連想するのはリンガとヨニ、そしてタタラ ヒンズー教です。
Facebook・清水 友邦さん投稿記事 「日本と天皇」
日本の国とは?天皇とは?とあらたまって聞かれてもほとんどの人はよくわからない思います。神社をお参りすることなどなかった私が、60歳を過ぎてから突然、全国の神社を参拝するようになりました。
高千穂神話の皇室の祖の日向三代(ひむかさんだい)の神々の生まれた場所、神武天皇が九州を出発した場所、戦った場所、熊野に流れ着いた場所、即位した場所をいつのまにかまわっていました。
高千穂神話と別系統の大王だった出雲神話のスサノオ・ニギハヤヒと瀬織津姫の神社もほとんど廻りました。
そして現在、縄文の末裔だった蝦夷の本拠地の岩手県に住んでいます。
いつのまにか縄文、弥生、古墳も含めて約三年の間に300カ所以上、日本の歴史をめぐる旅をしていたのです。
そして、ナチュラルスピリットという出版社から畑違いの「よみがる女神」という著書まで出版していただいたのですから一寸先の人生は何が起きるかわかりませんね。
日本の古層にいる目に見えない存在が背中を押したようでした。
日本の初代天皇は神武天皇と呼ばれています。
幕藩体制を崩壊させた明治政府は、欧米列強に肩をならべる近代国家を築きあげるために神武復古をかかげ、「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」とアマテラスの子孫である天皇中心の国家体制を敷きました。
記紀神話以外の神々は抹殺され、明治42年までに約19万あった神社が統廃合されて神社は11万までに減らされました。
神武天皇が即位したとされる紀元前660年の二月十一日(旧暦の一月一日)を神武天皇元年の紀元節(きげんせつ)として国民の祝日としました。それが今の建国記念日です。
長く武家社会が続き庶民の崇敬の対象は将軍や領主にあり氏神やその土地の産土の神々になっていました。
天皇家の領地の石高は小大名くらいの3万石くらいしかありませんでした。
天皇家は先祖からの霊統を受け継ぐ儀式が220年も途絶えるほど衰退していました。
明治維新前の庶民は国家神道と関わりがありませんでした。
天皇崇敬や皇道、国体の理念が広く人々に行き渡るようになっていったのは明治政府によって教育勅語が学校で発布されてからでした。
1888年以降、皇室で神事が行われる日は祭日となり学校で生徒は御真影に最敬礼をし、教育勅語を朗読し、皇室の盛運を祈り、君が代、唱歌が学校の儀式として重んじられました。
18世紀に古事記が発見されて国学が盛んになるまでの間は、天智天皇が始祖とされ神武天皇は重視されていませんでした。
そのために、中世にはすでに神武天皇陵がどこにあるのかわからなくなっていました。
畑の中に畝傍山(うねびやま)がポツンとあるだけでした。
江戸時代に国学が盛んになると畝傍山近くのミサンザイの地が神武天皇陵とされ、土が盛られました。
畝傍山山頂にあった「畝傍山口神社」はオキナガタラシヒメ(気長足姫命・神功皇后)、トヨウケヒメ(豊受比売命)、ウワツツノオ(表筒男命)が祀られていますが元は大山祇(おおやまつみ)が祀られていたようです。
畝傍山の東側の「東大谷日女命(ヤマトオオタニヒメ)神社」は江戸時代には、熊野権現と呼ばれていました。熊野大神と仏教が習合したのが熊野権現です。
熊野には熊野大神のスサノオとニギハヤヒ、那智滝(なちのたき)女神瀬織津姫の国津神が祀られていました。
畝傍山(うねびやま)に関連する神社に神武天皇は祀られていませんでした。
それでも、国家神道を推し進めた明治政府は急いで神武天皇陵を決めなくてはならず聖蹟として畝傍山麓に橿原神宮を創建したのです。
畝傍山周辺の住民や部落は強制的に移住させられて皇室発祥の地として整備されました。
ところが、「日本はじまりの地」とされる橿原神宮は別の地にもう一つありました。
奈良県御所市「柏原」に「神武天皇社」が鎮座しています。
初代神武天皇の即位した場所であると伝えられています。
江戸時代の本居宣長は畝傍山の近くに橿原という地名はなく、一里あまり西南にあることを里人から聞いたことを伝えています。
神武天皇社が宮跡に指定されると住民が他に移住しなければならなくなるので、明治のはじめに村人が証拠書類を全て焼いてしまったと伝えられています。
私はおそらくここが本来、神武天皇が即位した場所なのだと思います。
神武天皇社の隣に被差別部落の水平社博物館が建っています。
ここは権力構造の頂点と一番下に置かれた被差別部落が隣同士にある象徴的な場所です。
畝傍山にも被差別部落があって立ち退きにあいました。
神武天皇が即位するにあたっては複雑な事情がありました。
古代の日本は統一国家ではありませんでした。
日本は昔100あまりの国があって『倭(わ)』と呼ばれて『倭人(わじん)』と呼ばれていました。
大陸から金属製武器をもった父権社会の集団がやってきて戦いが頻繁にはじまりました。
日本書紀に神武の軍が「ナグサトベ(名草戸畔)ニシキトベ(丹敷戸畔)という者を殺した。」という記述が出てきます。
名草は今の和歌山県海南市あたりで丹敷は熊野の丹敷浦あたりといわれています。
ナグサトベ(名草戸畔)ニシキトベ(丹敷戸畔)は古代の女王の名前でした。
日本は縄文の母系からゆるやかな母系社会の部族連合の国を作っていました。
古代日本が父系社会の中央集権国家に移り変わる象徴的な出来事が神武天皇によるトベたち女性部族長の誅殺事件でした。
こうして日本は争いながら次第に母系から中央集権の体制になって父系社会へ移り変わっていきました。
ヤマタノオロチの神話もまた部族同士の争いのことだったのでしょう。
出雲神話は素戔嗚尊(スサノオ)が軍事リーダーとして奇稲田姫(イナタ姫)を助け他の部族を従えて国ができていった物語を思わせます。
スサノオ(素戔嗚尊・須佐之男命)とイナタ姫(奇稲田姫)の間に生まれたのが最初のオオクニヌシの饒速日命(ニギハヤヒ)です。
弥生時代に大陸からやってきた渡来人スサノオが日本列島に移住し、縄文人(イナタ姫)と混血して国津神のニギハヤヒが生まれたことを物語っています。
古事記、日本書紀、旧事紀には神武天皇に先立ち、ニギハヤヒ(饒速日)が天下った話が出てきます。
先代旧事本紀によるとニギハヤヒ(饒速日)はアマテラスから十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国河上哮峯(いかるがのみね)に天降り、更に大和の鳥見(登美)の白庭山に遷ったとされています。
哮峯(いかるがのみね)は今の生駒山で別名ニギハヤヒの山とよばれています。
神武天皇東征のおりに国を献上し、その恭順の意を容れ、ニギハヤヒ(饒速日)の子ウマシマジを軍と祭祀の司に命じて、物部氏はウマシマジから始まったとされています。
大倭国(やまとのくに)というこの国の呼び名は「虚空見つ大倭国(そらみつやまとのくに)」とニギハヤヒが言った事から始まるとされています。
日本書記の時代に漢字の表記のヤマトが倭から日本に変わっています。
天皇家である天津神がやってくる前の大和に住んでいたのは国津神たちでした。
古事記や日本書紀によると九州から大和へ侵入した神武天皇の軍を撃退する大和地方の豪族が登美(とみ)の長髄彦です。
東征神話によると九州の日向の国から出発した神武天皇は浪速を過ぎて寝屋川を遡り、生駒を超えて大倭(おおやまと)に入ろうとしました。
昔、奈良は大倭(おおやまと)と呼ばれていました。
大倭(おおやまと)に侵入した神武天皇の軍は兄が戦死するなど、負け戦が続きどうしても長髄彦に勝利することが出来ませんでした。
最初の戦いで長髄彦に敗れた神武天皇の軍は熊野に上陸して八咫烏(やたがらす)の案内で再度、大和に攻め入りました。両軍は戦いを重ねましたが、神武天皇の軍はどうしても長髄彦に勝利することが出来ませんでした。
両軍が対峙して長髄彦の軍が勝どきを上げようとしたそのとき急に空が暗くなって雹が降り出し金色の鵄(とび)が神武天皇の弓先に止まりました。
長髄彦は天神の子である証として天羽羽矢(あまのははや)と歩靫(かちゆき)を神武天皇に示すと神武天皇もまた同じ物を示しました。
長髄彦の先祖のニギハヤヒが兄で神武天皇の先祖のニニギは弟でした。
先祖が同族だったのです。
和議の条件がそれまで一緒に暮らしていた吾平津姫(あひらずひめ)と離縁して新たに大倭の媛蹈鞴五十姫(ひめたたらいすずひめ)と正式に結婚をして生まれたその子を二代目天皇として継がせることでした。
四人兄弟の末っ子だった狭野命(さぬのみこと)は和議を受け入れ大倭の婿養子となり神武天皇となりました。
天津神の日向と国津神の大倭は和合したのです。
天皇という称号が正式に使われたのは7世紀の持統天皇の時代からでその前は大王(おおきみ)といわれていました。
記紀の記述で長髄彦(ながすねひこ)が単なる豪族ではなく天神の子として書かれているのは大倭の先住の国津神のニギハヤヒと長髄彦(ながすねひこ)の勢力を無視できなかったからです。
記紀神話では高天原系の子孫が天皇に即位することになっています。しかし、国津神系の神をないがしろにすると国が安定しません。そのバランスを取るかの様に繰り返し国津神系の神が出てきます。
弥生は国津神と天津神の二重構造になっています。
水稲農耕が始まった弥生時代は紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までとみられています。
日本列島には神武天皇以前にも卑弥呼から継続してきたオオクニヌシ(大国主)という大王(おおきみ)が何人もいたのです。
千三百年の間に母系から男系に変わっていったのです。
大倭には、この講和条約に反対する人々がいたので神武天皇の即位は大倭から離れた柏原の地でおこなわれました。
神武天皇を認めない人々によって再び戦乱が始まろうとしたので長髄彦は自らの命を絶ってその戦いを諌めたと言われています。ウエツフミでは長髄彦が自害したことになっています。
神武天皇は九州で吾平津姫(あひらずひめ)を娶りタギシミミ(多芸志美美命)とキスミミ(岐須美美命)の二人の息子がいましたが一緒に大倭まで来ていました。
神武天皇社の隣には離縁された吾平津姫(あひらずひめ)を祀った摂社・嗛間(ほおま)神社があります。
昔から嫁入り行列がこの神社の前を通ることを御法度としていました。
どうしても婚礼が行われる際に通らねばならない時は、祠に幕を張る風習があったようです。
神武天皇に離縁された吾平津姫(あひらずひめ)に祟られないようにしたのです。
古事記では神武天皇の死後に神武天皇の東征に同行していたタギシミミ(手研耳命)が、神武天皇の正妃である媛蹈鞴五十姫(ひめたたらいすずひめ)を娶ったとあります。
父親の妻を息子が妻とするのは奇妙な話ですが古代の大倭は母系だったので皇位継承は女性が握っていたことを表していたのでしょう。
日向と大倭で争いがあり母違いの二人の弟カムヤイミミ(神八井耳命)とカムヌナカワミミ(神渟名川耳尊)に吾平津姫(あひらずひめ)の息子タギシミミ(手研耳命)は倒されて日向と大倭が混血したカムヤイミミ(神八井耳命)が第二代綏靖天皇(すいぜいてんのう)として即位しました。
綏靖天皇(すいぜいてんのう)は母のイスケヨリヒメ(姫踏鞴五十鈴媛)の妹イスズヨリヒメ(五十鈴依媛)を皇后としたとあります。
父親がいない母系社会は娘が家を相続したので正統をアピールするには直系の女性でなければならなかったのです。
父系社会になると男性の嫡子をたどる男系なので家系図に女性の名前が書かれなくなりました。
古事記を編纂した太安万侶(おおのやすまろ)は神武天皇の皇子カムヤイミミの子孫です。
神武天皇の正妃となったヤマトの媛蹈鞴五十姫(ひたたらいすずひめ)の名前は古事記でホトタタライススキヒメ(富登多多良伊須須岐比売)といい父親はオオモノヌシ(大物主命)でした。
オオモノヌシ(大物主命)は日本最古の神社の一つ奈良の三輪山の大神神社に祀られている神様です。
三輪山山頂の奥津磐座(おきついわくら)はオオモノヌシ(大物主命)を祀り、中腹付近の中津磐座(なかつおきくら)はオオナムチ(大己貴命)、山裾の「辺津磐座(へついわくら)」はスクナヒコナ(少彦名命)が祀られています。
いずれも今の天皇家とは異なるスサノオ系統の国津神の神々です。
スサノオ(素戔嗚尊・須佐之男命)とイナタ姫(奇稲田姫)の間に生まれたのが饒速日命(ニギハヤヒ)です。
そしてニギハヤヒの別名がオオナムチ(大己貴命)オオクニヌシ(大国主命)とオオモノヌシ(大物主大神)です。
『日本書紀』ではオオナムチ大己貴命とスクナヒコナ(少彦名命)は力をひとつにあわせて、天下をつくったとあります。
最初に日本列島に国を築いたのがニギハヤヒなので、古い神社は国津神のオオナムチとスサノオとニギハヤヒを祀っています。
オオクニヌシは後から来た天皇家に国を譲りました。
天皇家の祖神アマテラスは新しい神で出雲系の国津神はアマテラスよりも古い神なのです。
日本神話の神々は国津神と天津神の二重構造になっています。
そして、その古層には縄文から続いてきた自然神があります。
古代は神体山を磐座(いわくら)・磐境(いわさか)として祭場にしていました。
その起源は自然崇拝の対象だった縄文時代にさかのぼります。
狩猟採集から水稲耕作に移り変わると稲作を伝えた祖先の霊が天候神、農業神となって三輪山に祀られました。
それが大神神社に祀られているオオモノヌシ(大物主命)です。
縄文の精霊信仰は神社神道に吸収されていったのです。
ホトタタライススキヒメ(富登多多良伊須須岐比売)の父親は『古事記』でオオクニヌシ(大国主)と同体のオオモノヌシ(大物主)ですが『日本書紀』ではオオクニヌシ(大国主)の子のコトシロヌシ(事代主神)の長女となっています。
『古事記』に神武天皇の皇后の母親がオオモノヌシと結ばれる話がでてきます。
ミシマノミゾクヒ(三島溝咋)の娘が美人であるという噂を聞いたオオモノヌシはセヤタタラ姫(勢夜多々良姫)が厠(かわや)で用をたしているときに「丹塗りの矢」となって女陰を突きました。
こうして生まれた娘がホトタタライススキ姫(富登多多良伊須須岐姫)です。
母と娘の名前に共通する「タタラ」もまた、古代タタラ製鉄のタタラと関係があったことを思わせます。
西ヨーロッパの人々は、侵入して来たモンゴル人を「タルタル」と呼び、ロシア人は彼らを「タタール」と呼びました。
その言葉は猛火を意味する「タトル」で、これが「タタラ」の語源だといわれています。
製鉄の起源は紀元前15世紀頃のアナトリアのヒッタイトとされています。
古代インド語でタータラは熱の意味、ヒンディー語では鋼をサケラーといい出雲で鋼をケラといいます。このことから、たたら製鉄法はインド経由できたといわれています。
朝鮮半島では紀元前4~3世紀頃から鉄器使用が始まり、日本へは1~3世紀頃といわれています。
日本では、紀元200年頃の溶鉱炉跡が広島の小丸遺跡で見つかり、三輪山近くの纏向遺跡でもたたら製鉄跡が発見されています。
物部氏の祖神ニギハヤヒが天磐船に乗って天降った時にお伴した5人の中に鍛治の神、アマツマラ(天津麻良)がいました。
アマテラスが天岩戸に隠れた時に岩戸の隙間に差し出した鏡が八咫の鏡です。
八咫の鏡を作ったのは作鏡連(かがみづくりのむらじ)の祖神のイシコリドメ(石凝姥命)と鍛冶職人のアマツマラ(天津麻羅)でした。
イシコリドメのドメ(姥)は別な伝ではトベ(戸辺)になっているので女性の尊称だということがわかります。
鍛冶屋に信仰されるカナヤゴ神(金屋子神)は女神です。
タタラの神は女性でした。
火のことを〈ホ〉と呼びます。製鉄で火を起こす火鑽臼(ひきりうす)のくぼみを〈ホト〉といいました。
ホトタタライススキ姫(富登多多良伊須須岐姫)のホトとは女性器のことです。
炉を熱して砂鉄を溶かし、炉からドロドロの真っ赤な鉄を流すことを〈ホト〉を突くといいます。
たたら製鉄は〈マラ〉と呼ばれる鍛冶師が巧みな技術で〈ホト〉を突いて生まれた和鉄という子宝をイシコリドメという産婆が取り出すという比喩になっています。
現代は女性器の名称を口に出して言葉にすることは下品なことと考えるので皇后の名前に女性器の名前はつけないと思います。
おそらく、世界中探してもないかもしれません。
しかし、はるか古代、女性器の名称のホトは全てを生み出す霊力があり神聖な女性性の象徴だったのです。
日本の縄文時代は母系社会でした。
コトシロヌシはオオクニヌシの子供で、オオモノヌシも、いずれも出雲の国津神です。
古代の天皇家は国津神の娘を、「正妃」として迎えいれていました。
歴代の天皇は母系社会の慣習で子供は母親の実家で育てられたので母方の外戚が権力を握ることができたのです。
平安時代から藤原氏の子孫から天皇の妃を迎えるのが習わしでした。何百年もたって初めて藤原氏の子孫以外から皇后をお迎えしたのが平成の正田美智子(しょうだ みちこ)さんです。
現在、女系天皇か男系天皇かで論争をしていますが歴史的には神武天皇以前の古代は縄文から卑弥呼の時代まで1万年以上もの時代、女性が中心でした。
そして、男性性の矢(ヤ)と女性性の的(マト)が一体になった陰陽和合の言霊がヤマトです。
古代の集落の中心にいたのは祭祀(まつり)と政治(まつりごと)をするミコ(巫女)とサニワ(沙庭・審神者)でした。
サニワは後に、ミコ(巫女)の言葉を実現するスメラミコトになりました。
スメラミコトは統べおさめるで全体を一つにまとめて統率する意になります。
神さまの名前の後ろに必ず「ミコト」がついていますが、誰でもこの世に役割(ミコト)をもって生まれてきています。
自己の本質(ミ)に帰るコトがミコトの言霊です。
それを果たそうとする人は誰もがミコトになるわけです。
魂は肉体に宿ると、思考(ツミ)に覆われて自分が誰なのかすっかり忘れてしまっています。
その思考(ツミ)を削いで(ツミソギ)本当の自分に帰る祭儀(マツリ)が禊(ミソギ)です。
自我が(ツミ)が削がれて本当の自分に気がつくと、あらゆる命が一つにつながっている一体感があります。この世界が関係性の織物でできていることを知っています。
日本が一番優れている、自分が特別という自己中心が減少して意見が異なった相手でも一方的に非難することはありません。
物事をあるがままに受容できるので相手に対する寛容さがあります。
そして必要とあれば男女のどちらもリーダーにもサブにも回る柔軟さがあります。
男性性と女性性は相補的であり対等なのです。
自分が何者かを自覚している人々は相互に自律的かつ調和的に協働して一つの生命体として活動します。
それが神々の活動を表す大祓詞(おおはらえのことば)の「かむはかりにはかりたまひて」です。
人類の歴史はしばらく男性原理のレッド(Red 衝動的・自己中心的)と宗教が力を持っていた中世の権威主義的なアンバー(Amber 琥珀)の時代が続いていました。
18世紀半に産業革命が起きると資本主義が発展してオレンジ(Orange 科学的・合理的)の時代になり第一次世界大戦後に国際連盟が発足した頃からグリーン(Green 共同/平等)の意識が現れ始めて、そして宇宙船から地球を見るようになって、ついに統合的なティール(Teal 青緑)の時代が始まりました。
ただいま地球は大変革の真っ最中です。
その時代に現れた
皆様のミコト(神命)が成就されますように
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