歴史と文学講座「渡来文化と秦氏」

http://www.ako-minpo.jp/news/11514.html 【歴史と文学講座「渡来文化と秦氏」】より

 赤穂市立図書館は「古代日本の歴史と文学-渡来文化と秦氏」をテーマに「歴史と文学の講座」(全3回)を開く。

 いずれも2階視聴覚室で午後1時半~3時。受講無料で先着50人を受け付ける。Tel43・0275。日程と内容は次のとおり。

 ▽12月3日(土)=「日本古代史と東アジア-渡来人のルーツとルート」井上満郎・京都市歴史資料館長

 ▽12月10日(土)=「秦氏と古代の渡来文化」水谷千秋・堺女子短期大学教授

 ▽1月21日(土)=「秦氏と嵯峨野の古墳時代」國下多美樹・龍谷大学文学部教授


https://xtech.nikkei.com/it/article/COLUMN/20090408/328097/ 【第4講:古代日本の知恵袋、渡来氏族「秦氏」の摩訶不思議】より

東京農工大学大学院技術経営研究科教授 松下博宣

 前回に続き、厩戸皇子(聖徳太子)の時代までさかのぼって、歴史をひもときつつ、そこから様々なインテリジェンス活動、すなわち、「個人、企業、国家の方針、意思決定、将来に影響を及ぼす多様なデータ、情報、知識を収集、分析、管理し、活用する」活動を読みとってみたい。

 厩戸皇子の知恵袋的存在として、秦河勝(はたのかわかつ)をとりあげる。秦氏一族の動きには古代のインテリジェンス活動が凝縮されているからだ。秦氏はユーラシア大陸のかなり奥まった地域の出身で、朝鮮半島を経由してやってきた渡来系氏族である。秦氏は6世紀頃から断続的に朝鮮半島を経由して日本列島の倭国へ渡来してきた。鉱山技術、鍛冶技術、養蚕、機織、酒造などの最先端テクノロジーを倭国に伝播させた氏族だ。

 秦河勝は、その際立った技術経営力、人材機動力、財力、国際的知識を駆使し、厩戸皇子のブレーンとして大活躍した。厩戸皇子は、当時の微妙な外交、地政学的ニュアンスを熟知していた秦河勝から、儒教、仏教のみならず中東系諸宗教、律令制といった当時の知のワールド・スタンダードのみならず、国際政治、通商、パワーポリティクスの機微を徹底的に学んだのである。

秦氏と八幡神社の関係

 秦氏は、九州北部の宇佐八幡神社がある地域を拠点にして、山城(現在の京都)さらには全国に広がっていった。秦氏に関する史料は全国に散らばっているが、特に、九州北部の宇佐地域や、山城地方に多くの史料が残されている。例えば山城地方にある太秦(うずまさ)がその名のとおり秦氏の一大拠点だった。

 八幡神社といえば、稲荷とならんで日本でもっとも馴染みの深い神社の一つだ。はちまんさま、やはたさまを祀る八幡社、八幡宮、若宮神社などを含めると、全国津々浦々、街中、田舎を含めてその数は全国で1万4800社(神社庁公表)となる。読者の皆様も近所を見渡せば、どこか近くに八幡様が鎮座しているのではないだろうか。その八幡神社は、もともとは秦氏のカミさまを祀る神社である。そのカミさまがどこから来たのか、なにものなのか、についてミステリーがある。

 秦氏は新羅を経て渡来したとされる。これについては、いくつか根拠がある。秦氏が多く住んでいたとされる地域から発掘された瓦は新羅系のものが圧倒的に多い。また秦氏の氏寺、「広隆寺」にある国宝第一号の「弥勒菩薩半迦思惟像」は、朝鮮半島の新羅地区で出土した弥勒菩薩半迦思惟像に酷似している。しかも広隆寺の仏像の材料である赤松は、新羅領域の赤松であることが判明している。

秦一族は古代の技術経営スーパーエリート

 秦氏が得意とした鍛冶とは、木、火、土、水、金を制御するテクノロジーであり、古代日本にとっては奇跡にも近いワザだった。ちなみに、木、火、土、水、金(もっかどすいきん)の五行をもって宇宙の構成要素とする。土着人から見れば、鍛冶とは自然をあやつり、そこから光り輝く銅や鉄を生み出す神秘の所業でもあった。

 九州北部・近畿の銅山とその麓に展開された銅を生産する場のマネジメントは、秦氏および関連の一族によってなされたものと考えられる。火と日を知るものをヒジリ(聖)という。火を制御する鳥が鍛冶シャーマンのシンボルであり、秦氏の場合、神の鳥のシンボルは「鷹」だった。

 秦氏は、鍛冶の技術をよく営み、金属器をよく鋳造したので、必然的にシャーマン的色彩を帯びている。古代において技術者は祭祀者でもあった。つまり、ものづくりとは、自然に働きかけ、そこから神秘に満ちたモノやコトを生み出す神聖な所作であった。ものづくりの原風景が秦氏界隈には沢山ある。

 秦氏は日本に養蚕、機織の技術をもたらした一族でもある。ハタは機に通じている。蚕を飼い、その蚕がつくる繭から生糸を紡ぎだし、あでやかな絹織物に仕立て上げる。艶やかに絹で織られた着物を着る人々は羨望の目で眺められたことであろう。ちなみにサンスクリットでハタは「絹の布」をさす。

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http://www.oct-net.ne.jp/hatahata/hatasiga.html 【秦氏が祭る神の国・その謎 プロローグ】より 

小説家・井沢元彦は出雲大社に祭られた大国主がそっぽを向いていることに疑問を持った。

 大国主が出雲を代表する神であるにもかかわらず、南向きの祭殿の中に西向きに祭られているのはなぜか。実は正面に祭られているのは大和の神々・・・すなわち天照大神たちなのである。

 つまり、大国主は彼らの監視の下にいる、いわゆる戦争犯罪人としてこの大社に祭られたのだと主張するのである。その証拠に平安時代の俗謡に「雲太・和二・京三」というものがあると。

 つまり出雲大社が当時最も大きい建物であったということで、それは東大寺大仏殿や御所の天皇の御殿よりも大きかったということである。

そんなおかしな事をする国は日本だけなのだ。

 これこそが怨霊信仰である。

 古代、人々はいかにして神を祭ったであろうか。

 巨石に神を見、巨木に霊を探し、山海に魂魄を鎮めた。 巫女に荒魂を鎮護させ、英雄のにぎ魂を祭った。

 だがそれだけであろうか。

 遙か彼方より寄り来て、またいずくともなく消えていった異形の人々はどこから来てどこへ去り、どこにまつられたのか。

 利用され簒奪され追いやられた彼らの幸魂、荒魂はいったい誰がどこに祭ったのであろうか。

 物部氏(Clan,Mononobe)が祭るニギハヤヒ命は三輪山に祭られた。しかし実際には出雲の大国主とは彼のことではないか。大国主には物部に仕えた縄文人・ナガスネヒコの神霊が宿っている。そしてその神霊を監視せねばならないのは大和物部氏の祖神であるニギハヤヒの勤めである。従って大国主の神霊にはこの二人の性格が同時に存在することになる。

神の名は為政者によって変えられて行く運命にある。そして新しい為政者の神は古い元の神を監視する必要がある。反逆せぬように。

 それが「かむやらい(Kamuyarai)」である。

「神名の交換」と「神霊の監視」がセットになった代表が出雲大社である。だがすべての神社は実は皆そうされているのだ。

 持統天皇以後、神の実態はひとつにされた。つまり一神教として神道は統一されてしまったのだ。名前は違っていても神霊はひとつそれは天照大神なのである。これは藤原不比等の陰謀である。そしてその背後にいたのが渡来氏族秦氏。

  真実を知る秦氏は歴史の影に追いやられた。厩戸皇子の神霊とともに・・・平安京以後、彼らは表舞台から追いやられた。どこに?

 原始キリスト教の陰を残しながら彼らはどこへ消えたのか???

                       「

 出雲の大国主が侵略され追いやられた先住民であり、それゆえその怨霊を畏れたため為政者は彼を神として巨大な社に祭ったとしたら、出雲以外の国ではどうだろうか。

 大和の聖なる山・三輪山には大物主という正体不明の神が祭られている。この神こそニギハヤヒだと私は言いたい。

 三輪山に造られた大神神社(おおみわじんじゃ)には祭殿がない。山そのものがご神体なのである。これは社を造ってもらえなかったとも考えられる。物部氏の社と通説は言う。しかし物部氏の祭る本来の神は実は石上神宮に祭られたイソノカミであって大神神社は大三輪氏が祭っているのだ。

 大三輪氏が物部氏の出身だというのは嘘である。なぜなら、大三輪氏の祖・オオタタネコは出雲のオウの一族で秦氏の人だからである。

 山口県・土井ヶ浜遺跡の渡来人のおびただしい遺体を見るまでもなく、日本海側が古代、渡来・漂着の表玄関だったことは容易に気づくことである。

 風土記などにあるように、大国主は新羅の王子・アメノヒボコと何度も戦っている。秦氏が出雲にいたとしてもナンの不思議もない。

 そして渡来人と先住民のナガスネヒコ一族が領地争いをしたことがあったのかも知れない。このように先住民は北方系蝦夷、そしてその他に南方系海人族がいたと思われる。彼等こそが太古から列島に拠点を置いていた倭人であり、また縄文人であった可能性がある。

 内陸へ逃げたナガスネ族は大和で再びニギハヤヒと争い服従した。ところがそこへ出雲の秦氏がやってきた。

 ナガスネはニギハヤヒの神霊とともに出雲へ祭られたのだ。大国主のイメージのひとつとして・・・

 気比神宮。

 敦賀一の宮である。気比大神は本来新羅の王子・ツヌガアラシトだといわれている。

 先に記しておいたアメノヒボコとこのツヌガアラシトはまったく同一人物である。ところが私は同族であることはみとめても別人であるといいたい。

 気比神宮の神職を務めるのは敦賀氏で、彼らは波多氏の出身である。波多氏と秦氏は同じ新羅系加耶国人であり、ともに九州北部に渡来した。しかし波多氏はハダ氏、秦氏はハタ氏と、読みが違う。 秦氏は京都の葛野・・・今の嵯峨野を本拠地とする大ゼネコングループを形成した技術集団であった。

 だがその秦氏の中で三位以上の高位についた者はいない。

そして我々が普通知っている秦姓の歴史上の有名人といっても聖徳太子の四天王の一人・秦川勝くらいのものであろう。

 川勝は桂川に堰きを築いたほどの水の達人である。今旅人が京都へ行き京野菜を食べられるのも、彼等が荒野を開墾したおかげであり、嵐山のあたりをそぞろ歩きできるのも葛野大堰ができたからなのである。それまでの桂川は保津狭からの急流で常に決壊する暴れ川だった。また鴨川でさえ今の場所に流れを移動させたのも秦一族の手になったとさえ思われる。

 秦川勝はおそらく本名でなく、秦の川のスグリという尊称であろう。全国の神社総数10数万社のうち、秦氏の神を祭る神社は八幡系四万社、稲荷系四万社、松尾、出石等その他ひっくるめて九万社に上ると言われている。

 詰まるところ日本の神社信仰は秦氏が形作ったといっても過言ではない。

 本拠地京都にある御所紫宸殿は川勝の居宅跡に桓武天皇が建てたとさえ言われる。

 蚕の社の愛称で有名な木嶋坐天照御魂(このしまにいますあまてるみたま)神社には奇天烈な鳥居が建っている。有名な三柱鳥居である。これら秦氏の不可思議な風習についてキリスト教やイスラム教、ユダヤ教、果ては拝火教や景教等と関連つけようとする研究家もいる。

 少なくとも秦氏の祖・弓月の君が連れてきたという120部の人々の中には半島に来ていた中近東の者たちがいたことは間違いない。長い歴史の中でやがて彼らが差別され簒奪され使い回されたあげくに追いやられていったことも、今では否定できないこの国の陰の歴史である。

 日本の古代史は、新羅系渡来人と百済系渡来人の政権争いであったと言ってしまったら過言だろうか。

本家の韓国の中では未だに国内をまっぷたつにした二大政党の怨念的戦いがあるように見受けられる。何事も忘れやすい日本人もかつてはこうした政権争いが天皇家の周辺で繰り広げられたのだろう。

 それは民びとには本来あずかり知らぬはなしであった。

 ところが実際はそうはいかない。何の罪なき民衆も特定の権力と無縁でいることはできない。人はそうしてしか裕福にはなれない者なのである。強い権力者が追いやられ、また意趣を変えねばならなくなれば民衆もそれに従わざるを得ない。刃向かう者は殺戮、簒奪、追い立ての憂き目にあう。その代表が異形の人々である。

 ナガスネヒコ、スサノウの命、クマソ、隼人、出雲族、葛城族、鴨、海人族、サンカ、サエギそして秦一族の連れてきた外国人・・・彼らの報われぬ漂白の魂は誰がど

こに慰霊してやったのだろう。

 ここで再びオオのタタネコが秦氏の人だったことを思い出す。秦氏の信仰の大本はまず道教であろう秦の始皇帝の血をひくと豪語する彼らは大陸の・・・

それも中国南部の生まれの混交宗教を信じていた。

 呪術、バラモン、ヒンズー、仏教、イスラム、ユダヤ・・・ありとあらゆる宗教がない交ぜになったむしろ密教に近い彼らの信仰の究極に位置するのが弥勒菩薩である。

 救われぬ漂白の魂を56億7千万年のちに迎えにくる神・・・

それが弥勒である。その日まで彼らは流れ、追われ、争い修行し、修生し修験しつづけねばならない。

 いや、これは何も彼らだけでなく行きとし生きる者すべてがそうだろう。それを『業』・・・『原罪』という。弥勒菩薩だけが人々の業が収まるのを待っている。それには56億年かかるというのである。つまりは不可能であると言っているのだ。

 では彼らの魂を祭る神社はどこにあるだろう。

 それは必ずある。秦氏がやってきた道程のどこかに・・・

 秦氏が祭る神の国は随書倭国伝に秦王国と記された場所にある!

 弥勒は秦氏にとってのアマテラスなのである!


コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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