https://www.aozora.gr.jp/cards/000311/files/15978_28883.html 【歴史と文学
宮本百合子】より
文学と歴史とのいきさつは、極めて多面で動的で、相互の連関の間に消長して行っているのが実際だと思う。
この頃は、世界が一つの大きい転換に立っているということから、おのずから歴史への関心がたかまって、文学と歴史との課題もあちこちでとりあげられているのだが、文学における歴史の関係は、直接歴史を題材にした歴史文学だけの範囲にとどまらないところに私たちの考えるべき面白さがある。
歴史とは過ぎ去った時代に私たちの祖先が如何に生き、如何に文明を進め、如何に死したかという業績の集成であるわけだが、例えばそういう過去の事実が客観的に事実そのもののまま、今日の文学の素材として生かされ得るのであろうか。
文学作品そのものも、古典となってのこされているものは歴史の一面の宝玉であるわけだが、文学に於ける伝統としての歴史が今日果して、自然に創られた時のままの完璧さでそれらの古典をつたえるに堪えているだろうか。
歴史と文学との交渉で、この節は、今日との関係において過去を観るという点が強調されて来ている。歴史文学というにしろ、ただ髷物であれば歴史文学であるという考えかたに反対し、同時に、今日の現実にとり組んで行きにくいからと逃避の方向で歴史の中に素材の求められる態度も、正しい歴史文学への理解でないとするのが、高木卓氏などの見解に代表されている。飽くまでも今日の現実との活きた関係で歴史が文学の中に観られなければならないとする考えかたは正当だと思える。
今日との関係で歴史を観るという場合、一方から云えば私たちが今日に生活し感情しているという動しがたい真実から、その規定は至極わかりやすいことのようにも思える。けれども、半面に案外複雑な文学上の困難を含んでいるのではないだろうか。
何故なら今日というものは歴史としてまぎれもない今日の性格をもっている。その性格はよしあしを別として現在時々刻々極めて強烈な発動をしているのだから、歴史文学者が、今日との連関で歴史を文学化してゆくに当っては、先ず、今日という時代そのものへの一定の解釈が是非なくてはならないことになって来る。
今日という歴史の性格をどう捕えてゆくか。ここにはおそらく予想されるあらゆる困難が潜在しているだろうと考えられる。もし、歴史文学を志す人々が、今日の歴史の根本の性格をいかに捕えるかという努力を放擲して、現象の姿の相似を過去の出来事の中に見出してだけ行ったとすれば、もう其は歴史文学とは云えず、単に過去を題材とした風俗小説になってしまうだろう。歴史文学の歴史文学たる所以は、風俗や諸現象の底にある人間の社会生活推移の動力にまで筆先をふれて行って、初めて意義があるわけなのである。従って、歴史文学者は、先ず今日という歴史の性格をどう見るかということから自身の課題を解きほぐしてゆかなければならないということになる。
高等学校専門学校程度の教課書から、日本が世界に誇っていた古典文学のいくつかを原形のまま転載することが取りやめられるようになった事実は、小さいことのようであるが意味はなかなかに深い今日の文化文学の事象であると思う。その案を思いついた人々は、明らかに今日というものから見た歴史をその立場からの解義によって判断して、古典を截断し、ふさわしいと考えられるものにした次第であろう。
このように錯雑した現実の中にある現代の文学としては、云ってみれば、文学と歴史とのことが今日において一般の関心をひきながらも、続々傑出した歴史文学を生み出して行き得ないでいる社会と文学の生理そのものが、後代に向って一つの歴史的事実を訴えるものであるということにもなると思う。
歴史と文学とのかかわりあいの多面さの実際としてみれば、現代文学における作家横光利一の発生、評論家小林秀雄の誕生そのものに今日につづく多くの歴史的要因がこめられていたのであるし、更に日本浪曼派の評論家保田与重郎の文学的出生には前の二人の人たちを送り出した歴史の性格の数歩前進した或る契機が語られているのである。
現在、甚しい困難とたたかいながら文学の勉強をしつづけている若い世代の人たちは、多面な歴史と文学との交渉のどんな面の選手として自身を培って行こうとしているのだろうか。これは一語に尽せない明日の文学上の問題であろうと思う。
文学そのものが本来の性質として、運命に対する人間精神の積極な働きかけに立つものであるから、かりにも文学に従う上はあらゆる作家の芸術的モティーヴが歴史の消耗力に向って、消耗され尽さざらんと欲する心情に根ざしているのは自然の理法と云わなければなるまい。その芸術必然の人間的真情が歴史と文学との深刻苛烈な葛藤にいかに処しつつあるかが、日本とはかぎらず世界を一貫して現代文学の課題なのであると思う。
〔一九四一年五月〕
底本:「宮本百合子全集 第三十巻」新日本出版社
1986(昭和61)年3月20日初版発行
初出:「月刊文章」
1941(昭和16)年5月号
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
https://www.keisoshobo.co.jp/book/?book_no=25130 【歴史と文学の境界】より
著者 神奈川大学人文学研究所 編
この本の内容
目次
歴史と文学、とりわけ歴史と物語は祖を一にするのみならず、過去を物語るというその言説において本質的には同一のものである。小説に代表される物語文学は歴史を物語る言説に満ち溢れ、歴史叙述もまた、その背後に豊かな物語が潜んでいてこそ、読者により深い歴史認識を与えることができる。本書で取り上げた金庸の作品は「武侠小説」とよばれる娯楽性の強いものである一方、作品にリアリティをもたらす史実に基づく細部の描写とともに、人間と民族、国家の間に存する問題を歴史の中に見出し、現代に生きる人々に問いとして投げかけている。こうした氏の作品はまさに文学と歴史の境界にあるものとして本書のテーマにふさわしいと言えよう。
https://www.unp.or.jp/ISBN/ISBN978-4-8158-0908-9.html 【歴史は現代文学である
社会科学のためのマニフェスト】より
イヴァン・ジャブロンカ 著 真野倫平 訳
内 容
文学的ゆえに科学的? 真実と物語のあいだで揺れ動き、その意義を問われてきた歴史。ポストモダニズムの懐疑を乗り越えた後で、いかにして「歴史の論理」を立て直すことができるのか。自らの実践に基づき、社会科学と文学の手法を和解させ、歴史記述を刷新するための挑戦の書。『メタヒストリー』以後の新たな歴史論であり、好評既刊『私にはいなかった祖父母の歴史』の姉妹編。
【ALL REVIEWS】『図書新聞』書評(2019年1月1日号、第3381号、評者:鹿島徹氏)
著者紹介
イヴァン・ジャブロンカ
(Ivan Jablonka)
1973年生まれ。現在,パリ第13大学教授。本書の実践編でもある『私にはいなかった祖父母の歴史』(2012年。邦訳は田所光男訳、名古屋大学出版会、2017年)によってアカデミー・フランセーズ・ギゾー賞、歴史書元老院賞、オーギュスタン・ティエリ賞を受賞。ほかの著作に『レティシア』(2016年、メディシス賞、ル・モンド文学賞受賞)などがある。
目 次
序 説
歴史を書く
現実についての文学
研究としてのテクスト
第Ⅰ部 大いなる離別
第1章 歴史家、弁論家、作家
悲劇としての歴史
雄弁としての歴史
賛辞としての歴史
宮廷史に抗して
作家と文学の誕生
歴史あるいは「第三の教養」
第2章 小説は歴史の父か
シャトーブリアンと歴史としての叙事詩
スコットと歴史小説
真理をめぐる戦い
創造者としての歴史家
バルザックと道徳科学
第3章 科学としての歴史と「文学という黴菌」
自然主義の方法
科学としての歴史の登場
客観的モード
見者と大学教授の対立
忘れられた二千年
テクストならざるものの誕生
社会科学と「生」
第4章 抑圧された文学の回帰
ナラティヴィスムの「スキャンダル」
「レトリックの転回」
文学の「誘惑」
離婚ののち
第Ⅱ部 歴史の論理
第5章 歴史とは何か
真理の効果
ミメーシスからグノーシスへ
人間が行うことを理解する
原因の説明と理解
世界の整理
第6章 科学としての歴史を書く作家たち
ヘロドトスの論理
アリストテレスとキケロのレトリック
16世紀における科学としての歴史
1690年の精神
真理についての怒り
第7章 真理陳述の作業
距 離
調 査
比 較
証 拠
反 駁
真理についての記述
第8章 方法としてのフィクション
フィクションの地位
啓示としてのフィクション
離 反
信憑性
概念と理論
叙述の手法
フィクションを活性化する
第Ⅲ部 文学と社会科学
第9章 ノンフィクションから真理としての文学へ
管轄外地域
ポスト=レアリスム
ノンフィクション文学
フィクション
事実に基づくもの
文学的なもの
文学と真実の探究
第10章 歴史は拘束された文学なのか
規則は解放する
文体の豊かさ
注の偉大さと悲惨さ
注なき証拠
社会科学の現代化
第11章 研究としてのテクスト
研究者の状況
方法としての「私」
調査を物語る
透明性と有限性
反省的モード
第12章 21世紀の文学について
調査あるいは脱専門化の時代
新たなキケロ主義のために
反=文学
機は熟した
抵抗の精神
謝 辞
訳者あとがき
注
作品名索引
人名索引
書 評
『西洋史学』(第268号、2019年12月、評者:岡本充弘氏)
『みすず』(2020年1・2月合併号、読書アンケート特集、評者:上野千鶴子氏)
東京新聞・中日新聞(2018年12月23日付、読書欄特集「2018 私の3冊」、評者:小倉孝誠氏)
『図書新聞』(2019年1月1日号、第3381号、評者:鹿島徹氏)
『週刊読書人』(2018年7月27日号、第3249号、評者:立川孝一氏)
『図書新聞』(2018年7月21日号、第3360号、特集「2018年上半期読書アンケート」、評者:小倉孝誠氏、澤田直氏)
読売新聞(2018年7月8日付、評者:宮下志朗氏)
『フレグランスジャーナル』(第46巻第6号、2018年6月号)
日本経済新聞(2018年6月16日付、評者:小倉孝誠氏)
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