響が少ない地域の伝承文化から、縄文文化を推測】

●魂送り--貝塚・アイヌ文化から

アイヌの考え方では、動植物などの自然物も、人が作った物も、全て魂が宿っています。

この中には、カムイが人間界に降りてきて何かに宿った物もあります。

例えば、熊となって人間界に肉をもたらせてくれるカムイです。

人間界での用事が済んで、再びカムイの世界に帰る時、

霊魂の乗った花矢を天空めがけて射ると、カムイの国に帰る事ができます。

この時、火を焚き、祭壇の前に遺骸を集め、イナウ(木幣)や供物、酒を供え、

祈りの言葉「イノンノ・イタッ」を述べ、歌や踊りで供養して慰めます。

再び、人間界に喜んで降りて来て下さるよう、カムイを送り出します。    ・・・・(参考書⑦)

縄文時代の貝塚でも、同様の事が行わたとの推察もあります。 ・・・・(参考書①P189、223)

貝塚には、獲物ばかりでなく、人骨が葬られることもありました。    ・・・・(参考書①P148)

アイヌの伝承で語られる世界は、闘いであっても、弱肉強食や徹底的な勧善懲悪ではなく、

最後には和解が、あるいは、悪者であっても滅ぼさないでおく救いが、用意されています。

成功談にしても、周囲のお陰があっての事、失敗談にしても、驕りや過信への戒め、

そこには、独裁や専制、服属さえ嫌い、人情の機微、平等で平穏な暮らしの希求を感じます。

   ・・・・・・(参考書⑦⑧)

後期から晩期の日本列島東部における縄文社会の心情は、

狩猟採集と交易を主とするアイヌ社会が持つ上記の心情と共通するのではと、推察します。

質的変化の無い停滞気味の社会との評価ですが、           ・・・・・(参考書①P241)

停滞気味とは言え、温かい人情と平等の精神に溢れていたものと推察します。

●進取の気性と女性司祭--奄美・沖縄・先島

台湾に近い方から、先島諸島、沖縄諸島、奄美諸島とつづく、琉球列島の島々では、

古くからノロ(女性神官)が聖域を管理し、祭りを司ってきました。

女性の方が、沈着冷静なシッカリ者で、土地に根着き、家を守っていくのに対し、

男性は、進取の気性に溢れ、才覚を重んじ、勇猛果敢で、どこへでも雄飛する。

伝承されてきた物語の中では、このような性格に描かれています。

沖縄本島の伝承では、祖先神のアマミキヨが、ニライカナイから渡ってきて、

沖合の久高島に上陸、ここから対岸の沖縄本島の百名の浜へ渡り、洞窟で暮らした後、

突然現れたソネヒコと名乗る男性と結婚して子を設けたのが、始まりだとされています。

また、島民が増えると、アマミキヨは稲を求めて、ニライカナイの神の島を訪ねたが、

一度目は、分けてもらえず、二度目は使者を出すと、ニライカナイで飼っている鶴をもらい、

稲が熟した頃、稲を取ってこいと言って放すようにと、教えられました。

その通りすると、東方の海の彼方に去り、嵐の後、口に稲穂をくわえた鶴が発見されました。

その時の稲を育てたのが、百名の浜近く、受水走水にある御穂田であるとの伝承です。

(南城市にある「受水走水」に、北山王(現・今帰仁村)伊波按司が唐から稲を持ち帰り、

 琉球中に広めたとの伝承、他色々あり、また、民俗学者の谷川健一氏は、参考書⑩

 において、日本列島全体の中での物と技術の交流を物語るとの見方を示しています。)

先島諸島の波照間島には、火の雨が降り、島民が死に絶えたが、

海中の洞窟に隠れていた兄妹が生き残り、祖先になったとする伝承があります。

先島諸島の宮古島には、大津波で島民も家もことごとく流されたが、

山腹の洞窟に一人の女性と飼い犬が生き残っていて、難破船で漂着した男性と結ばれ、

子孫を増やすことができ、宮古島の祖先になったとする伝承があります。

下地島に沢山ある、大岩、小岩は、津波で海から押し上げられたとの伝承があれます。

   ・・・・・・以上(参考書⑨)

沖縄には、津波や火山の噴出物で壊滅した村の伝承が、多く残されています。

津波の伝承は、1771年に起きた八重山地震に伴う津波ではないかと推定されています。

噴火の伝承は、西表島沖の海底火山または未知の火山が、関係しているかも知れません。

沖縄県内の活火山は、現在2つ把握されていますが、これ以外にもあるのかもしれません。

(沖縄本島の北80Kmの硫黄鳥島と、西表島の北北東20Kmの海底火山)

また、海で囲まれていても、敵は攻めてきます。海賊の伝承もあります。(参考書⑨)

海賊や兵士、落ち武者など、船で何時来るか分からないと言う、緊張感は本土以上でしょう。

自然災害に加え、人為的な厳しさもあり、進取の精神で常に情報収集する事が、

生き残りの知恵になっていったのかもしれません。

沖縄本島に人が住みついた経過は、「日本人の起源、・・」のページで説明すれば、

先ず①の種族が、次に⑤の種族が住み付いたものと推察しますが、津波や噴火、

毎年の台風など、自然災害の多い所であり、人口は増えにくかったと推察します。

これが、縄文中期より前の遺跡が発見されにくい、主な要因でしょう。

⑥の種族が、新技術と物資、人の交流を再開させ、人口が増えたと考えるのが自然です。

以上の推理を更に進めれば、日本列島の中で、⑥の種族の影響が一番強く残るのは、

琉球列島であると、私は推察します。

【南北の融合】

沖縄に伝わる男性の進取の気性、沈着冷静でシッカリ者の女性の心根も、

北海道のアイヌに伝わる和解の心根も、

ともに、現代の日本人が共有する心根の故郷の一つです。

一つの体の一部であり、切り離すことの出来ないものです。

祖先崇拝、世界観、人間観等も、南北融合して、多彩な文化の基盤になったと推察します。

この日本の心根は、縄文の太古から綿々と伝わり、入り混じって、醸し出されたものであり、

世界中探しても、似たような成立経過をたどった心根は無い、貴重なものかもしれません。

様々な文化を持った種族が、共存共栄していく為の、またとない先例でもあります。

【日本理解の目標地点】

日本人が、日本の心根や魂を、誇りに思って大切にしてくれることを、私は、望みます。

自分の国の心根や魂に誇りを持ち、大切にする気持ちがあればこそ、

他国の方々の、同じような持ちが理解でき、尊重できるのではないでしょうか?

第二次世界大戦の最中やその前に、他国の文化や気持ちを踏みにじってしまったのは、

本当の意味での日本の心根や魂について、理解を広めようとした為ではなく、

軍部に都合の良い歪曲を、自国民にも、他国民にも押付け、

まだ稚拙だった民主主義が、偏狭なナショナリズムに同調していくよう、

マスコミを使った情報操作により、国民を嵌めていった為ではないかと推察します。

縄文の心と魂の概要について、納得できる解説がなかった為、私なりに、解説を試みました。

論理的な整合性を保とうとした為、学会の定説とは異なる部分があるかもしれません。

新解釈かもしれませんが、参考にして頂ければ、幸いです。

参考書

①.縄文の生活誌 岡村道雄著 2008年 講談社学術文庫

  (原本:日本の歴史・第1巻改訂版 2002年 講談社)

②.日本人の起源 2009年 ニュートンプレス

③.日本文化の形成 宮本常一著 2005年(1981年遺稿) 講談社学術文庫

④.海を渡ったモンゴロイド 後藤明著 2003年 講談社

⑤.一万年の旅路 ポーラアンダーウッド著・星川淳訳 1998年 翔泳社

⑥.日本人さかなの出会い 河井智康著 2001年 角川書店

⑦.カムイ・ユーカラ 山本多助著 1993年 平凡社

⑧.アイヌの昔話 菅野茂著 1993年 平凡社

⑨.日本の民話〈16〉沖縄 植村功他編、琉球大学口承文芸研究会他著 1981年 研秀出版

⑩.日本の神々 谷川健一著 1999年 岩波書店

⑪.海を渡った縄文人 橋口尚武他共著 1999年 小学館

⑫.縄文文化と日本人 佐々木高明著 2001年 講談社

⑬.王権誕生 寺沢薫著 2008年(原本2000年) 講談社学術文庫

⑭.縄文宗教の謎 吉田敦彦著 1993年 大和書房

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000