http://anzenmon.jp/page/10243157 【マインドフルネスへの七つの基本姿勢】より
バラの木が花を咲かせるためには、一定の条件が必要です。主な条件には、よい土壌、日光、空気、水分、適切な栄養分、害虫からの保護などがあげられます。同じように、瞑想に取り組む人が成果をあげるためにも、一定の条件が必要です。
本書の主なねらいは、あなたがマインドフルネス瞑想をよりどころとなる日々の習慣にできるようにすることにあります。瞑想が生活の一部になれば、日々の暮らしに強引に割り込んでくる恐怖や不安、パニックを克服していけるでしょう。
瞑想の成果をあげるためには、それを促す精神的な条件と外的条件を整える必要があります。本章では精神的な条件に注目し、次章で外的な必要条件やトレーニングにかかわる実際的な問題に目を向けます。
四つの精神的要件
瞑想トレーニングの基盤となる重要な精神的要件が四つあります。
態度。瞑想を行う際には、理想を求めすぎても、はすに構えすぎてもいけません。何もわからないという態度でいるのが一番です。
好奇心。不快なときやつらいときであっても、自分や自分の人生についてもっと何かを発見してやろうという好奇心や願望を持ちましょう。
やる気・決意・自律心。まじめにコツコツ取り組まないと、瞑想の成果は上がりません。瞑想が好きでなくてもかまいませんが、実行はしなくてはいけません。
自分への信頼。恐怖や不安、パニックに対処するために自分に何かができるという自信を持つことです。
取り組み方
瞑想に取り組む自分の姿勢について、しばし考えてみましょう。最初の姿勢は、何より重要と言っていいほど決定的な意味を持ちます。
皮肉屋
自分の状況を皮肉な目で見たり、恨みがましく思ったことはありませんか。安心など得られないとあきらめ、希望を失ってはいませんか。人生の妨げとなる恐怖や不安を克服する望みを捨ててはいないでしょうか。
マインドフルネス瞑想によって恐怖や不安、パニックを克服しようという考えに対して、皮肉っぽい人はこんな態度を示すかもしれません。「何をやっても救われないことはわかっている。とにかくこの瞑想をやって、それを証明してやろう」。そして、恐怖やパニックが戻ってきたとたん、こう言うのです。「ほら、言ったとおりだ。マインドフルネスも救いにはならないんだ」
熱烈な信奉者
それとも、あなたは熱烈に信奉するタイプでしょうか。このタイプの人は(人生におけるほかの多くのことと同様)瞑想トレーニングを理想化します。「これが私のすべての問題に対する答えだ。これで私は救われる」というわけです。努力や実践が求められることや、人生には難問や浮き沈みがつきものだということがわかっていません。そして、再び恐怖やパニックが生じると、がっかりして、「ああ、これは答えじゃなかったんだ。またほかを探さなきゃ」と言うのです。
好奇心旺盛な懐疑派
皮肉屋や熱烈な信奉者よりはるかに現実的で効果があがる、中間的な態度があります。瞑想を実践するうえで最も役立つそうした態度のことを、ジョン・カバット= ジンは「好奇心旺盛な懐疑派」と呼んでいます。このタイプの人は、やみくもに信じこむことも、絶望と憎しみからはすに構えることもありません。
懐疑派というのは、積極的な取り組みや努力なしでも瞑想によって問題がすべて解決するなどと、頭から思いこんでいないからです。それどころか、瞑想の方法も、それが本当に役立つかどうかもわからないことを進んで認めます。
その反面、好奇心旺盛でもあります。やってみる価値のあることには、努力や自律心、積極的な取り組みが必要なことを認識しています。トレーニングに全力を尽くし、その成果を見きわめようとします。そうしたプロセスや自分自身に進んで時間と労力を注ぎ、その結果への関心も高いのです。
心を落ち着け体をリラックスさせて、今を意識する力をはぐくむためには、自分の態度をよく検討し、必要なら進んで変えていかなくてはなりません。
経験の旅に出かけましょう
人生においてマインドフルネスという癒しの力を培うためには、ただ瞑想のポーズをとったり、瞑想の指示に従ったり、テープを聞いたりするだけではいけません。マインドフルネス瞑想を始めることによって、あなたは新たな形で学び始めます。学ぶ対象は、一瞬ごとに移り変わってゆく自分自身と自分の人生。それを徹底的に学んでいくのです。
これは経験的な学習です。直接経験することによって学ぶのです。瞑想を行ううちにも、あなたの人生は進み続け、瞑想の実践が人生における体験を変えていきます。
何をどれだけ学ぶかはまさにあなた次第です。あなたは、頭だけでなく、自分の全存在をとおして学びます。体内で何かが起きるとき、思考だけでなく、視覚や聴覚、嗅覚、味覚などをとおして今を意識していくことで学ぶのです。
積極的な気持ちで今にとどまり注意を払っていくことが、学びを得る唯一の方法です。先入観からは何も学べません。コツコツと瞑想を実践して、直接的な体験を重ねるにつれ、やがて理解が深まります。
こうした学びは、得ようとして得られるものではなく、すべてをあるがままに任せ、何かを発見していくなかで形を成していくプロセスです。あなたがはぐくむ意識は何ものも変えようとはしません。変化は意識に導かれ、後から起こってくるものです。恐怖や不安、パニックへのあなたの対処法はおそらくがらりと変わるでしょうが、そうした変化はマインドフルネスを発揮して体験のひとつひとつに深く触れて初めて訪れます。今生じてくるものに心を開き、これを受け入れることがきわめて重要です。
瞑想という行為や瞑想を人生の癒しに応用することを、一つのプロセスあるいは旅だと考えるといいでしょう。注意を向けながら今を生きることが確実な習慣となっていくなかで、この旅は続き、一瞬ごとに、そして時の経過につれて変化していきます。
こう考えると、あなたが保持する(とりわけ自分で気づいていない)態度、捨て去る態度、培う態度のすべてが、学びながら今を生きるプロセスに深い影響を与えます。
七つの基本姿勢
ジョン・カバット= ジンは『生命力がよみがえる瞑想健康法』のなかで、マインドフルネスの基本となる七つの具体的な姿勢について述べています。「判断しない」、「忍耐強い」、「初心を忘れない」、「自分を信じる」、「努力しない」、「受け入れる」、「とらわれない」の七つで、あなたがマインドフルネスを養い深めていく一瞬一瞬、一日一日に直接かかわってくるものです。本書を通じてマインドフルネスという資質を培い、それを発揮して恐怖や不安、パニックに対処することを学んでゆくなかで、こうした姿勢が必要となる場面がたびたびあることでしょう。
こうした姿勢は互いに支え合い、深く結びついています。一つを実践すればほかの姿勢につながっていきます。
瞑想トレーニングにこうした姿勢で臨めるかどうかは、長い目で見て、不安な心を鎮める能力やその成否と大いに関係してくるでしょう。実際のトレーニングのなかで、あなたはこうした姿勢を学び、たびたびそこに立ち返り、これらが実になくてはならない支えであることを理解するようになるでしょう。
判断しない
マインドフルネスとは、心を開いて、慈しみの気持ちであらゆるものに意識を向けることです。マインドフルネスは、今この瞬間の自分の体験を、偏見を持たずに注意深く観察することによって培われます。そのためには、判断を加えずに今という瞬間の体験と向き合う必要があります。
体験を区別し判断する習慣を捨てないと、反射的に反応し、同じ思考や感情、行動を繰り返すパターンから抜けだせません。そうしたパターンにあなたは気づいてさえいないかもしれませんが、判断が入りこんでくることで、あなたは一瞬ごとの直接的な体験や人生の現実と切り離されてしまいます。マインドフルネス瞑想を行うとき、判断するという心の性質を認識し、判断しようとする思考が生じてくるのに気づくことが重要です。判断の内容にさらに判断を加えないというのも、それに劣らず重要なことです。判断が今生じていることに注意を向けるだけにしましょう。
ビルの場合
ビルは全般性不安障害をわずらっています。強い心配が心を離れず、生活のどんな場面にあっても恐ろしいできごとが起こるように思えてきます。苦しい年月を重ね、ビルは心配や恐怖を憎むようになりました。さらに悪いことに、その過程で、自分を手厳しく批判するようになってしまいました。恐ろしい空想が思い浮かぶのとほとんど同時に、「おれは何て弱虫なんだ」、「頭がどうかしてる」といった意地の悪い、侮辱的な考えが浮かんできます。
マインドフルネス瞑想を始めると、ビルは、不安や心配が生じるたびに繰り返す自分の思考パターンや批判癖、判断癖に気づき、判断を下さない練習をするよう心がけました。 しばらくすると、少なくとも判断の一部は、今を通り過ぎていく考えにすぎないことに気づきました。時にはまだ強い不安が生じるものの、少しリラックスでき、心も体もほぐれてきました。
また、あらゆる恐ろしい思考のほか、不安感自体も存在するままにしておけるようになってきました。不安や恐怖が生じても、ビルがそれに支配されることはほとんどなくなりました。ビルは、こうしたことが、不快ではあっても、今を通り過ぎていくものの一つにすぎないと考えられるようになったのです。
忍耐強い
忍耐強さとは、落ち着きと自制心を保ちながら困難に耐える力です。忍耐強くあるためには、心の中心にある落ち着きとつながり、信念や勇気を持つことが必要となります。また、混乱した状況に耐えるためには、自分に対するある程度の慈しみや思いやりも必要です。人が辛抱しきれなくなるのは、たいてい、自分のなかの自己中心的な自我が、それはあるべき姿と違うぞ、と不満の声をあげるときです。
ものごとにはものごとなりのサイクルがあり、必ずしも自我の思いどおりにはなりません。この真実は、忍耐強さを支える知恵となります。そのことを受け入れられるようになるほどに、忍耐力が増すことでしょう。
忍耐強くなるためには、我慢できずにじりじりしている状態に気づくようになる必要があります。次の瞬間に急ごうとする傾向に注意を向けましょう。
ヘレンの場合
ヘレンは不安障害というわけではありません。いい仕事につきながら、夫と二人の子どものために家庭を切り盛りし、忙しい生活を送っています。また、近くの町に住む年老いた母親の面倒も見ています。母親が体調を崩すようになり、母親の健康状態や一人でやっていけるかどうかが心配になってきました。
ある平日の夜九時半ごろ、母親の隣人から電話がありました。今病院であなたのお母さんにつきそっている、どうやら脳卒中を起こしたらしい、だいぶ重症のようだからすぐ病院に来てくれ、というのでした。
母は大丈夫だろうか、私は何をすれば……。ヘレンの心はたちまち恐ろしい思いでいっぱいになりました。体はこわばり、ストレスを感じるときの常で、首や背中が痛みます。気がめいり、底知れない恐怖がわいてきました。
ヘレンは数カ月前から瞑想のクラスに通って、マインドフルネスとその瞑想法について学んでいました。そこで、ひと息ごとに、じっくりと自分の呼吸に注意を払ってみました。すると、心と体に現れた動揺と苦痛がより深く感じられました。彼女は忍耐強さを忘れないことを学んでいました。自我が不満の声をあげている間も、人生は生と死のサイクルで進み、自分には母親の状況をどうこうできないのだ、と心に刻むことができました。
電話のあと、ヘレンは瞑想のクラスで学んだ意識的な呼吸法を役立てることができ、落ち着きました。家族にことの次第を告げ、上司の留守電にメッセージを残し、準備をして病院に向かいました。
母親の元に駆けつけ、つきそっている間、ヘレンは自分を見失わずに忍耐強く今を意識していました。恐怖心や体のストレス反応、次々と心にわくさまざまな計画や考えにはずっと気づいていましたが、そうしたすべてのものに耐え、これがあるがままの現実なのだという分別を持って、できるかぎりのことをしたのでした。
初心を忘れない
今ここにあるものを観察し始めるとき、考える心は、それについてすべて承知していると思いがちです。あるいは、もっと多くの情報をしゃにむに得ようとすることで事態をコントロールしようとします。考えるという行為は、一瞬ごとに移りゆく人生の直接的な体験や真の豊かさとあなたとを隔ててしまうものです。
初心を忘れないというのは、一瞬ごとの体験に対して、初めて出会うことのように心を開くという意味です。
子どもが何かに初めて出会うときの驚きを思い浮かべてみてください。初めてかぐ花の香り、初めて触れる雨粒、初めて口にするオレンジの味。どれも、思考や過去との比較が介在しない体験です。今という瞬間に、においや感触、味、音、光景として、あるがままに直接感じられる体験です。
実際、ひとつひとつの瞬間は一度しか訪れません。何度となく夕焼けを目にしたことがあっても、今のこの夕焼けは初めて体験するものです。同じことが、吸いこむ息、百回目に食べるお気に入りのデザートの味といったことにもあてはまります。今のこの呼吸、今のこの味は過去には経験したことのないものであり、この先二度と経験することのないものです。
マインドフルネス瞑想では、こうしたじかに体験するという資質をはぐくみ、生じてくるすべてのものを一度きりの貴重な体験として受け止めるよう求められます。それがつまり、初心を忘れないということなのです。
アンの場合
アンは夜中に汗をかき、動悸と息苦しさを覚えて、目を覚ましました。今にも死ぬのではという考えで頭はいっぱいです。パニック発作を起こしたのでした。発作は三年以上前から起きていて、アンは精神科にかかっていました。「ストレスで参って」いるときのほうが、発作が起きやすいようでした。その朝も、八カ月つきあった恋人と別れたことや「仕事のストレスで本当に参ってるの」と親友にこぼしたばかりでした。
何分かがじりじりと過ぎてゆき、発作はひどくなる一方。「パニック発作なんて、もういや」という思いが頭をよぎります。「これでおしまいなのかも。息もできないし。私は死ぬんだ」
そのとき、アンはマインドフルネス瞑想のクラスで学んだことを思いだし、自分の感じている恐怖心や動揺、強烈な身体的感覚に気づきました。アンはベッドから出ると、毎日の瞑想に使う椅子に腰を下ろしました。一呼吸一呼吸に注意を集中すると、少しは今に意識が向いてきました。まだ恐怖は感じるものの、自分のなかにその恐怖を包み込めそうな広がりがあることにも気づきました。
そうだ、初心を忘れてはいけないんだった。どのできごとも初めてのことのように受け止めること。思いこみは何の役にも立たない。受け止め方次第で事態が悪化することもある……。そう思いだしたアンは、パニック発作を初めて経験することのように受け止めようとしました。
瞑想のクラスで体に注意を集中させることを学んでいたので、発作で生じている実際の身体的、感情的、精神的な症状にじっくり注意を払ってみました。教えられたとおりに、さまざまな感覚が生じては消え去っていくに任せましたが、簡単にはいきません。アンは集中を高めるため、繰り返し呼吸に注意を戻さなくてはなりませんでした。
しばらくすると、発作はおさまりました。アンは心から安堵しました。そして、時計を見て、「いつもより早くおさまった。発作は本当に一回ごとに違うのかも。瞑想を利用すれば、自分で発作を何とかできそうな気がする」と思ったのでした。
自分を信じる
自分の感覚や自分自身を信じるのを学ぶことは、瞑想を学ぶうえでの基本です。自分の身に起きていることを自分ははっきり理解できると信じるようにならなくてはいけませ
ん。
マインドフルネス瞑想を実践するにつれ、人生や一瞬ごとの体験に意識を向ける力が高まっていきます。感性が鋭くなり、今ここにあるものや自分の心身の状態、自分の周囲の状況を正確に見きわめる力がつくでしょう。自分の内外で起きていることを最もよく知る人間は自分だけであることがわかってきます。そうしたことを誰かに教えてもらう必要はないのです。
あなたは自分にすでに備わっているすぐれた能力を発揮して、注意を払いながら今を生きられるようになれます。重要なのは、自分を知ることについて、自分以外のものに頼るのではなく、自らの力を信じるようになることです。その過程で、何ものにもとらわれず、本当の人生を生きるということの真の意味がわかります。
マックの場合
マックはベトナム戦争を戦った退役軍人です。三〇年近くにわたり、日常生活に入りこんでくる戦争の記憶を何とか押しとどめようとしてきました。頭の中は恐ろしい光景や物音に満ち、体はすっかりすくみあがってしまいます。彼はやっとの思いで何とか仕事を続け、二度目の結婚生活を順調に送っていました。
ところが、高血圧と悪夢がひどくなってきました。薬もききません。精神科医は、「今陥っている悪循環から抜けだすために何かすべきだ」とアドバイスしました。
マックはマインドフルネス瞑想のプログラムについて耳にし、これに申し込みました。およそ四週間の間、日々瞑想を続け、自分の体と思考に意識を向けていくと、以前よりリラックスできるようになってきました。血圧が下がり、ぐっすり眠れるようになりました。
けれども、その後で状況が悪化します。もっと鮮明に記憶が蘇るようになったのです。きわめて強烈でつらい記憶でした。その細部が彼をさいなみます。もう耐え切れないのでは、と思えてきました。
マックは瞑想のインストラクターに相談してみました。インストラクターは、あなたはもうベトナムにいるわけではない、と言いました。あなたが体験しているのは、あくまで今この瞬間に起きていること。蘇る記憶は記憶にすぎず、体が感じる感覚は記憶に対する反応にすぎない。それらはやがて過ぎ去っていく、と。
マックは、自分が触れているのは今の時点で起きていることにほかならないと信じるようになりました。瞑想を忠実に実践しました。一瞬一瞬にさらにじっくり注意を払うと、思考やイメージが生じるのがわかり、体がこわばって反応するのが感じられました。そして、驚いたことに、その体験がまるごと消えてゆき、何か別のものに入れ替わるのがわかったのです。自分の身に起きていることを自分は理解できるのだという自信がぐんと深まりました。
けれども、それは容易なことではありませんでした。マックは恐ろしい記憶が蘇ってくる間、新たに習得した瞑想の技術のありったけを発揮して、今の瞬間にとどまらなくてはなりませんでした。彼は瞑想にふつうより時間をかけて、心と体を落ち着かせリラックスさせました。決してあきらめたり音ねを上げたりしませんでした。
さらに数週間たつと、マックは見るからにリラックスし、幸せそうになりました。彼はインストラクターや精神科医にこう言いました。「三〇年というもの、ああした記憶が自分を苦しめるものだと思って、それと闘ってきました。今では、それをありのままに理解しています。自分がそうした記憶を受け止められると信じていますし、自分がそれに対処できるとわかっています」
努力しない
私たちは人生の多くの時間を、何かを行ったり、変えようとしたりして過ごします。この何かを行うという習慣はしばしば瞑想にも持ちこまれ、大きなネックになることがあります。自我は自らが気に入るものをさらに得ようとし、気に入らないものを排除したがります。自分があるべき姿でないと考えると、自分を変えろとプレッシャーをかけさえします。
何かを行い変えるべきだというこうしたプレッシャーは、違う自分になったり、違うところに行ったり、違うことをしようとする努力という形で現れます。
マインドフルネス瞑想とは、何の判断も加えずに、起こっているすべてのことにただ注意を払うことです。その意味で、瞑想というのは人の行動のなかでも類を見ないものだと言えます。瞑想とは何かをするのではなく、何もしないことです。瞑想トレーニングとは、何もしないで、ただ存在することの訓練なのです。
努力したり、ものごとを変えようとする気持ちを感じたら、自分を判断することなく、その気持ちに注意を向けましょう。マインドフルネスの訓練というのは、深い意味で言うと、心からリラックスし、起きているすべてのことを起こるに任せ、そのことに慈しみに満ちた曇りのない意識を向けるということです。
瞑想には逆説的なところがあります。不安やパニックのコントロール、ストレス緩和、精神的成長、人間的成長――瞑想の目標が何であれ、それを達成するのに一番の方法は、結果を出すために努力することをやめ、瞬間瞬間のものごとをありのままに見、受け止めることにじっくり集中することなのです。
ジャッキーの場合
ジャッキーは心配性です。パーティなどで心配性だと自己紹介することもありますが、本人としてはジョークどころではありません。医者に相談したこともなく、病気と言われたこともありませんが、自分の心配が少々行き過ぎているのでは、と思うことがあります。
ジャッキーは何ごとにつけ、よくないことが起こるのではと心配します。仕事のことはとりわけ気がかりです。独身のジャッキーは多くの責任を伴うたいへんな仕事についていて、残業したり、病気や休暇の人の代わりを務めることもしばしばです。同僚にはとても好かれ、多くの人が彼女を頼りにしています。そのため、ジャッキーとしてはなかなか職場をあとにできませんし、夜や週末、休暇中でさえ職場の状況や同僚のことがたびたび心配になります。
二、三カ月前から、いつも以上に緊張し、頻繁に疲れを感じるようになりました。友人には怒りっぽくなったと言われるし、毎日のように首や肩がこります。
ジャッキーは職場の掲示物でストレス管理プログラムのことを知りました。参加すれば、八週間の間、毎日一時間瞑想をすることになります。そんな時間があるかしらと思いながらも、心配が収まるかどうか、やってみることにしました。
ジャッキーはクラスに参加し、瞑想を始めました。毎日まる一時間とはいきませんでしたが、ずいぶん長い時間瞑想できたのは驚きでした。心身にリラックスを感じ始めました。首や肩のこりも軽くなり、よく眠れるようになりました。仕事への活力が増したとさえ思いました。
ある晩のクラスでインストラクターが、人はとにかく努力しようとするが、瞑想とはただ存在することなのだという話をしました。ジャッキーは、それが自分にぴったりあてはまる話だと気づきました。思えば、何をするにもものごとを変化させる責任を負っているように感じていたのです。こうした姿勢にはっきり気づくようになったジャッキーは、その姿勢と自分を同一視しないで、それを意識していきました。
瞑想中、ジャッキーは自分について興味深い発見をしました。瞑想していると、体がひどく落ち着かず緊張するのです。そのことに注意を払えば払うほど、心中のせきたてるような批判的な考えが聞こえるようになりました。ジャッキーはインストラクターの助言どおり、ものごとをあるがままにしておこうと努めました。
すると、体は落ち着いてきたものの、思考のほうは意地悪さを増していきました。ジャッキーは瞑想を続けました。思考を追い払ったり変化させようとするのもやめ、それが「おしゃべりし続ける」ままに任せると、思考は鎮まってきました。
ジャッキーは見事、何もせずに存在することができたのです。心配はやめようと努力するのをやめたことで、結局は心配から解放されたのでした。
受け入れる
受け入れるというプロセスの第一歩は、ものごとを今この瞬間にあるがままの形で見ようとする気持ちです。あなたは、まさに今ここに注意を集中させて、一瞬一瞬をやってくるままに受け止め、生じてくるすべてのものとつながることができるでしょうか。
たいていの場合、意識に入りこんでくるものを受け入れるためには、怒りや恐怖、悲しみといった激しい感情を感じる時期を避けては通れません。こうした感情自体、受け入れる必要があるからです。
受け入れるとは、こうであるとか、こうあるべきだという思いこみでものごとを見るのではなく、まさにあるがままに見るということを意味します。ものごとは今この瞬間においてのみ変化しうるものです。自分自身や自分の人生を変化させ癒したいと思うのなら、今この瞬間のものごとや自分をそっくりあるがままに見なくてはいけません。
受け入れるとは、今ここにあるものに柔軟に心を開いていくことでもあります。そのとき、努力しようという意識は取り除かれます。今のものごとのありようを否定したり、それと闘ったりするのをやめることで、癒されたり今ここにあるものを変化させるための活力がわいてきます。
受け入れるというのは、あらゆることを好きになったり、受け身の姿勢になったりすべきだということではありません。現状に甘んじることでも、改善の努力をやめることでもありません。今ここでお話ししているように、受け入れるとは、単にものごとをあるがままに、深く、誠実に、徹底的に見ようとすることなのです。こうした姿勢は、人生に何が起こっていようと、このうえなく力強く健全に行動するための基盤となります。
サムの場合
サムは歯医者が大嫌いでした。子どものころ、さんざん歯の治療を受けたために、それが心の傷になっていたのです。思いだすことといえば、歯医者が自分の小さな口のなかをいじくり回すときの痛みとにおいと音ばかり。子どものころの体験があまりにつらかったため、サムは大人になってから決して歯医者に行きませんでした。
ところが、これ以上歯医者を避けていられなくなりました。右下の奥歯の痛みが何週間も続いたのです。鎮痛剤もまったくきかなくなり、痛みに気もそぞろで、右側では嚙むこともままなりません。歯医者に行かねばと決心したサムは、奥さんのかかりつけの歯医者に予約を入れました。
歯医者の診察椅子にすわって口を開け、診てもらっているうちに、子どものころ歯医者に行ったときの恐怖心とつらい記憶がどっと押し寄せてきました。汗をかき、胸の鼓動は高まるばかりです。もう耐えられない……。
そのとき、サムは瞑想のクラスでの話を思いだしました。リラックスして今に注意を向けること、まさに今ここにあるものをはっきりと見ようとすること。インストラクターは、受け入れるということをそのように定義し、どんな状況に置かれても、柔軟に心を開いていくことで、マインドフルネスを発揮するように、と指導してくれました。
失うものは何もない。サムは、頭のなかの記憶や思考に向いていた注意を、すべて呼吸に集中させました。呼吸を利用して注意を今この瞬間の心と体に結びつけたのです。サムは入る息と出る息を感じました。息が出ていくとき、体がリラックスするのを感じ、それが深まるに任せました。少し気分がよくなってきました。
さまざまな感覚を感じるままにし、音やにおいにも注意を向けました。繰り返し呼吸に注意を戻し、体がこわばるたびに、ちょうどその部分から息が出ていくと想像して、リラックスした感じを呼び起こしました。サムは今感じることに呼吸を向け、感じるままの体験とともに今にとどまっていたのです。
歯医者には、「よかったですね。小さな虫歯ができて、そのまわりの歯ぐきが炎症を起こしているだけです。わけなく治りますよ」と言われました。
受け入れることについて、サムはほかにも学んでいました。「不愉快でも、これが現実なんだ。思ったよりうまくやっているじゃないか。とにかくこの状況とともにここにいよう。闘っても何にもならないんだから」と自分に言い聞かせました。そして、呼吸に集中しリラックスして、事の成り行きに注意を払い続けました。
治療が終わると、歯医者はサムの辛抱強さに感謝を示したほどでした。とらわれないとらわれない、あるいは執着しないというのも、マインドフルネスに欠かせない姿勢です。ところが、人は知らぬ間に、何かに執着するという正反対の態度をとっていることが多いのです。多くの場合、自分や他人、さまざまな状況についての考えに一番強く執着します。いわば心の内面への執着です。こうした執着心は表には現れにくいかもしれませんが、容易に感じることができます。
このようにある考えに執着すると、一瞬ごとの体験はその考えに覆われ、染められてしまいます。瞑想をとおして自分の内的な体験に注意を払い始めると、自分の心がどんな思考や感情、状況にしがみつきたがるかすぐにわかるでしょう。また、心が必死で追い払おうとする事柄にも気づくでしょう。
執着というのは好き嫌いやものごとについての判断に左右されるものです。マインドフルネス瞑想では、ひとつひとつの体験を判断する傾向を捨て去ることが重要です。判断するのではなく、判断に気づくことを学ぶのです。よい悪い、高い低い、快不快といったことにとらわれてはいけません。瞬間瞬間の体験をあるがままにしておくのです。
この「あるがままにしておく」というのは、実際にはとらわれないことの一つの形です。干渉せず、ものごとをあるがままにしておくことで、ものごとをそのままに過ぎ去らせることができます。
好ましい状況と不快な状況のどちらにおかれても、体がぎゅっとこわばるような感覚が生じてくるのがわかりますか。とらわれないというのは、ものごとを取り巻くそうしたこわばりを解き放ち、ものごとをあるがままにしておくことを意味します。わきに押しやる必要はありません。力はいりません。こわばりを緩めてやるだけです。ただ手放すのです。実のところ、あなたは始終それをやっています。こぶしを作り、ぎゅっと握りしめ、開く。その感触に注意を向けましょう。もう一度やってみます。これは、手放すことの身体的な感覚です。瞑想では、内面の執着を手放すことを練習します。体と心のこわばる感覚を熟知しましょう。それから、それを手放すことを練習します。
アリスの場合
アリスは不合理な恐怖心に悩まされています。それが馬鹿げているとわかってはいるのです。十代のころから恐怖を感じてきましたが、二八歳になる今も、たびたび恐怖を感じます。最近、「社会恐怖」という症状について雑誌の記事で読んだのですが、その描写が自分にぴったり当てはまると思いました。
アリスの恐怖心は、どうかして自分が人前で恥をかくのではという根拠のない考えと関係しています。自分が人前で馬鹿なことをして恥をかくだろうという考えに苦しめられているのです。こうした恐怖心のために、アリスは人の集まる状況、特に、知らない人のいるつきあいの場を避けるようになりました。人前で話したり大勢の人を前に発表したりする仕事を断ることもありました。
自分の恐怖心が現実の状況と比べて不釣り合いに強いことはわかっています。彼女は非常に聡明で、学校の成績も優秀でした。親しい友人も何人かいますが、恥をかくという恐怖があまりに強いため、友人たちの誘いを断らざるを得ないことがあります。
目にした記事には、社会恐怖症の人はリラクセーション法や瞑想を学ぶと役立つ場合がある、とありました。そこで、瞑想のクラスを見つけて役に立つかどうか試してみることにしました。
アリスは地元の病院で開いているマインドフルネス瞑想のクラスに参加しました。瞑想を始めると、心と体が密接に影響し合っていることがわかりました。体とつながり、体の部分部分に注意を払うことで体をリラックスさせること、インストラクターが言うところの「ボディースキャン」を学びました。すると、人前で恥をかくという恐ろしい考えを抱くだけで、どれほど体がこわばり、鼓動が速まるかがわかって驚きました。
インストラクターは、とらわれないことがだいじで、場合によっては、何かにとらわれない唯一の方法はそれをあるがままにしておくことなのだ、と説明してくれました。アリスは、自分の人生を混乱させている不合理な恐怖心をあるがままにしておく練習をしようと決めました。人前で恥をかくという考えが浮かぶたびに、ただそれに耳を傾けました。そうした考えはやはり恐ろしいものでしたが、それについて何かしようとはせず、その考えが自分の意識のなかに存在するままにしておこうとしました。しばらくすると、そうした考えをもっと広い視野から柔軟に見ることができるようになりました。そうした考えがそれほどの脅威ではなく、通り過ぎていく雑音だと思うようになりました。そして、友人からの誘いにもっと応じられるかもしれないと思い始めたのです。
まとめ
本章では、マインドフルネス瞑想を行ううえでの基礎となる、精神的な要件や基本姿勢について学んできました。瞑想の効果が最もあがるのは、好奇心と懐疑心とやる気を持ち、自分の生来の能力に自信をもって取り組む場合です。マインドフルネス瞑想法の基盤は、判断しない、忍耐強い、初心を忘れない、自分を信じる、努力しない、受け入れる、とらわれない、という七つの基本姿勢です。こうした精神的な資質に気づき、これを養うことで、今に意識を集中して恐怖や不安、パニックに対処することを学ぶのに最適な条件が整うでしょう。
著者等紹介
ジェフ・ブラントリー
医学博士。デューク大学医学部精神医学科顧問医師。同大学統合医学センターの「マインドフルネスに基づくストレス緩和(MBSR)プログラム」の創始者、ディレクターでもある。ラジオ、テレビ、新聞、雑誌などでMSBRプログラムに関する数々のインタビューに応じている。
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